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per l/a psicoanalisi

肯定的な哲学のために Per una filosofia affermativa

2024-04-19 02:02:51 | 試訳

★以下の小記事は、イタリアの著名な文化批評サイト Doppiozero〔ドッピオゼーロ〕に掲載されたものからの訳出である。

Michele Pavan

2019年8月23日

 

Roberto Esposito が『政治と否定——肯定的な哲学のために Politica e negazione. Per una filosofia affermativa』において展開する省察は、無活動 inoperosità、非の潜勢力 potenza-di-non、非構成化する力 potenza destituente (否定の倫理-政治的含意についての Paolo Virno のそれや、聖パウロにおける抑止する力 potere che frena の否定的カテゴリーについての Massimo Cacciari のそれ)の概念の周囲の Giorgio Agamben の省察を包含する、現代のイタリア的思考の内部に位置する。しかしながら Esposito は“免疫化 immunizzazione”(それは排除することよりも“対立の力を無効化するため、排除を意図することの部分を含む”否定性のエンブレムである)の概念における彼の提言についての特殊性と重要性に合流しつつ、否定性のパラダイムの排除的な特性を緩和する試み—そして、壊滅的な限界—への更なる貢献を付加する。

『政治と否定』の理論的成果は、初めの二つの章の中で Esposito により導かれた歴史-批判的作業なしでは、いずれにしても思考可能ではないだろう。古代ギリシャから十九世紀初めまでの哲学と政治学の内的な絡み合いは、密かにそれを通る否定的登記から再読される。特に、何か—ある存在、ある対象、あるカテゴリー—を、同時にその反対を否定することなしに定義する、典型的に西洋的な不能性が明るみに出される。この不能性はいくつかの近代的な政治カテゴリーの形成を条件づけた固有のものであった。不-必要や非-強制としての“自由”、善それ自体の所有へのあらゆる他の要求の不在としての“固有性”、国家の法からの非-依存の状態としての“主権”、固有な内部へと位置づけられた他の実体—大衆、群衆、多数者—とのコントラストの効果としての“人民”。この同様の不能性は、すでに別の世紀の当初に、政治的カテゴリー、別名ポリス polis の否定的価値—排除する以上の—を印づけた。アリストテレス的意義においては実際、このことは“一方では現前のモデルのアスペクトを引き受け”(たんに“生きること”と対比された“よく生きること”のモデルももちろん)、他方では(またそのことの徳において)“それに合致した行動をとらないすべての人々を締め出す”。

政治と否定の共属 coappartenenza はこのように二つのモードで歴史的に表出される装置 dispositivo の特徴〔外観〕を定義する。一つは政治的なものの否定的な傾斜において、もう一つは否定性の政治化のプロセスにおいて。もし最初の分析が政治的なものの諸カテゴリーの中で否定性を明確にすることを含意するなら、第二の分析は、それが(否定されるところのものの締め出しに向かう)“言語学的規則から論理学的規則へ、そして存在論的、最後には遂行的な規則へと”完遂する移行を示す。

分析のこの最後の斜面の上で、用語上の異なった諸領域によって十九世紀最初の哲学は Esposito にとって、特に寓意的な歴史に関する通路を表象する。否定性の政治化は Saussure の言語学的構造主義—言語 linguaggio を構成する諸要素の否定的、相対的、そして対立的特性に基礎づけられた—同様に、Freud の精神分析的理論(そこでは否定性は主体が肯定〔断定〕的な形では表現できないことの抑圧の媒介であるだろう)に根をおろす。それはあらゆる様式で、一連の過程〔訴訟〕のメタ政治学的諸効果がより明らかな手法により追跡される Carl Schmitt の思考の中においてである。ドイツの哲学と法学にとって、“omnis determinatio est negatio” の論理は政治的主体の規則を定義する。ここから、現行の秩序の存続を否定できることとしてだけかくある“主権者 sovrano”の理念が立ち上がる。政治的主体は排除(“内部の敵”の追放の布石)と壊滅(他の国家に対する戦争)の明白な形態において否定性を行使する。

Aristotele から Schmitt に至る、理論的観点からの否定的なものの強化は、自動的に(行為)遂行的観点からの排除する諸慣例の作動を招く。Esposito のアイデアはそこでこのような〔排除的な〕結びつきを、それらの解釈の多くの手から逃れたある否定性の繋がりを、排除的ではない意味で再び結びつけることにより断ち切ることである。Macchiaveli、Spinoza、Kant、Nietzsche、Deleuze、そして Foucault を繋ぐ原初的な赤い糸 l’originale “fil rouge” に戻ることで、イタリアの哲学者は否定性の概念のあるオルタナティブなアプローチの可能性を垣間見させる。これらの思想家たちの議論にしたがうなら、否定することは単に何かを排除することをもはや意味しないだろう、がしかし相互的な交換と混交をなしたある関連的な力学において差異を肯定〔断言〕することである。差異がそれ自体の上で肯定的な affermativa.または“肯定〔断定〕 l’affermazione”と両立可能な方向において排除的な姿勢を転換するまで自らを曲げることで、限定 determinazione と反対 opposizione は否定のカテゴリーを再考することにより、また、ポジティブな地平においてそれを含むことを証明することにより、根本的な座標に変わる。

ドゥルーズ的差異はここで分散が包含の原則として作用する視点において、差異が分離するというよりむしろ諸差異を交通させる瞬間に、決定的な役割を演じる。自体性は要するに限定 determinazione のカテゴリーとして重要である。この場合、Esposito の哲学の歴史への回帰は Spinoza を経由する。オランダの哲学者によれば、ある事物の限定は、実体を構成する無限の他の諸事物の限定に取りつかれた存在を含むことで、その存在論的地平からそれら〔諸事物〕が排除されないようにする。要するに反対 l’opposizione に関しては、このようなカテゴリーの肯定的な affermativa 価値は、接頭辞 obの前に davanti a”に相対して a fronte di”)の原則的な意味作用の中に全てある。ob 対照 contrapposizione”の動力学に生じることとは反対に、全てのその他について排除または無に帰することができる op-poste の極性がないことを当然含む。この点で、Macchiavelli における貴族と庶民のあいだの政治的コントラスト、カントにおける引力と斥力のあいだの実在的拮抗、Nietzsche における作用と反作用のあいだの力の戯れ、そして Foucault における権力と抵抗のあいだの力学は寓意的になる。

まさしくこの点で、『政治と否定』の最終的な提言が描かれる。(かかる二極性に共同体と免疫のあいだの弁証法が、それらの凝縮した、またありうるヴァリアントとして付加されうると Esposito は断言する。)特に、免疫化のカテゴリーはこのような弁証法の内部に決定的な役割を引き受ける。(“たんなる排除というよりはむしろ、ワクチン接種の実施が患者の身体にそれを防ぐ目的でウイルスの一部を注入するのと同様のやり方で、それはある種の排除的包含—衝突の力を無効にするために排除を意図することの部分を含む—を実行する”。)Immunis は、部分的にそれを引き受けながら、その限界(その引き受けが有害な諸効果—基準適合の認可、依存、搾取—の産出しかしえないこと以上の限界)を受け入れることを学ぶ方策で生きる、コミュニティーの結束で自分自身を保護することである。こうすることで、更には、普遍的なモデルに固有な異種性が基準に適合している、と認定することにしむける衝突の力を無効化しながら、それ〔immunis〕はコミュニティーそれ自体を全体(主義)的な横滑りから保護する。

免疫化はこのように、新しいパラダイムに合流することで、否定の排除的性格を和らげる。否定されることは、今や、肯定されることの反対ではなく、むしろ相互に排除し、また無にする反対のポジション(この場合、共同性と免疫性)の同等の可能性である。この可能性は、これら両極が保存する(取り扱い、また内包する)反対される可能性の一部と共に、全面的な肯定的傾向によって否定される。

同じパラダイムの下—しかるべき区別を考慮にしつつ—、Esposito の否定的なものの問題へのアプローチは最初に記されたイタリア哲学的な展望の思想家たちのそれと重ねることができるようになる。アリストテレス的潜勢力の否定的機能の周辺の Agamben の仕事を考えれば十分である。(否定されるのは—潜勢力と現勢力のあいだの力学において—潜勢力でも現勢力それ自体でもなく、むしろ第二のものにおける第一のものの統合的解決だろう。)同様のアプローチのトレースは Massimo Cacciari の『抑止する力』についての試論においても見つけられ、その中で“katechon ”のパウロ的カテゴリーを通じて、“遇する che trattiene”否定性の政治神学的勾配が探究される。しかし Paolo Virno の『否定についての試論』も二重否定(あなたを愛していないわけではない)の言語学的価値を主張する。二重否定は元の肯定〔断定〕(あなたを愛している)を復元する可能性への返送ではなく、言うなれば、その反対(あなたを愛していない)をも否定されるや否や、“(未だ表されていないニュアンスで満たされた)変形を通した情感”の複雑さをかかる様態で再構築することで、何かを保存することに関わるだろう。