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ギャラリーと図書室の一隅で

読んで、観て、聴いて、書く。游文舎企画委員の日々の雑感や読書ノート。

モンマルトルの麓で(1)

2018年11月23日 | 展覧会より
 11月11日から20日にかけてパリを訪れた。ヨーロッパの旅は初めてで不安もあったが、幸い友人のS氏がパリに長期滞在していて案内をしてくれるというので、半年以上前からの計画を実行することになった。S氏は7年前にもヨーロッパに1年間滞在したことがあり、パリにも半年いてパリのことをよく知っている。今回は約1ヶ月の滞在で、前と同じモンマルトルの中腹にあるアパルトマンを借りて生活しているという。
 S氏とは到着の翌日に落ち合い、早速アパルトマンを訪ねることになった。モンマルトルというとパリ有数の観光地でおしゃれな名前と思われるかも知れないが、その名の由来はMont des Martyrs(殉教者の丘)で、キリスト教受難の歴史を物語る。
 モンマルトルは19世紀から20世紀にかけて一大歓楽街となり、ムーラン・ルージュ(今も健在である)などのキャバレーや、シャ・ノワール(カフェだったという)に、退廃的な芸術家達が集うようになる。ロートレックの描いたあの世界である。
 モンマルトルに登るにはケーブルカーもあるが、標高がたった130メートル(それでもパリで一番高い)しかないので、歩いて登る。S氏の案内で途中、ピカソやモジリアーニなどが住んだBateau-Lavoir(洗濯船)の跡やゴッホ兄弟が住んだ建物などを見学しながら、モンマルトル美術館へ。19世紀のモンマルトルの文化や歴史を紹介するその美術館は古い邸宅を改造したもので、偉大な作品はないが、古き良き時代の雰囲気を濃厚に伝えている。

下から見上げたサクレ・クール

 頂上のサクレ・クール寺院を目指す。寺院脇に小さな広場があり、その周りを土産物店やカフェなどが取り囲んでいる。公園には似顔絵描きの芸術家達が観光客を捕まえている。似顔絵ではなく風景画で勝負の本格派もいるが、中には「おれは土産物の風景画なんか描かないぞ」といった感じで、抽象画とすれすれの表現をねらっている自己主張派もいた。

広場の絵描き達

 サクレ・クール寺院は美しい教会である。1914年に完成したまだ新しい建物のせいもあるが、遠望もきれいだし、近くで見てもその均整の取れた構造に魅せられてしまいそうになる。正面に展望台があって、パリ市街を一望できる。観光客はここで記念写真を撮ることになっている。私は近くの空き地の切り株に巨大なマスタケを見つけたのでカメラに納めた。パリのキノコ好きなら大喜びするだろうに。

これがマスタケ

 ここにサルバドール・ダリの美術館があり、S氏の目的の一つがそれであった。正式名称はエスパス・ダリ・モンマルトル。小さな館だが、展示作品は意外に多く、彫刻から絵画、ポスター、イラストなど収蔵品も幅広い。そして一番特徴的なのはダリの狂気の世界を濃厚に示しているところだろうか。
 そこでリトグラフ作品に見とれていると、若い美人の館員がファイルに納められた原画の数々を見せてくれるというのである。巨大なファイルに入った作品を一枚一枚開いて、場合によってはファイルから取り出してまで見せてくれた。どこの美術館がこんなサービスをしてくれるというのだろう。ダリに関しては油絵以外の絵画は未見の世界であり、とても嬉しかった。
 S氏の目的はもう一つ。モンマルトルの麓に美術館があり、そこで日本人のグループが面白そうな展覧会をやっているからそれを観に行こうというのである。私はそれがいったい何であるのかまったく分からずに、その美術館の前に立つことになった。

アル・サン・ピエールの外観

 サクレ・クール寺院を正面から見上げる麓の街並みの一角に、円形の建物があり、Halle Saint Pierreの名前がある。そして正面の看板にはArt brut Japonaisの文字が。私は思わず絶句してしまった。「これがあのアル・サン・ピエール美術館か。でもなんで今頃日本のアール・ブリュットをここでやっているんだろう」。
 実はここは8年前の2010年、「アール・ブリュット・ジャポネ展」が開かれたその場所であったのだ。私はタイムスリップにでも巻き込まれたような奇妙な感覚に捕らわれてしまっていた。(柴野)



寓話というリアリティ――川田喜久治写真展「百幻影」(2)

2018年10月23日 | 展覧会より

川田喜久治氏は1933年、茨城県生まれ。立教大学在学中から土門拳らが審査する月刊『カメラ』に応募して受賞するなどし、卒業後新潮社でフォトジャーナリストとなった。1959年フリーになり、奈良原一高、細江英公らと1959年「VIVO」(~1961年)を結成、以後、独自の視点と様々な手法を駆使し、「地図」「聖なる世界」「ロス・カプリチョス」「ラスト・コスモロジー」「WORLD’S END」等の個展や写真集で、イメージに訴える作品を撮り続けている。
「ロス・カプリチョス」は、「気まぐれ」と訳されているフランシスコ・ゴヤの同名の版画集に影響を受けて撮られたものである。それにしてもゴヤの、妄想とも幻想ともつかぬ寓意に満ちた画面が乗り移ったような写真などあり得るのだろうか。愁いを帯びた表情で日の丸の鉢巻きを締めた青年、股間に地球儀を挟む裸体の男性、公園に広げられたうつぶせの裸婦のポスターなど、時にはだまし絵のように、猥雑にして刹那的な画面に複数のイメージが混在し、生と死とエロスがない交ぜだ。ハイアートとローアートを自在に行き来したゴヤの想像力を思わせる。
一方、「ラスト・コスモロジー」は日食や月食や彗星等の天体や、雲の動きなどの天空の事象に、それを受ける地上の光景を織り交ぜたものだ。だが「ラスト」とつけられているとおり、日食の太陽は二度と戻ることのない終末の太陽を思わせ、むくむくとした雲はレオナルド・ダ・ヴィンチの「大洪水」を連想させる。そして地上にも嵐の予感がする。
「WORLD’S END」や「ロス・カプリチョス」では都市のカオスを写し出し、「ラスト・コスモロジー」では人智を超えた自然現象を捉える。後者にあってもゴヤ同様、夢や眠り、幻想など言葉では説明できない非理性的なものへの崇敬を見ることが出来る。ただし決して個人的な感傷に堕してはいない。氏の視線は、凝視の内に偶然性も取入れながら、現象の深淵にある人々の無意識的な夢や幻想をすくい上げ、日常と非日常のあわいで蠢く人間や自然をあぶり出していく。それは「地図」がヒューマニズムに訴えるのではなく、人間の根源的な暴力性を暴き出した視点以来一貫したものだ。
会場全体を追っていくと、年代が錯綜しそうになる。未視と既視が混在しそうになる。都市は崩壊と再生を繰り返してきたのではないか。歴史は何度も終焉を迎え、今ある現実とは幻想なのではないか。「昭和最後の日の太陽」は、濱谷浩が終戦の日に撮った「終戦の日の太陽」と重なって見える。1968年福島で撮られた「溶融物質」にはぎくりとさせられる。歪みそうな時間を歴史の時間に立ち返らせるのが2001年9月11日以降毎年この日に撮影しているという東京の写真だ。氏はおそらく本能的にこの日にシャッターを切るようになったのではないか。2011年のこの日、東京の空を写した写真に、ミケランジェロの「最後の審判」のキリストや聖人たちを浮かべてみたくなるのは私だけだろうか。
日光東照宮を撮影した「日光―寓話NIKKO-A Parable」展で、氏はこのバロック的な空間に、日本人の心理的な深淵をかい間見、「寓話というリアリティ」を見出している。逆説的な言い方だが、ゴヤの版画の寓意が実は時代を超えた革新性を持っているように、寓話がいつしか現実を超えることもあり得るのだ。あるいは幻視というリアリティと言い替えてもよいかも知れない。集団の夢や幻想がいつか現象となる日が来ないとも限らない。そんな予見を抱かせる氏の写真こそ、現実を切り取るはずの写真と逆行する、パラドクス以外の何物でもないのだ。(霜田文子)
 

寓話というリアリティ――川田喜久治展「百幻影」(1)

2018年10月16日 | 展覧会より

                写真集『地図』(1965年刊)
撮影者の幻想や妄想までもが写り込んだような、川田喜久治氏の写真を初めて見たのは2010年春、新潟県立近代美術館で開催された「日本の自画像」展だった。原爆ドームの壁の“しみ”に戦争という暴力を幻視した「地図」シリーズ10数点は、その会場で異彩を放っていただけでなく、これまで見てきた多くの原爆写真とも全く異なっていた。白黒の、人のいない不在の風景や、剥落しかけた壁面が、なんとも心をざわつかせ、深淵に引きずり込まれるようで、その後ずっと壁面の“しみ”が私の中でさらに広がっていくような感覚にとらわれることになった。
 1965年に刊行された写真集『地図』を游文舎で発見したのはその直後のことである。故・小谷寛吾さんの蔵書に含まれていたのだった。工芸品のような装幀だけでなく、写真の配列にも創意を凝らし、暗黒の時代のメタファーとして見るものに直接訴えかける仕掛けになっていた。
実際の写真と、写真集とが相まってできる川田喜久治氏の世界について「北方文学」第六十四号(2010年10月発行)に小論を寄稿した。少し後になって知人の紹介で、川田氏に同誌をお送りしたところ、丁寧なお礼状と当時撮影していた「WORLD’S END」シリーズが掲載された雑誌をお送りいただいた。そこにはカラー写真も交えて、めまぐるしく移り変わる視線の移動を伴う、喧噪の街や人、ビル群を捉えた都市像があった。写真集『ラスト・コスモロジー』はじめ、「地図」シリーズ以降の写真も少しは見ていたものの、なお「地図」の、地を這うような執拗な視線にこだわり続けていた自分の狭い知見や思い込みに恐縮しきりだったのだが、一見賑やかな世相を捉えたかに見えるそれらの写真にも「地図」に通底するものが確かにあった。見るものを挑発するような様々なビジョンの交錯と、そこから生れる不穏な気配だ。このときの写真は、自分で車を運転しながら撮られたものだという。運転と、シャッターチャンスという二重の緊張感が、意識と無意識をシンクロさせ、人間の固定概念を揺さぶるものとなる。そんな新たな挑戦も知った。
さて、先日東京品川のキャノンSギャラリーで開催された川田喜久治展「百幻影」を見る機会を得た。1960年代後半からの「ロス・カプリチョス」シリーズと「ラスト・コスモロジー」シリーズを中心に新作を加えた100枚により、半世紀の軌跡を辿るものである。
会場を一見すると、ばらばらなほどのテーマやモチーフに戸惑いそうになる。しかも配列はそのばらばら感をなお一層増幅させているように見える。天体写真と都市の写真が並び、風俗もあれば日の丸もある。時折強烈なカラーが混じる。その一枚一枚にも複数のイメージが重なり合ったりしている。写真集『地図』にも見られた、かけ離れた組み合わせにより意想外のイメージを生み出すディペイズマン的な配列と思われるが、その振幅はさらに大きくなっている。「生と死」「天と地」「聖と俗」あるいは「日常と非日常」といった双極のイメージが混在し、違和感をもたらし、ざわざわと胸騒ぎを覚えるのだが、所々に既視感のある光景や日付が楔のように配され、次第に様々な声が響いてくるのに気づくのだった。(霜田文子)

大地の芸術祭より(2)―「アトラスの哀歌」

2018年09月11日 | 展覧会より


(1)では、人気スポットとなっていて、既にいろいろと書かれている所を辿り、自分なりの備忘録として書き留めた。時間も限られており、どうしても評判になっているものを優先的にしてしまう。だがあまり取り上げられることのない「アトラスの哀歌」だけはなんとしても観たいと思っていた。
作品は十日町市中条地区の高龍神社にある。鎌倉時代に創建された龍を祀る神社で、地元では雨乞いの神として厚い信仰を得ているという。羊草が浮かぶ池を横目に、参道の緩やかな坂を上る。沿道の杉の大木が、日差しを遮りひんやりとした空気に包まれている。坂を登り切った所にある社殿の中に、その作品はあった。期待を裏切られることはなかった。
 幾層かの球体が和紙や薄い布で覆われ、描かれた木や舟、文字が光の中に浮かび上がる。民族楽器だろうか、ゆったりとした音楽に合わせて、静かにゆっくりと回転している。作者はエマ・マリグ。1960年チリ・サンチアゴに生れ、17才で亡命し現在はフランスに住む。情報はこれだけだ。
 
回転しながら、光に浮かび上がる文字を、一文字一文字追うように書き写す。DESTIERROS、LAMENTI、PASO DEL ESTE,PASO DEL MARES・・・。それぞれ追放、哀歌、通り過ぎる、海の上に、といったところだろうか。国を追われること、流浪することの哀しみが伝わってくる。
 チリは、1970年、世界で初めて民主的な選挙で社会主義政権が誕生した。しかし3年後、CIAの介入などもあって、クーデターが起こりピノチェト将軍率いる軍事政権が誕生した。このとき多くの人々が処刑され、100万人もの人が国外へ亡命したという。半世紀近くが過ぎてもなお記憶に鮮明なのは、ホセ・ドノソやイサベル・アジェンデらチリの作家の小説による追体験が大きい。
もっとも私はアジェンデについては映画「愛と精霊の家」を先に見てから原作『精霊たちの家』を手にしたのだが、期待外れで、途中で放り出してしまった。もちろん資質や力量にもよるが、アジェンデ大統領の一族であり、実際に革命を目の当たりにしていたアジェンデの場合、映画ならその臨場感が生かされただろうが、文学として深めるには時間も距離も近すぎたのかも知れない。一方ドノソは当時スペインにいて、もともとは政治的な文章を書く人ではなかったのだが、祖国の政情に矢も楯もたまらず『別荘』を書いている。複雑な比喩で軍事政権をアレゴリカルに描いたフィクションが、果して弾圧下の国民の共感を得られたかどうかは疑問だが、時を経て、国境を越えても、人間の狂気、民族や文化の軋轢など、様々な読み取りが可能な作品となっている。とりわけ異様なのは大人がハイキングに出かけた一日の間に、残された子供たちは怒濤のような一年間を体験しているというストーリーだ。祖国の急変は、傍観者と当事者との間にそれくらいの時間感覚の差違を生み出しているということだろうか。
エマ・マリグの作品はまさに「静謐」ということばがふさわしい。そしてしみじみと哀しみや故郷へのノスタルジーが伝わってくる。少女期にクーデターに遭遇し、思春期に亡命をした作家にとってそうした時間とは、ドノソの描いた「子供が体験した一年間」にあたるのではないか。そしてその後の40年余りとはこうした体験を咀嚼し、世界に目を向ける時間でもあったのではないだろうか。ゼウスとの戦いに敗れ、世界の果てで天空を背負わされたアトラスに寄り添うように、地球のほころびを丹念に繕いながら、自らと同じ運命を強いられた難民たちに思いを馳せる。神社という空間に融合しているのも、国境を越え、宗教を超えた作家の立ち位置のなせる技だろう。(霜田)
 

大地の芸術祭より(1)

2018年09月07日 | 展覧会より
大地の芸術祭に行ってきた。酷暑・混雑を避けて9月に入ってから、と決めていたのは正解だったようだ。特に渋滞、入場制限などと聞いていた清津峡渓谷トンネルをじっくりと見ることが出来たのはうれしかった。すでに多くの報道がなされているが、いくつか紹介したい。
落石事故の後作られた全長750メートルトンネルにはいくつかの景観スポットがある。そこから見える清流と厳しく荒々しい岩、その峡谷に合わせた壮大な作品だった。しかもところどころにちょっとした仕掛けがある。周到に作られた物語のような作品でもあるのだ。

壁面にはこんな絵も。

天井にはところどころに光のフラグメント。

景観スポットから見る峡谷と作品

そしてトンネルを突き抜けた先に広がる景観と鏡像。

トンネル出口から峡谷を見る。流れが変っていることに気づく。ここは分水嶺なのだ。



津南町の、かつて織物工場だった建物でのインスタレーション。メキシコの作家、ダミアン・オルテガ「ワープクラウト」
2種類の大きさの白い球体は水滴のようでもあり、無数の星々のようでもある。しかも雪の結晶のように計算された整然たる配置を見せる。建物の中で、まるで織り上げられたようだ。メキシコの神話では編むことは大地と天国を一つにすることだという。日本とメキシコの神話や伝説との出会いも感じる。




清津倉庫美術館は、大地の芸術祭主要作家である磯部行久の作品を「収蔵して展示する」場所である。イコンのような作品から、環境アートへという磯部のこれまでの行跡を辿っている。個人的には地図という平面に重層的な時間と空間が表現されるのが興味深い。



松代の「アート・フラグメント・コレクション」は、川俣正を中心にしたグループによる、廃校になった小学校を利用したプロジェクトである。前々回、中原佑介の蔵書をらせん状の本棚にして展示していたがそれを中心に、これまでの芸術祭に使われた作品のいわば「かけら」を集めたもの。中には日常雑器や木片等もありそれらが混在し境界が曖昧になる、そこにアートの芽が宿っているようだ。