ACEPHALE archive 3.X

per l/a psicoanalisi

Il corpo sintomo

2016-07-31 22:00:25 | 試訳
「症状-身体」

真理との諸関係における症状と、隠喩〔メタファー〕の形態における症状に取り組んだ後、ラカンは、身体によって分節する症状のある定義を提出する。症状は、一つの“身体の出来事 evento di corpo”である (1)。身体に組み込まれる症状は、ラカンにおいて新しい示唆でない。それは、彼の教えの最初から出てきている。テクスト「パロールとランガージュの機能と領野」に戻るのは適切であり、そのテクストの中で、ある点では症状は既に肉の砂 (2)の上に記入することとして位置づけられていて、また別の点では神経症のヒステリー的核として、またそれゆえにそれぞれの症状に固有な身体におけるある登記として導入される。このように、(当時から)現在の中の過去に関する主体的再生産として考えらる出来事の概念の練り上げは、確実にうかがい知れる。しかし更に、ある別のパースペクティヴは1953年から構想されており、その中でラカンの公式“細い身体、されど身体 corpo sottile, ma corpo”によって、概念化されている。何が要するに、身体における登記 iscrizione として定義された症状と、(20年以上後の)身体の出来事 evento として定義された症状の間で、変化するのか? 欲動的固着としての、そして代理的満足としての症状のフロイト的着想と、無意識の享楽の様式としての、ラカンの症状の着想との間に、ある変更がある。私たちは、賭け金はただ学識〔教義〕上なだけではなく、主に分析の中で症状になることに関係することに注目する。実際、身体の出来事としての症状の公式化は、ある修辞学上の精巧さ以外はよく示さない。ラカンの初期のアイディアが、症状は身体の中に書かれているということだったにもかかわらず(このことは「パロールとランガージュの機能と領野」の時代に関係する)、それは引き出し、解放するためのパロールと、それの登記が“散漫であり得る può essere distrutto” (3)ことを検討していた。ラカンはこのように(この時期に)、初期のフロイトの治療学上の楽観視を手直ししていた。

さて、身体の出来事としての症状が規定することを把握するため、セミネール «Les non-dupes errent» (4)に言及する必要がある。その中でラカンは、もしある言うこと dire のためでないなら出来事はないと強調する。この新しい出来事の概念は、この終着点が象徴的なもの〔象徴界〕に関するある解釈ではもはやなく、しかしある現実的なもの〔現実界〕の印(従って解読の彼岸を記入することとしての)であることを仮定する。ラカンがランガージュを“細い身体 corpo sottile”として提示した時期に、主体と身体の間の断絶も据えていたことも指摘する必要がある。実際、主体の定義は無意識における諸シニフィアンの連鎖を含意しているが、身体は含意しない。そして、もはや身体の享楽を仲介〔通過〕する存在を明示するのは、ラカンに話す存在 parlessere のコンセプトを導入することをもたらす、シニフィアンと享楽の間のある結合を通過する構造的必然性である。

しかしどんなことにおいて、“心が困惑する思考 pensiero di cui l'anima si imbarazza” (5)に関する強迫症的症状の身体の出来事があるかという知の疑問は設定できるだろう。それは、思考は享楽であり、そしてもしある身体を持つのでないなら、享楽しないという事実のためである。

ローマの会合 Rendez-vous はしたがって、確かにディスクールの一つの臨床であり、しかしその目的は享楽する物質の様式化である、精神分析的臨床の試金石を置くことになるだろう。ラカンはおそらく、“現実的なものの装置が現実的なものを扱う dispositivo il cui reale tocca il reale”ように精神分析を示していたのではないでしょう? (6) その核心で、時折、一つの分析の入口と終わりで、身体の現象 fenomeni di corpo と身体の出来事 eventi di corpo の間を識別することが問題であろうために。最初のものは、ヒポコンデリー〔心気症〕において、あるいはその本質において無言であろう一つの身体を再び目覚めさせながら、心身症的現象についての表出を見いだす。二つ目のものは、身体におけるシニフィアンの導入(つまり消せない痕跡)と、身体の謎と享楽により為しうることに関与するある解決についての単独性(それぞれの分析主体に固有な)を吟味する。

Luis Izcovich, 31 Gennaio 2010

Il « mistero del corpo parlante »

Il sintomo analitico

2016-07-29 21:00:33 | 試訳
「分析的症状」

症状は、精神分析への接近の扉である。その精神分析は目標と限界として言葉を通して(話す存在の肉と精神の中で噛みつく苦しみに関する)症状を扱う事実を持っている。勿論、パロールが大きな影響を持つことを知るため精神分析の必要があったのではない。宗教、魔術、そして最後に到来した現代科学は、言葉 parole、儀式 pratiche、祭式 riti や公式 formula でもって現実性〔リアリティ〕の上に大きな影響を与えることが出来ることを示している。医学は、特に、最初からずっとパロールが治療することを知っている。

私たちは、もやは医者にではなく、まず最初にそれに苦しむ人に「話す」症状を、分析的と呼ぶ。まだ一人の精神分析家に尋ねる以前に、人間存在は、症状が彼が耐える苦しみの向こう側に何かの印 segno を彼になしていることを捉え、このように人は概して、(真か偽かである)一つの前-解釈 una pre-interpretazione を与える。彼は、未知のシニフィエからのあるメッセージの尺度でそれを読もうとする。

しかし、それを正確に読み、解釈するために、分析的症状は無意識のシニフィアン連載の発動を要求する。その場所で、それは主体のメタファーとして、つまりその特権的シニフィアンとして現れる。分析的経験において症状は、転移の下で行われる解釈によって、屈折し、移動し、相互作用を及ぼす傾向がある。

症状と解釈はこのように、同じシニフィアンの布地 stoffa significante でできていることを示す。しかしこの包み involucro でできた、(この布地の向こう側にある)症状は、パロール続いて象徴的なもの〔象徴界〕の秩序によって捕獲されるがままになることに根本的に抵抗力のある一つの核 un nucleo により構成されている。

ラカンは、この象徴化が不可能なことを享楽と呼ぶ。実際、主体がなしで済ますことのできない、(ある種の快楽とともにわき出る)不快な思いが問題である。ただ一つの分析の経過においてのみ、主体は通常はそれに付随するより不快な思い無しで、この享楽の亡骸の周りに置かれることができるだろう。その機能の更新された使用法によって、(イタリアでも1600年代に流行った)古代の書記法に遡りつつ、ラカンはサントーム sinthomo という用語でもって症状を名付ける。

Antonio Di Ciaccia

Che cos'è la psicoanalisi?

2016-07-27 20:00:53 | 試訳
「精神分析とは何か?」

主体的経験としての精神分析は、賭かっている現実的なもの〔現実界〕、つまり主体を苦しめさせ症状の形態の下に現れるその奇妙な享楽を、パロールを通じて境界〔限界〕を画定しようとするための、無意識のシニフィアン連鎖の発動である。主体に分析を受けることを可能にする手段は、フロイトが規定していたように自由連想、すなわち基本的規則、それがどんなに難しく、不適当で、あるいは全く意味がなくても、精神を通過するどのような物事も言うこと、である。一方でこれは、自由なあるディスクールにおいて、分析主体のパロールがより言いたくない事柄を言うことを許し、また主体が患う症状と彼のパロールの間の奇妙な繋がりを明るみに置く。全てこのことは、シニフィアン連鎖の網の目に捕獲された、無意識の幻想の論理、すなわち症状の結晶化の起源にあった、そしてしばしば人格の生を指揮し続けるその無意識的組織化の問題の本質が解明されることができることを許す。

他方、自由連想は分析家についての転移の設立と強化を容易にする。精神分析家の任務は治療を指揮〔指導〕する dirigere la cura それであり、もはやいくつかの助言〔アドバイス〕 を与える dare dei consigli それ、または患者を管理〔監督〕する dirigere il paziente それではない。治療を指揮〔指導〕することとは、浮かび上がらせ、容易にし、いかなる障害物も置かず、分析主体のディスクールの句読法として解釈を用いることを意味する。分析的経験の経過の中で無意識の幻想の論理をパロールの元に置かせ、それが持つ主体の症候学に関する母体〔母型〕の機能を、彼自身知覚するために。

これを為すため、分析家は患者の無意識から導かれていること、知の想定された主体 il soggetto-supposto-sapere の衣服をまとうことを受け入れること(治療の論理のためだけにこの機能を用い、外ではしない、また決して乱用しない条件で)、もう他の主体 un altro soggetto としてではなく、あるいは超自我 un superio または彼の理想 un suo ideale としてではなく、しかし質素に(また辛うじて)彼の対象 un suo oggetto として、分析主体のパートナーになることを承認することが必要である。

対象、そう。しかし、もし幻想の論理の中で無意識の欲望に起因し、ラカンが小文字の対象a (oggetto a piccolo) と呼ぶその前性器的対象(眼差しや声として)の衣服をまとうことが出来るだろうなら、その役割は達せられるでしょう。

Antonio Di Ciaccia

L'inconscio

2016-07-26 19:00:14 | 試訳
「無意識」

ラカンの無意識は、フロイトのそれである。神秘的、または口では言えないような何かではなく、私たちがまだ知らないが、いつの日かより深い意識の把握によって、あるいは神経科学の方法によって知る何かのように理解されるべきでもない。無意識は、抑圧された経験(ある時の現実的または想像的な情動、甦らせるべきトラウマ的経験、また精神療法を通じて再びすくい上げられるそれ)を含むであろうある袋 (un sacco) のようなものではない。
全てのこれらの事柄は、袋の中にではなく(ある主体が話す時に現れる)彼が言うことにおける表面にある。例えば、ある名前の失念において、あるパロールの揺らめきにおいて、言い間違いまたはディスクールの切断において。その中で突然、フロイトが無意識の欲望と同じように見なしたある思いつき(ある驚き)のような何かが湧き上がる。

私たちがそれらの形成物(つまり、夢、言い間違い、失策行為など)を知るのは、無意識である。それらの形成物はある網の目の諸要素として提示される。(私たちがシニフィアンと呼ぶ)これらの要素は、繰り返し、回帰し、互いに交差し、相交わり、(日常の生活の中でも明白あるいは発見可能であるにもかかわらず)精神分析的経験の経過において操作的道具になる。何故ならそれらは、(主体が苦しめられる症状において)主体が言わんとする vuol dire ことと彼が実際に言うことの差〔開き〕の中で、どこに奇妙な享楽を、暗い彼自身に(しばしば彼はそれについて恥じ、いずれにしてもそれについて何も知ろうとしない)宿しているのかを明らかにするからである。

ここからラカンは、無意識はある象徴的構造であり、想像的容器ではないことを演繹する。これが彼のアフォリズム「無意識はランガージュのように構造化されている l'inconscio è strutturato come un linguaggio」の意味である。

Antonio Di Ciaccia

La formazione analitica

2016-07-20 18:00:48 | 試訳
「分析的養成」

ラカンによれば、精神分析家の養成における留意すべきアスペクトは二つである。一つ目は、精神分析家になることに関わり、二つ目は精神分析家の知に関わる。

最初のアスペクトは、絶対的に無視できない。人はただ主体に一つの個人精神分析 una psicoanalisi personale をもたらす養成 la formazione を通じて精神分析家になる。その個人精神分析は、フロイト的モデル、しかしラカンにより明るみにだされた論理に従いながら発展する。言い換えるなら、精神分析家の訓練の候補者は、まず初めに、一人の精神分析家のもとで導かれた固有の個人分析 la propria analisi personale を通じて、続いてまた、彼の分析の終わりに付随し、また、他の精神分析家たちのもとでの固有の精神分析的実践の様々な検査でもって、修練を積む。ラカンは、そうは言ってもやはり、彼を義務〔強制〕的にすることなく、彼がパス la passe と呼んだ装置で無意識の知として取得した事柄を伝達する決心をしつつ、分析された者、もはや精神分析家になった者の主体的身分の確認に関する最新の装置を規定した。

第二のアスペクトは精神分析家が持つべき知に関与する。個人分析において固有の主体的身分〔ポジション〕の練り上げを通じて知として取得したことに加えて、無意識でありつつ、意識や知識を常に逃れるこの知を明確にするため、彼に光をもたらすことのできるように、一人の精神分析家は、全ての人間的な知を問いただすことができるべきである。フロイト自身、精神分析家は多くの教義に精通しているべきと考えていたし、それはただ心理学、医学、または精神医学の領域に関係するだけではなく、文学あるいは民族学のような他の分野においてもである。ラカンは、哲学や神学だけでなく言語学、数理論理学、トポロジー(これらは他のどの教義よりも無意識の機能化についての正確な指示を提供する)を含みながら、この信条を急進化させ、研究すべき知の活動分野を拡大した。

ラカンによる精神分析的養成は、分析的セッティングに留意することに関するポストフロイディアンのそれとは違う。ポストフロイディアンのセッティングは、一つの固定したスタンダードにしがみつく。ラカン派のセッティング(例えば、セッションの時間が可変的である)は為されない。ラカン派のセッティングはしかし、ラカンが精神分析の倫理と呼んだことに一致している、無意識の論理から演繹される幾つかの定められ原則に関係する。

Antonio Di Ciaccia

Restare allievi dell'inconscio

2016-07-17 03:29:44 | 試訳
〔翻訳者より━━以下に部分的に訳出した文章は、イタリアのあるラカン派IPOL (L'Istituto Psicoanalitico di Orientamento Lacaniano) のものから借用した。精神分析の知は、単にそれについて書かれたテクスト読解ではないこと、パロールの経験、個人分析と密接に関わりあった知であることが示されている。とりわけ、日本では始めにテクストありき、本に書かれているものありきという間違った輸入のされ方が横行している。これは、紹介している人間自らが分析経験をしていない、あるいはしているとしても、受け直すことをしないという問題も含んでいるように思われる。精神分析においては、アプリオリに与えられた知からは始めることは出来ない、それ自体すでに、自我の中心性や意識の明証性を前提にしているという至極当然のことが見過ごされている。〕


«Paradossalmente l'accesso al sapere analitico richiede all'allievo di sospendere, ma soltanto momentaneamente, il sapere acquisito nello studio dei testi, per aprirsi alla lettura del proprio testo inconscio; al tempo stesso all'allievo occorrerà una formazione molto rigorosa dei concetti e dei principi in gioco nel sapere analitico per formalizzare il sapere estratto dalla sua personale esperienza e renderlo trasmissibile.»

「逆説的に、分析的知への接近は弟子〔見習い〕に、一時的にだけではあるが、無意識の固有のテクストに彼を開くために、テクストの研究において取得された知を宙吊りにすることを要求する。同時に弟子〔見習い〕には、彼の個人的経験から引き出された知を形式化するため、またそれを伝達可能にするために、分析的知に係わる幾つかの概念と原則についての非常に厳格な形成〔養成〕を要するだろう。」



«Si resta allievi dell'inconscio in quanto vi è un resto reale che insiste e che, volenti o nolenti, continua la sua attività causativa dell'inconscio al di là della sua decifrazione e degli effetti terapeutici. In questo senso, proprio perchè l'io non può farsi padrone o possessore del sapere dell'inconscio, non resta che rimettersi ogni volta, pur con modalità differenti a seconda del tempo logico della propria formazione, al lavoro analizzante. Dal lato del sapere inconscio si è e si resta, dunque, sempre allievi.»

「執拗に繰り返す、そして好むか好まざるか、解読と治療的効果の彼岸にある無意識の原因的な活動を続ける現実的な残余がそこにある限りにおいて、無意識の弟子〔見習い〕たちは存続する。この意味で、まさに〈私〉は無意識の知の主人、または所有者にはなり得ないので、毎回、ただ適切な形成〔養成〕の論理的時間に従った異なる様式により、彼ら〔弟子、見習いたち〕は分析〔主体〕的作業へ送られる以外はない。無意識の知のその側面に、それは存在し残る、つまるところ、弟子〔見習い〕たちは。」


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