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アガンベン『残りの時 パウロ講義』

2015-07-23 23:00:37 | Agamben アガンベン
——IL TEMPO CHE RESTA: Un Commento alla Lettera ai Romani by Giorgio Agamben (2000)


第一日 PAULOS DOULOS CHRISTOU IESOU〔パウロ、僕=奴隷、救世主イエス〕

17-18「メシア的なものとは、本来の名前をその携帯者から切り離すのであり、それ以後は名前の携帯者は非本来的な名前、通り名しかもつことができない。パウロ以後、わたしたちの名前はすべてシグヌム〔渾名〕でしかないののだ。」

21”パウロの用法は、世俗の法律的状態を指し示すと同時に、それがメシア的出来事との関係をつうじてこうむる変容をも指し示しているのである。”

23“いずれにしても、メシア的召命こそは、人類の歴史においてと同様、パウロの個人史においての中心的な出来事なのだ。”

30「メシア的な生とはなにか。また、メシア的時間の構造とはいかなるものであるのか。パウロの問いであるこれらの問いは、わたしたちの問いでもあらねばならないのである。」


第二日 kl�・t�・s〔召された〕

38《“メシア的召命はおよそいっさいの召命の棄却である”》。

40あらゆるものを「でないもののように」の形式において自己自身へと向かわせつつ、メシア的なものはそれを単純に消し去るのではなく、それを過ぎ去らせ、それの終末を準備する。それは別の姿、別の世界ではない。それはこの世の姿の過ぎ去りゆくありさまなのだ。

41…メシア的召命はひとつの内在的な運動——あるいは、こういったほうがよければ、内在と超越とのあいだの、この世と来たるべき世とのあいだの識別が絶対に不可能な地帯なのである。…

42使用——これが「でないもののように」という形態において、パウロがメシア的生にあたえる定義である。メシア的に生きるとは、クレーシス〔召命〕を「使用する」ことを意味する。裏返していえば、メシア的なクレーシス〔召命〕は、ただ使用することができるだけで、所有することはできないものなのである。

43パウロはメシア的な「使用」(usus) を「所有」(dominium) に対置する。
………
43メシア的召命とは、ある法的な規定でもなければ、自己同一性を形成するものでもない。それの所有者としてあることなく、使用する一般的な能力なのである。

46-47メシア的召命のなかにあって、自分自身との関係に置かれた事実的なクレーシス〔召命〕は、別のものに置換されるのではなく、働かなくさせられる(あとで見るように、パウロは、まさに不活性化、無効化を意味するひとつの専門用語として、この語を用いている)。

56残るのは、パウロにとっては自己への適合ではなく、使用が問題であり、メシア的主体は所有によって定義されないばかりか、たとえ真正なる決定あるいは死にいたる存在という形態においてであろうとも、自己自身をひとつの全体として所有することすらできないということである。


61《むしろ、「かのように」は、哲学者がすでに自らによって科されている断罪なのである。》


64「要請は、偶然性を無視することもしなければ、なんとか悪魔祓いしようと試みることもない。逆に、それはこう語る。この生は事実上、完全に忘れ去られてしまっているけれども、忘れえぬものとしてとどまりつづけることを要請する、と。」

67パウロは、こうしたことのすべてとどんな関係にあるのか。メシア的なものは、かれにとってはまさに存在していたものの救済にかかわる、ひとつの要請の場所であった。それは、救済が達成されたかのようにこの世を見ることができるという「観点」の問題ではない。メシアの到来は、すべてのことがらが——そして、それらとともに、それらを見る主体が——「でないもののように」のうちに捕らえられ、召されると同時に棄却されることを意味している。そこにはもはや、いかなる見る主体もいない。そして、ある時点にいたって「かのように」行為することを決意できる主体もいない。メシア的召命は、なによりもまず、主体を転位させ無化する。


69メシア的な主体は、この世を救済されたかのように観想することをしない。むしろ——ベンヤミンの言葉を借りるならば——、救済が救済不可能なものへと失われていくところにおいてのみ、救済を観想する。クレーシスの経験とはかくも込み入ったものであり、召し出しのうちに住まうとはかくもむずかしいものなのだ。

71メシア的出来事——?


第三日 aph�・rism�・nos〔分かたれた〕

77〈じっさいにも、パウロは、律法がなによりもまず分割と分離を設けることによって機能することを確認するところから始めている。このようにして、かれは、ギリシア語のノモス (nomos) ——これはトーラーを、しかしまた法律一般を指すのに用いられる——が「分割する、いくつかの部分を割り当てる」を意味する動詞ネモー (nem�・) から派生したものである、というその語の語源学的意味を真面目に受けとっているようである。〉

78〈したがって、律法の原理は分割である。そして、ユダヤの律法の基本的区分は、ユダヤ人と非ユダヤ人——パウロの言葉によれば、「ユダヤ人」(Iouda�・oi) と「異邦人」(ethn�・) ——の区分である。〉

79〈いずれにしても、基本的な律法上の分割は、パウロが露骨に割礼/無割礼という対照句によって表現する、ユダヤ人と非ユダヤ人の分割にある。〉

80《さて、問題は以下のようである。この基本的分割を前にしてのパウロの戦略は、どのようなものか。どのようにしてかれは、メシア的展望のもとで律法上の分割を中立化することに成功するのか。》

82メシア的分離は、むしろ律法上の区分そのものの上で行使されるのであり、それらをひとつのさらなる切断によって分割するのである。この切断が「肉/霊」(sarx/pneuma) という切断である。…〔略〕…
この分割はユダヤ人/非ユダヤ人の分割と符合するものではないが、それの外にあるわけでもない。それは、その分割そのものを切断するのである。

83-84“すなわち、メシア的分割は、もろもろの民の律法上の一大分割に、ユダヤ人と非ユダヤ人とが構成上「すべてではない」ようなひとつの残余を導き入れるのである。”

84“メシア的律法のうちにありつづける者は、律法のうちにないのではない者なのである。”


88《パウロには、この意味においては、原理も目的もない。アペレスの切断、分割の分割があるにすぎない——そして、つぎには、残余が。》

89“神の業であるメシア的救済は、残りの者をその主体としている。”

90“決定的瞬間においては、選ばれた民——あらゆる民——は、必然的に残りの者として、すべてではないものとして、自らを立てるのである。”

91〈この預言的・メシア的な残りの者という観念こそ、パウロがすくいとり展開している当のものである。そして、これが、かれの分離の、かれの分割の分割の、最終的な意味でもある。かれにとっては、残りの者とはもはや預言者たちにおけるような未来に関する観念ではなく、かれがメシア的な「今」と定義する現在的な経験なのだ。「今の時にも、……残りの者が産み出されている (g�・gonen) のです」。〉


94《…メシア的な残りの者は、終末論的な全体を取り返しがたく乗り越えてしまっている。それは、救済を可能にする、救済しえないものなのである。》


第四日 ap�・stolos〔使徒〕

98パウロはなぜ自らを使徒と定義し、たとえば預言者とはいわないのか。使徒と預言者の差異はどこにあるのか。

98メシア的時間においては、使徒が預言者の場所を占め、それに取って代わるのだ。


101「いつまで」——?


101-102「しかし、使徒はまた、しばしば混同されているもうひとつの形姿からも区別されなければならない。厳密にいえば、メシア的時間と終末論的時間との混同が生じているのだ。未来に向けられた預言ではなく、時の終わりを観照する黙示は、メシア的告知についてのもっとも油断のならない誤解である。黙示者は、最後の日、怒りの日に自らを位置づける。かれは終末が完遂されるのを見て、自分が見ているものを記述するのである。これにたいして、使徒が生きる時間は終末 (�・schaton) ではない。」

102「あるいは、こう言ったほうがよければ、時間とその終末とのあいだに残っている時間なのである。」

102-103《……年代記的な時間でも、黙示録的な終末でもない。それは、ここでもまた、残りのものである。もしも、メシア的な区切り、あるいはアペレスの切断によって時間の分割そのものが分割されるのだとすれば、これら二つの時間のあいだに残っている時間なのである。》


104「このためには、アペレスの切断の理念に訴えて、メシア的な時間を、二つの時間のあいだの分割自体を分割することによって、それのなかに分割を越えたひとつの残りのものを導入する区切りとして表象するほうが、たぶん、いっそう厳格だろう。」

105「同様にして、メシア的時間を二つのアイオーンのあいだにおかれた線分として表象すれば、イメージとしては明快であるが、残っている時間、終わり始めた時間の経験については、なにも語ってくれない。表象と思考のあいだ、イメージと経験のあいだの、この断絶はどこに由来するのだろうか。そしてまた、この曖昧さを免れうるような別の時間表象は可能なのだろうか。」


114“ここでの誤りは操作時間をクロノロジカルな時間に付加されてその終わりを無限に順延するような補足的時間に変えてしまうことである。”

115《メシアはすでに到来している、メシア的出来事はすでに成就している、けれども、その臨在はその内側にもうひとつの時間を含んでいて、パルーシアを遅延させるためにではなく、逆にパルーシアを把捉できるものにするために、パルーシアを引き延ばすのである。》

116《安息日——メシア的時間——は、他の日々と均質なもうひとつの日なのではない。それはむしろ、時間のうちにあって、——肌一枚のところで——時間を把捉し、それを完成に導くことができる内的な断絶なのだ。》


122「すなわち、メシア的時間とは、過去の要約的な——この形容詞が「要約的裁決」という法律的表現に追いかけてもっている意味をも込めて——総括なのである。」

126《このようなわけで、メシア的時間をもっぱら未来へと向かうものであるかのようにみる通有の表象は偽りである。救済の瞬間には未来と永遠にこそ眼を向ける必要があると繰り返し語られるにわたしたちは聞き慣らされてきた。総括帰一は、パウロにとっては、逆に「今の時」が過去と現在の収縮であるということを意味しているのであって、決定的瞬間においては、まずなによりも過去とこそ決着をつけるべきなのだ。いうまでまもなく、それはなにも執着や懐旧を意味するのではない。そうではなくて、過去の総括帰一とは、過去にたいして宣告される要約的判決でもあるのである。》


第五日 エイス・エウアゲリオン・テウ〔神の福音のために〕 一

145使徒が預言者から区別されるように、使徒の福音のうちに含まれている時間構造は預言者の預言のもつ時間構造から区別される。福音がかかわるのは、未来に起こる出来事ではなく、現在する事実である。
……
エウアゲリオン〔福音〕—ピスティス〔信仰〕—パルーシア〔臨在〕の関連
……
145エウアゲリオンという語の意味の問題は、ピスティスおよびそれが含むパルーシアという語の意味の問題から分離することはできないのである。それに耳を傾け、臨在を信じる者に働きかける力のある言説(logos)とは、いかなるものであるのか。

147“信仰は、福音の現勢化、エネルゲイアなのだ。”

149“福音は約束がメシア的時間の収縮において取る形式なのだ。”

156「使徒が、律法の働きへのメシア的なものの効力を表現するのに用いている用語のなかに、安息日における作業の中断を意味する動詞が出てくというのは、たしかに偶然ではない。」


168わたしたちの伝統においては、形而上学的テーマ——こちらはとりわけ基礎づけと起源の瞬間に固執する——は、メシア的テーマ——こちらは成就の瞬間に固執する——と共存している。しかし、本来の意味でメシア的であり“歴史的”であるのは、成就は基礎づけを再開しては廃絶し、それとの清算を済ませることによってのみ可能となる、という考え方である。


179《世俗の権力は——ローマ帝国であれ、その他の権力であれ——、メシア的時間の実質的な律法不在の状態を覆っている見せかけなのだ。》


第六日 エイス・エウアゲリオン・テウ〔神の福音のために〕 二

192わたしたちの時代において格別の明瞭さをともなってあらわになっている、構成する権力と構成された権力の分離は、その神学的基礎を、信の次元と法の次元のあいだの、個人的な忠誠とそれから導き出される実際的な義務のあいだの、パウロによる分離のうちにもっているのである。このような展望のもとでは、メシアニズムは法の内部における闘争としてあらわれる。

195「パウロにおいては、じつのところ、もろもろの機能のあいだの葛藤といったようなものは存在しないのであって、それらの連結の欠如があるのみであり、そこから恵みが主権的=自己統治的なかたちであらわれ出るのである。」


197二つの「契約」は、どちらもアブラハムにまでさかのぼるとはいえ、二つの截然と区別された系譜を代表しているのである。モーセの律法はハガルに由来し、戒めと義務への隷属に対応する。そして、サラに由来する新しい契約は、律法からの自由に対応する。

197歴史的時間のうちにあって働くメシア的審級は、モーセの律法を働かなくさせつつ、系譜的にこれを超えて、約束に向かってかさのぼっていく。二つの契約のあいだに開かれた空間が、恵みの空間である。…〔略〕…
——すなわち、テクストではなく、メシア的共同体の生そのもの、“書字”ではなく、“生の形式”なのだ。


200《恵みは、社会的交換や義務の基礎ではない。それはむしろ、それらの中断なのだ。メシア的所作は基礎づけるのではなく、完遂するのである。》


☆219メシア的なものとは——

?221“カタルゲイン〔止揚〕とクレースタイ〔使用〕は、弱さのうちで成就される能力の行為なのだ。”


 閾(soglia)あるいはトルナダ(tornada)

234《ベンヤミン的な原理は、あらゆる作品、あらゆるテクストは、それらがある特定の時代に属するものであることを指すだけでなく、ある特定の歴史的瞬間においてのみ読解可能性に到達するという歴史的指標を含んでいる、との想定に立っている。》


「弁証法的なイメージ群のみが真正に歴史的なものである、すなわち、古さびたものではない。読まれるイメージ、すなわち認識可能性の今におけるイメージは、あらゆる読解の基底にあるこの危機的で危険な瞬間の刻印を最高度に帯びている。」(Benjamin 1974-89, V, 578)