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per l/a psicoanalisi

□Twitter-fav7

2013-04-01 00:06:00 | Twitterから
「破壊的性格は、そのなすべき仕事をするが、ただし創造的な仕事だけは避ける。創造者が孤独をもとめるとすれば、破壊者は絶えずひとびとに、かれの活動の証人となるひとびとに、取り巻かれていることを必要とする。」——ベンヤミン「破壊的性格」

「破壊的性格は、歴史的な人間という自覚をもっている。歴史的な人間の基本的心情は、事物の成りゆきにたいするやみがたい不信であって、いつでも、何もかもだめになるかもしれぬ、ということに周到に入念な注意を払っている。したがって破壊的性格には、ほかの誰よりも信頼がおける。」ibid.

「破壊的性格が生きているのは、人生は生きるに値いする、という感情からではない。自殺の労をとるのはむだだ、という感情からである。」ibid.



「おれの平和を得ようとして、実はあいつを平和にしてしまったのだ」——マクベスの科白

《彼は何かを演じたつもりだったが、実のところ演じさせられているだけだ。役者というよりも操り人形だ。……》——柄谷行人「マクベス論」

《在りもしないものと闘うことはそれを存在させることになる。そういう循環がもはや馬鹿げてみえたのだ。》ibid.

《マクベスは運命と闘ったかのようにみえる。だが、事実は運命を求めて挫折したにすぎない。そして、この失敗があたかも「運命と闘う」英雄の如き外観を呈するのであるが、実は惨めで卑小なひとりの男がそこにいるにすぎない。……》ibid.


《マルクスは体系的な思想家である。しかし、体系的でない真の思想家などありえない。なぜなら、考えるということは原理的に考えるということにほかならないからで、問題はその体系がすこしも視えやすいところにはないということである。》——柄谷行人「掘立小屋での思考」



《権力の新しい仕組みは、次のように機能する。権利ではなく技術によって、法ではなく規格化によって、処罰ではなく管理統制によって、それはあらゆるレベルにおいて、そして国家とその機関を越えた形態で行使される権力の仕組みなのである。》——フーコー『性の歴史I——知への意志』


“近代国家の原理は、主観性の原理を人格の特殊性という自立の極限にむかって完成させると同時に、それを実体的統一のうちにひきもどし、こうして主観性の原理そのもののうちに実体的統一を維持するという、おそるべき力とふかさを有するのである。”——ヘーゲル



《私たちは自分の上にあるものを認めないことで自由になるのではない。自分の上にあるものに敬意を払うことにより、自由になるのだ》——ゲーテ

《自分の境遇以上のものをがんこに否定するのが俗物である。しかも俗物は、自分以外の境遇を否定するのみならず、ほかのあらゆる人間が自分と同じ存在でなければならぬと要求する》

〈彼らは偉大なものにはなんにでも反対する癖がある。それは野党精神などではなく、反対のための反対である。彼らは憎むことのできる偉大な相手がいないと気がすまないのだ〉

〈国民的憎悪というものは、一種独特なものだ。——文化のもっとも低い段階のところに、いつももっとも強烈な憎悪があるのを君は見出すだろう〉



“説得されるとは、何らかの外的な権威によって認識の真理を受け容れることである。反対に、確信するとは、自分自身の理性によって(そしてそれだけで)この真理の証拠をつくり出すことである。”——ベルナール・バース

「主体が呼び出されるのは、自分の場所であり、自分の真なる場所、自分の真理の場所そのものへである。すなわちこの場所こそ、シニフィアンの純粋な欠如としての無意識なのである。」

「無意識の主体が実体ではないのは、シニフィアンの連鎖において常に想定しなくてはならないのが、まさにシニフィアンの欠如でしかないからである。」



《私の学説の本質的に新しい点は、記憶とは単純なものでなく様々な仕方で登録されることを明言したことです》——フロイトのフリース宛の書簡52



《投票は、いまのところ、恐怖という情動の布置のみを構成するこの見せかけの操作でしかないのである。ようするに、投票は、本質的な失見当識〔デゾリアンタシオン〕から採取された、選択の虚構的形象である。》——バディウ

“よく考え抜いてみると、ヒロイズムは勇気よりも容易である。ヒロイズムとは、不可能事に直面するときのものである。それは場合によっては、つねに崇高な境遇として表象される。”

“勇気はヒロイズムとははっきり区別される。というのも、勇気とは徳であって、瞬間や境遇ではないからだ。勇気は構築された徳である。”

“かりにヒロイズムを不可能事に直面することの主観的形象であるとすると、勇気は不可能事における忍耐の力=徳である。勇気は点ではなく、点の維持である。……勇気の第一質量とは、時間なのだ。”

《勇気は、再び以前と同じように始めることであるような勇気のことでは決してないのである。》


〈“反対推論によって”、哲学が体系の不可能性を宣言するのは、哲学が縫合され、思考を哲学の諸条件の唯一つに委ねているからである。〉——バディウ

“あらゆる縫合は誇張である。というのも、ハイデガーとともに私が繰り返したように、哲学は問題を深刻化させるからである。”

《すでにプラトンは、『テアイテトス』の中で、ソフィスト的な命題の底にある存在論は存在の多数の遊動性の内に保持されることをはっきりと指摘し、この存在論に——それが妥当かどうかは別だが——ヘラクレイトスの名を冠している。》

《あらゆる主体は芸術的であり、科学的であり、政治的であり、愛情を持っている。しかもこれらは各自経験から知っていることであり、というのも、これら四つの領域の外では、実存あるいは個体性があるだけで、主体は存在しないからである。》



〈解釈がメタ言語的先制に陥るとき、分析家は、私たちが前節の最後に否定したあの幻の権威の座に身を置いているのである。いうまでもなく、それはひとつの錯覚にすぎない。区切りの実践としての反メタ言語論は、この錯覚から私たちを守るだろう。メタ言語は語らいを閉じるが、区切りはそれを開く。精神分析の経験が導くのは、梯子を掛けて登る言語ではなく、語らいに刻まれる線なのである。〉——立木康介

〈ひとつの原因=大儀 cause のために戦うということがこの原因=大儀の効果だというよりも、むしろ、原因=大儀はそのために人が戦ってはじめてある〉——ピエール・ブリュノ



“フロイトに劣らぬほどのシュレーバーのこのような鋭い思考力のおかげで、我々は他の症例にも適用できる構造的概念を得ることができる。つまりこの妄想の中に、我々は、神経症のように隠されているのではなく、はっきり露われ、いわば理論化すらされている或る真理を見ることができる。”——小出浩之『シニフィアンの病い』

“アカデミックな心理学は人間を適応した存在と考えている。しかし、人間の運命ほど愚かなものはないし、人間は常に騙されているという単純明快に事実に目を開かなくてはならない。すべてがうまくいったときでも、うまくいってみると、それは当人が望んだものではない。すべての望みが叶った人ほど失望している人はない。”



〈私たちが普通「自己」の名で呼んでいるものも、それが自己と言われるにふさわしい自己性——ないし主体性——をおびて経験されうるためには、十分なアクチュアリティによって支えられていなければならないだろう。〉——木村敏

《リアルなモノの次元ではないアクチュアルなコトの次元での私の生命、私がいまここに生きているという主観的なアクチュアリティの意識が、一方では絶対的に交換不可能な単独性の形で、もう一方では無限に開かれた生命的連帯性の形で、“二度”現れてくるのはどういうことだろう。》

《リアルな個的身体的生命とアクチュアルな生命一般が相接した界面に、そのつどの私のアクチュアルな個別性と主観性の意識が生起する。》

《ということになると、身体はその活動の本拠を閉鎖系としての自分自身のシステムの内部にもっているのではなく、環境との“あいだ”あるいは境界面にもっていることになる。この境界面で、身体はつねに生命一般との接触が失われないように、チャンネルが途切れないようにふるまわなければならない。》

《自己意識の発生に端を発したこれらの仮象は、科学文明という壮麗な虚構を生み出す一方で、人間にとってからだとは本来何であるのかを覆い隠してしまった。生きものとして見るかぎり、からだこそ生命体の主体性と主観性の本拠であり、物質的な身体と心理的なこころは、この単一の主体性/主観性をそれぞれのはたらきをつうじて周囲の世界に向かって実現する物心両面でのエイジェントにすぎないということになる。》

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□Twitter-fav6・Lacoue-Labarthe&Nancy

2013-04-01 00:05:00 | Twitterから
□ラクー=ラバルト&ナンシー「政治的パニック」、柿並良佑「恐怖〔パニック〕への誕生――同一化・退引・政治的なもの」(共に岩波『思想』2013年第1号・所収)

「もし精神分析の限界が主体の限界であるならば、その同じ限界は、政治的なものの輪郭を描く限りにおいて権力の限界である。」

「すなわち、もし主体とは他なるものが主体の中で問題になっているのだとすれば、権力とは他なる何かが権力の中で問題になっているのだ。」


《〈ナルシス〉にとって善良なる“他人”とは死せる他人、あるいは排除された他人である。》

「すなわち、社会性はリビードに基づくのと同様に同一化に基づく、“あるいは”リビードに先立って同一化に基づく。ともかく(略)、同一化は社会的なものの基礎にある。」

「すなわち同一化はナルシス的な非‐関係の制限となり、基礎的で社会‐政治的な一つの紐帯=拘束(あるいはこの紐帯=拘束そのもの)となるのである。」


“〈父〉の政治は精神分析の内的限界、すなわち同一化の限界と遭遇するがゆえに、外的限界として導入される。”

《無意識の問題はまさしく「集団的なもの〔le collectif〕」の問題に他ならない》

「模倣に先立つものとして、感情移入は他人への移行によって同一性を構成する。しかしこの点に関しても先のハイデガーによる批判を繰り返す必要がある。感情移入はここでもやはり“既に”構成された他人への関係を前提にしているのだ。」


〈すなわちナルシスを傷つけるのは、ナルシスを追放しては引き留め、ナルシスに対して父を現前させては匿してしまう母なのだ。〉


「〈政治的なもの〉とはかかる偽装そのものの完全なる固有化への意志である。……“政治的動物”は自らのイメージに自分自身を生贄として捧げるのだ。」


《情動の心理学は存在せず、情動には「社会学」しか存在しない》


※尚、「政治的パニック」(1979)に続いて書かれたものに「ユダヤの民は夢を見ない」(1980)がある。(後者は日本語では『Imago, 3(7)』に所収)


□ラクー=ラバルト&ナンシー『ナチ神話』

「一つの革命的感情にみずから結びつけるさまざまな反動的概念は、結果としてファシズム的心性をそなえることになる」——ライヒ『ファシズムの集団心理』

“唯一断罪されるべきなのは、故意に(あるいは漠然と、感情的に)何かあるイデオロギーに奉仕して、その背後に庇護を求め、あるいはその権力を利用しようとするような思考である。”


「ドイツ人はかつて一度も国家を持ったことはなく、ただ聖なる帝国の神話を持っていただけであった。彼らの愛国心はつねにロマン主義的なもの、いずれにせよ反ユダヤ主義的なものであり、同時に敬虔で権威を重んずるものであった」——デュレンマット「愛国心について」

〈要するに、すでにこの面において、人は“ロゴス”ではなく、一種の神話的発話を暗黙のうちに引き合いに出しているのであり、この神話的発話は、だからといって詩的なものではなく、おのれ自身の断言=肯定の剥出しで尊大な力の中にその手立てのすべてを求める態のものなのである。〉

“神話とは、厳密に言えば、事物や対象あるいは表象以上の、一つの潜勢力なのである。”

〈こうして、神話は一個人あるいは一民族の根本的な力と方向の数々を結集する潜勢力、地下に隠れた、目に見えぬ、非経験的な同一性の潜勢力である。(略)抽象の中に解消されてしまったそれらの同一性に対立して、神話は固有なる差異としての同一性を、そしてその断言=肯定を指し示すのだ。〉

〈しかしまた、そして何よりも、神話はこの同一性を、一つの事実としても言説としても与えられることはないが、しかし“夢見られる”何ものかの同一性として指し示す。神話の潜勢力とは、本来的に夢の勢勢力、人がみずからをそれに同一化する一つのイメージを投影する潜勢力なのである。絶対者とは、実際、私の外部に措定されるような何かではあり得ず、それさ私がみずからをそれに同一化し得る夢のことである。〉


《伝統の内部で権利回復要求された神話は、“ロゴス”に対置された本源的言語としての“ミュトス”にしばしばみずからを同一化する。ここでは反対に、神話がいわば血と化し、そして要するに、そこから血な迸る大地と化しているのである。》

〈——二十世紀のいまだ実現されざる神話としてのドイツとは、もはや十八世紀までそうであったような言語の問題ではなく、物質的な、すなわち、領土的かつ国家的な統一性の問題である。「類型化」されなければならないのは大地(ドイツの無媒介的な“自然”)であり、またそれとともに、ドイツ人の血なのである。〉

〈しかるに、近代世界の不幸と悪とは、個人と人類という、抽象的で血肉を欠いた無力な二重の観念である。それは、別の言葉で言えば、社会民主主義とマルクス主義ということだ。〉

《われわれとしてはただ、この論理が、同一性への擬態的意志と形態の自己—実現という二重の特徴において、どれほど深く西洋一般の体質に、そしてより正解には、この語の形而上学的な意味における主体というものの根本的体質に属しているかということを強調しておきたいと思う。》

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□Twitter-fav5・Kierkegaard

2013-04-01 00:04:00 | Twitterから
■『反復』

〈反復と追憶とは同一の運動である、ただ方向が反対だというだけの違いである。〉

〈ほんとうは、反復の恋こそ唯一の幸福な恋なのだ。反復の恋には、追憶の恋と同じように、期待の不安定さがない、探検に伴う不安な冒険もない、しかしまた、追憶のもつ哀愁もない、そこには瞬間の至福な確実さがある。〉

〈期待は追う手をすり抜けてゆくかわいい娘である。追憶は美しくはあるが今ではもうけっして用を足せない老婆である。反復はいつまでも飽きることのない愛妻である。飽きがくるのは新しいものに限っているからだ。〉

“しかし、反復を欲するには勇気がいる。期待するしか欲しないものは卑怯である。追憶をしか欲しないものは淫らである。”

《反復、これが現実なのだ、人の世の厳粛さなのだ、反復を欲するものは厳粛さにおいて成熟しているのだ。》

“思うに、観察者であることはしばしばまことに心悲しいことだ、それは警官にも似たメランコリーにひとをひき入れる。”


〈だからどんな恋愛関係にあっても、関係はできたが実現の見込みはないという場合には、思いやりが最大の侮辱である。エロス的な目をもちしかも臆病でない男なら、思いやりをもたないということが、娘の体面を保ってやるために残された唯一の方法だということを、容易に理解するだろう。〉

《反復は発見されなくてはならぬ新しい範疇である。》

「反復の弁証法は容易である、なぜかというに、反復されるものは存在していたのである、でなければ、反復されえないであろう。ところが、それが存在していたということが、かえって反復を何か新しいものにする。」

《人生は反復である、といわれるとき、それは現に存在したことのある現存在が今や現存在となる、ということを意味する。》

《反復は形而上学の“関心”である、しかし同時に、そこで形而上学が座礁する関心でもある。》


《何事もそれぞれ適当な時におこなわれることが肝心なのだ。すべては若いときにその時をもっている、そして若いときにその時をもったことは、また後でその時を得るものだ。》


《わたしはわたし自身のまわりを周航することはできる、しかしわたしはわたし自身を越えて出て行くことができない。》

“あくまでも自己の感情の強さを恃〔たの〕もうとする利己的な強情さ”

“未熟な、メランコリックな寛大病”


《宗教的な個人というものは、それとは反対に、自分自身のうちに安らって、現実のあらゆる児戯をさげすむものです。》


■『死に至る病』

〈絶望していないこと、換言すれば自分が絶望していることを意識していないこともまたまさに絶望の一つの形態であるということ。〉

〈すなわち自分は絶望していると主張するものも或る意味では決していつも絶望しているわけではないことが注意されなければならない。実際またひとは絶望を気取ることもありうる。〉

〈だが絶望していないということはかえって絶望していることでありうるのである。絶望は病気の場合のように、悪いと思うことと病気とが一致するというわけのものてはない。決してそうではない。悪いと思うことがそれ自身更に弁証法的なのである。悪いと思う気持に一度もなったことのない人がかえって絶望しているのである。〉

《精神の直接的な健康というものは存在しない。》


「自己とは反省である、——そして想像力〔ファンタジー〕とは反省であり、すなわち自己の再現であり、したがって自己の可能性である。想像力とはあらゆる反省の可能性である、強烈なる想像力のないところには強烈なる自己もまた存在しない。」

「絶望せる偏狭性は根源性の欠乏である、換言すれば人間が自己の根源性を奪い去られて精神的な意味で去勢されている状態である。一体いかなる人間も根源的に自己自身たるべく定められており、彼自身となることが彼の使命である。」

“——というのは、自己は、ひとたび絶望の経験を通じて自己自身を自覚的に神のうちに基礎づける場合にのみ、まさにそのことによってのみ健康であり絶望から解放されてありうるからである。”


「かくて絶望せる自己は絶えずただ空中楼閣を築くのみであり、絶えず空中に剣を振りまわすのみである。」

“悩んでいる者には、自分はこういうふうに救ってもらいたいといういろいろの仕方というものがある。もしも彼がそういう仕方で救われるのであれば、無論彼は喜んで救ってもらいたいのである。”

《ああ、何という悪魔的〔デモーニッシュ〕な狂想であろうか! 永遠がもしかしたら彼の悲惨を彼から奪い去ることを思いつくかもしれないということに思い到るとき最も狂暴になるというのは!》

《罪とは、人間が神の前に(ないし神の観念を抱きつつ)絶望的に自己自身であろうと欲しないことないし絶望的に自己自身であろうと欲することの謂いである。》

“——彼はその形式的な否定的な無限性の力で自分の自己を自分で構成しようと欲するのである。”


「嫉視とは隠されたる驚嘆である。驚嘆者が献身によって幸福になりえないと感じた場合に、彼は驚嘆の対象を嫉視することを選ぶに至るのである。」

「さて彼は別の言葉を語る、彼の言葉はいまやこうである、——これ(彼が本来驚嘆している事)は実に下らんものだ、愚鈍な、気の抜けた、奇妙な、とっぴなものだ。まことに驚嘆は幸福な自己喪失であり、嫉視は不幸な自己主張である。」

“或ることを理解したということからそのことを行為することへの移行に関する弁証法的規定が欠けているという点に難点が存するのである(ソクラテス的な立場も或る程度まではこの難点に気づいていて、何とかそれを埋めあわせようとしていた)。”


《罪のうちに止まっている状態が罪なのである、そしてこの罪が新しい意識状態のなかでその度を強められることになる。》

〈彼の利己的な自己は名誉慾において絶頂に達する。さて彼はいまや帝王となった、けれども彼は自己の罪に、更には悔い改めの現実性と恩寵とに絶望しているので、彼はまた自己自身をも喪失したのである。彼は自己自身に対してさえも自分の自己を主張することができない、——彼は恩寵を据えることができないと同様に名誉慾を充足した自分の自己を享楽することもできないのである。〉

《彼の悲哀、彼の憂鬱、彼の絶望は利己的なものである》


■『現代の批判』

“何一つ本質的な意味をもつものもなくすべてがほとんど意味をもたなくなっているばっかりに、たとえばただ形式だけの器用さが、つのりつのってまさに無形式性に化そうとしている時代”


《高齢の老人が腰に手をあて杖にすがって身をささえるように、異常な思慮分別も、事前の反省で身をささえ、事後の反省で説明のし直しをしてその場その場をしのいでいくのである——なぜそうなるのか?  ほかでもない、行動するにいたらなかったからである。沈黙の、寡黙な決断という神の子の代りに、今の世代は、何から何まで心得ている分別という悪魔の取り替え子を生みおとしているのである。》

《現代は本質的に“分別の時代、反省の時代、情熱のない時代であり、束の間の感激にぱっと燃えたがっても、やがて小賢しく無感動の状態におさまってしまうといった時代”である。》

《なぜかといえば、現世代の人間はみんな有能な弁護士であって、事件の判決をくだしたり決着をつけたりするのにけっして行動に訴えないというのが、まさにその技術〔うで〕であり、分別であり、妙技なのだからである。》


〈それというのも、百科全書家たちの時代、つまり、孜々として厖大な本を何冊も何冊も書いた人たちの時代は過ぎ去ってしまって、いまでは、全人世とあらゆる学問をこともなげに片づけてしまう、軽武装の百科全書家たちの出番がまわってきているというわけなのだ。〉

“しかしこれだけは確かだが、知識がませば憂いが増すように、反省が増しても憂いが増すのである。”

“讃嘆と傑出したものとが、たいていの場合、どこまでも一対の慇懃な対等者であって、お互いに睨めっこをし合っているのである”


“だがあいにく、そんなものはアイロニーではないのだ、真のアイロニストというものは(英雄が積極的な時代における公然たる感激の具現者であるように)消極的な時代における隠れたる感激の具現者なのだ、ほんとうのアイロニストは自己を犠牲にする者なのだ、現にあの偉大なアイロニーの大家〔ソクラテスのこと〕は死刑に処せられて生涯を終えたではないか”


“利己的な妬みは願望という形で個人自身にあまりにも過大な要求をし、それがために、弱い母親の偏愛が子供を甘やかしてだめにするのと同じように、個人を柔弱にしてしまう。”

〈こうして、妬みは、“現に存在している”傑出物に対してばかりでなく、また“きたらんとする”傑出物に対しても抗弁することになる。〉

《水平化は、古代における運命に対する、現代における反省の対応物である。》

《水平化の作業は一個人の行為ではなく、抽象的な力の掌中にある反省のいとなみである。》

〈感激者の突進は滅亡に終わる“ことがある”、しかし、水平化する者の勝利は、とりもなおさず彼自身の滅亡なのである。〉


《ひとつの階級、たとえば聖職階級とか市民階級とか農民階級とかによって、国民自身によって、水平化に近い現象が生ずることはある。けれども、これらすべてはあくまでも、具体的な個体の内部における抽象物の動きにすぎないのである。》

《公衆という規定は反省の奇術である。この奇術にかかると、個人個人はだれでもこの怪物が自分のものになったような気がするので、のぼせあがってしまい、現実の具体的な世界などは比べものにならぬほど貧相に見えてくる。》


《“おしゃべりする”というのはどういうことであろうか? それは黙することと語ることのあいだの情熱的な選言を排除することである。ほんとうに黙することのできる者だけが、ほんとうに語ることができ、ほんとうに黙することのできる者だけが、ほんとうに行動することができる。沈黙は内面性である。おしゃべりは、ほんとうに語ることを先取りしてしまい、反省の所見は機先を制して行動を弱める。》

“ところがおしゃべりは沈黙の瞬間を恐れる、沈黙の瞬間は空虚さを暴露するだろうからである。”

〈沈黙のうちにおのれみずからを省みているということが、社交上の教養ある談話の条件であり、内面性をねじまげて外に向かわせるのが、おしゃべりすることであり、教養の欠如である。〉


“顕示欲とは、反省のいだく空想の自画自賛”


《すなわち数によって、団結によって、強めはするが、しかしこのことこそ倫理的には一種の弱体化なのである。ひとりひとりの個人が、全世界を敵にまわしてもびくともしない倫理的な態度を自分自身のなかに獲得したとき、そのときはじめて真に結合するということが言えるのであって、そうでなくて、ひとりひとりでは弱い人間がいくら結合したところで、子供同士が結婚するのと同じように醜く、かつ有害なものとなるだけのことだろう。》

■「天才と使徒との相違について」

《天才は内在的な目的論をもつに過ぎない。使徒は絶対的逆説的な目的論の立場に置かれている。》

「天才は天才として伝えられる当初は逆説的でありうるが、天才的な人間が自己を自覚して行くにつれて、逆説的なものは次第に消え去っていく。天才はおそらく一世紀ほど時代に先行しており、したがって逆説のようであるかも知れぬが、ついには人類はそのかつて逆説であったものを同化してしまい、かくてそれはもはや逆説ではなくなる。」


“内在性の領域では権能は全く考えられない、あるいは消え去るものとしてしか考えられない。”

「権能は使徒たるの召命または聖職就任の特殊な質である。説教をすることは、まさに権能を用いることである。そしてこれが説教することだということ、まさにこのことが、現代では全く忘れ去られているのである」


《いかなる天才も「のために」をもたない、使徒は“絶対的逆説的”に「のために」をもっている。》



□雑多なキルケゴール語録

〈実存においてはあらゆる契機が同時にその場にそろっていることが重要である。実存に関わるとき、思惟は空想や感情にまさるわけではなく、それらと同列にある。〉

〈すべては、量的弁証法と質的弁証法との区別を絶対的とするか否かにかかっている。全体者の観点からの論理学は量的ないし様相的弁証法である。全体というものはたえず同一にとどまるからである。これにたいし現存在に関しては、質的弁証法がものを言う。〉

〈あらゆるあいまいさや無自覚のもとには、認識と意志との弁証法的な共演がなされているのであって、認識だけを強調したり、意志だけを強調したりすると、人間の理解を誤ることになりかねない。〉

《個別者から人類へいたることが課題ではなく、個別者から人類を経て個別者(単独者)にいたることが課題だ》


「〈自己〉とはまさに、普遍的なものが単独的なものとして措定されているという矛盾を意味する。単独的なものという概念が与えられてはじめて、自己に関して語ることもできるようになる。だが、何百万という無数のそうした自己が生きているにもかかわらず、いかなる学問も、その自己とはいったい何であるかを、まったく一般的に述べる以外には語り明かすことができない。」

「普遍的なものは、思惟されることおよび思惟されうることによってのみ……存在する。しかも思惟されたとおりに存在する。」

《単独的なものに肝要な点は、まさに、普遍的なものへの否定的態度、普遍的なものを拒否することにある。》

《この拒否ということが無視されるやいなや、単独的なものは止揚されてしまう。また拒否ということが思惟されるやいなや、その拒否そのものが変質させられてしまい、結局、それを思惟してもいないのに思惟していると思いこむことになるか、もしくは、それを思惟することで、思惟のなかにそれがすでにとりいれられていると思いこむことになるか、いずれかである。》


《思惟と存在との同一性という哲学的命題は……、思惟が実存をすっかり棄て去ってしまったということの表明にすぎない。》


「実存への問いに臨んで抽象作用が、実存する者の窮状をさしおいたまま回避し、そのうえでどんなことでも説明しうるといって胸をはったとしても、まさにその点でこそ、抽象作用の疑わしさが明白となる。」

《現実性についてのいかなる知も可能性なのである。》

《何が現実性であるかということは、抽象性の言語では示されえない。》

「現実性とは、抽象により仮説的に統一される思惟と存在との〈間にあるもの〉である。抽象作用はなるほど可能性と現実性とを取り扱うが、しかし現実性についてのその把握は虚しい複製である。その媒体は現実性ではなく、可能性だからである。」

《抽象作用の圏内で抽象作用の言語でもって現実について語られるすべてのことは、実は、可能性の圏内で語られているのである。》


《情熱とはまさに矛盾のなかで緊張を支えるものなのであり、情熱がとり去られてしまうなら、矛盾は冗談か洒落にすぎなくなってしまう。》

《情熱とは、実存する者にとってまさに実存の最高の力にほかならない。》


「その弁証法的な内面性のゆえに、直接的表現形式には納まりきれない一切の主体的なものは、本質的秘密なのである。」


「倫理的に生きる者は自らの中心へと気分を収束させている。彼は気分のなかにいるのでもなく、また彼自身が気分なのでもない。彼はむしろ気分を有しているのであって、気分を自分自身のうちに領有しているのである。彼が活動するのは〔自らの人格の〕連続性のためであり、その連続性こそがつねに気分の主人なのである。」

《実存する者にとって存する唯一の現実性は、彼自身の倫理的な現実性である》

《本来の主体性は知る主体性ではなく、倫理的に実存する主体性である》

《神秘家は現存在を、現実性をないがしろにする》

「倫理的に生きる者にはこうして、自分自身が自らの課題となる。彼の自己は直接的なものとしては偶然的に規定されている。それだから彼の課題は、偶然的なものと普遍的なものとを協働させあうことである。」

「倫理的領域はたんに通過される領域なのであって、そのためそこでの最高の表現は、消極的な行為としての悔悟である。美的領域は直接性の領域で、倫理的領域は要求の(その要求が無限に大きなものであるために個人はつねに破産するほかない)領域、そして宗教的領域は成就の領域である。」

《単独の人間がただ独りで立つことを学ぶことは、倫理的に実存することに役立つ予備修練である》


《そのことのためなら、人間は誰でもただ独りで生きることができよう。》

「そもそも衆は各個人からなっているものであり、そのため自らが本来そうである単独の個となることは、誰にとっても実行しうることである。単独者となるというそのことについては、締めだされる者は誰ひとりいない。自ら衆となることを選んでわれとわが身を締めだす者を除いては。」


「主体的に思惟する者は、学者ではなく、芸術家である。実存することは一つの芸術なのである。主体的に思惟する者は、自らの生が美的内容を具えるのに充分なほど美的であり、その生を規制するのに充分なほど倫理的であり、かつ思惟しつつその生を統御するのに充分なほど弁証法的である。」

《主体的に思惟する者は、実存的なものに関わる弁証法的思索者である。彼は思索の情熱を傾けて、〈あれか、これか〉の質的な分裂 (qualitative Disjunktion) を堅持しつづける。》


《罪とは、神の前で絶望して自分自身であろうと欲しないこと、もしくは、神の前で絶望して自分自身であろうと欲することである。》

「…だが、いまやここでは、生成するとは罪人になることなのである。罪責の意識の全体性においては、実存は内在の領域内にあってできるかぎり強く自らを主張するが、これにたいし罪の意識とは断絶なのである。」


「だれもが意見を持つことができる、けれどもその意見を持つためには数の上で結束しなければならないのである」——『一つの文学評論』

「人はすべてのことを『原理に基づいて』行なっている、だから個人的な責任をまったく回避することになっている」——『一つの文学評論』

《悲劇的英雄は確かなものを、それ以上にさらに確かなもののために放棄する。だから彼を観る者の目は安心しておれる》——『おそれとおののき』

「個別者は……普遍的なものに対する関係を絶対的なものに対する彼の関係によって規定する、けれども絶対的なものに対する関係を、普遍的なものに対する関係によって規定してはならない」——『おそれとおののき』

「妄想は直接的に破壊することができない、ただ間接的な手段で根本から取り除かれるほかはない」——『私の著作活動の立場』

《倫理的なものは本質的に個人やその最も内的な自己に関係する》

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□Twitter-fav4・Nietzsche

2013-04-01 00:03:00 | Twitterから
「民族は、おのれの義務を義務概念一般と取りちがえるとき、徹底的に没落する」——『反キリスト者』

《高貴であることのしるし。すなわち、われわれの義務を、すべての人間に対する義務にまで引き下げようなどとはけっして考えないこと。おのれ自身の責任を譲り渡すことを欲せず、分かち合うことをも欲しないこと。自己の特権とその行使を自己の“義務”のうちに数えること。》——『善悪の彼岸』


〈明るく澄んだ眼つきをしていて、誠実に〔redlich〕話すいっさいの者を、私は愛する。〉——『ツァラトゥストラ』

「弁証家のイロニーは賎民の復讐の一つの形式である」——『力への意志』


〈道徳的理想の“勝利”は、あらゆる勝利と同一の「非道徳的」手段によって、すなわち暴力、虚言、誹謗によって獲得される。〉——『力への意志』

〈“道徳的になるのは、——道徳的であるからではない”! ——道徳に服従することは、君主に服従することと同じように、奴隷的でも、思い上がりでも、利己心でも、諦めでも、陰鬱な熱狂でも、無思慮でも、絶望の行為でもありうる。それ自体としては、それは道徳的なものではない。〉——『曙光』


“友人への同情は、ある堅い殻の下に隠されているべきだ。この同情〔という果実〕を噛もうとすれば、きみは歯の一本ぐらい折りかねないというようであるべきなのだ。そうであれば、同情はその細やかで甘美な味を持つことになろう。」——『ツァラトゥストラ』

“それゆえ、高貴な者は、自分を戒めて、人に恥ずかしい思いをさせないように心がける。高貴な者は、自分を戒めて、およそ悩んでいる者に対して〔自ら〕羞恥を覚えるように心がけるのだ。”——『ツァラトゥストラ』


“彼ら〔救済者〕の精神は彼らの同情の中で溺死した。そして、彼らが同情によって膨れ、膨れ上がったとき、〔同情の〕水面にはいつもある大いなる愚かさが漂っていた。”——『ツァラトゥストラ』

“ああ、同情深い者たちにおけるよりも大きな愚行が、この世のどこかで行なわれただろうか? また、同情深い者たちの愚行以上に多くの悩みを引き起こしたものが、この世に何かあっただろうか?”——『ツァラトゥストラ』

“彼ら〔善人たち〕は心の底でひとえに一つのことを最も念願している、すなわち、彼らが誰からも傷つけられないということだ。そこで、彼らは誰に対しても先んじて親切を尽くす。”——『ツァラトゥストラ』


《“思想家はどこまでおのれの敵を愛するか”。——きみの思想と反対に考えることのできる者をけっして抑制するな。口外せずにはおくな! 自分にそれを誓え! それは思索の第一の誠実に属している。》——『曙光』

《“駄目になる”。——同じ考え方の人間を違った考え方の人間よりも高く尊敬せよと指導さするなら、青年は一番確実に駄目になる。》——『曙光』

《きみたちは、憎むべき敵たちだけを持つことが必要であって、軽蔑すべき敵たちを持ってはならない。きみたちは自分の敵を誇りとしなければならない。》——『ツァラトゥストラ』



“「われわれに対して等しくないすべての者に復讐を誹謗を加えよう」——タラントゥラたちは心を合わせてこう言う。「そして『平等への意志』——これこそ将来道徳の名に代わるべきものだ。権力をもつ一切の者に対して、われわれはわれわれの叫び声を上げよう!」”——『ツァラトゥストラ』


《自分の正しさを主張して譲らないよりは、自分に不正を帰するほうが高貴である。自分の正しい場合にはとりわけそうだ。ただ、そうするに足るだけ豊かでなくてはならない。》——『ツァラトゥストラ』

“しばしば泥が玉座に坐っている——そしてしばしば玉座がまた泥の上に座を占めている。”——『ツァラトゥストラ』


“あまりにも長いあいだ、世人は彼ら〔小さい人々〕の言行を是認してきた。そこで、ついには彼らに権力までも与える結果となったのだ——いまや小さい人々は教える「小さい人々が善と呼ぶものだけが善なのだ」と。”——『ツァラトゥストラ』


《しかし、道徳を育て上げた諸力のうちには、“誠実性”があった。“このもの”がついには道徳に反抗し、その“目的論”を、その“私心ある”考察を暴き出し——そしていまやわが身から振り捨てようにも振り捨てることのできない長期にわたる血肉化されたこの欺瞞を見抜く洞察が、刺戟剤としてはたらくのである。》——『力への意志』

“〈誠実〉とは何かという問題について、おそらくいまだ何人も充分に誠実であったことはない。”——『善悪の彼岸』


「おお、これら善人どもときたら! “善人どもはけっして真理を語らない”。精神にとっては、こういうふうに善であることは、一種の病気である。これら善人ども、彼らは譲歩し、忍従する。彼らの心は受け売りし、彼らの心底は聴従する。だが、聴従する者は“自分自身の声には耳を傾けないのだ”!」——『ツァラトゥストラ』

“とりわけ「善人」と自称する者たちこそ、最も有害なハエであることを私は知った。彼らはまったく無邪気に刺し、まったく無邪気に嘘をつくのだ。”——『ツァラトゥストラ』

〈われわれは自分にもわけのわか好意に出くわすことがよくある、しかし、正体がわかると、それはわれわれの気を悪くさせる、それは人がわれわれのことを充分真剣には、充分重くは見ていないことを示しているからである。〉——『人間的、あまりに人間的』


「だが、彼ら〔善人ども〕が自分たちのものとして持っている徳は、長く生きるためのものであり、しかもある哀れむべき自己満足のうちに生きるためのものなのだ。」——『ツァラトゥストラ』

「そして、たとえ悪人どもがどんな害悪をなすにもせよ、善人どもの害悪こそ最も有害な害悪なのだ! また、たとえ世界を中傷する者たちがどんな害悪をなすにもせよ、善人どもの害悪こそ最も有害な害悪なのだ。」——『ツァラトゥストラ』

「まことに、私はしばしばあの虚弱な者どもを嘲笑した、彼らは自分が善良だと信じているが、そのじつ、彼らの前足が麻痺しているだけのことなのだ!」——『ツァラトゥストラ』



《実際のところは、認識とは“衝動相互の一種の関係”にほかならない》——『喜ばしき知恵』

《愛することもまた、学ばなければならない》——『喜ばしき知恵』


「狂信というのは、虚弱で心許ない人間でも辿り着ける唯一の「意志の強さ」だからである。」——『喜ばしき知恵』

「自己を保存しようとするのは、苦境にあることの表現である。それは、本来の生の根本衝動——“力の拡張”を目指し、その意志によってしばしば自己保存を疑問に付し、犠牲にするような衝動——が衰微していることの現れである。」——『喜ばしき知恵』


〈道徳的仮装を必要とするのは、猛獣の獰猛さではなく、根深い凡庸さをもち、臆病さと自身への退屈を抱いた群畜類なのだ。道徳は“ヨーロッパ人を飾り立て”——われわれは白状しようではないか!——、いっそう高貴で重厚で堂々たる者、「神々しい者」に仕立てているのだ。〉——『喜ばしき知恵』

〈かつてはすべてが逆であった。労働こそが良心の疚しさをともなっていたのだ。生まれの良い人間は、必要に迫られて労働に手を染めるときも、それを“ひた隠し”にしたものだ。奴隷たちは、自分たちが何か卑しいことをやっているという感情の重圧のもとではたらいていた。——そう、そこでは「行動」そのものが、なにやら卑しいものであったのだ。「高貴さと名誉は閑暇と戦争の内に宿る」——古代人の先入見の声はこう叫ぶだろう。〉——『喜ばしき知恵』


〈文筆家というのは本質的に俳優である。——つまり彼らは「事情通」を演じ、「専門家」を演じるのだ。〉——『喜ばしき知恵』

〈学者というものは、精神上の中流階級に属している以上、真の“偉大な”問題や疑問符を直視するのにはまるで向いていないということは、階級序列の法則から言って当然の帰結である。加えて、彼らの気概、また彼らの眼光は、とうていそこには及ばない。〉——『喜ばしき知恵』


「私はどこまでも身体であってそれ以外のなにものでもない。心とは身体に付属した何かを指す言葉にすぎぬ。身体とは偉大な理性であり、“ひとつの”感覚をもった多様なのだ。」——『ツァラトゥストラはこう語った』

「……兄弟よ、君の思考と感情の背後にはひとりの強力な命令者、知られざる智者がいる。その名を〈自己〉という。君の身体に彼は住む。君の身体が彼なのだ」——『ツァラトゥストラはこと語った』

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□Twitter-fav3・Kant

2013-04-01 00:02:00 | Twitterから
◇カント『永遠平和のために』

〈三つの国家体制のうちで、“民主制”は語のほんらいの意味で必然的に専制的な政体である。というのは民主制の執行権のもとでは、すべての人がある一人について、場合によってはその一人の同意なしで、すなわち全員の一致という名目のもとで決議することができるのであり、これは普遍的な意志そのものと矛盾し、自由と矛盾するからである。
 だから“代議的”でないすべての統治形式は、ほんらい“まともでない形式”である。というのは立法者が同じ人格において、同時にその意志の執行者となりうるからである。ところがこのことは、理性の推論において、普遍的な大前提が同時に特殊な小前提をみずからのうちに含むと同じように、矛盾したことなのである。〉


◇ヨハン・シュルツ『カント『純粋理性批判』を読むために』



「感性は私たちに直観を与えるが、すべてのこうした直観は、悟性がそれらの直観を“思考する”、つまり直観における多様な概念のうちへと総括し、それらについて判断するのでなければ、思想を欠いた盲目な直観であるだろう。」

「したがって、経験の可能性は三重の総合を前提するのであり、三重の総合は、直観による“把捉”の総合と、構想における“再生産”の総合と、統覚ないしは意識による、概念における“再認”の総合である。」

「つまり、純粋な意識もまた純粋な構想力を前提する、すなわち、把捉と再生産においてアプリオリな必然的制約に従って直観の多様を連結する能力を前提するのである。」

「さて、純粋悟性概念はたんに現象にのみ適用可能であるが、しかし、悟性概念と現象は、悟性概念がたんに悟性のみを源泉とし、現象がたんに感性のみを源泉とするので、まったく異種的である。…中略…この媒介表象を著者は超越論的“図式”と名づけ、図式による悟性の働きを純粋悟性概念の“図式機能”と名づける。さて、この図式は時間である。…」

「このような概念の図式は概念の像からは区別されねばならない。それというのも、概念の図式は、概念に概念の像を与えるという普遍的手続きを示すだけだからである。」

「しかし、これら図式は総じて時間規定であり、すなわち感性の形式にかかわるので、このことから、純粋悟性概念の客観的実在性は、悟性の外にある条件、すなわち感性のうちにある条件に応じて制限されること、したがって、純粋悟性概念は、“対象がそれ自体である”ようにではなく、“対象が私たちに現象する”ようにしか対象に妥当しない、ということが同時に明らかになるのである。」


「したがって、悟性は悟性のアプリオリな法則を、自然から汲み取るのではなく、自然に措定するという命題は、なるほど非常識に見えるが、しかしそれでもなお確実な命題である。」


「純粋悟性の総合的原則がこのように確立されたことは、今や完全に、純粋悟性概念はたんに現象、ないしは経験の対象にのみ適用可能であり、したがって、超越論的使用を決してもたず、もっぱら経験的使用のみをもつ、ということを示している。」

「したがって、たんに叡智的な対象の可能性も不可能性も証明されえないので、ヌーメノンの概念はたんなる“限界概念”にすぎない。この限界概念によって一つには、悟性は、感性的認識の分野が、悟性が思考するすべてのものを超えて広がっているかのような感性の越権を制限し、しかももう一つには、悟性は、自分の概念により感性の分野の外部では何ら積極的なものを認識せず、物自体を、たんに未知なるものという名の下で思考しうるのみである、という限界を自分自身に定めるのである。」

「…それというのも、悟性はまず、或るものを何らかの仕方で規定しうるには、その或るものが(少なくとも概念において)与えられていることを要求し、したがって、純粋悟性の概念においては、質料が形式に先行するからである。しかし、私たちがたんに空虚な概念だけに携わるのではなく、概念を対象に関係づけようとするなら、この場合には、逆に形式が質料に先行する。それというのも、私たちの概念は直接的には対象に関係できず、たんに感性的直観を介してのみ対象に関係できるので、対象は、純粋悟性によるのではなくて、感性的直観によってのみたんに現象として私たちに与えられるからである。…」


「したがって、純粋理性がたどり着く概念は、純粋悟性概念とはまったく区別される。なぜなら、純粋悟性概念はたんに可能的経験の対象にのみ適用可能であるが、これに反して、純粋理性の概念はまさに、経験においては決して与えられない対象にかかわるからである。」

「さて、理念に三つの種類が存在するので、弁証論的理性推理にも三つの種類があるのであり、すなわち、心理学的、宇宙論的、神学的の三つが存在する。著者は第一の種類を純粋理性の“誤謬推理”〔パラロギスムス〕、第二の種類を純粋理性の“二律背反”〔アンチノミー〕、そして第三の種類を純粋理性の“理想”〔イデアール〕と名づけている。」


「したがって、私は私の自我を対象として判定しようとするならば、私は他者の視点で私を考察しなければならないが、しかしこの場合には、私は、意識の形式として一つのたんなる思想であるこの自我が、この自我によって相互に結合される残りの諸思想と同様に流れ行くのでなないのかどうかを、決して突き止めることはできないのである。」

「すなわち、超越論的観念論は、それ自体で真なる教説であるのみならず、人が経験的観念論に落ち込まないように望み、それどころか、二元論も、唯物論も、唯心論も想定する権原を与えられないという混乱に陥らないように望むかぎり、必然的に想定されなければならないのである。」

「したがって、合理的心理学の全体は、誤謬推理だけで構成されているので、人間理性のすべての力が及ばない学問として抜け落ちるのである。」


「すなわち、私自身の無知を自由に告白しつつ、それでもなおあらゆる思弁的な敵の独断的攻撃を追い払うことができるのであり、私の期待によって自分を支えるために、私の主観の本性について私が知るより以上のことは、思弁的な敵も、私の期待の可能性を否認するために、私の主観の本性について決して知ることができない、ということを思弁的な敵に示せるのである。」


「こういうわけで、四つ以上の宇宙論的理念は存在しない。すなわち理性は絶対的完璧性を、(一)世界全体の合成において、空間に関しても、過去の時間に関しても、(二)物質の分割において、(三)現象の生起において、(四)変化するものの現存在の依存性において、要求する。」

「それは、私たちの理性が自分自身との抗争に陥り、しかもその仕方はおのずとまったく自然的で不可避的であり、この抗争が故意の詭弁によってでっち上げられたわけではないということである。」

「このようにして今やここでは、理性が自己自身と抗争している、奇妙な抗争が明らかとなる。なぜなら、理性の宇宙論的主張はどれも、その反対が同じく厳密に証明されうるという種類のものだからである。」

「それゆえ、純粋理性の理念は、理念によってある種の対象の概念があたえられるかのように、したがって、人が理念を介してあらゆる可能的経験をはるかに越えて自分の認識を拡張できるかのように、“構成的”に使用されることは決してしない。(略)そのかわり、純粋理性の理念はたんに“統制的”に使用されるだけである。すなわち、純粋理性の理念は、私たちの悟性による諸認識を“体系的”にすることに役立ち、すなわち悟性による諸認識の連関を一つの原理から導出し、こうして私たちの悟性使用を全面的一致、完璧性、体系的統一へともたらすことに役立つのである。」

「それゆえ、理性はなるほど“経験の”客観的“限界”にまで、すなわち、自身は経験の対象ではなく、あらゆる経験の最上の根拠でなければならないものへの“関係”にまで、私たちを導く。しかしここで理性は自らの制限を感じる。…」


「ところで現実にこういった純粋な道徳的な諸法則が存在することは、誰も否認できない命題である。しかし当為〔なすべし〕は可能性をすでに自己のうちに含んでいるのだから、このことから帰結するのは、純粋理性はその道徳的使用のうちに“経験の可能性”の原理を、すなわち、道徳的な諸法則に適って人間の“歴史”において見出され“うる”ような行為の原理を含んでいることである。したがって純粋理性の原理はその道徳的使用において“客観的実在性”を持つ。」

「概念の構成に基づくあらゆる理性認識の体系は“数学”と呼ばれる。概念自身に基づくあらゆる理性認識の体系は“哲学”と呼ばれる。」

「つまり、“自然の形而上学”と“人倫の形而上学”が存在する。したがって、自然の形而上学は理性の思弁的使用に関係し、狭い意味において形而上学と呼ばれるのがつねであるが、これに対して、人倫の形而上学は純粋理性の実践的使用に関係し、本来は純粋道徳であって、この純粋道徳においては、人間学が、あるいは経験的条件が根底に置かれてはならない。」




“つまり、原因と結果の概念はまったく悟性の産物ではなくて構想力のたんなる虚構にすぎない、というヒュームの疑いははたして根拠づけられたものではないのだろうか、というように人は熟慮しなかったのである。”

“しかし、二つの異なる物の間で仮言的に必然的な連結を証明することが理性にできるものだろうかどうか、またどのようにすればできるのだろうか、ということについての教えをヒュームはまさしく要求したのだが、このことがまたしても気付かれなかったのである。”

“要約すると、ヒュームが投げかけた本来の問いは、どのようにして悟性はまったく異なる物の間に必然的な連結を認識しうるのか、というものであり、またはカントの言い方では、どのようにして悟性はアプリオリに総合判断を生み出しうるのか、というものであってこの問いの解答をヒュームは不可能であるとみなしたのである。この問いはヒュームのすべての反対論者によってまったく見過ごされたのであり、したがってヒュームの懐疑論は論駁されないままであったのである。”


「…このことから、次のようなアプリオリな普遍的総合的原則が確立する。すなわち、可能的な経験の対象であるべきすべてのものは、空間と時間とのうちにあらねばならないばかりか、このようなものにはすべての部類の純粋悟性概念のなかの少なくとも一つが必然的に帰属しなければならない、という原則である。」

“つまり、ヒュームが申し立てたように、私たちの概念は、私たちがたんに経験から手に入れた感性的印象の写しにすぎないであろうなどということは、とんでもないことであり、私たちの概念は、この概念と対象との連結によってはじめて経験そのものが可能となるようなものなのである。”

「こうして、純粋悟性概念の適切な演繹によって、どのようにして悟性はまったく異なる対象の間にアプリオリに必然的な連結を考えることができるのか、というヒュームの問題が完全に解決されているばかりか、それと同時に、あらゆる可能的なアプリオリな総合的原則の総数が正確に規定されているのである。」


「物“自体”が何であるかに関しては、物自体は私たちの感性の対象でも、私たちの悟性の対象でもまったくないのである。」


「したがって、このようにして明らかであることは、悟性が自分の概念と原則とによって私たちを可能的経験の限界を越えて連れ出せないのとまさしく同様に、理性も自分の推理によって私たちを可能的経験の限界を越えて連れ出せないということであり、それゆえ理性は自分の思弁でもって悟性に新しい客観を与えることはまったくできなくて、悟性が私たちに与える、自然についての普遍的学識を理性がさらに加工して、許容範囲内で完璧な体系へともたらすだけで理性は満足しなければならない、ということである。」

「それゆえ、絶対的に無条件的なものの概念はすべてたんなる理念にすぎず、この理念の客観的実在性は証明不可能なのである。」


「この著作—『純粋理性批判』のこと—が必当然的な確信をもってまったく人間理性に認めない能力は、概念と判断と推理でもって感性の分野を超越でき、可能的な経験の対象でないようななにかあるものについてほんのわずかでも概念を作れる、という能力のすべてである。」

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□Twitter-fav2

2013-04-01 00:01:00 | Twitterから
「コギトをつうじて先取りされる存在はやはり1である宿命を負って反復へと導かれる」——ラカン『精神分析の裏面』


「痕跡の中に記された pas(歩み、否定)がそれを pas と読む者の発音の中に移し換えられるときに、この pas は、それが le pas(歩み)を意味することを人が忘れるという条件の下で、まず人がエクリチュールの音声化と呼ぶものの中で pas(否定)を表象するものとして役立ち、同様に pas(歩み)の痕跡を痕跡 pas(否定)に場合によっては変えるのに役立つ。」——ラカン『同一化』

「われわれが pas から、剥奪 (privation) の純然たる事実をはっきり含意する何かを作り出さねばならぬ、ということだろうか。実際このようにして、あらゆる面に当たり、諸文例をうまく一つのグループにまとめているかぎりにおいて、確かにピションの傾向を示していることになるだろう。」——ラカン『同一化』

※ここではピションからラカンが拝借したタームの〈排除 forclusion〉ではなく、〈剥奪 privation〉が用いられていることに留意がいる。



◇モニク・ダヴィド=メナール

〈哲学を性格づけているのは、欲動と思考との間でつねに活動している結びつきの忌避であり、これは時折成功している。成功しているというのは、概念への移行が実現しているような暴力——おそらくは自己の殺害——と引き換えに手に入る概念的秩序においては成功している、ということである。〉


「女性は、彼女がファルスの問題系において男性に期待しているものが失望に終わるということを知らないわけにはいかない。なぜなら、ペニスはファルスではないからである。そしてまた女性は、ファルスが具現化しえないような彼女の性生活の部分を、いずれにせよ、幸福な経験の中ですら、独力で、あるいは別の仕方によって象徴化することになるだろうということを、知らないわけにはいかないのである。」

「性関係は存在しない、つまり、愛は〈他者〉の再臨ではなく、また両性の完結性および相補性の経験でもない、という主張は、女性と男性とでは同じ意味を持っていない。男性はこれによって、彼をファルス的ナルシシズムから脱出させてくれる対象に対する関係を説明する。女性はこの定式によって、ペニスとファルスとの間の分離の経験を説明するのである。」

「ラカンは次のように言う。男性がファルス的なものの同語反復から抜け出すのは、自らを例外とすることによってのみであり、このことが愛情生活に関する臨床において対応しているのは、愛というナルシシズムを脱することにほかならない。」


《ラカンによれば、存在命題が形式化している例外のおかげで、〈一者〉が存在する——つまり「Y a d'l'Un」——あるいはさらに「Unien」が存在するのであり、これは同一化の特徴の一なるもの〔l' unaire〕からは区別される。》

《主体は、もしそれが同一化によって構成されているとすれば、「同じもの」ではない。一なるもの〔l' unaire〕とは一つのもの〔l' un〕ではないのだ。それは、全体的なもの、統一化されたものを禁じる。逆に、主体が持っている、フロイトが言っていたところの「他に同じようなもののない」唯一の〔einzig〕ものとして主体の生を際だたせるような反復において、主体は告知されるのである。》

《「現実存在を主張することとは、まさしく、ゼロという数字を否定することにほかならない」(フレーゲ)。言語の指示機能は、フレーゲにおいては、(論理的定数であるような固有名に対しては除いて)量化を経ることによってのみ、物に対する言葉の関係を認めるという原理に従うのである。》

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□Twitter-fav1

2013-04-01 00:00:00 | Twitterから
「無論、彼らは私の言いたい事を聴きとっています。彼らは私の言いたい事を聴きとっていますが、ただ、残念なことに、彼らはそれを理解してしまうのです。そして彼らが理解したことは少しばかり性急なのです。」――ラカン『アンコール』


〈このように監禁の起源とその最初の意味は、この社会的な空間の再構成に結びついていたのである。〉——フーコー『精神疾患とパーソナリティ』

〈退行は、たんに発達の一つの潜在性ではなく、個人史の帰結でもある〉——フーコー『精神疾患とパーソナリティ』


《主体は、その対象に対して内部的な締め出しをくっている》——ラカン「科学と真理」


「知覚を曲げるのは意識だ。この奇妙なごまかしは何に支えられているのだろうか。鏡は三次元の空間、このわれわれが現実としている空間を二重にするために区切る表面しか明らかにしない。鏡像は、もしその前にあるものと偽の対称が二つの眼、二つの耳などをすでに明らかにしていなかったらこの無知の意味を持たないだろう。しかし、身体の内部では、すべてが多少なりともねじれている。そして、分割された主体が球状トポロジーの世界のなかに記入されたものを、どうやって説明できるだろう」——カトリーヌ・クレマンによる未刊行のラカンのセミネール講義録ノート(1965)より


「私がパロールのうちに探していることは、他者の応答である。私が主体として構成されるものは、私の問いである」——ラカン


「〈他者〉がパロールの場でありまたその欠如の場であるとするならば、欲望とは、主体がシニフィアンの連鎖を分節しながら、〈他者〉からの補充の呼びかけをともなう存在欠如を明るみに出すかぎりにおいて、要求がみずからの内側に掘った間隙に現れてくるものである」——ラカン


「…しかり、面接の中止は、まさに記憶の訓練と混じった正義を意味している。しかし、面接は、なおも他の多くの〔患者の〕記憶に支えられている。すなわち、句読点の語は、たんなる隠喩ではないのである。」——カトリーヌ・クレマン


「われわれは患者がどのようにして面接の期間を自分の期限にかみ合わせるために、さらには逃げ道になるように、その決着のつく日を計算するか知っているし、また患者がいかにして、待避壕から窺いながら、武器の重さを見積る仕方で分析の期間を先回りして見破っているか知っている」――ラカン


「ひとり精神分析だけが、愛情がつねにとりこわすか、または断ち切るかしなければならない想像上の隷属の絆を認識することができる」――ラカン


「愛他主義的感情はわれわれにとって多くを約束しない。われわれは、博愛主義者や理想主義者や教育者、さらには革命者の活動の底にある攻撃性をすでに見破っているのだから」――ラカン


《私が当てにしているのは渦巻だ》――ラカン (S, 1980.3.18)


「私が隣人を名指すに先んじて、隣人は私を召喚している。それは認識のではなく、切迫(obsession) の形態である。(略)“隣人に近づきつつあるとき、私はすでにして隣人に遅れており、その遅れの咎によって、隣人に従属しているのである”。私はいわば外部から命令されている(外傷的な仕方で命令されている)のであるが、私に命令を下す権威を表象や概念によって内在化することがないのである」――レヴィナス


「男とか女とかいうシニフィアンは、受動的態度と能動的態度とか、攻撃的態度と協調的態度といったこととは異なるものです。つまりそのような行動とは別の次元のことです。そのような行動の背後な間違いなく或るシニフィアンが隠れているのです。このシニフィアンは、どこにも決して完全には具体化されませんが、『男』、『女』という語の存在の下で最も完全に近い形で具現化されるのです」――ラカン『精神病』


「被害者との同一化によって「告発者」の地位を得ようとする戦略そのものは別に特異なものではない。(略)「被差別者」たちの傷の深さと尊厳の喪失こそが、彼らと同一化するおのれ自身の正義と倫理性を担保してくれるからである。」――内田樹


「私たちが自分の暴力性や愚かしさを肯定するのは、それによって得られるものがそれによって失われるものより大きいという計算が立った場合だけである。」――内田樹


「人間は自分が依存する他者の愛を失えば、様々な危険に対する庇護を失うことにもなり、とりわけ、自分より強力なこの他者が自分に対して懲罰というかたちでおのれの優越性を示してくるという危険にさらされることになる」——フロイト『文化の中の居心地悪さ』


「これによって知覚複合体は、恒常的で理解されない部分、つまり事物〔das Ding〕と、変化し、理解される部分、つまり事物の属性や運動とに分かたれる」――フロイト『心理学草案』


「欲動/昇華が、たまたま出会った対象と自分で選ぶ対象とを区別できなくなる、そういう事態が生じることを欲動/昇華は望んでいる。欲動/昇華の説明としてこれほど適切なものはない。」――ジョアン・コプチェク


「対象がそれ自身以上のなにかを表していたり代理したりしているからではなく、ジョーンズにとって、対象はつねにそれ以上のものである」――ジョアン・コプチェク
※引用者注:ジョーンズ→ジャスパー・ジョーンズのこと。


「哲学者が扱う、果てしない広がりを持ち万人が共有する存在の代わりに、ラカンはなにを持ってくるか。対象a、つまり主体の核心に在る非存在のかけらとしての享楽である。」――ジョアン・コプチェク


「精神分析の倫理は、存在論への根本的な批判から、欲動と昇華の理論から生まれている。欲動と昇華の理論によって、精神分析は、哲学的探究を主体の存在論に置きかえるのだ。精神分析の倫理は、〔非〕存在の小さなかけらと主体との関係を問題とするのであり、他の人々ないしは〈他者〉と主体との関連は中心的問題ではないのである。」――ジョアン・コプチェク



《われわれの戦いの相手は、現実の堕落した個人ではなく、権力を手にしている人間全般、彼らの権威、グローバルな秩序とそれを維持するイデオロギー的神秘化である。》――ジジェク『終焉の時代に生きる』


「このように、構造を明らかにすることによって、その法則性そのものの議論をすることが可能になるわけである。そうして、このように定式化した理論は、形式化された明証的なものとして、解析することができるのである。」——森毅『数学的思考』


「思想の構造に命題〔節〕の統辞が対応する。そこでは一般に語順が関与してくる。思想をその要素に破壊、解消するという場合には、紙に書かれた命題を鋏で細切れにするかのように言葉を互いに引き離さなければならないだろう。(…)これは思想を否定することであろうか。否! 思想はこの刑罰にもかたちをとどめて (in effigie) 生き残ることは疑いない。」――フレーゲ


「ところで文における完全な否定が実現されるには、ある事実が認識領域に現われない (forclusion) だけでは十分ではなく、それがこの領野にある全ての事実と両立しない (discordance) ことが必要である。」――枝川昌雄「否定と象徴形成」


「…超自我の享楽は、法を通して、法の彼方に見え隠れする現実界の中の〈他者〉=隣人へ向けられる愛とは異なる。超自我の享楽は法を歪曲して〈世界〉の中へと法を転調した超自我の味わう情熱 (passion) に過ぎないからだ。」――作田啓一「愛の深層」



《所有とは、モノの生成の困難がモノを支配する力と権利における他人と自分への対立にすり替えられることで起こる感情である》――樫村晴香

「つまりあなたが何かをもっているなら、その何かをめぐって他者との間に潜在的な緊張関係が発生する。」

「モノの支配をめぐる所有の政治関係は、快楽を与える唯一の定式であるモノの不在と現前の現実的な交代のリズムを、記号化して恒常的に現前させ、そのことで、モノが単に物質的に存在するなら必ず摩滅していくはずのモノに基づく快楽を、隠喩の水準で冷凍保存しつづける。 」

「所有に対決する彼らの所有概念のメカニズムとその暗点については後回しにするとして、ともかくも、所有する感情とは対象を維持する感情であり、そのことが、同時に所有する者自体の維持を可能にする。」

「結局のところ、所有が覆い隠していた人間の臆病さはなんら変わらず、人間がより怠惰になっただけで、こうしてあらかじめ他者が咀嚼した後期資本主義のこのモノの群れを、さしずめハイデッガーなら、途方もなく<間抜けになった>モノたちと表現したことだろう。」


《あらゆる闘争と神学において、人は必ず敗北する。しかしやがてくるこの神話のとき、そこにおいてはすべてのものが、果てしない弱さと強さの混淆する光のなか、完全に勝利するにちがいない。》——樫村晴香

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