奈良時代に花開いた文化で、平城京に遷都された710年から平安京に遷都される7世紀末までの文化です。その特徴は、①律令国家完成期の豪壮さ・雄大さがあること、②鎮護国家思想に基づく仏教文化であること、③平城京を中心に開花した貴族文化であること、④盛唐文化の影響が強い国際色豊かな文化であること、などとされてきました。
国家の保護下に南都六宗が栄え、鎮護国家思想に基づいて各地に国分寺が創建されて本格的な仏教文化が開花、貴族の教養として漢詩・文も重んじられましたが、和歌が日本人の日常的な表現手段として盛んとなり、多くの万葉歌人が活躍します。その代表として、唐招提寺金堂・講堂・経蔵・宝庫、東大寺法華堂(三月堂)・転害門、正倉院宝庫などの仏教建築、興福寺八部衆立像(阿修羅像など)・十大弟子立像、聖林寺十一面観音立像、唐招提寺金堂盧舎那仏坐像・鑑真和上坐像、東大寺法華堂(三月堂)の諸像、東大寺戒壇院四天王立像、新薬師寺十二神将立像(うち1躯は昭和期の補作)などの仏像、正倉院鳥毛立女屏風、薬師寺吉祥天像などの絵画、正倉院正倉正倉院宝物(楽器、調度品など)の工芸品などがあげられます。また、文学として『万葉集』、『懐風藻』、歴史書として『古事記』、『日本書紀』があげられ、地誌として『風土記』の編纂が諸国に命じられました。
尚、聖武天皇により諸国に僧寺(国分寺)・尼寺(国分尼寺)を建て、それぞれに七重の塔を作り、『金光明最勝王経』と『妙法蓮華経』を一部ずつ置くこととされましたが、東大寺を除いて、当時の建築物は残れておらず、近年の発掘調査によって、その跡が史跡や特別史跡に指定されているところがいくつかあります。さらに、律令体制の整備に伴い、国ごとに国衙や郡衙が造営され、その遺構が残されて史跡とされているところがいくつかありますが、東北地方経営の中心となった多賀城跡と西国経営の中心となった太宰府跡は特に重要とされ、特別史跡として整備されてきました。
〇天平文化を巡る旅9題
旅先で天平文化の関係地を訪れ、良かった所を9つ、北から順に紹介します。
(1) 多賀城跡<宮城県多賀城市>
奈良時代の724年(神亀元)に創建された朝廷の東北地方侵略の拠点となった城柵で、その巨大な礎石の跡に目を奪われます。陸奥国府や鎮守府として機能した重要な遺跡で、1966年(昭和41)に国の特別史跡に指定されました。また、2006年(平成18)には、日本100名城にも選定されています。その一角に日本三古碑(多賀城碑、那須国造碑、多胡碑)の一つ多賀城碑(壺碑)があって、江戸時代に松尾芭蕉が「奥の細道」の旅で立ち寄った所としても知られています。近くに、「東北歴史博物館」があり、出土品を展示すると共に、総合展示室では旧石器時代から近現代までの東北地方全体の歴史を、時代別の9つのコーナーに分けて展示しています。
(2)下野薬師寺跡<栃木県下野市>
栃木県南部、鬼怒川右岸の平野部に立地していた古代寺院の跡です。この寺は、7世紀末にこの地方を治めた豪族である下毛野朝臣古麻呂によって創建されたと伝えられています。奈良時代には、正式に僧侶を認める戒壇が設けられていたことで知られていますが、当時は、他に奈良の東大寺と筑紫の観世音寺にしかなく、これらを「三戒壇」と呼んでいました。また、孝謙天皇に取り入って権勢をふるった、弓削道鏡が、宇佐八幡宮神託事件後、この寺の別当に左遷され、当地で没したことでも知られています。その後、寺は盛衰を繰り返えし、跡地には安国寺が設けられています。1921年(大正10)国の史跡に指定され、1966年(昭和41)から発掘調査が開始され、毎年のように継続されてきました。現在は、史跡公園としても整備され、近くに「下野薬師寺歴史館」も建てられ、回廊の一部も復元されて見学できるようになりました。
(3) 多胡碑<群馬県高崎市吉井町>
奈良時代の711年(和銅4)に多胡郡が設置された記念に建てられた石碑です。片岡・緑野・甘良郡から300戸を分けて多胡郡としたことを記したもので、古代の金石文としてとても貴重なので、1921年(大正10)に国史跡に、1954年(昭和29)には、国の特別史跡に指定されました。日本三古碑(多賀城碑、那須国造碑、多胡碑)の一つであり、上野三碑(金井沢碑、山上碑、多胡碑)でもあります。現在、一帯は「吉井いしぶみの里公園」として整備され、多胡碑はガラス張りの覆堂の中に保存、1996年(平成8)には、隣接して、「多胡碑記念館」も開館し、多胡碑の研究資料の他、考古資料や古代中国の拓本などを展示しています。
(4) 平城宮跡<奈良県奈良市>
奈良時代の平城京の大内裏の跡で、1952年(昭和27)に国の特別史跡に指定され、国営公園として整備される予定になっています。この間、文化庁が遺跡の整備・建造物の復原を進めてきていて、既に第一次大極殿、朱雀門、宮内省地区、東院庭園地区の復原が完了しています。1998年(平成10年)12月には、「古都奈良の文化財」として東大寺などと共に世界遺産(文化遺産)に登録されました。出土品などは、「平城宮跡資料館」で見ることができます。また、朱雀門の近くに「平城京歴史館」があって、遣唐使船が復原展示され、平城京の歴史についても学ぶことができます。
(5) 東大寺<奈良県奈良市>
奈良時代創建の東大寺は、聖武天皇が741年(天平13年2月14日)に出した「国分寺建立の詔」によって、国ごとに建立させた国分寺の中心をなす「総国分寺」と位置付けられ、盧舎那仏(東大寺大仏)を本尊としています。何度か戦火にあって焼失していますが、転害門、正倉院、法華堂などは創建当初の建物が残され、いずれも国宝に指定されています。特に正倉院の中には聖武天皇関係の宝物が数多く残され、当時の文化を伝える貴重なもので、京都国立博物館の年1回の正倉院展で見ることができます。また、法華堂の不空羂索観音像、日光・月光菩薩像、執金剛神像、戒壇堂四天王像などの国宝指定の天平仏が安置されています。しかし、平安時代になると、失火や落雷などによって講堂や三面僧房、西塔などが焼失、南大門や大鐘楼も倒壊したのです。しかも、1180年(治承4)に、平重衡の軍勢により、大仏殿をはじめ伽藍の大半が焼失してしまいました。しかし、鎌倉時代に俊乗房重源によって再興され、鎌倉文化も凝縮されています。この時代の建築物では天竺様の南大門と開山堂が残され、国宝となっています。その南大門に佇立する仁王像を作った運慶、快慶を代表とする慶派の仏師の技はすばらしいものです。また、大仏殿は江戸時代中期の1709年(宝永6)に再建されたもので、これも国宝に指定されています。尚、1998年(平成10)には、「古都奈良の文化財」の一つとして世界遺産(文化遺産)にも登録されました。
(6) 興福寺<奈良県奈良市>
南都六宗の一つ、法相宗の大本山で、南都七大寺の一つに数えられています。710年(和銅3)の平城遷都の直後に、藤原不比等が建立した藤原氏一門の氏寺でした。奈良時代には、七堂伽藍が整備され、多くの天平仏(乾漆八部衆立像、乾漆十大弟子立像など)が造立され、現在でも見ることができます。平安時代には、大荘園領主として、また多数の僧兵を擁して権勢を誇りました。創建以来、幾度も火災に見まわれましたが、その都度再建を繰り返してきたものの、源平合戦最中の1180年(治承4)に行われた平重衡の南都焼討により、甚大な被害を受け、大半の伽藍を焼失したのです。しかし、鎌倉時代に多くが復興され、その時に建造された北円堂、三重塔(2つとも国宝)が残り、金剛力士像、無著象、世親像、天灯鬼像、竜灯鬼像などの鎌倉時代の慶派の傑作も残され、いずれも国宝に指定されています。その後、1415年(応永22)再建の東金堂や1426年(応永33)頃に再建された五重塔は現存し、国宝に指定されていますが、江戸時代の1717年(享保2)の火災では、西金堂、講堂、南大門などを焼失したものの、再建されず、明治維新期の廃仏毀釈でも大きな破壊を受けました。それからも再興されて、1998年(平成10)に、「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産(文化遺産)に登録されています。
(7) 唐招提寺<奈良県奈良市>
鑑真が、奈良時代の759年(天平宝字3)に開創した寺院で、南都六宗の1つである律宗の総本山です。奈良市街から離れた西の京にあり、田畑に囲まれた静かなたたずまいの中に堂宇が並び、金堂、平城宮の朝集殿を移築した講堂、経蔵、宝蔵などは奈良時代の建物で国宝に指定されています。その堂宇の中にすばらしい仏像群が鎮座し、乾漆鑑真和上坐像、乾漆盧舎那仏坐像、木心乾漆千手観音立像、木造梵天・帝釈天立像などは、奈良時代の天平仏でいずれも国宝となっています。それらを巡ってみると、12年の歳月と6回目の渡航によって伝戒の初志を貫徹しようとした盲目の僧鑑真の苦労と共に当時を思い起こさせてくれました。また、1998年(平成10)に、「古都奈良の文化財」の一つとして世界遺産(文化遺産)にも登録されています。
(8) 新薬師寺<奈良県奈良市>
奈良市高畑町にある華厳宗の別格本山です。奈良時代の747年(天平19)に、光明皇后が聖武天皇の病気平癒を祈願して建立したと伝えられ、天平文化を代表する創建当時の本堂(国宝)と本尊薬師如来像(国宝)、十二神将像(国宝)があります。749年(天平勝宝1)には墾田500町が施入され、七堂伽藍を誇り、住僧1000人の大寺となり、東大寺とともに南都十大寺の一つに数えられたとのことです。しかし、780年(宝亀11)に、本堂を残して焼失し、鎌倉時代に明恵上人によって再興され、江戸時代にも幕府の保護を受けました。
(9) 太宰府跡<福岡県太宰府市>
7世紀後半に、九州の筑前国に設置された地方行政機関の跡です。朝廷の九州地方経営の中心となった役所で、外交と防衛を主任務とすると共に、九州地方の各国の人事や監査などの行政・司法を所管しました。この跡は、1921年(大正10)に、国の史跡に指定され、1953年(昭和28)には、国の特別史跡に昇格されました。また、平安時代前期の901年(昌泰4)に、菅原道真が左遷されたことで有名で、道真を祀った近くの天満宮と共に散策すると古代史を思い起こさせてくれます。
☆天平文化の主要な文化財一覧
<仏教建築>
・唐招提寺金堂、講堂…講堂は、平城宮の東朝集殿を移築改造したもの。
・唐招提寺経蔵、宝庫…長屋王邸の遺構で正倉院より古い。
・東大寺法華堂(三月堂)、転害門
・正倉院宝庫(校倉造)
・法隆寺東院夢殿
・栄山寺八角堂
<仏像>
・興福寺八部衆立像(阿修羅像など)、十大弟子立像
・聖林寺十一面観音立像
・唐招提寺金堂盧舎那仏坐像、鑑真和上坐像
・東大寺法華堂(三月堂)不空羂索観音立像、梵天・帝釈天立像、四天王立像、金剛力士・密迹力士立像
・東大寺法華堂執金剛神立像、日光菩薩・月光菩薩立像、弁才天・吉祥天立像
・東大寺戒壇院四天王立像
・新薬師寺(奈良市)十二神将立像(うち1躯は昭和期の補作)
<絵画>
・正倉院鳥毛立女屏風
・薬師寺吉祥天像
<工芸品>
・正倉院正倉正倉院宝物(楽器、調度品など)
・東大寺大仏殿八角灯籠
<詩歌>
・『万葉集』…代表的な歌人:大伴旅人、大伴家持、山上憶良「貧窮問答歌」、山部赤人
・『懐風藻』…代表的な詩人:淡海三船・石上宅嗣
<歴史書・地誌>
・『古事記』…712年完成
・『日本書紀』…720年完成
・『風土記』…713年に諸国に命じられる
国家の保護下に南都六宗が栄え、鎮護国家思想に基づいて各地に国分寺が創建されて本格的な仏教文化が開花、貴族の教養として漢詩・文も重んじられましたが、和歌が日本人の日常的な表現手段として盛んとなり、多くの万葉歌人が活躍します。その代表として、唐招提寺金堂・講堂・経蔵・宝庫、東大寺法華堂(三月堂)・転害門、正倉院宝庫などの仏教建築、興福寺八部衆立像(阿修羅像など)・十大弟子立像、聖林寺十一面観音立像、唐招提寺金堂盧舎那仏坐像・鑑真和上坐像、東大寺法華堂(三月堂)の諸像、東大寺戒壇院四天王立像、新薬師寺十二神将立像(うち1躯は昭和期の補作)などの仏像、正倉院鳥毛立女屏風、薬師寺吉祥天像などの絵画、正倉院正倉正倉院宝物(楽器、調度品など)の工芸品などがあげられます。また、文学として『万葉集』、『懐風藻』、歴史書として『古事記』、『日本書紀』があげられ、地誌として『風土記』の編纂が諸国に命じられました。
尚、聖武天皇により諸国に僧寺(国分寺)・尼寺(国分尼寺)を建て、それぞれに七重の塔を作り、『金光明最勝王経』と『妙法蓮華経』を一部ずつ置くこととされましたが、東大寺を除いて、当時の建築物は残れておらず、近年の発掘調査によって、その跡が史跡や特別史跡に指定されているところがいくつかあります。さらに、律令体制の整備に伴い、国ごとに国衙や郡衙が造営され、その遺構が残されて史跡とされているところがいくつかありますが、東北地方経営の中心となった多賀城跡と西国経営の中心となった太宰府跡は特に重要とされ、特別史跡として整備されてきました。
〇天平文化を巡る旅9題
旅先で天平文化の関係地を訪れ、良かった所を9つ、北から順に紹介します。
(1) 多賀城跡<宮城県多賀城市>
奈良時代の724年(神亀元)に創建された朝廷の東北地方侵略の拠点となった城柵で、その巨大な礎石の跡に目を奪われます。陸奥国府や鎮守府として機能した重要な遺跡で、1966年(昭和41)に国の特別史跡に指定されました。また、2006年(平成18)には、日本100名城にも選定されています。その一角に日本三古碑(多賀城碑、那須国造碑、多胡碑)の一つ多賀城碑(壺碑)があって、江戸時代に松尾芭蕉が「奥の細道」の旅で立ち寄った所としても知られています。近くに、「東北歴史博物館」があり、出土品を展示すると共に、総合展示室では旧石器時代から近現代までの東北地方全体の歴史を、時代別の9つのコーナーに分けて展示しています。
(2)下野薬師寺跡<栃木県下野市>
栃木県南部、鬼怒川右岸の平野部に立地していた古代寺院の跡です。この寺は、7世紀末にこの地方を治めた豪族である下毛野朝臣古麻呂によって創建されたと伝えられています。奈良時代には、正式に僧侶を認める戒壇が設けられていたことで知られていますが、当時は、他に奈良の東大寺と筑紫の観世音寺にしかなく、これらを「三戒壇」と呼んでいました。また、孝謙天皇に取り入って権勢をふるった、弓削道鏡が、宇佐八幡宮神託事件後、この寺の別当に左遷され、当地で没したことでも知られています。その後、寺は盛衰を繰り返えし、跡地には安国寺が設けられています。1921年(大正10)国の史跡に指定され、1966年(昭和41)から発掘調査が開始され、毎年のように継続されてきました。現在は、史跡公園としても整備され、近くに「下野薬師寺歴史館」も建てられ、回廊の一部も復元されて見学できるようになりました。
(3) 多胡碑<群馬県高崎市吉井町>
奈良時代の711年(和銅4)に多胡郡が設置された記念に建てられた石碑です。片岡・緑野・甘良郡から300戸を分けて多胡郡としたことを記したもので、古代の金石文としてとても貴重なので、1921年(大正10)に国史跡に、1954年(昭和29)には、国の特別史跡に指定されました。日本三古碑(多賀城碑、那須国造碑、多胡碑)の一つであり、上野三碑(金井沢碑、山上碑、多胡碑)でもあります。現在、一帯は「吉井いしぶみの里公園」として整備され、多胡碑はガラス張りの覆堂の中に保存、1996年(平成8)には、隣接して、「多胡碑記念館」も開館し、多胡碑の研究資料の他、考古資料や古代中国の拓本などを展示しています。
(4) 平城宮跡<奈良県奈良市>
奈良時代の平城京の大内裏の跡で、1952年(昭和27)に国の特別史跡に指定され、国営公園として整備される予定になっています。この間、文化庁が遺跡の整備・建造物の復原を進めてきていて、既に第一次大極殿、朱雀門、宮内省地区、東院庭園地区の復原が完了しています。1998年(平成10年)12月には、「古都奈良の文化財」として東大寺などと共に世界遺産(文化遺産)に登録されました。出土品などは、「平城宮跡資料館」で見ることができます。また、朱雀門の近くに「平城京歴史館」があって、遣唐使船が復原展示され、平城京の歴史についても学ぶことができます。
(5) 東大寺<奈良県奈良市>
奈良時代創建の東大寺は、聖武天皇が741年(天平13年2月14日)に出した「国分寺建立の詔」によって、国ごとに建立させた国分寺の中心をなす「総国分寺」と位置付けられ、盧舎那仏(東大寺大仏)を本尊としています。何度か戦火にあって焼失していますが、転害門、正倉院、法華堂などは創建当初の建物が残され、いずれも国宝に指定されています。特に正倉院の中には聖武天皇関係の宝物が数多く残され、当時の文化を伝える貴重なもので、京都国立博物館の年1回の正倉院展で見ることができます。また、法華堂の不空羂索観音像、日光・月光菩薩像、執金剛神像、戒壇堂四天王像などの国宝指定の天平仏が安置されています。しかし、平安時代になると、失火や落雷などによって講堂や三面僧房、西塔などが焼失、南大門や大鐘楼も倒壊したのです。しかも、1180年(治承4)に、平重衡の軍勢により、大仏殿をはじめ伽藍の大半が焼失してしまいました。しかし、鎌倉時代に俊乗房重源によって再興され、鎌倉文化も凝縮されています。この時代の建築物では天竺様の南大門と開山堂が残され、国宝となっています。その南大門に佇立する仁王像を作った運慶、快慶を代表とする慶派の仏師の技はすばらしいものです。また、大仏殿は江戸時代中期の1709年(宝永6)に再建されたもので、これも国宝に指定されています。尚、1998年(平成10)には、「古都奈良の文化財」の一つとして世界遺産(文化遺産)にも登録されました。
(6) 興福寺<奈良県奈良市>
南都六宗の一つ、法相宗の大本山で、南都七大寺の一つに数えられています。710年(和銅3)の平城遷都の直後に、藤原不比等が建立した藤原氏一門の氏寺でした。奈良時代には、七堂伽藍が整備され、多くの天平仏(乾漆八部衆立像、乾漆十大弟子立像など)が造立され、現在でも見ることができます。平安時代には、大荘園領主として、また多数の僧兵を擁して権勢を誇りました。創建以来、幾度も火災に見まわれましたが、その都度再建を繰り返してきたものの、源平合戦最中の1180年(治承4)に行われた平重衡の南都焼討により、甚大な被害を受け、大半の伽藍を焼失したのです。しかし、鎌倉時代に多くが復興され、その時に建造された北円堂、三重塔(2つとも国宝)が残り、金剛力士像、無著象、世親像、天灯鬼像、竜灯鬼像などの鎌倉時代の慶派の傑作も残され、いずれも国宝に指定されています。その後、1415年(応永22)再建の東金堂や1426年(応永33)頃に再建された五重塔は現存し、国宝に指定されていますが、江戸時代の1717年(享保2)の火災では、西金堂、講堂、南大門などを焼失したものの、再建されず、明治維新期の廃仏毀釈でも大きな破壊を受けました。それからも再興されて、1998年(平成10)に、「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産(文化遺産)に登録されています。
(7) 唐招提寺<奈良県奈良市>
鑑真が、奈良時代の759年(天平宝字3)に開創した寺院で、南都六宗の1つである律宗の総本山です。奈良市街から離れた西の京にあり、田畑に囲まれた静かなたたずまいの中に堂宇が並び、金堂、平城宮の朝集殿を移築した講堂、経蔵、宝蔵などは奈良時代の建物で国宝に指定されています。その堂宇の中にすばらしい仏像群が鎮座し、乾漆鑑真和上坐像、乾漆盧舎那仏坐像、木心乾漆千手観音立像、木造梵天・帝釈天立像などは、奈良時代の天平仏でいずれも国宝となっています。それらを巡ってみると、12年の歳月と6回目の渡航によって伝戒の初志を貫徹しようとした盲目の僧鑑真の苦労と共に当時を思い起こさせてくれました。また、1998年(平成10)に、「古都奈良の文化財」の一つとして世界遺産(文化遺産)にも登録されています。
(8) 新薬師寺<奈良県奈良市>
奈良市高畑町にある華厳宗の別格本山です。奈良時代の747年(天平19)に、光明皇后が聖武天皇の病気平癒を祈願して建立したと伝えられ、天平文化を代表する創建当時の本堂(国宝)と本尊薬師如来像(国宝)、十二神将像(国宝)があります。749年(天平勝宝1)には墾田500町が施入され、七堂伽藍を誇り、住僧1000人の大寺となり、東大寺とともに南都十大寺の一つに数えられたとのことです。しかし、780年(宝亀11)に、本堂を残して焼失し、鎌倉時代に明恵上人によって再興され、江戸時代にも幕府の保護を受けました。
(9) 太宰府跡<福岡県太宰府市>
7世紀後半に、九州の筑前国に設置された地方行政機関の跡です。朝廷の九州地方経営の中心となった役所で、外交と防衛を主任務とすると共に、九州地方の各国の人事や監査などの行政・司法を所管しました。この跡は、1921年(大正10)に、国の史跡に指定され、1953年(昭和28)には、国の特別史跡に昇格されました。また、平安時代前期の901年(昌泰4)に、菅原道真が左遷されたことで有名で、道真を祀った近くの天満宮と共に散策すると古代史を思い起こさせてくれます。
☆天平文化の主要な文化財一覧
<仏教建築>
・唐招提寺金堂、講堂…講堂は、平城宮の東朝集殿を移築改造したもの。
・唐招提寺経蔵、宝庫…長屋王邸の遺構で正倉院より古い。
・東大寺法華堂(三月堂)、転害門
・正倉院宝庫(校倉造)
・法隆寺東院夢殿
・栄山寺八角堂
<仏像>
・興福寺八部衆立像(阿修羅像など)、十大弟子立像
・聖林寺十一面観音立像
・唐招提寺金堂盧舎那仏坐像、鑑真和上坐像
・東大寺法華堂(三月堂)不空羂索観音立像、梵天・帝釈天立像、四天王立像、金剛力士・密迹力士立像
・東大寺法華堂執金剛神立像、日光菩薩・月光菩薩立像、弁才天・吉祥天立像
・東大寺戒壇院四天王立像
・新薬師寺(奈良市)十二神将立像(うち1躯は昭和期の補作)
<絵画>
・正倉院鳥毛立女屏風
・薬師寺吉祥天像
<工芸品>
・正倉院正倉正倉院宝物(楽器、調度品など)
・東大寺大仏殿八角灯籠
<詩歌>
・『万葉集』…代表的な歌人:大伴旅人、大伴家持、山上憶良「貧窮問答歌」、山部赤人
・『懐風藻』…代表的な詩人:淡海三船・石上宅嗣
<歴史書・地誌>
・『古事記』…712年完成
・『日本書紀』…720年完成
・『風土記』…713年に諸国に命じられる
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