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ギャラリーと図書室の一隅で

読んで、観て、聴いて、書く。游文舎企画委員の日々の雑感や読書ノート。

縄文の美――「生きること」そのもののダイナミズム

2018年08月27日 | 展覧会より

東京国立博物館平成館で開催中の「縄文 一万年の美の鼓動」展は、入場制限がかかるほどに混み合っていた。それでもメインの、国宝6点が並ぶセクションは、広々とした空間をとってゆったりと配置され、前後左右からじっくりと見ることが出来た。その中でも目玉は十日町市笹山遺跡の火焔形土器。だが、「あれ、小さい」というのが正直な印象であった。たぶん観客の多くがそう思ったのではないか。展示されていたのは、同遺跡の火焔形土器国宝一号、通称「雪炎(ゆきほむら)」より一回り小さいものである。(こちらは大地の芸術祭に合わせて地元で展示されている。)しかしそれだけでなく、チラシやポスターの写真に惑わされていたのかも知れない。もちろんがっかりして、ということではない。極めてバランスがよく、伸びやかで堂々としていて、広い会場の空気を凝縮して取り込んでしまうような、抜群の存在感を放っていた。
もう半世紀以上も前になる。1964年、一巡目新潟国体の聖火の炬火台は、火焔土器をイメージしたものだった。火焔土器のことはこの時初めて知ったのだが、小学生ながら、「美」という範疇からははみ出る異様な形態にもかかわらず、心打たれるものがあるということを漠然と感じたのだった。以来、縄文=新潟=火焔(型)土器(長岡市馬高遺跡出土品だけが火焔土器、以降の出土品は火焔型土器と称する)と刷り込まれることになった。
そのせいだろうか、縄文の土器や土偶が国宝に指定されたのは平成になってから、というのはちょっと意外な感がする。馬高遺跡が発見されたのは1930年代、岡本太郎が縄文の魅力を「再発見」したのは1950年代のことだが、それからずいぶんと間があったのだ。しかもその数は、文化財全体から見ると決して多くはない。だが1980年代から90年代にかけて発見された信濃川流域の火焔型土器が、岡本太郎の言うような縄文のエネルギーをさらに裏付けたのは間違いない。今展で、十日町市野首遺跡火焔型・王冠型土器が十二個並んでいたのは圧巻だった。
一口に縄文と言っても、約10,000年の幅がある。土器や土偶を中心に、多様な文様や形があるのは当然だし、ダイナミックで、神秘的な一方で、とても繊細だったり、幼い子への愛情など、現代人にも通じる感情を表現したものもある。だが、それらを前にしてほとんど語ることの出来ない自分がいた。ただ圧倒された、というのとは違う。アール・ブリュットの作品を見たときも、言葉を失った。どちらも「作品」として意識的に作られているわけではないからだ。だが、評価されることを意識していないアール・ブリュットとは違って、縄文の作者たちはおそらく、集団の中でよく出来た、などと褒められたりもしていたのだろう。だからある基準に従えば、よいもの悪いもの、という評価も出来るはずだ。それでも頭の中に茫漠とした世界が広がっていくようで、いよいよ言葉は遠のいていく。それはたぶん、それら小さな土器や土偶にあまりにも多くのことが込められているせいではないか。超自然現象も、生命を脅かすものも生きながらえさせるものも、生活の全てと一体となり、道具もまたその一環として切り離すことの出来ないものであり、単独に土器や土偶を語ることなど不可能だからではないか。
この展覧会には同時期のユーラシア大陸各地の土器類との比較コーナーもある。すでに文字を持つ地域や都市国家もあり、シンプルで実用的な土器類など、陶工がいて工業生産をうかがわせる地域もあった。しかし文字を持たない縄文人にとって、濃密な装飾が施された土器とは集団の心をつなぐもの、記憶をとどめる記号のようなものではなかっただろうか。私はかつて、用の美を遙かに超えた火焔型土器は実用ではなく祭祀用とばかり思っていたが、ちゃんと煮炊きに使っていたというのも畏怖や祈りと生活が一体だったからだろうし、作り手は女性というのは盲点だった。確かに土器つくりは女性の仕事だったはずだが、現在の、美術工芸品としての感覚からつい「力強く男性的な」といいたくなるのだ。そういえば有史以来美術品や造形物の作者はほとんど男性だったのだから。我々がそこで感動するのは「快」がもたらす「美」ではない。命がけの生活の中でこそ生れた造形、それらの背後にある、畏怖や畏敬が生み出す緊張感がもたらすものではないだろうか。(霜田文子)

日本の近代美術を批評的に再構成――「小沢剛 不完全」展

2018年02月06日 | 展覧会より
私はいつも思うのだ。石膏デッサンがどれだけうまく描けたとして、「創造する」事と直接結びつくのだろうか?石膏像とは、西洋美術を学ぶ牙城たるアカデミズムの権威を守るためにあるのではないのか?と。
 
千葉市美術館で開催中の「小沢剛 不完全」展では、まず、たくさんの石膏像のインスタレーションと、それを取り囲む石膏デッサンから始まる。デッサンには青木繁や山下新太郎のサインも見える。明治初頭に日本に移入された「石膏像/石膏デッサン」が、美術教育の現場に存続している事実とは、無自覚に西洋に追随し、今なお「外来の美術」の枠組みに縛られている日本の近代美術の象徴とも言える。東京芸大教授でもある現代アーティスト・小沢剛の作品とは、日本の近代美術史を批評的に再構成する試みでもある。

「パラレルな美術史」というサブタイトルがあるように、醤油画という技法が存在していたという想像のもとに、古代から現代までの醤油画を並べた「醤油画資料館」や、戦争画の責任を問われてフランスに帰った藤田嗣治が、もしもパリではなくバリに行っていたら、というフィクションを絵画と映像で表現した「帰ってきたペインターF」などで、複層的に日本の美術史を辿り直してみせる。その手法は、単なるパロディにとどまらない想像力とユーモアがある。
実は「ペインターF」の前には、「す下降にンバンレパ兵神神兵パレンバンに降下す」という、戦争画のパロディ・シリーズがある。元になっているのは鶴田吾郎の戦争記録画「神兵パレンバンに降下す」である。日本の油彩画はずっと、とにかく暗くでろりとしていた。西洋の歴史ある宗教を背景とした重厚な油彩画に気圧されていたのではないか。それが戦争画のあの突き抜けたような明るさはどうだろう。呪縛から突然解放されたかのようだ。鶴田の作品はその最たるものだ。抜けるような青空に白い落下傘が無数に舞い降りてくる。それを一部模してデカルコマニーのように左右相称の画面を作ると、なんと銃口が本人に向かってくるのだ。
 余談だが、この鶴田吾郎という画家は、中村彝と一緒に盲目のロシア人・エロシェンコの肖像を描いている。決して下手なわけではない。けれども彝の精神の奥深く入り込んだ画面と対比されることで名前を残している人だ。戦争画にしてもしかり、戦後は「描きたいから描いた」と開き直っている。どうも軽率というか、時流に流されやすいというか・・・いやそれこそが当時の本流だったのだろうか。
 一方、藤田嗣治の戦争画についてはすでに多く語られているが、小沢はガムランの音曲に合わせて次のように歌詞を作る。
「これは私の絵なのか?本当にやりたかったことか?」「たくさんの犠牲と涙の末に戦争は終わった。しかし、彼は制作の手を止めようとしない。いつの間にか国のための制作では無くなっていたということなのか?」
そして戦後、祖国に居場所のなくなったFは、バリで名も無き画家として過ごすのである。鶴田と藤田を対比させることで「戦争記録画」という、近代日本美術史の闇が少しばかり開かれていく。

また明治初頭に油絵を展示していた「油絵茶屋」という見世物小屋の再現や、ねぶたや博多人形等を集めて見世物小屋風に仕立てた「金沢七不思議」では、当初は先端アートの展示の場であったはずの見世物小屋そのものや、ねぶたなどがなぜ「美術」というジャンルから除外されたのかを問い直す。美術館という、特権的地位と担保し合った制度が、美術でないものを周縁に追いやってしまったのではないか。それは「美術館の内と外」だけでは見えてこないものだ。小沢剛がかねて「移動」「逍遙」を伴う活動をしていることこそが周縁に目を向ける手段ではなかったか。
 もちろん、戦後多くの「前衛」が、未完の近代を問い、美術そのものへの疑問を呈して格闘してきたが、ほとんどが自己破壊ないしはエンドレスの自己模倣を繰り返しているのに対し、小沢の複眼的な視点は、多様で豊かな方向性を見せる。そしてそれに気づき始めた作家が出始めているのではないか。そう思うのも、東日本大震災後、鴻池朋子がそれまでの制作をいったんリセットし、内面を降下するような時間を経て“皮”や“縫う”という作品にたどり着いたことを思うからだ。彼女が、「ものを作る」という人間の原初的な営為に立ち戻り、周縁に追いやられていた日常の手仕事に芸術の根源を見出したことと重ね合わせてしまうのである。「不完全」とは、岡倉天心の著書『茶の本』から採られた言葉で、「完全に対するネガティブな言葉ではなく、完全を目指す途上に立つ、限りなく豊かで優しい意味をもつ」のだという。(霜田)

「熊谷守一 生きるよろこび」展と田村祥蔵氏著『仙人と呼ばれた男』

2018年01月22日 | 展覧会より
 熊谷守一の、明るく単純化された画面はどのようにして生れてきたのだろうか。東京国立近代美術館で開催中の「熊谷守一 生きるよろこび」展では、「飄々とした」「超俗」の画家、子供のように純真無垢な絵というだけでは済まされない、熊谷の造形への挑戦や執念が、時系列に沿ってわかりやすく展示されている。
「轢死」(1908年)「陽の死んだ日」(1928年)「ヤキバノカエリ」(1956年)――年代を隔てたそれぞれの時期の代表作が、異彩を放っていた。いずれもなんとも不穏なタイトルだが、作風は全く異なっている。
 「轢死」の、何が描かれているか判然としない昏々とした画面は、油脂の経年劣化によるものだが、もともと執拗に絵の具を塗り込み、闇のような背景に人体を浮かび上がらせようとしたのだろう。当初から絵の具の層が色彩を沈下させていたのではないか。光を受けたわずかな稜線が人体を想像させるが、それだけにいっそう無気味だ。きっかけは1903年のある夜、女性が列車に飛び込み自殺した事件を目撃したことだった。1903年のスケッチには、警官らの持つ燈火に照らし出された亡骸の印象が添え書きされている。この作品が制作されたのは5年後のことだ。光と闇を追求し続けていたのだろう。
 「陽の死んだ日」は、数え4歳で死んだ次男の死に顔を残したいと、筆を執ったもの。地塗りの施されていないキャンバスに荒いタッチで横たわった子供の顔が描かれているが、いつのまにか「絵を描いている自分に気がつき、描くのを止め」たと言う。未完のため、油彩スケッチのようで着物の赤や、寝具の白はほとんど生のままで鮮烈だが、ここでも蝋燭の灯に照らされた顔には、絵の具が塗り重ねられている。息子の死を一瞬忘れ光に魅入られたのではないか。この2点は色調こそ違うが、もし許されていたのなら後者もまた、執拗に塗り重ねられ、遺体が暗闇から浮かび上がる作品になっていたのかもしれない。それにしても子供の死に際して、簡単な鉛筆スケッチなどではなく、キャンバスと油絵の具を持ち出すこと自体が奇異な感じがする。
 二つの作品とも、「死」をテーマにしながら、死を悼むというよりも、「死」という異常な事態に立ち会い表現者としての本能が突き動かされたと思いたくなる。だがその分、個人的な感傷を越えた凄絶さが伝わってくるのも事実だ。
一方、「ヤキバノカエリ」は、長女・萬の遺骨を抱いた長男と、次女、自分自身を描いているのだが、風景は大胆な色面で構成され、人物や木々の輪郭線がしっかりと引かれている。中間色でまとめられた画面に、遺骨と、熊谷のあごひげの白色が浮き上がる。1936,37年頃から熊谷の画面には赤い輪郭線が登場し、40年代に入ると、囲まれた部分は影を持たない平板な色面となり、明るい色が多用されていく。さらにゴーギャンやマティス、ナビ派を思わせる色彩や形態、構図が見られるようになる。「ヤキバノカエリ」も、アンドレ・ドランの「ル・ペックを流れるセーヌ川」との類似が指摘されている。萬の死から9年後の作品である。この間スケッチを繰り返し、9年の歳月をかけて、哀しみを鎮めながら、新たな表現を模索していたのだろう。
1940年頃から顕著になる単純な形態と平板で明るい色面の絵画だが、ライトレッドなどの強い色で下地を作った上に、さらにそれに負けないようにしっかりと絵の具を塗り込むことで、力強く発色している。輪郭線は上層の絵の具を引っ掻いて削り、時にはさらに描き加えているから、これまた強い意志を感じさせるのだ。明度や彩度についてもしっかり意識されている。ただ単に「純真に」「楽しんで」いたとは思えない。実際、制作は夜、決して家人をアトリエに立ち入らせず、闇の中、燈火によってずっと光の表現にこだわり続けていたのだ。
ところでこのほど柏崎市出身で、元日本経済新聞社取締役などを歴任された田村祥蔵氏が、熊谷守一の評伝『仙人と呼ばれた男』を上梓された。氏はかつて文化部記者として「私の履歴書」欄で熊谷を取り上げ、インタビューで貴重な名言を引き出し、それを元に単行本として発刊された『へたも絵のうち』は、その後の熊谷研究に必須の資料となった。いわば「飄々とした、仙人のような」熊谷像を決定づけた人でもある。しかし田村氏自身はずっと「微妙にきれいすぎはしなかったか」という後ろめたさを抱き続けていたという。インタビューは訥々としたものだった。しかし文章になったとき、内部の時間は飛ばされてしまう。どこかに聞き手の、あるいは書き手のフィルターがかかってしまう、というのだ。そこで改めて熊谷に向き合った氏は、膨大な資料を渉猟し、より客観的な事実を積み上げ人物像を浮き上がらせていく。超俗というよりも、一貫して自分を曲げず、争わず「実」に沿って生きた信頼の置ける人物として。
熊谷の前半生とは、海外から怒濤のように様々な絵画が押し寄せてきて、それらを巡って我が国の画壇も大きく揺れ動いていた時代である。同書から、熊谷が東京美術学校の師である黒田清輝と、その師・ラファエル・コランを「まるっきりつまらない絵描き」と痛烈に批判していたことを知った。その批判が確かなことは今展に出品されていた、「蝋燭」(1909年)や「ランプ」(1910年)を見れば明らかだ。同様に黒田に反発していた青木繁と気脈を通じていたことにも納得がいく。
田村氏は「絵の研究者ではないから思うところがあっても敢えて語ることを避けた」と後書きに述べている。しかし私自身は、作品を見るとき、ほとんど人となりには関心が無い。極端に言えばどんなに悪い人であっても作家なら作品が第一だと思っている。その意味でも、おそらく類を見ない熊谷作品の理解者であろう田村氏に、絵についてももっと語ってほしかったと思っている。
実を言えば私は熊谷守一の晩年の作品しか知らず、好きになれないでいたのだ。今展を見たのも田村氏の著書がきっかけだった。そして初期の光と闇を追及した作品を知り、また晩年の作品が単に「楽しく」「のどかな」ものではないことも知ったのである。海外留学はおろか、一度も渡航しなかった熊谷であるが、目指していたのは日本では見られないような色彩と光ではなかったか。アカデミズムや官展から背を向けた姿勢は、日本的なじめじめしたものからの解放でもあったかもしれない。(霜田文子)


常に挑戦する、世界に誇る彫刻家・運慶――「運慶」展(2)

2017年12月10日 | 展覧会より

高野山金剛峯寺の八大童子像たちが、どうだと言わんばかりにこちらを見つめている。訴えかけるような視線に吸い込まれそうだ。一瞬の動きを捉えた生気みなぎる六体の像それぞれが、個性豊かに彫り分けられている。悪ガキ・制多加が、ここでは知的で強い意志を持った表情を見せる。誰かになぞらえたくなる親しみやすさを持ちながらも、心の奥底にたぎるものは尋常ではない、永遠の少年たちだ。優れた表現力は時代を画するものだけれども、少年たちのイメージは平氏による南都焼き討ちの中、奈良仏師たちが命がけで救い出した阿修羅像を彷彿とさせはしないだろうか。
運慶像には独創的にして普遍的、リアルにして崇高という、ほとんど双極の概念が見事に融合している。
願成就院の毘沙門天立像の足下では、二人の邪鬼が全身を使って精一杯抵抗している。滑稽なまでに大仰なポーズだが、毘沙門天の緊張感ある表情も、少しひねった腰も、踏ん張った足も、みじんも揺らぎはしない。深く刻まれた衣紋線が、量感たっぷりのたくましい体を正確に表わしている。精悍にして激しい怒りの表情は、平安貴族に愛された柔和な和様から遠く隔たっている。しかし単に新しいばかりではない。台頭してきた武士によって、辺境の地に仏法をもたらそうという意図のもとに造られた像には、蝦夷に対峙せんとして造られた、みちのく黒石寺の薬師如来像の精神を重ね合わせたくなる。あるいは神護寺薬師如来像の、ふてぶてしいまでの表情と、量塊のようなどっしりとした体躯。こうした平安初期の、仏教への素朴で真摯な信仰を率直に表わした仏像への回帰を感じるのである。
それは常楽寺阿弥陀三尊像の重厚な像容にも通じる。しかも、ここでは玉眼を使っていない。
目に水晶をはめ込んだ「玉眼」が発明されたのは運慶の少し前のこと、この画期的な手法は運慶の像にも大いに利用された。しかし運慶は、常楽寺像以降、仏菩薩には玉眼を使おうとしなかった。あまりにもリアルであること、人間くささを嫌ったのだろうか。最先端ばかりを走っていたわけではないことがよくわかる。
 
運慶の到達点はなんといっても「無著・世親像」だろう。2m近いとはいえ、それ以上に大きさを感じさせる。衣の襞の間に孕む空気や、少しくぼんだ眼窩がそれぞれの年齢を表わしている。どこにでもいそうな老人の無著、それより少し若い世親も決して特徴ある風貌ではない。しかもちょっとした手の動きだけ。それがなぜ、これほどまでに深遠で崇高で威厳に満ちているのだろう。何かを訴えかけてくるのだろう。知性と気品がにじみ出ているのだろう。遠くを見つめるような無著の目。少し上方に向けられた世親の目。玉眼の効果が最大限に生かされ、奥深い光を湛えている。ふたりの特徴がこの一点に凝縮され、暖かくも、静謐で緊張感ある空間を作り出す。写実だけではない、内面性をも表わす、空前絶後の作家だと思った。
後継者・康弁の竜灯鬼も傑作だ。これ以外に確かな作品が遺されていないのは惜しいが、これもよいことだったかもしれない。運慶風の、生気や動きや筋骨隆々の肉感がどれほど人気を博したことだろう。それは大衆迎合の危険も持ち合わせているからだ。参考出品された浄瑠璃寺伝来の十二神将像には明らかに大衆におもねる大仰なポーズやおどけた表情が見て取れる。
 
湛慶の、抑制の効いた像もいい。仏像だけではない。何気なく愛くるしく、心温まる仔犬像。明恵上人の遺愛品だ。宗達の「仔犬圖」と双璧だと思う。  (霜田文子・この項終わり)

 

常に挑戦する、世界に誇る彫刻家・運慶――「運慶」展(1)

2017年11月30日 | 展覧会より
円成寺の大日如来像を見たのは学生時代のことだった。奈良市街からかなり離れた山あいの静かな古刹の、堂宇に射す光を一身に集めながら、そこだけ清澄な空気が取り巻いている。金箔の多くが剥がれ、漆色がかえって艶めいている。張りのあるほお、引き締まった体躯、一途に何かを見つめ、追求しようとするまなざし。仏像にも若若々しさ、瑞々しさというものがあるのだ、とはじめて知った。青年らしいひたむきさ、思慮深さ。しばらくその場を動くことが出来なかった。
その後奈良を訪れる機会はほとんどなく、この像にまみえることはなかった。当時は重要文化財だったが、いつからか国宝に引き上げられた。でもそんなことは私にとってはどうでもよい。記憶の中の大日如来像はなお鮮明によみがえる。

この秋、空前の運慶展が開催された。興福寺中金堂再建記念展である。現存する運慶像31体中、円成寺像も含めて22体が一堂に会する。これは見逃すわけには行かない、と思っていたものの、結局会期末ぎりぎりになってしまった。混雑は覚悟の上で、東京国立博物館平成館前に並んだ。入場制限はかかっていたが、それでも40分というのは十分想定内である。(ちなみに同じ日、上野の森美術館の「怖い絵」展は80分待ち。こちらも見たかったが、諦めた。)しかも、館内の展示はゆったりとしていて、一体一体時間をかけて見ることが出来、あまり混雑を感じなかった。日頃、仏像は本来の場所で観るべきだ、と思っていたが、そしてそれは今でも変わっていないけれど、像の周囲をぐるりと回り、側面や背面も観ることが出来るのは大変ありがたい。
真っ先に円成寺の大日如来像が展示されている。運慶の処女作なのだ。安元二年(1176)、運慶20代半ばという。通常は3ヶ月ほどで作られるものを、運慶は一年近くをかけ、おまけに完成した暁には台座裏に墨書名までしている。いかに造像に精魂を傾けたか、そして職人ではなく、一人の作家としての自負も窺える。自身の若さ、気概が込められているのだ。
再会した像の周囲には人があふれていたが、かえって、かつて堂内で観たときよりも落ち着き、静けさを感じた。喧噪に巻き込まれるほどになお毅然と孤高を守っているように見える。あるいは観る側の見方、現在の心境にもよるのだろうか。その上で、それらを全て受け止めてくれるようにも感じたのだった。
これまで運慶というと、すごい彫刻家だとは思うものの、どうも全体を捉えられないでいた。それも今展で、運慶には「定型」というものがなく、常に挑戦し続け、作風の幅広さは類を見ないのだということに改めて気づいた。しかもそれぞれの完成度が極めて高い。片や快慶は、人物としては謎が多いけれども、たくさんの遺作は「安阿弥様」から大きく逸脱することはない。快慶に比べて、銘記された像が少ないのも、類型化を避け、なおかつ完成度にこだわったためではないか、とも思えてくる。(ここで「運慶作」が、工房制作を前提としているのは言うまでもない。)

さて、そんな運慶は、一代の天才として忽然と現れたのだろうか。今展で注目したのは、父・康慶の存在である。円成寺像の少し後に展示されていた、康慶作の、静岡・瑞林寺地蔵菩薩座像と円成寺像との類似である。実は瑞林寺像の方が一年後の作だが、むしろ康慶工房の「型」があり、そこから運慶がさらに技量と独創性を発揮し、円成寺像を完成させたと考えられる。そして康慶の地蔵菩薩像の端正な作りは、運慶にも快慶にも行く道が開かれていたとも思う。

また康慶の、興福寺「法相六祖坐像」にも驚かされた。目の周囲の彫り方や頬の肉付けなどは運慶に見劣りするものの、六人それぞれの個性を捉えた豊かな表情や、深く刻まれた衣紋線などに、運慶に直結するものを感じたのである。(霜田文子 この項続く)