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何が残るのか? Che cosa resta?

2018-01-20 19:14:33 | Agamben アガンベン
Che cosa resta?

1.
《私は未来において不信を抱いているので、過去に向かってのみ計画を立てる》。Flaiano—その台詞が極めて真剣に取られるべきである文筆家—のこのフレーズは、省察する価値のある一つの真理を含む。(危機としての)未来は事実今日、権力の諸装置の最も主要で実効的なものの一つである。威嚇的なおぞましいこと(貧困化と終末論的カタストロフィ)として、または(うんざりさせる進歩主義にあるよう)輝く将来として、それが動揺させられるように、いずれにしても、私たちがただそれについての私たちの諸行動と私たちの諸思考を導く理念を通過させることが問題である。つまり、何が私たちに過去を放置させるのだろう。その過去は取り替えられることができなく、またしたがって役には立たない—あるいは、せいぜい博物館に保存すべき—そして、現在にある時はいつも、それについてただどれだけ未来を準備することに役立つかという程度で私たちは関心がある。次のこと以上に間違いはない:私たちが何らかの確実さを伴い所有し、知ることのできる唯一のことは過去であり、ところが一方、現在は定義的には掴むことが難しく、また(存在しない)未来はどのいかさま師によっても完全にでっち上げられうる。公的領域において同様、私的な生においても、私たちに未来を提供する者をあなた方は信用しない〔警戒する〕。この者は殆どいつも私たちを罠に嵌め、あるいは私たちを欺く。Ivan Illich は、《何かがあることまた何かがあったことを考えようと私が努めることを経由する諸概念を、未来の影の上に基づかせることを私は決して許さないだろう》と書いた。また、Benjamin は記憶 il ricordo(それは不動のアーカイヴとしての追憶 la memoria とは異なる何かである)の中で、私たちが過去の上に実際に作用し、私たちはそれを何らかの仕方で新たに可能にすると述べた。Flaiano はそうして、私たちに過去の上に計画を立てることを示唆することで、理があった。唯一、過去についての考古学的探求のみが私たちを現在に近づくことを可能にし、反対に、ただ未来に向けられた眼差しは、私たちの過去と共に、私たちから現在をも奪う。


2.
ある薬局に入り、緊急に必要な薬を尋ねることをあなた方は想像する。薬剤師があなた方に、あの薬が三ヶ月前に作られ、したがって利用可能ではないと返答するとしたら、あなた方はどうするだろう? 正に、書店に入りながら今日生じることである。本屋市場は今日、その中で流通が本が書店において最も少なく可能(時に一ヶ月以下)に維持することを要求する一つの Assurdistan [Absurdistan(*)] になった。結果として、同じ編集者がそれらの販売を—もしそれらがあれば—短い期限で取り尽くすべき本をプログラムし、その期間内に続くことができるカタログを構成することを断念する。このため、私—良き読者がいると純粋に信じる—は、ある書店に入りながらいつも、より居心地の悪さを覚える。(もちろん例外はある)陳列台がただ新刊のみにより占められている場所と私が根本的に必要だった薬(つまり本)を見つけることがいつも、より稀にできる場所。もし、本屋と編集者がこのシステムに反抗しないなら、大きな配給業者たちにより課せられたかなりの部分で、本屋が消え失せることは驚くに値しないだろう。これらがそのままなら、私たちは嘆くことさえできない。

(*)訳注…Absutdistan:(informal) Any country where absurdity is the norm, especially in its public authorities and government.


3.
Nicola Chiaromonte はかつて、私たちが私たちの生を考察する時の根本的な問いは、かつて何を持ったかまたは持たなかった以外ではなく、だがそれから何が残るのかと書いた。ある生に何が残るのか—しかしまた、そして始めにも—私たちの世界に何が残るのか、人間に、詩に、芸術に、宗教に、政治に何が残るのか? 今日、このような緊急のこれらのリアリティに関与することに慣れたこれら全てのことは姿を消しつつあり、あるいはいずれにせよ見分けがつなかくなるまで姿を変えつつある。《そこで生まれ育ったドイツのあなたにとって何が残るのか?》と彼女に尋ねたインタビュアーに、Hannah Arendt は《言語 la lingua が残る》と返答する。しかし、残りのものとしての言語(それについての表現だった世界に生き残る言語)とは何か? また、そこにただ言語が残るなら、そこに何が残るのか? 言うべきことをもはや何も持たないかのように見える、また、しかしながら、執拗に残り抵抗し、そこから私たちが私たちを分離できない言語? それは詩である、と答えよう。実際、もし一つずつ伝わりやすく情報を提供する通常の諸機能が不活性化にされた後に、言語について残ることでないなら、詩とは何だろう? Ingeborg Bachmann が私にかつて、肉屋に行き、そして彼〔肉屋〕に《私に薄切り肉1キロを下さい》と尋ねることはできなかったと言ったことを覚えている。詩の言語はより純粋な言語であり、それが私たちが肉屋で使う言語の、あるいは他の人たちにとって日常の諸用法の言語の彼岸に見つかると彼が言いたかったと私は思わない。むしろ詩の言語は、残り、そして各々のペテン〔陰謀〕また各々の腐敗〔退廃〕に抵抗する破壊できないもの、SMS や tweet でそれを使う用法の後にも残る言語、誰かが人間は限りなく破壊されうる破壊不可能なもの l'indistruttibile であると書いた通り、限りなく破壊されうるが、しかしながら留まる言語であると私は思う。この残る言語、この詩の言語—哲学の言語でもある、と私は信じる—は、言語の中での、言わない non dice こと、しかし呼びかける chiama ことに関係がある。つまり、名を伴う。詩と思考は名の方へ言語を横切り、言語のそのエレメントの名は語らず、知らせない。それは何かについて何かを言わず、しかし名指し、そして呼びかける。Italo Calvino が彼の《精神的証言 testamento spirituale》として捧げるのが常であったある短いテクストは、切断され殆ど息を切らしているフレーズの一連でもって終わる。《記憶のテーマ—失われた記憶—保存することと失われた失うこと—持たれなかったこと—遅れて持たれたこと—私たちに後ろにもたらされること—私たちに属さないこと…》。詩の言語、残り呼びかける言語は、当に失われたことを呼びかけると私は思う。集団の生同様に個人の生においても、失われた諸物(最も最後の消費、毎日私たちが忘れる知覚できない出来事)は、どのアーカイヴそしてどの記憶もそれらを含むことはできないように破壊されることを、あなた方は知っている。残るそれ、破壊から私たちが救う言語と生のその部分は、ただもし親しく失われたことに関係するなら、もしそのことのために何らかの様態にあるなら、もし名によってそれを呼び、そしてその名において応えるなら、意味を持つ。詩の言語、残る言語は失われたことに呼びかける所以、親しく大切であるとわかる。失われていること故に、神に属する。


これらのノートは、2017年5月20日・トリノの il Salone del libro〔本の展覧会〕への参加の傍らに刊行する。

Giorgio Agamben
2017年6月13日
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