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per l/a psicoanalisi

規則と例外—知の盲目さと判断を巡って

2019-05-30 05:07:09 | Essay
1. 規則の知と例外の関係は、規則の知という「慣習」からは否定的なものとして導けないだろうか?

「我々の意見の一致」において、それはイエスだ。だが、例外を挟めば、それはノーだという具合に。「我々の意見の一致」、「慣習」、「自然史」という立場からは、それはイエスなのだ。根拠なしに。(緑は緑であり、それを赤というのは“間違い”だ。もし、緑を赤という者がいれば、「違う、それは緑だ」と教え、あるいは矯正=強制しようとするだろう。それに従わない場合は、そのゲームからは“排除”される)

規則の知において「正しい適応」を示さない者は、「我々のやり方」に準じさせるか、もしくは排除される。例外とは、規則の知においては何らかの否定性の符牒を帯びていて、排除の対象にもなり得る。

だが、そこからアガンベンの共同体論は考えられているといえまいか?

我々の「自然史」(自我理想的)から排除される、宗教的なもの(超自我的)の共同性とその規則。ここでは「規範」の意味合いが異なる。方や、盲目的に反応し、方や……?

盲目的に従うことには根拠が“ない”。まさに、規則の知からは排除される“例外の規則”は、この否定性の元に何か積極的なものを持っているように思える。否定性は、正誤の判断とは同列のレベルには置けない、別の判断ではないか?(イロニーの例、あるいはフロイトの判断論の例)

こうともいえる。もし、「我々の意見の一致」に則り事が進んでいる場合、我々はそれを判断しないで済んでいる。ゲームが円滑に進んでいる場合、我々はそれをいちいち疑問にかけないだろうし、それについて判断をなくしても従うこと(=盲目的反応)ができる。

だが、判断の必要性が生じる時は?

もし、そのゲームの決められたやり方に従わない者がいれば、それは判断の必要性を呼び起こす。つまり、規則の知(盲目的)についての判断は、その否定的な例外により為される。

盲目的な規則の知(意見の一致)があり、その判断がある。だが、判断の必要性はその規則の根拠のなさに由来する、否定性を原理として為される。ここに我々は、フロイトの判断論、否定性、例外、排除の問題を再び見出す。

規則の知とは、判断という意味では例外の規則のことでもある。だが、規則の知における“正誤”と例外の規則による“判断”は、対称的ではない。排除されるのは規則の知にとっては“間違い=誤”だし、だが判断が可能になるのは排除された“例外の規則”からである。

そして、実践という言葉は、そのような盲目的な反応(=繰り返し)についても言われるのだった。その場合の実践は、カントの言葉に即して考えれば「自然概念」への適応ということになる。(この場合、自然の原因と人間の意志は同一レベルに置かれているといえる)


2. つまり、自然史(自然概念)における規則の知とは、例えるなら「赤は赤である」といった類いものでこの規則に従うことが実践とも呼べる。

最初の赤は感覚的であり、二番目の赤は概念でもある。つまり、感覚の個別性(確信)が普遍的な概念(言葉)に包摂されている。(概念の赤は、赤くはないだろう)

概念としての赤は、赤くはない。(もし、炎という言葉を書いて、それで暖を取ろうと思えば、なかなかその人は滑稽ではある)

いずれにせよ、規則の知は“規定的”である。

だが、問題となっているのが、感覚的な確信として赤の微妙なニュアンスだとしたらどうだろうか? その微妙なニュアンスが問題なのに、我々は赤という言葉でその固有性(≒個別性)を“規定的に”包摂し、理解した気になる。

同一性を介して結びつく規定的な判断における自然原因と“実行する”意志。感覚的確信と概念。この知には、盲目的なところがある。その自明性が既に。


3. 美において自然と倫理が“絶対的に”隔てられる。その隔てられた超感性的な領域が、宗教的なものでもある。

だが、その分節化は元は感覚から発したものであって、理知的なものからではない。(理知的なものが行為に結びつくのが、つまり盲目なのだ)

自然概念と自由概念の裂け目。分離の根源はそこに位置する。両者の立法的なアプリオリに対する「超過」。また、これは理性による「乗り越え」や「克服」、あるいは「超克」でもない。

分離とは、元々は宗教的な問題であった——。それは、自然概念と自由概念からのある超過を含んでいる。


4. ウィトゲンシュタインの問題は、言語と世界が対応する写像の論理とその彼岸(事実ではなく価値、即ち倫理的なものや宗教的なもの)に向けられている。

そこに、“語ること sagen”から“示すこと zeigen”への向き変えがある。

命題とは像を持っている。言い換えればそれは、意義があるということに他ならない。つまり、それは語りうる論理である。だとすれば、倫理的な意図とは世界を変化させないだろう。そのような意図は、価値の問題なのであり事実の世界とは対応しないのだから。

だが、逆に倫理的な意図とは世界ではなく、“世界の限界”を変える。倫理的なものの意図や意志。それは世界ではなく、世界の限界への働きかけ(行為)だと見ていい。

意図/意志は語られうるか? それは示されるしかない。だとするなら、私の意図とは私の世界(言語や論理の)の限界を語りえぬものとして示している。だが、これは独我論の一面ではある。そこで問題なのは、ある限界に位置する関連づけられた意図に他ならない。

では、倫理的なものと宗教的なものとは、如何にして峻別されるのか? それはどちらも、自然の領域からはある「超過」を持っている。何故ならそれらは、事実の問題ではなく価値の問題になりうるからだ。ここに人間の「両義性」を見ることはできる。人間は自然にも属するが精神でもある。

自然である人間がある倫理的な意図ないし意志を持ち、世界の限界に働きかける。ここには自然にはない「超過」が働いている。だが同時にそれは、“私の”世界の限界にも位置している。このような“私”が“神”と向き合うところに宗教的なもの(即ち、人間の精神)がある。そう考えれば、ウィトゲンシュタインはキルケゴールに近い立場にいることが分かる。倫理的なものと宗教的なもののあいだにある葛藤、あるいは両義性。

沈黙により示されるしかない神秘。そこでは理性はもう役には立たない。理性の要求に従いそれを解釈し、理解する試みは頓挫する。キルケゴールの場合は、そのような信仰(の葛藤)は、「倫理的なものの目的論的停止」といわれる。それは、理性では到底理解はできないので、神秘として(理性の沈黙として)示される以外にない。


5. 我々は今、カントの判断力の問題からキルケゴールやウィトゲンシュタインに至る倫理的なものと宗教的なものの領域を見ている。だが、それは理性の眼によっては見えることはない。

語りえぬものについては、語りえない(不可能)・語ることができない(不能)だけではない。沈黙“せねばならない”のだ。ここに宗教や神秘を巡る萌芽が既にある。理性の饒舌なお喋り。それを慎むこと。それを知る者は、信仰の何たるかを確信している。


6. 先に、概念としての赤は赤くはないと述べた。

概念としての赤は、「赤」という意味の総体としてあり、それはその言葉の意味作用と意義の両方を持つ。それを、「赤」と呼ぶのは恣意的であり、別に「共産党」という言葉でその色を指してもいい。これは、言語の“述定作用=定義 definition”の側面でもある。

つまり、それは赤以外との連関において赤なのだ。言葉の述定作用においては、その言葉はそれ以外の言葉に依存しているし、それ以外の言葉との関係において初めて意味を持ちうる。

だが、「これを赤と名指す」と言った時の「赤」とは何か? こういう問いの中に既に、語ることと示すことの違いがある。

「これは赤い。」(述定作用=定義)
「これを赤と呼ぶ。」(名辞化=指名)

後者は、名辞化と呼んでいいのかもしれない。これは、象徴化にもある方向があることを示している。仮にこう呼んでおくが、「名辞化=指名 nomination」とは解釈でも説明でもない。語をある概念に包摂しているとも言えない。

君を太郎と呼ぶことは、太郎という概念に君を包摂することとは違うだろう。


7. では次にこう考えてみよう。

ある人が君に、太郎を呼んでこいと命じた(もちろん、そこには君が太郎というある特定の人物を知っているという前提がある)。君はまず太郎を思い浮かべ、その人物を探すだろう。太郎という言葉を聞いて、その言葉を(他の言葉との連関で)解釈するとは考えにくい。

仮に、太郎には瓜二つの兄弟がいたとする(太郎には左の口元にホクロがあるので、その瓜二つの兄弟・二郎と見分けるには、そのホクロが手がかりになる)。その場合、太郎の“現実の”識別には、太郎と二郎という言葉(名)の近接性(概念)には寄らずに、ホクロの有無ということが鍵になる。

もちろん、ここで言いたいのは名にも概念の近接性があるということの他に、名辞化(太郎と呼び名指されていること)はイメージと現実を繋いでいるということでもある。

もし、君が太郎を呼んでこいと言われ、名の概念の近接性に頼るだけなら、君は現実の太郎と二郎(ホクロの有無)は見分けがつかないだろう。論理としてのみ記号や命題を考えてしまえば、君はある現実の識別を見失う。

では、君が無事太郎を見つけ、太郎を連れてきた。その時君は何をしたのか?

太郎には左の口元にホクロがあり、二郎にはない。君は太郎と二郎という言葉(名)を述定化しないで、記号として扱うことができたということではないか?

ある与えられた概念を他の概念に連携しなければいらないとは、奇妙な誘惑に思える。確かに、我々はある言葉を聞くと、それが他の概念と必ず連結すると考えてしまいがちだ。それも「思考」と呼ばれる。そこでは、思考は常に「心的過程」として考えられている。

確かに、媒介項としては「太郎には左の口元にホクロがあり、二郎にはそれがない」ということを解釈しているとも言えなくもない。だが、君は太郎と二郎という名を、概念の連携として扱わず、記号として使用したということはできるだろう。


《思考を「心の働き mental activity」として語るのは誤解を招きやすい。思考は本質的には記号を操作する働きだと言えよう。》——ウィトゲンシュタイン『青色本』(訳書p.20)

《我々は、意識された心の働きを述べることと、心の機構とでも呼べるものについての仮説を述べることの区別をたやすく見過ごしてしまうのである。》ibid., p.95

イロニーへの緒言

2019-05-04 02:21:17 | Note
1. 『イロニーの精神』(ウラディミール・ジャンケレヴィッチ)

■gramma と pneuma

《思考が媒介による遅れをも承認するのは、遠慮しているからではなく、思考自身の命題が良質になるためである。》

gramma が知らないことは、否定の否定が元の肯定とは全く質の異なるような肯定であり、直裁であることよりも迂回を経る方がより大きな効力を持つことの表現の妙味だ。それは、pneuma の身振りですらある。

《……苦悩と不幸とを混同してしまう人たちは、神聖なイロニーの擬装を理解できない人と同じである。》


■美における停止と知性の病気(知性の目標それ自体がその障害物であること)

掴む掴まないのはやはり、当人の問題だろう。掴まない者を助けることは誰もできない。天使すら。

ましてや、他人に余計なお世話をする馬鹿者は尚更。人を助ける必要はなく、自分が助からなければならないのに。掴まない者については、どうしようもならない。天使 l'angolo とは、必要なイロニー l'ironia bisognosa の謂い。

そして、救済とは厳密には、人助けとは無縁だが、現実に対する時間との関わり方においてその都度要請される何かだ。

イロニーは、それが惑わす者を同時に助けようともする。だが、掴む掴まないは惑わされた者の圏内で、イロニカーの側ではない。

だが、惑う者は文字 gramma から霊 pneuma に跳躍するからこそ助かるのであり、再び意味に戻るなら、それは元の木阿弥でしかない。書くことが「目的」にある人は、やはり見せかけに留まらずを得ない。


■分析家がイロニカーなのか、分析家の運命がイロニーなのか?

(運命の十字架があたかもイロニーのように振る舞うこともある。)

あるいは、ソクラテスとキリストの違い。ソクラテスはイロニカーであり、キリストはそうではない。

ソクラテスがエゾテリックであるなら、キリストはミステリックである。それらは、広義にはスキャンダラスでもある。

(こう言うべきかも知れない。片や、理性のイロニーである。片や、運命のイロニーであると。理性のイロニーはペルソナのマスクであり、運命のイロニーはペルソナの十字架のミステリーであると。)

「好ましく、しかも偉大なものは、すべて逆説的である、とフリードリッヒ・シュレーゲルは書いている」という。

いずれにせよ、gramma が pneuma に跳躍するとは、エゾテリックかミステリックかではあり得る。その道は分析家すら分からない。だが、道は目標ではない。道を渡ることそれ自体(つまり、行為)が目標である。

《イロニーは唐草模様である。イロニーのおかげで、同じものはすでに同じではなく、別のものとなり、意識はみずからの伝統に背をむける。》


■レゾン v.s. 身振り

レゾンに対しノンを示すのは、イロニーの身振りなのか? その時、意志はパラドックスとして転倒される。

ある種の才能は、自分の才能を決して見せはしない。それは、最大限の能力を発揮させる為の配慮でもある。だが、見せかけの才能を弄ぶような輩は、半ばでいつも折れてしまう。これも、イロニカルな身振りではある。示さないことにより、かえって示し、また逆もありうる。だが、イロニーは欺瞞(虚偽意識)ではない。欺瞞をやり過ごす術すら、イロニーにはある。

一方で、見せかけの才能が弄ぶのは、虚偽意識においてである。確かに、それにもレゾンは働く。

つまり、イロニーは一段上手でもある。欺瞞の論理を逆手にとり(パラドックスとして呈示し)、その論理をかえって自らの意志として手段化する。

だが、それが何故、犠牲や死としてのドラマを伴うのか?

それが、犠牲のための犠牲ではなく(それは計らずしてより大きな利益を得る)、死のための死ではない(それは、復活する)にも関わらず。

あるいは、この上なく器用な不器用さ。

《キルケゴールによれば、偽善者とは自分を善人にみせようとする悪人であるとすれば、他方イロニストとは自分を悪人にみせかける善人のことであろう。》

「きわめて明白にあらわれた弱さは、すべて力である」——パスカル

《ひとり強者のみが、弱くなる権利をもっている。》

《否定は、判断に対する判断であり、したがって肯定の遠回しな言い方、あるいは迂言法であるゆえに、間接的で副次的なのではないだろうか。否定は肯定することへの羞恥であり、それは、常に突進しようとまちかまえており、絶対的になろうとしているわれわれの生来の独我論的傾向をおさえるエポケー〔判断中止〕である。》

つまり、「ではないかのように」とは、遠回しの「イエス」なのだ。これ見よがしに知者ぶる連中には、注意しよう。

ここでも、虚偽(意識)の連続性に対し、イロニー(的な身振り)の不連続性という問題を、我々は見出す。


2. 精神分析におけるイロニー

「感じる能力のない者に、わからせるなど出来るものではないのである。」——カフカ「断食芸人」

■無意識のイロニーと偶像崇拝

精神分析の概念は、頭で理解するものではないし、それが頭で理解しても全く役には立たない。それは、イロニーを通じて教え導く以外に方策はない。

だから、情熱のない人間、知識で教えようとする人間は実際は教師にはなれない。彼らは不甲斐なさという在り方しか示さない。

例えば、精神分析の解釈はある意味を狙っているわけではないということを承知しつつも、自らの論文作成においては充実した意味を目指している輩もいる。——この不甲斐なさとは一体?

解釈が目指すのは、意味の空虚のはずである。これを別名、「否定性」と呼んでもいい。だが、自らの論文作成術において「享楽の肯定」(あるいは、物質性)のような詭弁に堕する人間がいる。——この不甲斐なさは一体?


■師と弟子

例えば、師が示すものは何か? 弟子は、師に対し、自らの願望や空想により、ある肯定的な概念を付け加え、身勝手な物語をでっち上げ、それに安心し胡座をかく。だが、師が示すのは、自らの「否定性」の根拠以外ではないのだとしたら?

だが、否定性は忘却されるか穴埋めされるかして、様々な偶像とその崇拝が捻出される。

翻って、こう問うこともできる。我々は、仮に師と称する者の教えと導きを「直接的な確実性」の下に把握し、理解することができるのかと。だが、それはただの誘惑でしかなく、その教えや導きを歪めることにならないのかと。

仮に、無意識の「概念」を措定してもいい。それは、主体の内で「イロニー」として再現される以外ではないのだとすれば? そう考えれば、師の教えはある意味では、そのような無意識のあり方に忠実だということにもなる。だが、早急な連中はそれを実体化し、肯定的な外観を与える努力をする。

そう、それも努力ではある。我々は、根拠なきものの根拠のために、努力すらするのだ。それが見る者からすれば、虚しいにも関わらず。

キルケゴールは「イロニーは愛における否定的なもの」という見解を述べている。それは、エロスにとっては“抽象的な規定”と呼べる何かだろう。


■分析におけるイロニーの二重分節

解釈が、言語として構造化されている無意識をイロニー化し、同時に分析家の空虚の場としてもイロニーを導くというべきか? その場合、イロニーは二重化される。方や、反語としての記号的なイロニー。方や、その場として否定性としてしか顕現できないイロニー。〔言葉の身振りとしてのイロニーとソクラテス的な立場としてのイロニー〕

前者の記号的なイロニー、レトリックは無意識における複数のコンテクストを認める立場に主体を置く。だが、後者の否定性のイロニーは、それらコンテクストの成立が実際は根拠がないことを明かす。この揺れ動きこそ、実際の分析の場面において主体を反復的にドラマ化してもいる。

分析における解釈と沈黙。これを二つのイロニー的な分節化と呼んでもいい。(ここではまだ、フモールについては触れない。)

それは、アルカイックなものの符牒でもある。外部から見るなら神秘的にも写る秘密の蝶番。レトリック的なものとソクラテス的なもの。——アルカイック、欲動の太古性。

(結局、論文作成術化—その目的論化—という道はある種のコードに逃げ込んでいる姿なのではないか?

もちろん、イロニーと冷笑は区別されなければならない。イロニーは、単なる皮肉屋の冷笑—その袋小路における躓き—とは全く違う相貌がある。また、イロニーは嘘でもない。イロニーが真に敵にするものこそが、生真面目な連中の嘘である。)


■ラカン的主体の主体化

主体とは、何らかの根拠や理由があって主体になるのではない。もはや根拠や理由がない地平で「決断」することにより主体になる。

その意味では、ラカン的主体こそが主体にならなければならない。こういう逆説は“論理の弄び”とは違う。それは「行為」である。

では、ラカン的主体は如何にして主体になるか? 決断だと先に言った。以前までの考察で、私は既にヒントは出している。宗教的には「向き変え」や「回心」、精神分析的には「退行の作業」、あるいは両者に共通しそうな言葉で言うなら「断続的な覚醒」(連続的な蒙昧化ではない)。

真理とは、客観的な真理のことではない。客観的な真理が“説明”される時、人は主体的な真理が何たるかを忘れ去り、「内面化」がどういう事態であるかも気づかなくなる。実は、フロイトにおいてもこの問題は残されていた。死の欲動が思弁のままなのか、あるいは主体化の真理として(超自我として)内面化されるのかというテーマとして……

ここから、悟性的な認識—理論の問題—と信仰—実践や行為の問題—の関係を問うことは有益だろう。両者は連続などしてはいない。それは、キルケゴールの言葉においては「パラドックス」と呼ばれ、「客観的に不確かなものを無限の情熱をもって選びとる冒険」とも言い換えられる。

(ヘーゲルにおいては、有限精神と無限精神の関係は連続的であり、同質的であるが故に、「直接的」である。キルケゴールの場合は、有限者と無限者との間には“質的差異”がある。)


「信仰のくだす結論は、推論 Schluß ではなくて決断 Entschluß である」——キルケゴール『哲学的断片』


悟性的推論の力では最早把握できないパラドックスを主体的に選び取るところに真理があり、信仰が存在する。それを、ラカン的な“真理のパトス”と呼んでもいい。つまり、ラカンにおける“真理のパトス”は、その「イロニー」や「パラドックス(という冒険や選択)」と不可分である。


3. 実定性と装置

実定性 la positività と装置 il dispositivo は、イロニーの関係にある。

実定性とは、自然現象の有限な〈一〉への外在的な措定(肯定)としてある。それは、未だ内面化されていないという意味においては、根源現象であろうと同じである。

だが、装置 il dis-positivo(否-肯定的なもの)において、それはどのような様態に置かれるのか?(ラテン語の接頭辞 dis- には、「分離」の意もある)

これが、アガンベンにおいては神学的救済論の射程になることは言うまでもない。だが、実定性と装置の問題は、広義には有限のものと無限のものの間のある関係を問いに付してもいる。方や、始まりと終わりがあるもの。方や、永遠に属するもの。(永遠においては、始まりも終わりもないのは明白だろう)

つまり、享楽の肯定性あるいは物質性といってみたところで、それは有限の“人間の”享楽—その現象的な制限—なのだ。だが、それが“神的なもの”と真に向き合った時に、我々は実存の問題に真に導かれ、主体的な立場を再び選び取る。

ここにおいて、我々は現象と本質が、ある差異を伴ったものとして“経験”され、単なる自動的で同一的な反復としての“愚かさ”から自由になる。あるいは、両者のオイコノミア oikonomia の“質的な”差異としての、経験=試練 experimentum の道を通る。

(その意味では、終わりある分析と終わりなき分析の問題は、実存的な要請を絶えず神的なものとの関係において、開いておくことになるだろう。)

「イロニーは否定的なものとしてある道である。真理ではなく道である」——キルケゴール『イロニーの概念』


4. “キルケゴールにとっての”イロニーの道

キルケゴールにおけるイロニーは、彼の実存思想とキリスト教的な問題の両面に渡ってもいる。この二面性を我々は「例外」(聖なるものの犠牲≒死)と「救済」(イメージの理念性)として、アガンベン的テーマに引き寄せて考えることができるかもしれない。

絶対的無限否定としてのイロニーは、主体を例外の立場におき、倫理的段階に導くことを許す。だが、このような倫理的な主体は、法の「犠牲」にもなる。しかし、倫理的な問題の犠牲になる主体は、如何にして贖われ、救済されるのか? イロニーを通じて、倫理的なものと宗教的なものの極限が予見される。ここに我々は、ソクラテスとイエスを顧慮しなければならない。

(イロニーはキルケゴールの位置付けでは正確には、審美的なものと倫理的なものの矛盾を明かすのだった。しかし、“イロニカー=ソクラテス“の立場にとっては、極限では法の犠牲という問題が付き纏う。)

審美的段階、倫理的段階、宗教的段階。——これらも、直線運動のように進展・進歩すると考えてはならないだろう。これらは、ボロメオの結び目のような入り組み方をしているに違いない。


キルケゴールによれば、ソクラテスはイロニーにその身を捧げ、犠牲になった最初の哲学者である。その師のあり方は、審美的な段階にあるエロスの魂に、倫理的なものの覚醒を導くのだった。

だが、ソクラテスは法の犠牲になる。

“絶対的な“無限否定の道。その意味では、ソクラテスとドイツ・ロマン派は、“批判的な”立場としては共通のテーマがある。ソクラテスにおいては、“主体性の運動”が前景にあり、ロマン派においては“理念の客観性”が主体を滅却させることに重要性が置かれる。

犠牲という意味では、このようなイロニーの主体性の運動—ソクラテスの立場—と客観性の優位—ロマン派的にはそれはイデーである—は矛盾していない。実は、キルケゴールはこの両者を“内的に” 折衷させる必要性があったのではないだろうか? それがあたかも、ヘーゲルを論敵にするという外観を呈してはいても。


5. 美のイメージの二極性と信仰上の闘い

美のイメージにおいて既に、倫理的なものと宗教的なものは交叉している。それは、只のイメージではなく、根源のイメージである。分離の根源として機能するイメージは約束、つまり名である。

だから、論理や議論ばかりで名を自らの体系に包摂させることに腐心する連中は、救いようがない。名の機能は本来、言語活動の論理とは別の地平—本来の歴史性、現実の歴史—を開く。

君の名に賭けてとは、神(の名)への誓約に等しい。そういうイメージは、絶対的に否定的である以外にない。そう、歴史は頭の中のイメージ—言うなれば、ポジティヴなイメージ—ではないということに、錯覚の世界の住人は気づかない。そして、その論理で歴史をでっち上げる。

イロニカーの敵は、論理でいつも身の潔白を証明しようとしている。(だが、そのような腐心の裏には既に嘘がある。意図的な嘘が。)

「信仰は証明を必要としない。否、証明を自らの敵とすらみなさなければならない。」——キルケゴール『後書』