「症状-身体」
真理との諸関係における症状と、隠喩〔メタファー〕の形態における症状に取り組んだ後、ラカンは、身体によって分節する症状のある定義を提出する。症状は、一つの“身体の出来事 evento di corpo”である (1)。身体に組み込まれる症状は、ラカンにおいて新しい示唆でない。それは、彼の教えの最初から出てきている。テクスト「パロールとランガージュの機能と領野」に戻るのは適切であり、そのテクストの中で、ある点では症状は既に肉の砂 (2)の上に記入することとして位置づけられていて、また別の点では神経症のヒステリー的核として、またそれゆえにそれぞれの症状に固有な身体におけるある登記として導入される。このように、(当時から)現在の中の過去に関する主体的再生産として考えらる出来事の概念の練り上げは、確実にうかがい知れる。しかし更に、ある別のパースペクティヴは1953年から構想されており、その中でラカンの公式“細い身体、されど身体 corpo sottile, ma corpo”によって、概念化されている。何が要するに、身体における登記 iscrizione として定義された症状と、(20年以上後の)身体の出来事 evento として定義された症状の間で、変化するのか? 欲動的固着としての、そして代理的満足としての症状のフロイト的着想と、無意識の享楽の様式としての、ラカンの症状の着想との間に、ある変更がある。私たちは、賭け金はただ学識〔教義〕上なだけではなく、主に分析の中で症状になることに関係することに注目する。実際、身体の出来事としての症状の公式化は、ある修辞学上の精巧さ以外はよく示さない。ラカンの初期のアイディアが、症状は身体の中に書かれているということだったにもかかわらず(このことは「パロールとランガージュの機能と領野」の時代に関係する)、それは引き出し、解放するためのパロールと、それの登記が“散漫であり得る può essere distrutto” (3)ことを検討していた。ラカンはこのように(この時期に)、初期のフロイトの治療学上の楽観視を手直ししていた。
さて、身体の出来事としての症状が規定することを把握するため、セミネール «Les non-dupes errent» (4)に言及する必要がある。その中でラカンは、もしある言うこと dire のためでないなら出来事はないと強調する。この新しい出来事の概念は、この終着点が象徴的なもの〔象徴界〕に関するある解釈ではもはやなく、しかしある現実的なもの〔現実界〕の印(従って解読の彼岸を記入することとしての)であることを仮定する。ラカンがランガージュを“細い身体 corpo sottile”として提示した時期に、主体と身体の間の断絶も据えていたことも指摘する必要がある。実際、主体の定義は無意識における諸シニフィアンの連鎖を含意しているが、身体は含意しない。そして、もはや身体の享楽を仲介〔通過〕する存在を明示するのは、ラカンに話す存在 parlessere のコンセプトを導入することをもたらす、シニフィアンと享楽の間のある結合を通過する構造的必然性である。
しかしどんなことにおいて、“心が困惑する思考 pensiero di cui l'anima si imbarazza” (5)に関する強迫症的症状の身体の出来事があるかという知の疑問は設定できるだろう。それは、思考は享楽であり、そしてもしある身体を持つのでないなら、享楽しないという事実のためである。
ローマの会合 Rendez-vous はしたがって、確かにディスクールの一つの臨床であり、しかしその目的は享楽する物質の様式化である、精神分析的臨床の試金石を置くことになるだろう。ラカンはおそらく、“現実的なものの装置が現実的なものを扱う dispositivo il cui reale tocca il reale”ように精神分析を示していたのではないでしょう? (6) その核心で、時折、一つの分析の入口と終わりで、身体の現象 fenomeni di corpo と身体の出来事 eventi di corpo の間を識別することが問題であろうために。最初のものは、ヒポコンデリー〔心気症〕において、あるいはその本質において無言であろう一つの身体を再び目覚めさせながら、心身症的現象についての表出を見いだす。二つ目のものは、身体におけるシニフィアンの導入(つまり消せない痕跡)と、身体の謎と享楽により為しうることに関与するある解決についての単独性(それぞれの分析主体に固有な)を吟味する。
Luis Izcovich, 31 Gennaio 2010
Il « mistero del corpo parlante »
真理との諸関係における症状と、隠喩〔メタファー〕の形態における症状に取り組んだ後、ラカンは、身体によって分節する症状のある定義を提出する。症状は、一つの“身体の出来事 evento di corpo”である (1)。身体に組み込まれる症状は、ラカンにおいて新しい示唆でない。それは、彼の教えの最初から出てきている。テクスト「パロールとランガージュの機能と領野」に戻るのは適切であり、そのテクストの中で、ある点では症状は既に肉の砂 (2)の上に記入することとして位置づけられていて、また別の点では神経症のヒステリー的核として、またそれゆえにそれぞれの症状に固有な身体におけるある登記として導入される。このように、(当時から)現在の中の過去に関する主体的再生産として考えらる出来事の概念の練り上げは、確実にうかがい知れる。しかし更に、ある別のパースペクティヴは1953年から構想されており、その中でラカンの公式“細い身体、されど身体 corpo sottile, ma corpo”によって、概念化されている。何が要するに、身体における登記 iscrizione として定義された症状と、(20年以上後の)身体の出来事 evento として定義された症状の間で、変化するのか? 欲動的固着としての、そして代理的満足としての症状のフロイト的着想と、無意識の享楽の様式としての、ラカンの症状の着想との間に、ある変更がある。私たちは、賭け金はただ学識〔教義〕上なだけではなく、主に分析の中で症状になることに関係することに注目する。実際、身体の出来事としての症状の公式化は、ある修辞学上の精巧さ以外はよく示さない。ラカンの初期のアイディアが、症状は身体の中に書かれているということだったにもかかわらず(このことは「パロールとランガージュの機能と領野」の時代に関係する)、それは引き出し、解放するためのパロールと、それの登記が“散漫であり得る può essere distrutto” (3)ことを検討していた。ラカンはこのように(この時期に)、初期のフロイトの治療学上の楽観視を手直ししていた。
さて、身体の出来事としての症状が規定することを把握するため、セミネール «Les non-dupes errent» (4)に言及する必要がある。その中でラカンは、もしある言うこと dire のためでないなら出来事はないと強調する。この新しい出来事の概念は、この終着点が象徴的なもの〔象徴界〕に関するある解釈ではもはやなく、しかしある現実的なもの〔現実界〕の印(従って解読の彼岸を記入することとしての)であることを仮定する。ラカンがランガージュを“細い身体 corpo sottile”として提示した時期に、主体と身体の間の断絶も据えていたことも指摘する必要がある。実際、主体の定義は無意識における諸シニフィアンの連鎖を含意しているが、身体は含意しない。そして、もはや身体の享楽を仲介〔通過〕する存在を明示するのは、ラカンに話す存在 parlessere のコンセプトを導入することをもたらす、シニフィアンと享楽の間のある結合を通過する構造的必然性である。
しかしどんなことにおいて、“心が困惑する思考 pensiero di cui l'anima si imbarazza” (5)に関する強迫症的症状の身体の出来事があるかという知の疑問は設定できるだろう。それは、思考は享楽であり、そしてもしある身体を持つのでないなら、享楽しないという事実のためである。
ローマの会合 Rendez-vous はしたがって、確かにディスクールの一つの臨床であり、しかしその目的は享楽する物質の様式化である、精神分析的臨床の試金石を置くことになるだろう。ラカンはおそらく、“現実的なものの装置が現実的なものを扱う dispositivo il cui reale tocca il reale”ように精神分析を示していたのではないでしょう? (6) その核心で、時折、一つの分析の入口と終わりで、身体の現象 fenomeni di corpo と身体の出来事 eventi di corpo の間を識別することが問題であろうために。最初のものは、ヒポコンデリー〔心気症〕において、あるいはその本質において無言であろう一つの身体を再び目覚めさせながら、心身症的現象についての表出を見いだす。二つ目のものは、身体におけるシニフィアンの導入(つまり消せない痕跡)と、身体の謎と享楽により為しうることに関与するある解決についての単独性(それぞれの分析主体に固有な)を吟味する。
Luis Izcovich, 31 Gennaio 2010
Il « mistero del corpo parlante »