奈々の これが私の生きる道!

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「倅・三島由紀夫」平岡梓

2015-08-02 00:37:18 | 読書
 毎日、暑い日が続いてますが、ごきげんはいかがですか?
 それでは、早速ですが、本題に入らさせていただきますね。
 今回は、三島由紀夫のお父様が書かれた「倅・三島由紀夫」をご紹介します。
 実は、三島由紀夫が割腹自決した時、ご両親はまだ健在だったそうです。
 この本は、お父様とお母様から見た三島由紀夫の姿が書かれています。
 これを読んだ私は、三島由紀夫に対する見方がガラリと変わったように思いました。
 それまで、私が三島由紀夫に抱いていたイメージは、強くて、たくましくて男らしいだっ

たのですが、肉親しか知り得ない弱い部分がいくつも証されていて、可哀想な気になるほど

でした。
 またそれと同時に、幼い頃の境遇が人生に与える影響について、あれこれ考えずにはいら

れませんでした。
 三島由紀夫、本名平岡公威は生後まもなく祖母に取り上がられ、母親は4時間置きに、授

乳をする時のみ、わが子に逢う機会はなかったとか。
 そして、祖母は遊び相手に男の子は危ないと、三人の年上の女の子を呼んで、遊びはおマ

マゴトや折り紙や積み木に限定され、およそ男の子らしくすることを許されなかったそうで

す。
 (この本には含まれてませんが、私は幼い三島由紀夫が女の子の格好をしている写真も見

たことがあります。)
 おまけに、自家中毒や、肺門淋巴腺にかかるなど、病弱で、男の子の遊びをまるで知らな

かったので、初等科時代、クラスメートの男の子にいじめられる事がよくあったそうです。

 
 しかし、その反面、三島由紀夫の丁寧な言葉遣い、礼儀礼節義理立て報恩、人との約束の

時間厳守、几帳面さは祖母の影響が大きく作用したのではと、母親は分析しています。
 
 こうして、幼い三島由紀夫は、祖母によって、母親と離れ離れにされたのですが、これが

かえって、親子の絆を強めるという側面も持っていたようです。
 三島由紀夫の小説の才能をいち早く認めたのも母親で、三島由紀夫は十三歳の時の処女作

「酸模(すかんぼう)」以来、最後の作品「豊饒の海」まで、発表する前、最初に必ず、母

親に原稿を読ませていたそうです。
 このエピソードで、いかに三島由紀夫が母親に愛情を持ち、信頼していたかがうかがい知

れるようです。 
 その母親が、わが子三島由紀夫の作品を読み続けて、昭和四十三年頃から何となく不安を

感じるようになり、「英霊の聲」あたりから、だんだん文学から離れていくのが判ってきた

そうです。
 そして、三島由紀夫が亡くなった年の元旦の家族揃っての記念写真を撮る時、母親はこれ

が最後の写真になるような気がして、慌てて、自分で打ち消した事があったとか。
 またある時、三島由紀夫は母親に「ぼくのやることはいくらお母さんでも止めても駄目だ

から何も言わないで下さい。」と言った事があって、そのままわが子の死を直感したわけで

はなかったものの、何か命がけの大きな仕事をするに違いない、そうでなければこんなこと

を言うはずがない、さりとてまさかあんな形を取って出るとは思わなかったそうです。
 また亡くなる八月の中ごろ、三階のバルコニーで一家で食事をした時、三島由紀夫は席を

外して手すりによりかかり、夕日をいつになく長く見入っていたそうです。その時、母親は

「公威さん(三島由紀夫の本名)」と二度ほど呼んだが、いつもならすぐに振り返って返事

をするのに、その日はそれがなかった。いつまでも無言のまま、不動のままだった。
 それに、母親は寂しい気持ちがし、何かいよいよという気がして、「あなた死んでしまっ

ては駄目ですよ」ともう少しで口から出るところだったと言います。

 そのほか、母親と三島由紀夫のこんなエピソードも書かれています。

 三島由紀夫は、毎晩、母親に「お休みなさい」を言いに来て、母親はそれを見送るのが習

わしだったが、その都度後ろ姿に寂しげな色が漂ってくるのが判った。

 亡くなる直前の十一月の二十日頃、三島由紀夫は母親のもとに突然、やってきて「弟たち

を呼んで下さい。みんなで食事をしたい」と言い出し、手早く料理を作ったところ、「もう

出来たの。お母様は本当にテンション族だ。実に素晴らしい御馳走だ」と大喜びし、一家を

集めて食事を共にした。この時のことを振り返って母親は、あれは最後のお別れの宴のつも

りだったのではと思ったとか。

 
 私が三島由紀夫が可哀想だなと思ったエピソードではこういうのがあります。
 
 三島由紀夫は中等科の後期くらいから、小説を書き始めたらしいのですが、父親はそれに

大反対だったそうで、何度も三島由紀夫の机の上や引き出しの中にある書きかけの原稿、そ

れは一晩中、眠らずに書いたもので、それを父親は怒鳴りながら、片っ端から破り捨てたと

言います。その時、母親は心配になって、あとで部屋を覗くと、三島由紀夫は、じっとうつ

むいて涙をいっぱい浮かべていたそうです。そのたびに、母親は夫を憎く思ったりもしたそ

うですが、父親の悪口を言うのは慎まなければいけないと、お菓子や紅茶を持って行って、

黙って頭を撫でたり、ハンカチで涙を拭いたりしていたそうです。
 そうして、父親に小説を書くのは反対されていたようですが、理解ある母親に見守られな

がら、くじけずに書き続け、十九歳の年の昭和十九年、初めての著書「花ざかりの森」を出

版することになるのです。
 しかし、時あたかも、太平洋戦争の最中であり、あくる昭和二十年、三島由紀夫にも招集

礼状が届き、徴兵検査を受けるも、医師の誤診により、不合格となり、戦死の難を逃れる事

が出来た。この時、三島由紀夫は覚悟を決め、遺書を書いたというのもあったのでしょう

。あとで、母親に、「合格して出征し、特攻隊に入りたかった」と言ったとか。
 このエピソードで、もうすでに、その頃からいさぎよく死にたかったのかと思わないでもないですが

、同世代の若者が命がけで戦地に赴いていた時代背景を考えると、三島由紀夫だけに限らな

いのではないでしょうか? 
 それは、おそらく、当時の女性も同じ思いだった気がします。
 というのも、三島由紀夫と同じ1925年に生まれ、今もご健在の作家の杉本苑子さんは

まだ女学生だった1943年10月21日に、神宮外苑競技場で挙行された学徒出陣の様子

をスタンドから観ていて、1964年の東京オリンピックの時、こう振り返っておられるの

です。
 (学徒出陣も東京オリンピックも同じ場所で行われています。)

 オリンピックの開会式の興奮に埋まりながら、二十年という歳月が果たした役割の重さ、

ふしぎさを私は考えた。
 同じ若人の祭典、同じ君が代、同じ日の丸でいながら、何という意味の違いであろうか。
 あの雨の日、やがて自分の生涯の上に、同じ神宮競技場で世界九十四カ国の若人の集まり

を見る時が来ようとは夢想もしなかった私たちであった。だが、夢ではなく、オリンピック

は目の前にある。
 そして、二十年前の雨の日の記憶もまた幻でも夢でもない現実として、私たちの中に刻ま

れているのだ。
 きょうのオリンピックは、あの日につながり、あの日もきょうにつながっている。
 私にはそれが恐ろしい。
 祝福にみち、光と色彩に飾られたきょうが、いかなる明日につながるか。
 予想は誰もつかないのである。
 私たちにあるのは、きょうをきょうの美しさのまま、なんとしてもあすへつなげなければ

ならないとする祈りだけだ。

 では、杉本苑子さんが見た学徒出陣の様子とは。

 色彩はまったくなかった。
 学徒兵たちは制服、制帽に着剣し、ゲートルを巻き、銃をかついでいるきりだったし、グ

ラウンドもカーキ色と黒のふた色、暗欝な雨空がその上をおおい、足もとは一面のぬかるみ

であった。
 私たちは泣きながら征く人々の行進に添って走った。
 髪もからだもぬれていたが、寒さは感じなかった。
 おさない純な感動に燃えきっていたのである。
 あの日、行く者も残る者も、ほんとうにこれが最後だと、なんというか一種の感情の燃焼

がありました。
 この学生たちは一人も帰ってこない。
 自分たちも間違いなく死ぬんだと。



 当時の若者にとって、死は身近なものであったのがわかるようですよね。

 三島由紀夫の作品を考える時、死は様々な形をとって、随所に書かれていて、それを抜き

には語れない部分が多くあるようです。

 三島由紀夫が、幼い頃、母親と引き離され、女児のように育てられず、母親にごく普通に

男児のように育てられていたら?

 そして、戦争という苛烈な時代に青春を送っていなかったら?  
 
 

 この本を読んで、私は人の一生を決めるものは何なのか考えずにはいられませんでした。



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