午前中「お元気ですか」の配布。午後から9条ネット・近畿 参議院選勝利、9条への思いを国政に届ける集いの準備。
安倍政権は戦前の靖国史観にどっぷりと浸かったメンバーが大半で、自分は安全地帯に身をおいて、「私指揮する人、国民は戦場に行く人」が100%のように思えます。傲慢な人たちです。
国民が自公を支持する限り、やがて来る軍国時代に「教訓Ⅰ 作詞/作曲 加川良」はどうでしょうか。以下私が時々訪問する 青春音楽館から 「教訓Ⅰ 作詞/作曲 加川良」によせる館長のメッセージ
昭和20年3月21日
陽光うららかな日 美しく立派に散るぞ
そう言って 一番機に向かう友の胸に
俺は まだつぼみだった桜の一枝を 飾って贈った
明日は俺の番だ
死ぬ時が別々になってしまったが
靖国神社で逢える
その時は きっと 桜の花も満開だろう
3月26日
花 さわやかに開く日 お父さん お母さん
ただ今より出発します
この世に生を受けて23年
まさか お父さんやお母さんより 早く死ぬとは思ってもみませんでした
お母さん 泣くなと言うのは無理かもしれません
でも どうか よく死んでくれた!
そう言って下さい
私達は祖国を護るために死んでゆくのですから
4月2日
春雨のけむる日 幸か不幸か 俺は まだ
今日も生きのびている
だが 雨が上がり 虹が橋をかけ
あかね色の夕焼け空が広がる時に 俺は必ず征く
後に続くことを信じて
俺達の死を 決して 犬死にしてもらいたくないのだ
海軍少尉 小野栄一 身長五尺七寸
体重十七貫五百 きわめて健康!
「同期の桜(台詞)」-鶴田浩二
仁侠(やくざ)映画のスターで、NHKドラマ「男たちの旅路」でも渋い名演技を見せてくれた俳優の鶴田浩二(本名小野栄一)さんが、「同期の桜」という軍歌のメロディーをBGMにして、歌うのではなくて、朗読をしていたのが、この日記あるいは手紙または遺書のような文章でした。
鶴田さんは、「古い奴だとお思いでしょうが、古い奴こそ新しい ものを欲しがるもんでございます。」という名セリフ入りの「傷だらけの人生」で日本レコード大賞大衆賞も受賞しています。
しかし、やはり、本業は俳優だけに、歌わなくて済む分、セリフに集中できたからでしょうか、いつもの朴訥とした語り口の中に、力強い独特の鶴田さんのセリフ回しの朗読は見事でした。
そして、朗読の文章から、自然と一編のドラマが浮かんできて、ぼくは当時、左翼思想・反戦思想に魅かれていたはずなのに、なぜか心情的には右翼になっている自己矛盾に悩んだものです。(笑)
貴様と俺とは同期の桜
同じ兵学校の庭に咲く
咲いた花なら散るのは覚悟
みごと散りましょ国のため
貴様と俺とは同期の桜
同じ兵学校の庭に咲く
血肉分けたる仲ではないが
なぜか気が合うて別れられぬ
貴様と俺とは同期の桜
同じ航空隊の庭に咲く
仰いだ夕焼け南の空に
未だ還らぬ一番機
貴様と俺とは同期の桜
同じ航空隊の庭に咲く
あれほど誓ったその日も待たず
なぜに死んだか散ったのか
貴様と俺とは同期の桜
離れ離れに散ろうとも
花の都の靖国神社
春の梢に咲いて会おう
「同期の櫻」-作詞/西条八十 作曲/大村能章
1945年(昭和20年)8月15日に終戦を迎え、アメリカによる占領と復興政策が続き、ようやく1952年(昭和27年)にサンフランシスコ平和条約が発効して、独立国として国際社会に復帰しました。
1956年(昭和31年)に発表された「経済白書」で「もはや戦後ではない」と言わしめ、戦前をしのぐ経済復興を成し遂げましたが、戦後の軍国主義批判の流れの中で規制されていた軍歌も懐かしのメロディーという形で、ラジオやテレビ放送で復活しました。
戦後ベビーブームの団塊の世代以降の「戦争を知らない子どもたち」が、軍歌を歌えるのは、親の世代が歌えるからということよりも、そのラジオやテレビの放送の影響の方が大きいからだと思います。
また、大音量で軍歌を流しながら、傍若無人に走り回る右翼たちの街宣車や、大衆娯楽のパチンコ店のBGMの影響もあるとは思いますが。(笑)
もちろん、全国的な広がりを見せた学生運動、吹き荒れた学園紛争では、軍歌と対峙する、いわゆる反戦歌も盛んに歌われました。
こぶしを振り上げて、戦争反対というシュプレヒコールに合うような反戦歌があったり、また、戦争の悲惨さを悲しげに歌うような反戦歌もありました。
命はひとつ 人生は一回
だから命を棄てないようにネ
慌てるとつい フラフラと
御国のためなのと 言われるとネ
そんな中で、なんともスローテンポで、牧歌的な雰囲気すらする、この歌が登場したのは新鮮でした。
しかし、そんな歌のイメージに関わらず、強烈なメッセージが含まれ、かなりの重みもある歌です。
大切ないのち、かけがえのない人生を、かって「御国」のために棄てることが美徳のように扱われた時代を想い起こさせ、その危険性を語り口調で、教えさとすようにしながら、警鐘を発しています。
御国は俺達 死んだとて
ずっと後まで残りますヨネ
失礼しましたで 終わるだけ
命のスペアはありませんヨネ
そして、国家とは何なのか、国を守るとは何なのかを問い、国を守るために死に追いやられる個人に対して、国家は何をするのかを鋭く問いかけます。
命をすてて男になれと
言われた時には震えましょうヨネ
そうよ私は女で結構
女の腐ったので構いませんよ
今では耳にしなくなりましたが、「戦後強くなったのは女性と靴下である。」、という言葉がありました。
戦前のシルクから戦後のナイロンのストッキングへ置き換わったことと、戦後民主主義の中での男女同権の動きを、やや揶揄するような表現で、いまならこの言葉さえも、セクハラになりかねないですね。(笑)
まして、いまは「女の腐った」などという表現をすれば、すぐに社会問題化しそうですね。
でも、女々しい(めめしい)だとか、男らしくないだとかの慣用表現は、いまだに使われています。
もっとも、性転換手術の技術もすすんで、また、性同一性障害による手術の社会的・制度的認知もすすんでいますから、こんな表現も遅かれ早かれ、「歴史的表現」となるのでしょうか。(笑)
死んで神様と言われるよりも
生きてバカだと言われましょうヨネ
奇麗事ならべた時に
この命棄てないようにネ
死んで仏様になる、成仏するというのは、仏教の教えにありますが、死んで神様になるというのは、本来的には、神道的な発想ではないような気がします。
むしろ、天満宮、天神の社などでの学問の神様、菅原道真の祀り方のように、崇敬や顕彰の意味もあるでしょうがむしろ畏怖が基本にあるように思います。
戊辰戦争で殉じた官軍兵士の霊を慰めるために、東京招魂社として創建された神社は、のちに改称して靖国神社となり、その後に続く、幾多の戦争による戦死者を国家として慰霊するための施設となり、やがて国家神道の象徴たる神社となります。
名誉の戦死をすれば護国の鬼、英霊として、神様として、祀り上げることを代償にして、士気を高めて戦争へと駆り立てるための、いわばマインドコントロール施設としての役割を担ったといえると思います。
いろんな意見があるかと思いますが、歴史的には、靖国神社は、純粋に戦没者を追悼し慰霊するためだけの施設ではなく、国家が戦争を遂行するための国策、軍国主義政策の推進のために利用してきた経緯のある施設であり、この認識が、いわゆる「靖国問題」の本質であると、ぼくは考えます。
そんな歴史的経緯も踏まえずに、あるいは意図的にすり替えて、その施設を参拝して、戦没者を追悼することのなにが悪いんだ、他国から参拝について批判されるいわれはないのだと、開き直る政治家がいて、これに理解を示す国民がいます。
確かに、遺族感情からすれば、お国を守るために死んで、だから英霊と祀られたのだから、国家が責任を持って慰霊するのは当然だと、思わずにはいられないことは、心情として、理解できます。
いまさら、その死が何の役にも立たない、無駄な死に方、犬死だったと言われることに、腹立たしさやむなしさを覚えることにも、共感できます。
しかし、その一人の兵士の死が、敵味方多くの兵士の死につながり、そして兵士でない敵味方多くの市民の死にまでつながっていったことも、決して忘れてはいけません。
人と人とが殺しあうのが戦争なのです。
だからこそ、戦争が悲惨なのです。
そして、冷静になって歴史を振り返えってみたときに、その歴史の分岐点で、選択肢の誤りはなかったのか、ほかにとるべき道は、方策はほんとうになかったのか、それを検証すべきです。
そして、二度と悲惨な戦争を起こさないという不戦の誓いと反戦の行動を続けていく、それが、戦争によって亡くなられた方々の至誠に報いることであり、真の慰霊につながることだと、ぼくは思います。
青くなってしりごみなさい
逃げなさい 隠れなさい
ときとして立ち止まることも、場合によって後退することも必要なときがあります。
それも勇気がいることなのです。
ひとつの結論を早く導き出すことが、なにも決断力や実行力があることではありません。
性急にして、拙速に、とりかえしのつかないことをするよりも、熟慮しながら、地道に進めばいいのです。
壊して創る方法もあれば、創ってから壊す方法もあり、多様な進め方があっていいはずです。
戦没者の慰霊とはなにか、慰霊の方法や手段として、どんなことが考えられるのか、どう行動していくのかを、悲惨な戦争の歴史の教訓に学びながら、国民みんなで考えていくべきときだと思います。
多くの戦没者の方々の平和の礎のおかげで、半世紀以上も平和な時代を享受できた世代の私たちが、またその礎となって、次代へ、子どもたちへ、平和を引き継ぐことが、いま求められています。
加川良さん、1947年(昭和22年)11月21日生まれ、滋賀県出身のフォークシンガーです。
高田渡さんのマネージャーをつとめ、1970年(昭和45年)の第2回中津川フォークジャンボリーで、飛び入り出演して発表したのが、この「教訓Ⅰ」です。
翌年の第3回中津川フォークジャンボリーでは、「人間、なんて、ララララララララー♪」と絶叫する吉田拓郎さんと人気を分かちあっていました。
ちなみに、吉田拓郎さんのメジャーレーベル移籍の第一弾「元気です。」というアルバム」には、「加川良からの手紙」という曲が収録されています。
拝啓 僕はとても残念でした
あの日 君が
ホワイトジーンでなかったことを
スカートもいいけれど
ホワイトジーンなら もっと
カッコ良かったと思います
「加川良からの手紙」-よしだたくろう
ともかく加川さんの、青くなってしりごみなさい、逃げなさい、隠れなさい、などと、まるで臆病者として生きることへの教訓的すすめが、「反戦の闘い」を声高に叫び、機動隊と「戦争ごっこ」していたデモ隊よりも、実に新鮮で、カッコ良かったと思います。(笑)
(初稿2005.7 未改訂)
教訓Ⅰ 作詞/作曲 加川良
命はひとつ 人生は一回
だから命を棄てないようにネ
慌てるとつい フラフラと
御国のためなのと 言われるとネ
青くなってしりごみなさい
逃げなさい 隠れなさい
御国は俺達 死んだとて
ずっと後まで残りますヨネ
失礼しましたで 終わるだけ
命のスペアはありませんヨネ
青くなってしりごみなさい
逃げなさい 隠れなさい
命をすてて男になれと
言われた時には震えましょうヨネ
そうよ私は女で結構
女の腐ったので構いませんよ
青くなってしりごみなさい
逃げなさい 隠れなさい
死んで神様と言われるよりも
生きてバカだと言われましょうヨネ
奇麗事ならべた時に
この命棄てないようにネ
青くなってしりごみなさい
逃げなさい 隠れなさい
1971年(昭和46年)
写真は大会当日に坂手港についたマラソンランナーたち サイクリングターミナルから
安倍政権は戦前の靖国史観にどっぷりと浸かったメンバーが大半で、自分は安全地帯に身をおいて、「私指揮する人、国民は戦場に行く人」が100%のように思えます。傲慢な人たちです。
国民が自公を支持する限り、やがて来る軍国時代に「教訓Ⅰ 作詞/作曲 加川良」はどうでしょうか。以下私が時々訪問する 青春音楽館から 「教訓Ⅰ 作詞/作曲 加川良」によせる館長のメッセージ
昭和20年3月21日
陽光うららかな日 美しく立派に散るぞ
そう言って 一番機に向かう友の胸に
俺は まだつぼみだった桜の一枝を 飾って贈った
明日は俺の番だ
死ぬ時が別々になってしまったが
靖国神社で逢える
その時は きっと 桜の花も満開だろう
3月26日
花 さわやかに開く日 お父さん お母さん
ただ今より出発します
この世に生を受けて23年
まさか お父さんやお母さんより 早く死ぬとは思ってもみませんでした
お母さん 泣くなと言うのは無理かもしれません
でも どうか よく死んでくれた!
そう言って下さい
私達は祖国を護るために死んでゆくのですから
4月2日
春雨のけむる日 幸か不幸か 俺は まだ
今日も生きのびている
だが 雨が上がり 虹が橋をかけ
あかね色の夕焼け空が広がる時に 俺は必ず征く
後に続くことを信じて
俺達の死を 決して 犬死にしてもらいたくないのだ
海軍少尉 小野栄一 身長五尺七寸
体重十七貫五百 きわめて健康!
「同期の桜(台詞)」-鶴田浩二
仁侠(やくざ)映画のスターで、NHKドラマ「男たちの旅路」でも渋い名演技を見せてくれた俳優の鶴田浩二(本名小野栄一)さんが、「同期の桜」という軍歌のメロディーをBGMにして、歌うのではなくて、朗読をしていたのが、この日記あるいは手紙または遺書のような文章でした。
鶴田さんは、「古い奴だとお思いでしょうが、古い奴こそ新しい ものを欲しがるもんでございます。」という名セリフ入りの「傷だらけの人生」で日本レコード大賞大衆賞も受賞しています。
しかし、やはり、本業は俳優だけに、歌わなくて済む分、セリフに集中できたからでしょうか、いつもの朴訥とした語り口の中に、力強い独特の鶴田さんのセリフ回しの朗読は見事でした。
そして、朗読の文章から、自然と一編のドラマが浮かんできて、ぼくは当時、左翼思想・反戦思想に魅かれていたはずなのに、なぜか心情的には右翼になっている自己矛盾に悩んだものです。(笑)
貴様と俺とは同期の桜
同じ兵学校の庭に咲く
咲いた花なら散るのは覚悟
みごと散りましょ国のため
貴様と俺とは同期の桜
同じ兵学校の庭に咲く
血肉分けたる仲ではないが
なぜか気が合うて別れられぬ
貴様と俺とは同期の桜
同じ航空隊の庭に咲く
仰いだ夕焼け南の空に
未だ還らぬ一番機
貴様と俺とは同期の桜
同じ航空隊の庭に咲く
あれほど誓ったその日も待たず
なぜに死んだか散ったのか
貴様と俺とは同期の桜
離れ離れに散ろうとも
花の都の靖国神社
春の梢に咲いて会おう
「同期の櫻」-作詞/西条八十 作曲/大村能章
1945年(昭和20年)8月15日に終戦を迎え、アメリカによる占領と復興政策が続き、ようやく1952年(昭和27年)にサンフランシスコ平和条約が発効して、独立国として国際社会に復帰しました。
1956年(昭和31年)に発表された「経済白書」で「もはや戦後ではない」と言わしめ、戦前をしのぐ経済復興を成し遂げましたが、戦後の軍国主義批判の流れの中で規制されていた軍歌も懐かしのメロディーという形で、ラジオやテレビ放送で復活しました。
戦後ベビーブームの団塊の世代以降の「戦争を知らない子どもたち」が、軍歌を歌えるのは、親の世代が歌えるからということよりも、そのラジオやテレビの放送の影響の方が大きいからだと思います。
また、大音量で軍歌を流しながら、傍若無人に走り回る右翼たちの街宣車や、大衆娯楽のパチンコ店のBGMの影響もあるとは思いますが。(笑)
もちろん、全国的な広がりを見せた学生運動、吹き荒れた学園紛争では、軍歌と対峙する、いわゆる反戦歌も盛んに歌われました。
こぶしを振り上げて、戦争反対というシュプレヒコールに合うような反戦歌があったり、また、戦争の悲惨さを悲しげに歌うような反戦歌もありました。
命はひとつ 人生は一回
だから命を棄てないようにネ
慌てるとつい フラフラと
御国のためなのと 言われるとネ
そんな中で、なんともスローテンポで、牧歌的な雰囲気すらする、この歌が登場したのは新鮮でした。
しかし、そんな歌のイメージに関わらず、強烈なメッセージが含まれ、かなりの重みもある歌です。
大切ないのち、かけがえのない人生を、かって「御国」のために棄てることが美徳のように扱われた時代を想い起こさせ、その危険性を語り口調で、教えさとすようにしながら、警鐘を発しています。
御国は俺達 死んだとて
ずっと後まで残りますヨネ
失礼しましたで 終わるだけ
命のスペアはありませんヨネ
そして、国家とは何なのか、国を守るとは何なのかを問い、国を守るために死に追いやられる個人に対して、国家は何をするのかを鋭く問いかけます。
命をすてて男になれと
言われた時には震えましょうヨネ
そうよ私は女で結構
女の腐ったので構いませんよ
今では耳にしなくなりましたが、「戦後強くなったのは女性と靴下である。」、という言葉がありました。
戦前のシルクから戦後のナイロンのストッキングへ置き換わったことと、戦後民主主義の中での男女同権の動きを、やや揶揄するような表現で、いまならこの言葉さえも、セクハラになりかねないですね。(笑)
まして、いまは「女の腐った」などという表現をすれば、すぐに社会問題化しそうですね。
でも、女々しい(めめしい)だとか、男らしくないだとかの慣用表現は、いまだに使われています。
もっとも、性転換手術の技術もすすんで、また、性同一性障害による手術の社会的・制度的認知もすすんでいますから、こんな表現も遅かれ早かれ、「歴史的表現」となるのでしょうか。(笑)
死んで神様と言われるよりも
生きてバカだと言われましょうヨネ
奇麗事ならべた時に
この命棄てないようにネ
死んで仏様になる、成仏するというのは、仏教の教えにありますが、死んで神様になるというのは、本来的には、神道的な発想ではないような気がします。
むしろ、天満宮、天神の社などでの学問の神様、菅原道真の祀り方のように、崇敬や顕彰の意味もあるでしょうがむしろ畏怖が基本にあるように思います。
戊辰戦争で殉じた官軍兵士の霊を慰めるために、東京招魂社として創建された神社は、のちに改称して靖国神社となり、その後に続く、幾多の戦争による戦死者を国家として慰霊するための施設となり、やがて国家神道の象徴たる神社となります。
名誉の戦死をすれば護国の鬼、英霊として、神様として、祀り上げることを代償にして、士気を高めて戦争へと駆り立てるための、いわばマインドコントロール施設としての役割を担ったといえると思います。
いろんな意見があるかと思いますが、歴史的には、靖国神社は、純粋に戦没者を追悼し慰霊するためだけの施設ではなく、国家が戦争を遂行するための国策、軍国主義政策の推進のために利用してきた経緯のある施設であり、この認識が、いわゆる「靖国問題」の本質であると、ぼくは考えます。
そんな歴史的経緯も踏まえずに、あるいは意図的にすり替えて、その施設を参拝して、戦没者を追悼することのなにが悪いんだ、他国から参拝について批判されるいわれはないのだと、開き直る政治家がいて、これに理解を示す国民がいます。
確かに、遺族感情からすれば、お国を守るために死んで、だから英霊と祀られたのだから、国家が責任を持って慰霊するのは当然だと、思わずにはいられないことは、心情として、理解できます。
いまさら、その死が何の役にも立たない、無駄な死に方、犬死だったと言われることに、腹立たしさやむなしさを覚えることにも、共感できます。
しかし、その一人の兵士の死が、敵味方多くの兵士の死につながり、そして兵士でない敵味方多くの市民の死にまでつながっていったことも、決して忘れてはいけません。
人と人とが殺しあうのが戦争なのです。
だからこそ、戦争が悲惨なのです。
そして、冷静になって歴史を振り返えってみたときに、その歴史の分岐点で、選択肢の誤りはなかったのか、ほかにとるべき道は、方策はほんとうになかったのか、それを検証すべきです。
そして、二度と悲惨な戦争を起こさないという不戦の誓いと反戦の行動を続けていく、それが、戦争によって亡くなられた方々の至誠に報いることであり、真の慰霊につながることだと、ぼくは思います。
青くなってしりごみなさい
逃げなさい 隠れなさい
ときとして立ち止まることも、場合によって後退することも必要なときがあります。
それも勇気がいることなのです。
ひとつの結論を早く導き出すことが、なにも決断力や実行力があることではありません。
性急にして、拙速に、とりかえしのつかないことをするよりも、熟慮しながら、地道に進めばいいのです。
壊して創る方法もあれば、創ってから壊す方法もあり、多様な進め方があっていいはずです。
戦没者の慰霊とはなにか、慰霊の方法や手段として、どんなことが考えられるのか、どう行動していくのかを、悲惨な戦争の歴史の教訓に学びながら、国民みんなで考えていくべきときだと思います。
多くの戦没者の方々の平和の礎のおかげで、半世紀以上も平和な時代を享受できた世代の私たちが、またその礎となって、次代へ、子どもたちへ、平和を引き継ぐことが、いま求められています。
加川良さん、1947年(昭和22年)11月21日生まれ、滋賀県出身のフォークシンガーです。
高田渡さんのマネージャーをつとめ、1970年(昭和45年)の第2回中津川フォークジャンボリーで、飛び入り出演して発表したのが、この「教訓Ⅰ」です。
翌年の第3回中津川フォークジャンボリーでは、「人間、なんて、ララララララララー♪」と絶叫する吉田拓郎さんと人気を分かちあっていました。
ちなみに、吉田拓郎さんのメジャーレーベル移籍の第一弾「元気です。」というアルバム」には、「加川良からの手紙」という曲が収録されています。
拝啓 僕はとても残念でした
あの日 君が
ホワイトジーンでなかったことを
スカートもいいけれど
ホワイトジーンなら もっと
カッコ良かったと思います
「加川良からの手紙」-よしだたくろう
ともかく加川さんの、青くなってしりごみなさい、逃げなさい、隠れなさい、などと、まるで臆病者として生きることへの教訓的すすめが、「反戦の闘い」を声高に叫び、機動隊と「戦争ごっこ」していたデモ隊よりも、実に新鮮で、カッコ良かったと思います。(笑)
(初稿2005.7 未改訂)
教訓Ⅰ 作詞/作曲 加川良
命はひとつ 人生は一回
だから命を棄てないようにネ
慌てるとつい フラフラと
御国のためなのと 言われるとネ
青くなってしりごみなさい
逃げなさい 隠れなさい
御国は俺達 死んだとて
ずっと後まで残りますヨネ
失礼しましたで 終わるだけ
命のスペアはありませんヨネ
青くなってしりごみなさい
逃げなさい 隠れなさい
命をすてて男になれと
言われた時には震えましょうヨネ
そうよ私は女で結構
女の腐ったので構いませんよ
青くなってしりごみなさい
逃げなさい 隠れなさい
死んで神様と言われるよりも
生きてバカだと言われましょうヨネ
奇麗事ならべた時に
この命棄てないようにネ
青くなってしりごみなさい
逃げなさい 隠れなさい
1971年(昭和46年)
写真は大会当日に坂手港についたマラソンランナーたち サイクリングターミナルから