早朝ビラ配布。マンションの集合ポストで知合いの方に会う。夫が癌と診断され療養中とのこと。元気な方だっただけにびっくりする。病状の回復を祈るしかない。
小雨がぱらつく中、安威川をきれいにする会でごみ拾い。中流部だったが最近の雨でごみが浮き上がっており、拾いやすかった。
昼から脳腫瘍で済生会に入院中のHさんをKさんと一緒に見舞う。心配したが思ったより元気。また一緒に走れたらと思う。
いばらき自立支援センター・ぽぽんがほぽんの総会。第二部として牧口一二さんの記念講演があった。「人間は一人では生きていけない。それは障がいがあっても、なくても一緒だ。そのことが分かっていない健常者がまだいる。また障がいを理由に資格が失われる欠格条項がまだ残っており無くしていきたいと」と話された。後で食事と懇親会に参加。
以下、毎日新聞 2006年6月19日 東京朝刊より
戦後60年・私の原点:グラフィックデザイナー・牧口一二さん
◆地面はって友と遊び、被災障害者を支援
◇人間は信じられる生き物--牧口一二さん(68)
敗戦後の大阪。焼け野原が一面広がっていた。社宅近くの原っぱで、小児まひで歩けない少年の僕は、地面をはいずり回って、友だちとトンボを採ったり、三角ベースの野球をして思いっきり遊んだ。フナ釣り、虫採り。全身泥だらけになった体験が「人は自然の中で生かされているんだ」という僕の考えの原形を形作ったと思う。
小児まひにかかったのは1歳。就学を迎えた6歳の時、小学校入学を拒まれ、9歳でようやく小学生になれた。両足が不自由になった僕を、お袋はどう思ったのだろう。大人になって何度か聞いた。お袋は「忘れたわ」としか言わない。でも「どんな前途が待っていようと、この子と一緒に生きていくんや」。お袋がそう覚悟を決めたことは間違いない。
1970年代。障害児の将来を悲観した親が、わが子を殺す事件が多発した。美術学校を出て、絵の仕事に就いた僕は悔しかった。「親が少しつっかえ棒をしてくれたら、障害児も生まれてきて良かったと思えるのに」と。障害イコール不幸では決してない。障害児殺しを防ぎたい。その思いで、障害者運動に携わってきた。
30年以上にわたる日本の障害者自立運動がつかみ取った「自立」観は、まさに金字塔だと思う。重度障害のある仲間が打ち立てた価値観だ。それは「苦手なことは人の力を借りていい。人と人とのつながりを豊かにしていこう」というもの。逆に健常な人の方が、すべてを自分で背負い、自己責任という名の下で誰もが孤立していく方向のゆがんだ「自立」観に縛られているのではと思う。
95年の阪神大震災は大阪で被災した。「やはり緊急時は障害者は後回しにされてしまう」と怖かった。そうならないためにも、被災障害者を支援する基金をつくろうと、永六輔さんや小室等さんらと「ゆめ風基金」を作った。今までに2億円が寄せられ、台湾やトルコなど海外・国内の被災障害者に救援金を届けた。
震災は備えの必要性とともに、僕に「人間は信じられる生き物なんだ」と改めて感じさせた。家族が倒壊家屋の下敷きになりながら、少しでも生きている可能性のある他人の救助に全力を尽くす人がいた。大阪の電車に乗っていても優しい視線が互いに注がれ、温かい空気が流れていた。
今、格差社会が広がるこの国で、障害者運動がつかんだ価値観を伝え続けたい。【聞き手・遠藤哲也】
小雨がぱらつく中、安威川をきれいにする会でごみ拾い。中流部だったが最近の雨でごみが浮き上がっており、拾いやすかった。
昼から脳腫瘍で済生会に入院中のHさんをKさんと一緒に見舞う。心配したが思ったより元気。また一緒に走れたらと思う。
いばらき自立支援センター・ぽぽんがほぽんの総会。第二部として牧口一二さんの記念講演があった。「人間は一人では生きていけない。それは障がいがあっても、なくても一緒だ。そのことが分かっていない健常者がまだいる。また障がいを理由に資格が失われる欠格条項がまだ残っており無くしていきたいと」と話された。後で食事と懇親会に参加。
以下、毎日新聞 2006年6月19日 東京朝刊より
戦後60年・私の原点:グラフィックデザイナー・牧口一二さん
◆地面はって友と遊び、被災障害者を支援
◇人間は信じられる生き物--牧口一二さん(68)
敗戦後の大阪。焼け野原が一面広がっていた。社宅近くの原っぱで、小児まひで歩けない少年の僕は、地面をはいずり回って、友だちとトンボを採ったり、三角ベースの野球をして思いっきり遊んだ。フナ釣り、虫採り。全身泥だらけになった体験が「人は自然の中で生かされているんだ」という僕の考えの原形を形作ったと思う。
小児まひにかかったのは1歳。就学を迎えた6歳の時、小学校入学を拒まれ、9歳でようやく小学生になれた。両足が不自由になった僕を、お袋はどう思ったのだろう。大人になって何度か聞いた。お袋は「忘れたわ」としか言わない。でも「どんな前途が待っていようと、この子と一緒に生きていくんや」。お袋がそう覚悟を決めたことは間違いない。
1970年代。障害児の将来を悲観した親が、わが子を殺す事件が多発した。美術学校を出て、絵の仕事に就いた僕は悔しかった。「親が少しつっかえ棒をしてくれたら、障害児も生まれてきて良かったと思えるのに」と。障害イコール不幸では決してない。障害児殺しを防ぎたい。その思いで、障害者運動に携わってきた。
30年以上にわたる日本の障害者自立運動がつかみ取った「自立」観は、まさに金字塔だと思う。重度障害のある仲間が打ち立てた価値観だ。それは「苦手なことは人の力を借りていい。人と人とのつながりを豊かにしていこう」というもの。逆に健常な人の方が、すべてを自分で背負い、自己責任という名の下で誰もが孤立していく方向のゆがんだ「自立」観に縛られているのではと思う。
95年の阪神大震災は大阪で被災した。「やはり緊急時は障害者は後回しにされてしまう」と怖かった。そうならないためにも、被災障害者を支援する基金をつくろうと、永六輔さんや小室等さんらと「ゆめ風基金」を作った。今までに2億円が寄せられ、台湾やトルコなど海外・国内の被災障害者に救援金を届けた。
震災は備えの必要性とともに、僕に「人間は信じられる生き物なんだ」と改めて感じさせた。家族が倒壊家屋の下敷きになりながら、少しでも生きている可能性のある他人の救助に全力を尽くす人がいた。大阪の電車に乗っていても優しい視線が互いに注がれ、温かい空気が流れていた。
今、格差社会が広がるこの国で、障害者運動がつかんだ価値観を伝え続けたい。【聞き手・遠藤哲也】