1. 規則の知と例外の関係は、規則の知という「慣習」からは否定的なものとして導けないだろうか?
「我々の意見の一致」において、それはイエスだ。だが、例外を挟めば、それはノーだという具合に。「我々の意見の一致」、「慣習」、「自然史」という立場からは、それはイエスなのだ。根拠なしに。(緑は緑であり、それを赤というのは“間違い”だ。もし、緑を赤という者がいれば、「違う、それは緑だ」と教え、あるいは矯正=強制しようとするだろう。それに従わない場合は、そのゲームからは“排除”される)
規則の知において「正しい適応」を示さない者は、「我々のやり方」に準じさせるか、もしくは排除される。例外とは、規則の知においては何らかの否定性の符牒を帯びていて、排除の対象にもなり得る。
だが、そこからアガンベンの共同体論は考えられているといえまいか?
我々の「自然史」(自我理想的)から排除される、宗教的なもの(超自我的)の共同性とその規則。ここでは「規範」の意味合いが異なる。方や、盲目的に反応し、方や……?
盲目的に従うことには根拠が“ない”。まさに、規則の知からは排除される“例外の規則”は、この否定性の元に何か積極的なものを持っているように思える。否定性は、正誤の判断とは同列のレベルには置けない、別の判断ではないか?(イロニーの例、あるいはフロイトの判断論の例)
こうともいえる。もし、「我々の意見の一致」に則り事が進んでいる場合、我々はそれを判断しないで済んでいる。ゲームが円滑に進んでいる場合、我々はそれをいちいち疑問にかけないだろうし、それについて判断をなくしても従うこと(=盲目的反応)ができる。
だが、判断の必要性が生じる時は?
もし、そのゲームの決められたやり方に従わない者がいれば、それは判断の必要性を呼び起こす。つまり、規則の知(盲目的)についての判断は、その否定的な例外により為される。
盲目的な規則の知(意見の一致)があり、その判断がある。だが、判断の必要性はその規則の根拠のなさに由来する、否定性を原理として為される。ここに我々は、フロイトの判断論、否定性、例外、排除の問題を再び見出す。
規則の知とは、判断という意味では例外の規則のことでもある。だが、規則の知における“正誤”と例外の規則による“判断”は、対称的ではない。排除されるのは規則の知にとっては“間違い=誤”だし、だが判断が可能になるのは排除された“例外の規則”からである。
そして、実践という言葉は、そのような盲目的な反応(=繰り返し)についても言われるのだった。その場合の実践は、カントの言葉に即して考えれば「自然概念」への適応ということになる。(この場合、自然の原因と人間の意志は同一レベルに置かれているといえる)
2. つまり、自然史(自然概念)における規則の知とは、例えるなら「赤は赤である」といった類いものでこの規則に従うことが実践とも呼べる。
最初の赤は感覚的であり、二番目の赤は概念でもある。つまり、感覚の個別性(確信)が普遍的な概念(言葉)に包摂されている。(概念の赤は、赤くはないだろう)
概念としての赤は、赤くはない。(もし、炎という言葉を書いて、それで暖を取ろうと思えば、なかなかその人は滑稽ではある)
いずれにせよ、規則の知は“規定的”である。
だが、問題となっているのが、感覚的な確信として赤の微妙なニュアンスだとしたらどうだろうか? その微妙なニュアンスが問題なのに、我々は赤という言葉でその固有性(≒個別性)を“規定的に”包摂し、理解した気になる。
同一性を介して結びつく規定的な判断における自然原因と“実行する”意志。感覚的確信と概念。この知には、盲目的なところがある。その自明性が既に。
3. 美において自然と倫理が“絶対的に”隔てられる。その隔てられた超感性的な領域が、宗教的なものでもある。
だが、その分節化は元は感覚から発したものであって、理知的なものからではない。(理知的なものが行為に結びつくのが、つまり盲目なのだ)
自然概念と自由概念の裂け目。分離の根源はそこに位置する。両者の立法的なアプリオリに対する「超過」。また、これは理性による「乗り越え」や「克服」、あるいは「超克」でもない。
分離とは、元々は宗教的な問題であった——。それは、自然概念と自由概念からのある超過を含んでいる。
4. ウィトゲンシュタインの問題は、言語と世界が対応する写像の論理とその彼岸(事実ではなく価値、即ち倫理的なものや宗教的なもの)に向けられている。
そこに、“語ること sagen”から“示すこと zeigen”への向き変えがある。
命題とは像を持っている。言い換えればそれは、意義があるということに他ならない。つまり、それは語りうる論理である。だとすれば、倫理的な意図とは世界を変化させないだろう。そのような意図は、価値の問題なのであり事実の世界とは対応しないのだから。
だが、逆に倫理的な意図とは世界ではなく、“世界の限界”を変える。倫理的なものの意図や意志。それは世界ではなく、世界の限界への働きかけ(行為)だと見ていい。
意図/意志は語られうるか? それは示されるしかない。だとするなら、私の意図とは私の世界(言語や論理の)の限界を語りえぬものとして示している。だが、これは独我論の一面ではある。そこで問題なのは、ある限界に位置する関連づけられた意図に他ならない。
では、倫理的なものと宗教的なものとは、如何にして峻別されるのか? それはどちらも、自然の領域からはある「超過」を持っている。何故ならそれらは、事実の問題ではなく価値の問題になりうるからだ。ここに人間の「両義性」を見ることはできる。人間は自然にも属するが精神でもある。
自然である人間がある倫理的な意図ないし意志を持ち、世界の限界に働きかける。ここには自然にはない「超過」が働いている。だが同時にそれは、“私の”世界の限界にも位置している。このような“私”が“神”と向き合うところに宗教的なもの(即ち、人間の精神)がある。そう考えれば、ウィトゲンシュタインはキルケゴールに近い立場にいることが分かる。倫理的なものと宗教的なもののあいだにある葛藤、あるいは両義性。
沈黙により示されるしかない神秘。そこでは理性はもう役には立たない。理性の要求に従いそれを解釈し、理解する試みは頓挫する。キルケゴールの場合は、そのような信仰(の葛藤)は、「倫理的なものの目的論的停止」といわれる。それは、理性では到底理解はできないので、神秘として(理性の沈黙として)示される以外にない。
5. 我々は今、カントの判断力の問題からキルケゴールやウィトゲンシュタインに至る倫理的なものと宗教的なものの領域を見ている。だが、それは理性の眼によっては見えることはない。
語りえぬものについては、語りえない(不可能)・語ることができない(不能)だけではない。沈黙“せねばならない”のだ。ここに宗教や神秘を巡る萌芽が既にある。理性の饒舌なお喋り。それを慎むこと。それを知る者は、信仰の何たるかを確信している。
6. 先に、概念としての赤は赤くはないと述べた。
概念としての赤は、「赤」という意味の総体としてあり、それはその言葉の意味作用と意義の両方を持つ。それを、「赤」と呼ぶのは恣意的であり、別に「共産党」という言葉でその色を指してもいい。これは、言語の“述定作用=定義 definition”の側面でもある。
つまり、それは赤以外との連関において赤なのだ。言葉の述定作用においては、その言葉はそれ以外の言葉に依存しているし、それ以外の言葉との関係において初めて意味を持ちうる。
だが、「これを赤と名指す」と言った時の「赤」とは何か? こういう問いの中に既に、語ることと示すことの違いがある。
「これは赤い。」(述定作用=定義)
「これを赤と呼ぶ。」(名辞化=指名)
後者は、名辞化と呼んでいいのかもしれない。これは、象徴化にもある方向があることを示している。仮にこう呼んでおくが、「名辞化=指名 nomination」とは解釈でも説明でもない。語をある概念に包摂しているとも言えない。
君を太郎と呼ぶことは、太郎という概念に君を包摂することとは違うだろう。
7. では次にこう考えてみよう。
ある人が君に、太郎を呼んでこいと命じた(もちろん、そこには君が太郎というある特定の人物を知っているという前提がある)。君はまず太郎を思い浮かべ、その人物を探すだろう。太郎という言葉を聞いて、その言葉を(他の言葉との連関で)解釈するとは考えにくい。
仮に、太郎には瓜二つの兄弟がいたとする(太郎には左の口元にホクロがあるので、その瓜二つの兄弟・二郎と見分けるには、そのホクロが手がかりになる)。その場合、太郎の“現実の”識別には、太郎と二郎という言葉(名)の近接性(概念)には寄らずに、ホクロの有無ということが鍵になる。
もちろん、ここで言いたいのは名にも概念の近接性があるということの他に、名辞化(太郎と呼び名指されていること)はイメージと現実を繋いでいるということでもある。
もし、君が太郎を呼んでこいと言われ、名の概念の近接性に頼るだけなら、君は現実の太郎と二郎(ホクロの有無)は見分けがつかないだろう。論理としてのみ記号や命題を考えてしまえば、君はある現実の識別を見失う。
では、君が無事太郎を見つけ、太郎を連れてきた。その時君は何をしたのか?
太郎には左の口元にホクロがあり、二郎にはない。君は太郎と二郎という言葉(名)を述定化しないで、記号として扱うことができたということではないか?
ある与えられた概念を他の概念に連携しなければいらないとは、奇妙な誘惑に思える。確かに、我々はある言葉を聞くと、それが他の概念と必ず連結すると考えてしまいがちだ。それも「思考」と呼ばれる。そこでは、思考は常に「心的過程」として考えられている。
確かに、媒介項としては「太郎には左の口元にホクロがあり、二郎にはそれがない」ということを解釈しているとも言えなくもない。だが、君は太郎と二郎という名を、概念の連携として扱わず、記号として使用したということはできるだろう。
《思考を「心の働き mental activity」として語るのは誤解を招きやすい。思考は本質的には記号を操作する働きだと言えよう。》——ウィトゲンシュタイン『青色本』(訳書p.20)
《我々は、意識された心の働きを述べることと、心の機構とでも呼べるものについての仮説を述べることの区別をたやすく見過ごしてしまうのである。》ibid., p.95
「我々の意見の一致」において、それはイエスだ。だが、例外を挟めば、それはノーだという具合に。「我々の意見の一致」、「慣習」、「自然史」という立場からは、それはイエスなのだ。根拠なしに。(緑は緑であり、それを赤というのは“間違い”だ。もし、緑を赤という者がいれば、「違う、それは緑だ」と教え、あるいは矯正=強制しようとするだろう。それに従わない場合は、そのゲームからは“排除”される)
規則の知において「正しい適応」を示さない者は、「我々のやり方」に準じさせるか、もしくは排除される。例外とは、規則の知においては何らかの否定性の符牒を帯びていて、排除の対象にもなり得る。
だが、そこからアガンベンの共同体論は考えられているといえまいか?
我々の「自然史」(自我理想的)から排除される、宗教的なもの(超自我的)の共同性とその規則。ここでは「規範」の意味合いが異なる。方や、盲目的に反応し、方や……?
盲目的に従うことには根拠が“ない”。まさに、規則の知からは排除される“例外の規則”は、この否定性の元に何か積極的なものを持っているように思える。否定性は、正誤の判断とは同列のレベルには置けない、別の判断ではないか?(イロニーの例、あるいはフロイトの判断論の例)
こうともいえる。もし、「我々の意見の一致」に則り事が進んでいる場合、我々はそれを判断しないで済んでいる。ゲームが円滑に進んでいる場合、我々はそれをいちいち疑問にかけないだろうし、それについて判断をなくしても従うこと(=盲目的反応)ができる。
だが、判断の必要性が生じる時は?
もし、そのゲームの決められたやり方に従わない者がいれば、それは判断の必要性を呼び起こす。つまり、規則の知(盲目的)についての判断は、その否定的な例外により為される。
盲目的な規則の知(意見の一致)があり、その判断がある。だが、判断の必要性はその規則の根拠のなさに由来する、否定性を原理として為される。ここに我々は、フロイトの判断論、否定性、例外、排除の問題を再び見出す。
規則の知とは、判断という意味では例外の規則のことでもある。だが、規則の知における“正誤”と例外の規則による“判断”は、対称的ではない。排除されるのは規則の知にとっては“間違い=誤”だし、だが判断が可能になるのは排除された“例外の規則”からである。
そして、実践という言葉は、そのような盲目的な反応(=繰り返し)についても言われるのだった。その場合の実践は、カントの言葉に即して考えれば「自然概念」への適応ということになる。(この場合、自然の原因と人間の意志は同一レベルに置かれているといえる)
2. つまり、自然史(自然概念)における規則の知とは、例えるなら「赤は赤である」といった類いものでこの規則に従うことが実践とも呼べる。
最初の赤は感覚的であり、二番目の赤は概念でもある。つまり、感覚の個別性(確信)が普遍的な概念(言葉)に包摂されている。(概念の赤は、赤くはないだろう)
概念としての赤は、赤くはない。(もし、炎という言葉を書いて、それで暖を取ろうと思えば、なかなかその人は滑稽ではある)
いずれにせよ、規則の知は“規定的”である。
だが、問題となっているのが、感覚的な確信として赤の微妙なニュアンスだとしたらどうだろうか? その微妙なニュアンスが問題なのに、我々は赤という言葉でその固有性(≒個別性)を“規定的に”包摂し、理解した気になる。
同一性を介して結びつく規定的な判断における自然原因と“実行する”意志。感覚的確信と概念。この知には、盲目的なところがある。その自明性が既に。
3. 美において自然と倫理が“絶対的に”隔てられる。その隔てられた超感性的な領域が、宗教的なものでもある。
だが、その分節化は元は感覚から発したものであって、理知的なものからではない。(理知的なものが行為に結びつくのが、つまり盲目なのだ)
自然概念と自由概念の裂け目。分離の根源はそこに位置する。両者の立法的なアプリオリに対する「超過」。また、これは理性による「乗り越え」や「克服」、あるいは「超克」でもない。
分離とは、元々は宗教的な問題であった——。それは、自然概念と自由概念からのある超過を含んでいる。
4. ウィトゲンシュタインの問題は、言語と世界が対応する写像の論理とその彼岸(事実ではなく価値、即ち倫理的なものや宗教的なもの)に向けられている。
そこに、“語ること sagen”から“示すこと zeigen”への向き変えがある。
命題とは像を持っている。言い換えればそれは、意義があるということに他ならない。つまり、それは語りうる論理である。だとすれば、倫理的な意図とは世界を変化させないだろう。そのような意図は、価値の問題なのであり事実の世界とは対応しないのだから。
だが、逆に倫理的な意図とは世界ではなく、“世界の限界”を変える。倫理的なものの意図や意志。それは世界ではなく、世界の限界への働きかけ(行為)だと見ていい。
意図/意志は語られうるか? それは示されるしかない。だとするなら、私の意図とは私の世界(言語や論理の)の限界を語りえぬものとして示している。だが、これは独我論の一面ではある。そこで問題なのは、ある限界に位置する関連づけられた意図に他ならない。
では、倫理的なものと宗教的なものとは、如何にして峻別されるのか? それはどちらも、自然の領域からはある「超過」を持っている。何故ならそれらは、事実の問題ではなく価値の問題になりうるからだ。ここに人間の「両義性」を見ることはできる。人間は自然にも属するが精神でもある。
自然である人間がある倫理的な意図ないし意志を持ち、世界の限界に働きかける。ここには自然にはない「超過」が働いている。だが同時にそれは、“私の”世界の限界にも位置している。このような“私”が“神”と向き合うところに宗教的なもの(即ち、人間の精神)がある。そう考えれば、ウィトゲンシュタインはキルケゴールに近い立場にいることが分かる。倫理的なものと宗教的なもののあいだにある葛藤、あるいは両義性。
沈黙により示されるしかない神秘。そこでは理性はもう役には立たない。理性の要求に従いそれを解釈し、理解する試みは頓挫する。キルケゴールの場合は、そのような信仰(の葛藤)は、「倫理的なものの目的論的停止」といわれる。それは、理性では到底理解はできないので、神秘として(理性の沈黙として)示される以外にない。
5. 我々は今、カントの判断力の問題からキルケゴールやウィトゲンシュタインに至る倫理的なものと宗教的なものの領域を見ている。だが、それは理性の眼によっては見えることはない。
語りえぬものについては、語りえない(不可能)・語ることができない(不能)だけではない。沈黙“せねばならない”のだ。ここに宗教や神秘を巡る萌芽が既にある。理性の饒舌なお喋り。それを慎むこと。それを知る者は、信仰の何たるかを確信している。
6. 先に、概念としての赤は赤くはないと述べた。
概念としての赤は、「赤」という意味の総体としてあり、それはその言葉の意味作用と意義の両方を持つ。それを、「赤」と呼ぶのは恣意的であり、別に「共産党」という言葉でその色を指してもいい。これは、言語の“述定作用=定義 definition”の側面でもある。
つまり、それは赤以外との連関において赤なのだ。言葉の述定作用においては、その言葉はそれ以外の言葉に依存しているし、それ以外の言葉との関係において初めて意味を持ちうる。
だが、「これを赤と名指す」と言った時の「赤」とは何か? こういう問いの中に既に、語ることと示すことの違いがある。
「これは赤い。」(述定作用=定義)
「これを赤と呼ぶ。」(名辞化=指名)
後者は、名辞化と呼んでいいのかもしれない。これは、象徴化にもある方向があることを示している。仮にこう呼んでおくが、「名辞化=指名 nomination」とは解釈でも説明でもない。語をある概念に包摂しているとも言えない。
君を太郎と呼ぶことは、太郎という概念に君を包摂することとは違うだろう。
7. では次にこう考えてみよう。
ある人が君に、太郎を呼んでこいと命じた(もちろん、そこには君が太郎というある特定の人物を知っているという前提がある)。君はまず太郎を思い浮かべ、その人物を探すだろう。太郎という言葉を聞いて、その言葉を(他の言葉との連関で)解釈するとは考えにくい。
仮に、太郎には瓜二つの兄弟がいたとする(太郎には左の口元にホクロがあるので、その瓜二つの兄弟・二郎と見分けるには、そのホクロが手がかりになる)。その場合、太郎の“現実の”識別には、太郎と二郎という言葉(名)の近接性(概念)には寄らずに、ホクロの有無ということが鍵になる。
もちろん、ここで言いたいのは名にも概念の近接性があるということの他に、名辞化(太郎と呼び名指されていること)はイメージと現実を繋いでいるということでもある。
もし、君が太郎を呼んでこいと言われ、名の概念の近接性に頼るだけなら、君は現実の太郎と二郎(ホクロの有無)は見分けがつかないだろう。論理としてのみ記号や命題を考えてしまえば、君はある現実の識別を見失う。
では、君が無事太郎を見つけ、太郎を連れてきた。その時君は何をしたのか?
太郎には左の口元にホクロがあり、二郎にはない。君は太郎と二郎という言葉(名)を述定化しないで、記号として扱うことができたということではないか?
ある与えられた概念を他の概念に連携しなければいらないとは、奇妙な誘惑に思える。確かに、我々はある言葉を聞くと、それが他の概念と必ず連結すると考えてしまいがちだ。それも「思考」と呼ばれる。そこでは、思考は常に「心的過程」として考えられている。
確かに、媒介項としては「太郎には左の口元にホクロがあり、二郎にはそれがない」ということを解釈しているとも言えなくもない。だが、君は太郎と二郎という名を、概念の連携として扱わず、記号として使用したということはできるだろう。
《思考を「心の働き mental activity」として語るのは誤解を招きやすい。思考は本質的には記号を操作する働きだと言えよう。》——ウィトゲンシュタイン『青色本』(訳書p.20)
《我々は、意識された心の働きを述べることと、心の機構とでも呼べるものについての仮説を述べることの区別をたやすく見過ごしてしまうのである。》ibid., p.95