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per l/a psicoanalisi

プルタルコス『似て非なる友について』から抜粋

2017-11-24 00:45:17 | Note
8《……プラトンは、自分を大いに愛していると公言する人を世間では大目に見ている、と言っておりますが、しかし、そこからいろいろ困ったことも生じ、ことに、それでは自分自身を偏見なく正しく判断できなくなるというのははなはだ重大だとも言っております。》

8《この自己愛ゆえに、人間誰しも、自分自身がまっさきに最大の追従者になります。こうなればあとはわけないことで、自分が何を思い何を欲しているかについて、自分ばかりでなく他人までが、証人となることを許してしまうのです。》

8-9《自分自身を好意的な目で見るために、自分にはあらゆる特性があるようにと欲したり、現にあると思ったりするのです。あらゆる特性があるようにと欲するのは別に不都合ではありませんが、現にあると思う方は危険であり、大いに警戒を必要とします。》

9《……追従者は神々、わけても神託をたまわるデルポイのアポロンを敵にする危険があります。と申しますのは、およそ追従者というのは自分自身を欺き、自分に関して何が善で何が悪であるかを気がつかなくさせ、つまり「汝自身を知れ」というアポロンの教えにつねに背いて、そのために善はまっとうされずに放置され、悪はまったく矯正することもできない、という事態にたちいたるからです。》


9《……名誉心の強い性格の人、有為の人、穏当な人ほど追従者を受け入れ、ひとたびとりつかれるとそれを育てることになりやすいのです。》

10《追従者たちも乾いたもの、冷えて固くなったものには近づきません。名声や権力のあるところにとりついて自分を肥やします。ですが、事情が変わるとたちまちそこから姿を消してしまいます。》

16《そしてそれゆえに追従者は、召使いのごとくに人様に仕え、つねに至誠勤勉、何でも喜んでやる、と人の目には映るよう気負いたちます。》


23《次に、本当の友人と追従者では、まねの仕方に次のような違いがあるということによく注意しなければなりません。すなわち、真の友というものは何もかもまねるとか、何もかもあっさり認めるとかいうことはせず、本当に良い点だけをまねもし認めもするものだということです。》

24《しかし追従者の場合はまったくカメレオンと同じです。》

28《つまり追従者は、自分が模倣することによって相手の志を立派に見せ、模倣してはみても結局は劣ると見せて、その能力とても及びがたしと映らせる、そう思えます。》

30《‪しかし追従者のやること、そして彼らが狙いとすることといったら、遊びであれ振舞いであれ言葉であれ、ただひたすら、とにかく楽しいならばそれでいい、楽しむことだけが目的だとばかり、たっぷりこってり味つけをすることなのです。》‬


34《しかし、私にはなぜかよく分かりませんが、不運に見舞われた時などは、たいていの人は、もし追従者から慰めの言葉をかけられると、じっと耐えぬいて彼らを寄せつけずにおくことができず、いっしょに涙を流して嘆いてくれる者がいれば、その者に引きずられてしまいます。》

35-36《へつらいお世辞に関しても我々は目を開いて、

“ただの浪費にすぎないことが気前のよさなどと呼ばれてはいないか”
“臆病にすぎないのが危険を避ける配慮とされていないか”
“軽率な行動が明敏な判断で、けちな物おしみが節倹の美徳”
“浮気な色男が人づきあいのよい人、やさしい人”
“怒りっぽい男や尊大な男が強い人”
“卑しく、人の言うことを何でも聞く者が親切な人”

などと言われていないか監視する必要があります。》

36《しかし人の悪徳を褒めたてて、悪を徳のように思う癖をつけてしまうと、その悪徳をもっていることを本人が、厭うどころか喜んだりすることになり、これはまた、自分の犯した過ちを恥じる心を彼から奪い去ってしまうことにもなります。》


46《……人間は、へつらい屋どもが偽りの称賛を与えたり過度の称賛を浴びたりすれば、間違いなく精神を狂わされてだめになるからです。》


46《こうして追従者たることが暴露されて進退きわまると、彼らは笑ってごまかしたり酒に逃げたり、冗談にまぎらしたりふざけてその場をやりすごしたりしますが、やがて今度は事を眉をつりあげるような重大問題に仕立て、深刻な顔をして叱責は諫言をまじえつつ追従いたしますから、この点も見逃さず調べておくことにしましょう。》

48《次に彼らは、本当の、大きな過ちは見て見ぬふりをする、あるいは気がつかないふりをしますが、小さなうわべのことで何か欠陥を見つけるとえらい勢いで襲いかかります。》


57《こうして我々は、自分が欲張りだとか恥知らずだとか臆病だとかとは、自分で気がつかないことはあっても、追従者に気がつかないということはないでしょう。彼らはいつもこういう気持の味方として現われ、その点に関しては無遠慮にはっきりと物を言うからです。》


62《しかし、人に尽くすその尽くし方を見ると、さらにはっきりいたします。友人の好意というものは生物に似ていて、その最も強いところは奥深く潜んでいます。決して表面に出てこれ見よがしになることはありません。……》

64《一般に相手にありがた迷惑を感じさせる好意というのはわずらわしく、好意とも思えなくて我慢できないものですが、追従者のなすことはまさにこのありがた迷惑で、しかもあとでそう感じるのではなく、彼らが何かをするかたそばから迷惑至極に感じます。》


71《自己愛と自己過信を断てということです。自分のこういう気持にへつらわれておりますと、もう地盤ができているわけですから、外から訪れてくるへつらいに対して毅然としていられなくなるのです。》


80《何ごとにせよ、時宜を失するというのは由々しいことですが、ことに率直な言葉の場合は、もし時を誤れば率直であることが何の役にも立たなくなります。》

欲望の mysterium / ministerium について

2017-11-19 17:48:19 | 精神分析について
Agamben が、mysterium と ministerium の混同について指摘しているが、これについては、Lacan 派にも影響があったりするのだろうか? 端的にイタリア語では、ministero=聖務であり、mistero=神秘・秘密〔複数形では秘儀・奥義〕を指し示す。

つまり、欲望のミステリー〔ここでは身体のミステリーでも別段変わりはない〕とは、欲望の〔経済学的な問題も含む〕管理経営 l'amministrazione を内包しているという観点すら持たないとならない。

欲望のミステリー的な転回——初期の転移の様相はこのようなものとして表れるだろうが、分析の諸相としてこのテーマは度々出現する——があるなら、それは欲望の管理経営的問題を示唆することは否定しきれない。これを、“享楽の節制”として考えることは、無理はないだろう。禁欲原則を思い起こしても、享楽を称揚した方が無理がある。

Lacan が聖性や神性として残した問題を逆照射する観点が、Agamben にはある。

Agamben 曰く、この用語の混同の起源はパウロの表現まで遡る。

“...ma l'origine della confusione è più antica e riposa nella stessa espressione paolina « economia del mistero » e nella sua inversione in un « mistero dell'economia », ...” (Agamben, Il Regno e la Gloria, p.175)

「…しかし、混同の起源はより古く、パウロの同様の表現における《ミステリーのエコノミー》と、その倒置法における《エコノミーのミステリー》の元に戻る」

ここでは、Agamben はパウロの表現とその倒置法における mistero を取り上げているが、他にも ministero が同時に出てくる箇所を、ウルガタ聖書〔主として聖ヒエロニムスが四世紀末に翻訳したラテン語訳聖書:ローマカトリック教会が公認した〕から引いている。確かに、この翻訳過程でこれらが混同される可能性は高く、その影響が Lacan 自身の宗教的な背景にあることは否定しきれない。

“L'amministrazione (L'« economia ») ha essenzialmente a che fare con un arcano e, d'altra parte, il mistero può essere dispensato solo amministrativamente ed « economicamente ».” (Ibid., p.175)

「管理経営(《エコノミー》)は本質的にある謎〔神秘〕に関わりがあり、また他方、ミステリーはもっぱら管理経営的に、そして《経済=エコノミー的に》分配されうる。」



■ここで、この問題を受けてある方がとても示唆的なコメントをしてくれたので紹介したい。

《ラカンはイエズス会だったわけですがセミネールではルターやパウロが度々登場しました。有名なのは精神分析の倫理について語ったセミネールで、いかにして人は精神分析家になり得るかと問うところです。そこで彼はパウロが師となるようにフロイトを同化させて、倣うことに焦点を当てます。

パウロには神秘体験というものが語られるわけですが、まさに「神秘」こそが、あらゆるものを飛び越えてキリストと合一する方法で、「神秘」によりパウロは師となり得たわけです。「聖務」は「神秘」の再現です。ですからラカンの側からパウロを見るとこの二つは区別されるものではないわけです。

パウロがキリストに倣うように、ラカンはフロイトに倣います。どちらも廃すべきものによって成り立つ欲望があります。双方空虚/欠如を作らねばならないのです。その引き算を前提にして純粋な欲望が備給されます。ラカンはパウロのようでありたいと願ったのです。》


この言を更に受け、分析家の欲望とは欲望の謎 il mistero の管理経営 l'amministrazione 的な問題——つまりは、聖務 il ministero ——を内包していると言ったら、言い過ぎだろうか?
〔分析家の欲望と欲望の分配、ないしは配剤〕