1941年(昭和16)12月8日の真珠湾攻撃から太平洋戦争がはじまりました。当初は、占領地域を拡大していきましたが、1942年(昭和17)6月のミッドウェー海戦の大敗北を転機として、戦局は次第に劣勢に転じ、アメリカの本格的な反抗が始まります。南洋の島々が次々に陥落し、1944年(昭和19)にサイパン島が玉砕すると本土爆撃が激化することになりました。
その後、フィリッピン、硫黄島、沖縄本島とアメリカ軍の侵攻は進み、本土の主要都市が空襲によって、焦土と化すことになります。
1945年(昭和20)8月には、広島、長崎へ原子爆弾が投下され、ソ連軍の参戦もあって、8月15日には、ポツダム宣言を受諾する玉音放送が流されて、無条件降伏しました。
この結果、日中戦争から太平洋戦争で亡くなった日本軍人・軍属の数約230万人、日本の民間人の戦没者数は約80万人と言われ、日本の主要都市は、原爆を含む空襲によって壊滅しています。
この戦争において、人的にも、経済・社会的にも大きな打撃をこうむり、戦後の日本はどん底の生活を体験することとなります。肉親を奪われ、家を焼かれ、仕事もなくし、途方に暮れる中で、食糧不足から、栄養失調になり、餓死する人も出たのです。
こういうことは、二度と繰り返してはならないと思います。そのためには、戦争を今に伝える遺跡を守り、その教訓を今後の平和のために活かしていかなければならないのではないでしょうか.....。
〇「太平洋戦争戦争の遺跡」とは?
「戦争遺跡」は、戦争の痕跡、戦跡、戦蹟のことです。戦争のために造られた基地や建物などの軍事施設や戦争被害を受けた建物や土地、記念碑などで、現在も遺構として現存しているものや戦争当時を物語る遺跡で、後世に伝え続けていくことで歴史の教訓とすべきものです。日本全国に2万ヶ所以上あると言われています。
現在でも日本各地に太平洋戦争の遺跡がありますが、広島・長崎の原爆投下、東京・大阪・名古屋等の大空襲、沖縄戦など一般市民を巻き込み、甚大な被害を与えた跡を見ると、目頭が熱くなり、戦争への怒りがこみ上げてきます。
また、九州各地の特攻隊基地跡、松代大本営壕跡、沖縄の陸軍壕跡、全国の軍需工場跡などを巡ってみると、よくこんな状態で、戦争継続をはかったものだとあきれるばかりで、当時の軍や政府指導者の考え方に大いに疑問を感じました。
☆「太平洋戦争の遺跡」のお勧め
(1) 東京大空襲・戦災資料センター<東京都江東区>
1945年(昭和20)3月10日の未明、約300機のアメリカ軍爆撃機B29による東京下町地区を目標にした無差別爆撃で、人口過密地帯は火炎地獄と化し、罹災者は100万人をこえて、推定10万人もの尊い命が失われました。この施設は、その東京大空襲の惨状を次世代に語り継ぎ、平和の研究と学習に役立つことを願って、4000名を超える方々の募金で設立された、民立・民営の資料センターです。2002年(平成14)3月9日、戦禍のもっとも大きかった江東区北砂の地に開館しました。映像資料を観たり、団体参観でご要望すれば、体験者のお話をうかがうこともできます。資料・展示保管室では、実際に投下された焼夷弾や空襲の被災品、体験者の手記・写真、戦時下の文書などを見ることができます。
(2) 松代大本営跡<長野県長野市>
ここは、太平洋戦争末期、日本の政府中枢機能移転のために象山、舞鶴山、皆神山の3箇所に掘られた地下坑道跡です。何本もの洞窟が掘られたらしいものの、その中で公開されている象山洞窟に入ってみました。500mほど奥まで入れるのですが、とても不気味なものです。あんな所に立てこもって戦争を続けるつもりだったんだろうかと疑問が広がります。しかし、太平洋戦争の歴史を考える上では貴重なものだと思います。
(3) 原爆ドーム<広島県広島市中区>
1945年(昭和20)8月6日に原爆が投下され、一瞬の内に市街地は廃墟と化し、20万人以上の人命が喪われました。そのモニュメントとして、世界に原爆のむごたらしさを伝えていて、胸が熱くなります。被爆当時、広島で一番近代的、美的な建物といわれた産業奨励館だったのですが、今は、廃墟となって、世界に原爆の恐ろしさを訴えています。この、原爆直下ではほとんどの人が死亡し、いまだに行方のわからない人も多いと聞きました。ドームをとりまく碑群には多くの千羽鶴が飾られ、訪れる人の祈りを受けていました。原爆ドームを離れ、橋を渡り、平和公園の中に入っていくと、そこにも様々な記念碑があり、千羽鶴や花束で埋まっています。それらに手を合わせながら、広島平和資料館の方へ歩いていきました。以前に5回ほど訪れたことがありますが、何度来ても、その原爆の凄まじさが胸に突き刺ささります。通常展示による広島への原爆投下の実態を見せつけられて、戦争・原爆に対する怒りがわき上がってきました。現在でも、世界中に核兵器が保有され、核戦争の脅威にさらされています。それらの核保有国にこの広島の惨状をよく見てほしいと思うと共に、核兵器廃絶の必要性を痛感しました。この周辺には、南側に広島国際会議場、その他に、原爆死没者慰霊碑・原爆供養塔・平和の鐘・原爆の子の像・国立広島原爆死没者追悼平和祈念館などがあり、原爆の悲惨さを語りかけています。尚、1996年(平成8)には、ユネスコの世界遺産(文化遺産)にも登録されています。
(4) 長崎原爆爆心地付近<長崎県長崎市>
ここは広島に続いて、1945年(昭和20)8月9日に原爆が投下され、一瞬の内に市街地は廃墟と化し、8万人弱の人命が喪われました。爆心地付近にはいろいろなモニュメントがあって、世界に原爆のむごたらしさを伝えています。それらの中で、浦上天主堂(被爆した聖像、鐘楼ドームなど)、長崎市立城山小学校(当時の建物の一部が残る)、長崎大学医学部(正門の石造の門柱、ゲストハウスなど)、山王神社(片方だけ残った鳥居や被爆クスノキ)、山里国民学校(旧校舎の階段の手すりと柱、裏門の門柱、防空壕など)等を巡ってみましたが、原爆被害のすさまじさを感じました。さらに、「長崎原爆資料館」、「国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館」を訪れて、学びを深め、平和公園へ行って、平和祈念像(北村西望制作)や平和の泉に祈って、再びこのようなことがないように願いました。
(5) 知覧基地跡<鹿児島県南九州市>
太平洋戦争末期に、神風特攻隊が飛び立っていった飛行場のあったところで、「特攻平和祈念館」には、特攻隊員の遺品や遺影が飾られていました。なんと、1千名以上も突撃していって戻ってこなかったのです。それも、大半が10代から20代の若者で、見ていて涙が出てきました。また、祈念館の隣に特攻隊員が最後を過ごした三角兵舎が復元されていましたが、とてもお粗末な建物で、非常に驚きました。
(6) ひめゆりの塔<沖縄県糸満市>
太平洋戦争末期の沖縄戦で、沖縄陸軍病院第三外科が置かれた壕の跡に立つ慰霊碑です。看護要員として動員され悲劇的最期を遂げた、ひめゆり学徒隊(沖縄県立第一高等女学校生徒で編成)を合祀しています。最後の洞窟が残され、「ひめゆり平和祈念資料館」が建てられていますが、その惨状は涙なしでは見られません。尚、職員を含むひめゆり学徒隊240名中、死亡者は生徒123名、職員13名にも上っています。
☆主要な「太平洋戦争の遺跡」一覧
<軍事関係施設>
・陸軍第七師団旭川偕行社(北海道旭川市)
・大湊海軍通信隊根室分遣所[根室市歴史と自然の資料館](北海道根室市)
・陸軍第八師団偕行社(青森県弘前市)
・陸軍第二師団第四連隊兵舎[仙台市歴史民俗資料館](宮城県仙台市)
・軍馬補充部白河支部事務所(福島県西白河郡西郷村)
・支那囲壁砲台(千葉県習志野市)
・館山海軍航空隊赤山地下壕跡(千葉県館山市)
・近衛第一師団司令部庁舎[東京国立近代美術館工芸館](東京都千代田区)
・猿島砲台[東京湾要塞](東京都)
・満州開拓青少年義勇軍訓練所(東京都)
・調布飛行場掩体壕跡(東京都府中市)
・金沢陸軍兵器支廠[石川県歴史博物館](石川県金沢市)
・第九師団司令部[石川県庁舎石引分室](石川県金沢市)
・鈴鹿市北伊勢陸軍飛行場掩体(三重県鈴鹿市)
・帝国陸軍大阪第四師団司令部庁舎[大阪城公園内](大阪府)
・大阪砲兵工廠(大阪府)
・帝国陸軍姫路第十師団兵器・被服庫[現姫路市立美術館国宝姫路城内](兵庫県姫路市)
・呉鎮守府司令長官官舎(広島県呉市)
・海軍兵学校(広島県江田島市)
・大久野島[毒ガス製造施設跡](広島県竹原市)
・回転発射訓練基地(山口県周南市)
・善通寺偕行社[陸軍第11師団陸軍将校の集会所・社交場](香川県善通寺市)
・佐伯海軍航空隊掩体壕(大分県佐伯市)
・知覧基地跡(鹿児島県南九州市)
<軍事工場>
・里山辺地下工場・中山半地下工場(長野県松本市)
・鶉野飛行場及び川西航空機姫路製作所鶉野工場(兵庫県加西市)
<防空壕・地下坑道など>
・松代大本営(長野県長野市)
・浅川地下壕(東京都八王子市)
・高槻地下倉庫(大阪府高槻市)
・沖縄陸軍病院南風原壕群20号(沖縄県島尻郡南風原町)
・ひめゆりの塔[沖縄陸軍病院第三外科壕跡](沖縄県糸満市)
<被災建造物・記念物>
・旧日立航空機立川工場変電所(東京都東大和市)
・半田赤レンガ建物[中島飛行機半田製作所衣糧倉庫](愛知県半田市)
・原爆ドーム(広島県広島市)
・浦上天主堂(長崎県長崎市)
その後、フィリッピン、硫黄島、沖縄本島とアメリカ軍の侵攻は進み、本土の主要都市が空襲によって、焦土と化すことになります。
1945年(昭和20)8月には、広島、長崎へ原子爆弾が投下され、ソ連軍の参戦もあって、8月15日には、ポツダム宣言を受諾する玉音放送が流されて、無条件降伏しました。
この結果、日中戦争から太平洋戦争で亡くなった日本軍人・軍属の数約230万人、日本の民間人の戦没者数は約80万人と言われ、日本の主要都市は、原爆を含む空襲によって壊滅しています。
この戦争において、人的にも、経済・社会的にも大きな打撃をこうむり、戦後の日本はどん底の生活を体験することとなります。肉親を奪われ、家を焼かれ、仕事もなくし、途方に暮れる中で、食糧不足から、栄養失調になり、餓死する人も出たのです。
こういうことは、二度と繰り返してはならないと思います。そのためには、戦争を今に伝える遺跡を守り、その教訓を今後の平和のために活かしていかなければならないのではないでしょうか.....。
〇「太平洋戦争戦争の遺跡」とは?
「戦争遺跡」は、戦争の痕跡、戦跡、戦蹟のことです。戦争のために造られた基地や建物などの軍事施設や戦争被害を受けた建物や土地、記念碑などで、現在も遺構として現存しているものや戦争当時を物語る遺跡で、後世に伝え続けていくことで歴史の教訓とすべきものです。日本全国に2万ヶ所以上あると言われています。
現在でも日本各地に太平洋戦争の遺跡がありますが、広島・長崎の原爆投下、東京・大阪・名古屋等の大空襲、沖縄戦など一般市民を巻き込み、甚大な被害を与えた跡を見ると、目頭が熱くなり、戦争への怒りがこみ上げてきます。
また、九州各地の特攻隊基地跡、松代大本営壕跡、沖縄の陸軍壕跡、全国の軍需工場跡などを巡ってみると、よくこんな状態で、戦争継続をはかったものだとあきれるばかりで、当時の軍や政府指導者の考え方に大いに疑問を感じました。
☆「太平洋戦争の遺跡」のお勧め
(1) 東京大空襲・戦災資料センター<東京都江東区>
1945年(昭和20)3月10日の未明、約300機のアメリカ軍爆撃機B29による東京下町地区を目標にした無差別爆撃で、人口過密地帯は火炎地獄と化し、罹災者は100万人をこえて、推定10万人もの尊い命が失われました。この施設は、その東京大空襲の惨状を次世代に語り継ぎ、平和の研究と学習に役立つことを願って、4000名を超える方々の募金で設立された、民立・民営の資料センターです。2002年(平成14)3月9日、戦禍のもっとも大きかった江東区北砂の地に開館しました。映像資料を観たり、団体参観でご要望すれば、体験者のお話をうかがうこともできます。資料・展示保管室では、実際に投下された焼夷弾や空襲の被災品、体験者の手記・写真、戦時下の文書などを見ることができます。
(2) 松代大本営跡<長野県長野市>
ここは、太平洋戦争末期、日本の政府中枢機能移転のために象山、舞鶴山、皆神山の3箇所に掘られた地下坑道跡です。何本もの洞窟が掘られたらしいものの、その中で公開されている象山洞窟に入ってみました。500mほど奥まで入れるのですが、とても不気味なものです。あんな所に立てこもって戦争を続けるつもりだったんだろうかと疑問が広がります。しかし、太平洋戦争の歴史を考える上では貴重なものだと思います。
(3) 原爆ドーム<広島県広島市中区>
1945年(昭和20)8月6日に原爆が投下され、一瞬の内に市街地は廃墟と化し、20万人以上の人命が喪われました。そのモニュメントとして、世界に原爆のむごたらしさを伝えていて、胸が熱くなります。被爆当時、広島で一番近代的、美的な建物といわれた産業奨励館だったのですが、今は、廃墟となって、世界に原爆の恐ろしさを訴えています。この、原爆直下ではほとんどの人が死亡し、いまだに行方のわからない人も多いと聞きました。ドームをとりまく碑群には多くの千羽鶴が飾られ、訪れる人の祈りを受けていました。原爆ドームを離れ、橋を渡り、平和公園の中に入っていくと、そこにも様々な記念碑があり、千羽鶴や花束で埋まっています。それらに手を合わせながら、広島平和資料館の方へ歩いていきました。以前に5回ほど訪れたことがありますが、何度来ても、その原爆の凄まじさが胸に突き刺ささります。通常展示による広島への原爆投下の実態を見せつけられて、戦争・原爆に対する怒りがわき上がってきました。現在でも、世界中に核兵器が保有され、核戦争の脅威にさらされています。それらの核保有国にこの広島の惨状をよく見てほしいと思うと共に、核兵器廃絶の必要性を痛感しました。この周辺には、南側に広島国際会議場、その他に、原爆死没者慰霊碑・原爆供養塔・平和の鐘・原爆の子の像・国立広島原爆死没者追悼平和祈念館などがあり、原爆の悲惨さを語りかけています。尚、1996年(平成8)には、ユネスコの世界遺産(文化遺産)にも登録されています。
(4) 長崎原爆爆心地付近<長崎県長崎市>
ここは広島に続いて、1945年(昭和20)8月9日に原爆が投下され、一瞬の内に市街地は廃墟と化し、8万人弱の人命が喪われました。爆心地付近にはいろいろなモニュメントがあって、世界に原爆のむごたらしさを伝えています。それらの中で、浦上天主堂(被爆した聖像、鐘楼ドームなど)、長崎市立城山小学校(当時の建物の一部が残る)、長崎大学医学部(正門の石造の門柱、ゲストハウスなど)、山王神社(片方だけ残った鳥居や被爆クスノキ)、山里国民学校(旧校舎の階段の手すりと柱、裏門の門柱、防空壕など)等を巡ってみましたが、原爆被害のすさまじさを感じました。さらに、「長崎原爆資料館」、「国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館」を訪れて、学びを深め、平和公園へ行って、平和祈念像(北村西望制作)や平和の泉に祈って、再びこのようなことがないように願いました。
(5) 知覧基地跡<鹿児島県南九州市>
太平洋戦争末期に、神風特攻隊が飛び立っていった飛行場のあったところで、「特攻平和祈念館」には、特攻隊員の遺品や遺影が飾られていました。なんと、1千名以上も突撃していって戻ってこなかったのです。それも、大半が10代から20代の若者で、見ていて涙が出てきました。また、祈念館の隣に特攻隊員が最後を過ごした三角兵舎が復元されていましたが、とてもお粗末な建物で、非常に驚きました。
(6) ひめゆりの塔<沖縄県糸満市>
太平洋戦争末期の沖縄戦で、沖縄陸軍病院第三外科が置かれた壕の跡に立つ慰霊碑です。看護要員として動員され悲劇的最期を遂げた、ひめゆり学徒隊(沖縄県立第一高等女学校生徒で編成)を合祀しています。最後の洞窟が残され、「ひめゆり平和祈念資料館」が建てられていますが、その惨状は涙なしでは見られません。尚、職員を含むひめゆり学徒隊240名中、死亡者は生徒123名、職員13名にも上っています。
☆主要な「太平洋戦争の遺跡」一覧
<軍事関係施設>
・陸軍第七師団旭川偕行社(北海道旭川市)
・大湊海軍通信隊根室分遣所[根室市歴史と自然の資料館](北海道根室市)
・陸軍第八師団偕行社(青森県弘前市)
・陸軍第二師団第四連隊兵舎[仙台市歴史民俗資料館](宮城県仙台市)
・軍馬補充部白河支部事務所(福島県西白河郡西郷村)
・支那囲壁砲台(千葉県習志野市)
・館山海軍航空隊赤山地下壕跡(千葉県館山市)
・近衛第一師団司令部庁舎[東京国立近代美術館工芸館](東京都千代田区)
・猿島砲台[東京湾要塞](東京都)
・満州開拓青少年義勇軍訓練所(東京都)
・調布飛行場掩体壕跡(東京都府中市)
・金沢陸軍兵器支廠[石川県歴史博物館](石川県金沢市)
・第九師団司令部[石川県庁舎石引分室](石川県金沢市)
・鈴鹿市北伊勢陸軍飛行場掩体(三重県鈴鹿市)
・帝国陸軍大阪第四師団司令部庁舎[大阪城公園内](大阪府)
・大阪砲兵工廠(大阪府)
・帝国陸軍姫路第十師団兵器・被服庫[現姫路市立美術館国宝姫路城内](兵庫県姫路市)
・呉鎮守府司令長官官舎(広島県呉市)
・海軍兵学校(広島県江田島市)
・大久野島[毒ガス製造施設跡](広島県竹原市)
・回転発射訓練基地(山口県周南市)
・善通寺偕行社[陸軍第11師団陸軍将校の集会所・社交場](香川県善通寺市)
・佐伯海軍航空隊掩体壕(大分県佐伯市)
・知覧基地跡(鹿児島県南九州市)
<軍事工場>
・里山辺地下工場・中山半地下工場(長野県松本市)
・鶉野飛行場及び川西航空機姫路製作所鶉野工場(兵庫県加西市)
<防空壕・地下坑道など>
・松代大本営(長野県長野市)
・浅川地下壕(東京都八王子市)
・高槻地下倉庫(大阪府高槻市)
・沖縄陸軍病院南風原壕群20号(沖縄県島尻郡南風原町)
・ひめゆりの塔[沖縄陸軍病院第三外科壕跡](沖縄県糸満市)
<被災建造物・記念物>
・旧日立航空機立川工場変電所(東京都東大和市)
・半田赤レンガ建物[中島飛行機半田製作所衣糧倉庫](愛知県半田市)
・原爆ドーム(広島県広島市)
・浦上天主堂(長崎県長崎市)
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