日々の恐怖 5月18日 八甲田山
無人の別荘から深夜に119番があった。
5月17日午前0時すぎ、青森市駒込深沢にある別荘の固定電話から消防へ通報があった。
しかし、通信状態が悪く、電話の向こう側から声は聞こえなかった。
一刻一秒を争う事態かもしれない。
青森消防本部は発信場所を特定し、消防署員ら10人が40分ほどかけて現場に到着した。
しかし、辺りは真っ暗で、家の中に人影はなく傷病者も見当たらなかった。
現場は八甲田雪中行軍遭難事件があった地区で、木々がうっそうと生い茂る。
同本部通信司令課の担当者は、
「 何らかの原因で通報されたと思われるが、よく分からない。」
と困惑。
やむを得ず、誤報として処理することになるとしている。
東奥日報社 2014年5月18日(日)10時42分配信
八甲田雪中行軍遭難事件
八甲田雪中行軍遭難事件は、1902年(明治35年)1月に日本陸軍第8師団の歩兵第5連隊が八甲田山で冬季に雪中行軍の訓練中に遭難した事件である。訓練への参加者210名中199名が死亡(うち6名は救出後死亡)するという日本の冬季軍訓練における最も多くの死傷者が発生した。
救助活動は青森連隊、弘前連隊、更には仙台第5砲兵隊も出動した大掛かりな体制になり、延べ1万人が投入された。その後、生存者の収容の完了と捜索方法の確立と共に青森連隊独自で行った。
救助拠点は、幸畑に資材集散基地、田茂木野に捜索本部を置き、そこから哨戒所と呼ばれるベースキャンプを構築、前進させる方法が取られた。哨戒所は大滝平から最初の遭難地点の鳴沢まで合計15箇所設営予定であったが、実際にはいくつかが合併され、11箇所の設置にとどまった。
発見された遺体は、1体に数人程度をかけて掘り出して哨戒所に運搬した。余りに凍りついていたため、粗略に扱うと遺体が関節の部分から粉々に砕けるからであった。
哨戒所にて衣服を剥いだ後、鉄板に載せられ直火にて遺体を解凍し、新しい軍服を着せてから棺に収容して本部まで運搬した。
水中に没した遺体は引揚げ作業が難航し、そのまま流されてしまうものが多数あった。そのため、幸畑村を流れる駒込川に流出防止の柵を構築し、そこに引っ掛かった遺体から順次収容して行った。
しかし、雪解けで水量が増加したこともあり、柵を越え海まで流された遺体もあった。
発見された遺体は、最終的に5連隊駐屯所に運ばれ、そこで遺族と面会、確認の後、そこで荼毘に付されるか故郷へ帰っていった。
腐敗がひどく身元がなかなか判明しない遺体もあった。
最後の遺体収容は5月28日であった。
と言うことで、この日までに忘れずに連れて行ってくれという電話だったのかも知れない。
残り10日である。
営門の怪
遭難事件から暫く経った頃、「中隊規模の一群が八甲田方面からやって来る」という噂が聯隊内に広まった。
その噂は津川聯隊長の耳にも届き、意を決した聯隊長は、衛兵の詰所に待機してその出現を待つ事にした。
底冷えする夜、夜明け間近の事、血相を変えて飛んできた衛兵の報告を聞いた聯隊長は営門に急行(ラッパの音に混じって軍歌も聞こえたとの事)、そして今まさに姿を現さんかと思われた時、聯隊長は抜刀し闇に向って叫んだ。
「 雪中行軍隊の諸君よ、よっく聞け!
お前達は勇戦奮闘して見事な最期を遂げた!
今や無情雪裡の鬼と化すとも迷ってはならぬ!
お前達の死は無駄ではなかった!
軍装及び厳寒期の戦術には一大改革が施される事になったぞ!
来たるべき戦役に於いて未然に軍の損失を防いだその功績は大きい!
行軍隊員はみな靖國神社に合祀される事になったのだ!
迷うな、心安く眠れ!ここはお前達の来る所ではない!
帝国軍人として見苦しい振る舞いはこの聯隊長が許さんッ!
青森五聯隊の雪中行軍隊、回れ右!前へ進め! 」
と、号令をかけると足音はピタリと止まり、八甲田山に向って静かに遠ざかって行き、以来二度と現れる事は無かったとの事。
上記の「来たるべき戦役」とは日露戦争の事である。
しかし、遭難事件から100年以上経っても、その足音が聞こえるという。
それはもしかしたら、未曾有の大暴風雪の中で非業の死を遂げた199名の栄誉を批判したり飯のタネにしている輩共のせいで、未だに成仏できないからかもしれない。
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