今回は映画版の二つの「卍」のお話をしたいと思います。
まず、1964年公開の若尾文子さんと岸田今日子さんの作品から。
これは、お二人のお色気や妖しい雰囲気が溢れんばかりに出ていて、すっごく驚いちゃ
いました。
とくに、若尾文子さん。
私がこの人を初めて知った時、すでにお年を召されてましたので、しっとりと落ち着い
た人だなという印象が強く、お若い頃、こんなお色気ムンムンの演技をされていたのが、
とても意外に感じられてなりませんでした。
そういえば、相手役の岸田今日子さんにしても、私の子供の頃、テレビアニメの「ムー
ミン」の声をされてましたので、役を色々使い分けられる事に素晴らしい女優さんだった
のだなと、あらためて感服したりもしました。
そのほか、園子(岸田今日子)の夫を、船越英二さん、光子(若尾文子)の婚約者を川
津祐介さんが演じていて、みな原作の役のイメージにぴったりだと思いました。
ただ、この映画の難点をあげるとすれば、セリフや場面転換の仕方に工夫をこらし、小
説のストーリーを全部、写しとったのは、原作に忠実で好感が持てましたが、いかんせん
、ダイジェスト版みたく、ストーリー展開が急すぎて、感動に酔いしれる暇がなかったの
が、残念な気がしました。
ストーリーを全部写しとらなくても、テーマに直結する場面を鋭角に切り取り、じっく
り見せてくれれば、なおよかったのになと惜しまれてなりませんでした。
そして、1983年公開の樋口可南子さんと高瀬春奈さんのバージョン。
実は、小説を読んだのは、つい最近でしたが、樋口可南子さんと高瀬春奈さんの映画の
方は公開当時、映画館で観ていました。
しかし、こちらは原作が谷崎潤一郎の「卍」で、登場人物の名前が光子と園子と同じで
はありますが、ストーリーはかなり違ってまして、光子の婚約者、綿貫栄次郎は出てきま
せんし、ラストで死ぬのも光子ではなく園子です。
だけど、原作に忠実な1964年版よりも、私は素直に感動することが出来ました。
でも、だからと言って、1964年版が劣ってるというのでは、決してありません。
この作品は谷崎潤一郎が、女性を悪魔的で謎めいた美しい存在と捉えることで、マゾヒ
ストとしての自らの願望を具現化したものだからです。
しかも、光子を殺すことで、女性はか弱い存在でないといけないと言っているようでも
あります。
ところが、ノーマルな女性や本物のレズビアンを知っている私にはこの光子がワガママ
で計算高い嫌な女に、どうしても写ってしまうのです。
まず、最初に真性レズビアンで、園子が真剣に好きだと思わせておいて、その実、婚約
者がいた事です。
私が懇意にしていたレズビアンの多くは、男性をひどく憎んでいましたから。
しかも、園子に近づいた理由が、同性に好かれてこそ、女性としての本望だといった虚
栄心を充足させる目的なのが許せない気がしてならないです。
おまけに、婚約者がいると光子に知られたあと、わざと妊娠を装って、園子を騙そうと
したのも作為が感じられて、嫌な女としか受け取られないです。
本当に園子が好きなら、そんな演技をしなくても、「隠しておいてごめんなさい。もう
一度、付き合わせて下さい。」と正直に言ったほうが例え怒られたとしても、どれだけい
いか知れません。
そこへいくと、1983年版の光子は、婚約者はいないし、従って何の作為もなく、園
子との愛欲場面も丁寧に描かれていて、その官能的な部分には私もうっとりしちゃうほど
です。
とくに、二人きりで海に行き、波に向かって砂を投げながら、二人の愛を誓ったそのあ
とで、二人同時に生理が始まった場面は思わず感動せずにはいられませんでした。(真っ
赤)
しかも、原作同様、光子は園子の夫とも体の関係になってしまうのですが、この作品で
は夫のほうが率先して、光子に迫った形になっていて、男に無理矢理迫られたら仕方ない
かも?と許せる気がしました。
そして、原作と1964年版のラストでは、光子の元婚約者綿貫栄次郎の仕業で、新聞
に光子と園子と夫との愛欲の日々が白日の下に晒され、自分たちの人生はこれで終わった
と悲観した光子が、園子とその夫に一緒に死のうと言い出し、園子の夫と光子だけが死ん
で、園子ただ一人が生き残ってしまうのですが、1983年版では園子が自分の夫に心変
わりをした光子に落胆し、園子自身が絶命するところが大きく異なっています。
しかし、園子の葬儀の最中に、光子と園子の夫がSEXする場面を入れることで、女性の
中に秘められた性の深淵を垣間見させ、原作のマゾヒズムとは、また別の味わいを醸しだ
すのに成功したように思えます。
まあ、言えば、樋口可南子さんと高瀬春奈さんのバージョンのほうが、よりレズビアン
やノーマルな女性の実態に即していて、女性にはしっくり来るということですね♪
ところで、レズビアンと来たら、もう一つ、ご紹介させてほしい作品があります。
それは1936年公開のドイツ映画「制服の処女」です。
この映画は登場人物がみな女性なら、監督もスタッフもみな女性だけで作られた作品で
、そのストーリーも、女生徒が女教師を好きになるところから、レズビアンを賛美したと
言われている知る人ぞ知る超有名な作品です。
でも、この作品に描かれていることは女性なら、少女の頃に誰でも一度は経験したに違
いないのです。
あの「赤毛のアン」のアンの心の友ダイアナしかり、少女は同性を好きになるプロセス
を経て、大人の女性へと成長していくものだからです。
だから、中学生や高校生の頃、少女はいつも一緒にいる女友達がいて、夢や憧れを綴っ
た交換日記を書いたり、どこに行くのでも手をつなぎたくなったり、或いはこの映画の女
生徒同様、憧れの年上の女性がいるものなのです。
云うなら、異性を好きになる訓練みたいなもの?
しかし、それは少女にとって、自らの愛情を育むとても大切な期間であり、また儀式な
のかもしれませんね。
やはり、女性は、人を愛さずにはいられない生き物なんですね。
まず、1964年公開の若尾文子さんと岸田今日子さんの作品から。
これは、お二人のお色気や妖しい雰囲気が溢れんばかりに出ていて、すっごく驚いちゃ
いました。
とくに、若尾文子さん。
私がこの人を初めて知った時、すでにお年を召されてましたので、しっとりと落ち着い
た人だなという印象が強く、お若い頃、こんなお色気ムンムンの演技をされていたのが、
とても意外に感じられてなりませんでした。
そういえば、相手役の岸田今日子さんにしても、私の子供の頃、テレビアニメの「ムー
ミン」の声をされてましたので、役を色々使い分けられる事に素晴らしい女優さんだった
のだなと、あらためて感服したりもしました。
そのほか、園子(岸田今日子)の夫を、船越英二さん、光子(若尾文子)の婚約者を川
津祐介さんが演じていて、みな原作の役のイメージにぴったりだと思いました。
ただ、この映画の難点をあげるとすれば、セリフや場面転換の仕方に工夫をこらし、小
説のストーリーを全部、写しとったのは、原作に忠実で好感が持てましたが、いかんせん
、ダイジェスト版みたく、ストーリー展開が急すぎて、感動に酔いしれる暇がなかったの
が、残念な気がしました。
ストーリーを全部写しとらなくても、テーマに直結する場面を鋭角に切り取り、じっく
り見せてくれれば、なおよかったのになと惜しまれてなりませんでした。
そして、1983年公開の樋口可南子さんと高瀬春奈さんのバージョン。
実は、小説を読んだのは、つい最近でしたが、樋口可南子さんと高瀬春奈さんの映画の
方は公開当時、映画館で観ていました。
しかし、こちらは原作が谷崎潤一郎の「卍」で、登場人物の名前が光子と園子と同じで
はありますが、ストーリーはかなり違ってまして、光子の婚約者、綿貫栄次郎は出てきま
せんし、ラストで死ぬのも光子ではなく園子です。
だけど、原作に忠実な1964年版よりも、私は素直に感動することが出来ました。
でも、だからと言って、1964年版が劣ってるというのでは、決してありません。
この作品は谷崎潤一郎が、女性を悪魔的で謎めいた美しい存在と捉えることで、マゾヒ
ストとしての自らの願望を具現化したものだからです。
しかも、光子を殺すことで、女性はか弱い存在でないといけないと言っているようでも
あります。
ところが、ノーマルな女性や本物のレズビアンを知っている私にはこの光子がワガママ
で計算高い嫌な女に、どうしても写ってしまうのです。
まず、最初に真性レズビアンで、園子が真剣に好きだと思わせておいて、その実、婚約
者がいた事です。
私が懇意にしていたレズビアンの多くは、男性をひどく憎んでいましたから。
しかも、園子に近づいた理由が、同性に好かれてこそ、女性としての本望だといった虚
栄心を充足させる目的なのが許せない気がしてならないです。
おまけに、婚約者がいると光子に知られたあと、わざと妊娠を装って、園子を騙そうと
したのも作為が感じられて、嫌な女としか受け取られないです。
本当に園子が好きなら、そんな演技をしなくても、「隠しておいてごめんなさい。もう
一度、付き合わせて下さい。」と正直に言ったほうが例え怒られたとしても、どれだけい
いか知れません。
そこへいくと、1983年版の光子は、婚約者はいないし、従って何の作為もなく、園
子との愛欲場面も丁寧に描かれていて、その官能的な部分には私もうっとりしちゃうほど
です。
とくに、二人きりで海に行き、波に向かって砂を投げながら、二人の愛を誓ったそのあ
とで、二人同時に生理が始まった場面は思わず感動せずにはいられませんでした。(真っ
赤)
しかも、原作同様、光子は園子の夫とも体の関係になってしまうのですが、この作品で
は夫のほうが率先して、光子に迫った形になっていて、男に無理矢理迫られたら仕方ない
かも?と許せる気がしました。
そして、原作と1964年版のラストでは、光子の元婚約者綿貫栄次郎の仕業で、新聞
に光子と園子と夫との愛欲の日々が白日の下に晒され、自分たちの人生はこれで終わった
と悲観した光子が、園子とその夫に一緒に死のうと言い出し、園子の夫と光子だけが死ん
で、園子ただ一人が生き残ってしまうのですが、1983年版では園子が自分の夫に心変
わりをした光子に落胆し、園子自身が絶命するところが大きく異なっています。
しかし、園子の葬儀の最中に、光子と園子の夫がSEXする場面を入れることで、女性の
中に秘められた性の深淵を垣間見させ、原作のマゾヒズムとは、また別の味わいを醸しだ
すのに成功したように思えます。
まあ、言えば、樋口可南子さんと高瀬春奈さんのバージョンのほうが、よりレズビアン
やノーマルな女性の実態に即していて、女性にはしっくり来るということですね♪
ところで、レズビアンと来たら、もう一つ、ご紹介させてほしい作品があります。
それは1936年公開のドイツ映画「制服の処女」です。
この映画は登場人物がみな女性なら、監督もスタッフもみな女性だけで作られた作品で
、そのストーリーも、女生徒が女教師を好きになるところから、レズビアンを賛美したと
言われている知る人ぞ知る超有名な作品です。
でも、この作品に描かれていることは女性なら、少女の頃に誰でも一度は経験したに違
いないのです。
あの「赤毛のアン」のアンの心の友ダイアナしかり、少女は同性を好きになるプロセス
を経て、大人の女性へと成長していくものだからです。
だから、中学生や高校生の頃、少女はいつも一緒にいる女友達がいて、夢や憧れを綴っ
た交換日記を書いたり、どこに行くのでも手をつなぎたくなったり、或いはこの映画の女
生徒同様、憧れの年上の女性がいるものなのです。
云うなら、異性を好きになる訓練みたいなもの?
しかし、それは少女にとって、自らの愛情を育むとても大切な期間であり、また儀式な
のかもしれませんね。
やはり、女性は、人を愛さずにはいられない生き物なんですね。