60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

兄弟

2011年08月26日 08時36分25秒 | Weblog
先週金曜、新潟にいる弟が出張で東京に出て来た。それに合わせ1年ぶりに兄弟3人が集まった。
兄は昭和16年生れで70歳、次男の私が昭和19年生れで67歳、弟が26年生れで60歳である。
元々男ばかりの4人兄弟であったが、3男(昭和22年生れ)は26歳の時に交通事故で亡くなった。
母は男3人と続いて、今度こそ女の子と期待し、赤い着物を作って待っていたそうだ。しかし4人目も
やはり男であった。3姉妹で育った母にとって子供4人が全て男と言うのは、よほど殺風景だったの
だろう。「我が家には華がない」と、よく愚痴をこぼしていた。お婆ちゃんが生きていた時までは両親
と子供4人の合計7人と大世帯である。我々が生まれたのは戦中戦後である。戦後不況の真只中、
国鉄職員だった父の稼ぎだけで生活していたわけだから、食べて行くだけで、精一杯であったはず
である、子供一人ひとりに回せるお金も少く、今と比ぶべくもなく質素な生活だった。

朝は脱脂粉乳とトースト、昼はうどんか雑炊、夕食は麦ご飯で中にサツマイモが入り、おかずは魚と
野菜が中心であった。肉はめったに食べたことはなく、すき焼きはハレの日のごちそうであった。
おやつなどは無く、いつもお腹を空かせて夕食を待っていたように思う。時々はお婆ちゃんが近くの
海辺で巻貝を取ってきて、それを塩湯でしてもらい、おやつ代りに食べていた。終戦後の食糧事情は
4人の子供を育てる親にとって切実な問題だったのだろうと思う。しかし我々子供達にとっては何と
比較するわけでもなく、それが当たり前の時代であった。

物心ついて小学校に上がるまでは何時も独りぼっちだったように思う。兄は小学校に通い、弟は
まだ1歳2歳で遊び相手にはならない。母は家事と弟の世話で忙しい。お婆ちゃんは兄ばかりを
贔屓にするから、私は祖母を嫌っていた。近所に友達はいなかったので、いつも家で一人遊びを
していたように思う。午後になって、兄が学校から帰ってきて友達と遊び始めると、そこに混じって
遊んでいた。兄からは邪険にされていたが、必死でその仲間に食らいついていた。
自分が小学校に通うようになると今度は自分の世界が広がる。兄とも弟とも共通のものが少なく
なり、ましてや一番下の弟とは7歳もの開きがあるから対象外である。兄と下の弟とは前後3歳
づつの開きがある。今考えると子供時代のこの3歳という開きは微妙で、その後の兄弟間の付き
合い方のベースになっているように思う。仲良く遊ぶという間柄でもなく、男同志でもあり、面倒を
見てやるという関係でも無い。一緒に暮らしているのだから、疎遠ではない。だからといって仲の
良い友達のように、心を開いて打ち解ける間でもない。敵ではないが、ライバルである。憎しみは
湧かないが、嫉妬の対象であった。

兄弟それぞれが、高校に大学にと進学し、就職して親元を離れると、兄弟間での直接の接触は
少なくなる。そして、兄弟の情報や状況はほとんど母親から聞くようになり、家族との絆は母が
起点となってくる。兄が結婚することも、弟の就職が決まったことも、全て母親経由で聞いていた。
こちらの状況も、折に触れ母に報告するから、兄弟も私のことは母親経由で知っていたのだろう。
帰省も各自ばらばらであった。特に私は小売業に勤めていたから、盆や正月に帰郷することは
なかった。したがって私が兄弟と顔を合わせるのは冠婚葬祭のときぐらいである。やがて母が
亡くなり、父が亡くなると、今までのアクセスポイントを失い、家族のまとまりを欠いたようになる。
その後は兄弟同士は年賀状の交換と親戚等の慶弔事の連絡が主で、それぞれの家族状況も
把握できず、何となく疎遠になっていた。

5年前、弟は新潟の工場から東京本社へ転勤になり、単身赴任することになる。そのあたりから
兄が音頭を取って年に1、2度は3人で会うようになった。昨年から、弟は再び新潟へ帰ったが、
東京の本社で会議がある時は兄に連絡を取って、3人で逢うことは継続されている。逢えば話は
弾む。しかし一緒に遊んだという思い出がないから、懐かしい昔話に花が咲くことはない。話題は
両親のことだったり、それぞれの家族の近況だったり、各自の仕事の話が中心になる。
兄は70歳の今でも製薬会社の嘱託(週3日)で働いている。専門の薬剤の知識が幸いしてか、
国に認められている薬を別効能で申請し直し、新たな用途開発の仕事のようである。私は細々と
した個人事業主をやっている。弟は中堅化学メーカーを60歳の定年を迎えた段階で役員になった。
3人が3人とも、いまだ現役である。

兄弟、その関係は親ほど親密でなく、友人知人のように割り切った関係にはならない。なんとなく
助け合って生きていかなければいけないのでは?と言う義務感があり、時には利害関係も生じる。
それぞれが、女房子供とそれを取り巻く環境を引きずって生きている。サラリーマンの家庭に育ち、
それぞれがサラリーマンとして生計をたてていたから、お互い似たような生活環境だったのだろう。
しかし、歩んできた道は一様ではなく、全く別個な道のようでもある。時々母親から兄弟の動静を
聞くと「頑張っているな」という頼もしさを感じたり、「負けてはならない」というライバル心が芽生え
たりと、常に気にかかる存在であり続けたのも、兄弟であるからであろう。

親を起点に、ここまで歩んできた我々3人の兄弟、大きな障害もなく全員が60歳を超えることが
出来た。これは親から放たれた3本の矢がそれぞれの方向に飛んで行き、そして曲がりもせず、
失速もせず、直向きに飛び続けてこられた結果だろう。それには放たれる前の「弓構え」の時に、
両親の思いや教育や意思が充分に込められていた賜物であったのだろうと、今は感謝している。
兄弟にはそれぞれ3人の子供がいる。それぞれの子供はそれぞれの職を得てそれぞれの方向
に歩んでいる。さて彼らはどんな人生を歩んで行くのだろう。我々兄弟はそれを見守るしかない。

母が亡くなる10日前、新潟に見舞いに行った時が、母との最後であった。その折母が喋っていた
ことが今も頭に残っている。「私は死ぬことはちっとも怖くはないよ。私の3人の子供はグレもせず
育ってくれた。それぞれが結婚して、孫達も元気に育っている。・・・私のしてきたことは、ずーっと
繋がっているんだから、・・・」

              

              

ローマの休日

2011年08月19日 08時55分14秒 | 映画
自宅のパーソナルTVを地デジに買い変えたのを機に、ブルーレイ・プレーヤーを付けることにした。
今まではDVDでほとんど映画を見たこともなかったが、やはり付けたからには試してみたくなる。
先週ツタヤに行ってみた。店のレンタルコナーはDVD、CD、コミック、ゲームとあり、その種類の
豊富さに圧倒されるほどである。メインに新作コーナーがあり、ワンタイトル30枚程度のカセットが
並んでいるが、大半は貸し出されている。これを見ると映画館で見る映画の減少傾向が解る気が
する。本でいえば映画館で見るのが1800円のハードカバー、レンタルDVDが410円の文庫本の
ようなものだろう。

60歳を超えてから映画もシニア料金(1000円)になったので、最近は見たい映画は映画館で
見ているから、DVDで見たい新作映画が見当たらない。店内を歩いていると棚の何列かが7泊8日
5本で1000円というコーナーになっていた。7泊8日あれば5本は見れるだろうと思い、ここから
選ぶことにした。私は映画を選ぶ時は映画館で予告編を見るか、雑誌や新聞の映画評を読んで
行くから、カセットのカバーに記載されたタイトルと俳優だけでは内容がイメージできず選び辛い。
それでも5本1000円の気やすさで、とりあえず選んでいく。ふと見ると、隅っこに「ローマに休日」
のタイトルを見つけた。この映画、大昔にテレビで見たことがあるように思う。懐かしさもあり、他に
選ぶものがないから、5本目に入れた。

「ローマの休日」、多分テレビで見たのも20年も30年も昔だったように思う。その時の印象が
強かったのか、だいたいのストーリーは覚えていた。ヨーロッパのどこかの国の王女がヨーロッパ
各国を表敬訪問し、イタリアのローマに来る。王女は自由のない王室の生活の不満から密かに
宿舎を抜け出し、ローマの街へ迷い出て行く。そこで通りかかった新聞記者と偶然に遭遇した。
彼女の素性に気づいた記者は、大スクープをモノにしようと、友人のカメラマンと一緒に王女を
ローマ観光に連れ出す。王女は永遠の都・ローマで自由と休日を活き活きと満喫する。やがて
王女と記者の距離は次第に近づいていき恋に落ちる。しかし身分の違いは如何ともしがたい。
そして二人に切ない別れが訪れる。そんな内容である。

映画を見終わって感じることがある。まずは「この映画白黒だったのだ」ということである。60年も
昔の映画だから当然であるが、反対に白黒の方がしっとりと落ち着いた雰囲気で新鮮さを感じた。
次にオードリーヘップバーンの清楚な美しさである。華奢な体つきで、如何にも王室のお姫さまの
物腰と物言いは、映画にファンタジックな雰囲気を醸し出している。そして次が舞台であるローマの
街の魅力である。当時のローマは、歴史豊かな建物の並ぶ石畳の道をクラシックな電車やバスが
走り、自動車やスクーターが行き交う。道のあちらこちらに屋台があり、開放的なカフェテラスがある。
石像で囲まれた噴水で子供達が水遊びをている。スペイン広場、パンテオン、コロッセオなど遺跡や
ローマの美しい風景も日常の中に融け込んでいた。

映画の演出は余分なセリフやアクションは使わず、二人の表情や仕草だけですべてを語っている。
主人公の二人は、最後の最後まで告白めいたことは口に出さなず相手を思いやる。それが別れる
時の身を切るような切なさにつながって行く。オープニングの舞踏会の場面での、オードリーヘップ
バーンの清楚な美しさが、クライマックスとなる記者会見の場では、彼女の表情は凛とした大人の
女のオーラがあふれていた。王女の内面の微妙な変化、デビュー早々の女優とは思えない魅力と
演技力を供えている。 すでにストーリーとしては解っているのに、ぐいぐいと映画の中に引き込まれ
ていく。やはり名画の一つなのだと改めて思った。

最近の映画はどんどん演出がどぎつくなっている。アクション映画にしても、よりスリリングな絵を
撮るためにCGを駆使し、現実にはあり得ない場面になって行く。そんな中を主人公は危機一髪で
生き残り、最後には勝利する。ドラマにしても、ここで泣かせてやるんだという意図が透けて見える。
これでもか、これでもか、と言う感じで刺激的な演出をした作品、TVドラマに少し手を加えたような
お手軽るな作品の何と多いことかと思ってしまう。次から次へ送りだされてくるこの手の娯楽映画、
もうそろそろ食傷気味である。一方、文学的な作品はやたらに暗くて重い。最近のアカデミー賞の
ハートロッカー、スラムドックミリオネア、ノーカントリー、ミリオンダラーベイビー等、2度目は見たく
ないと思うほど重い作品ばかりである。

歳を取るに従って映画への趣向も変化してくるのであろう。最近はアクションや笑いや涙ではなく、
映画に、しっとりとした落ち着き、安らぎ、情感、ユーモアなどを味わいたいと思うようになってきた。
わざとらしい壮大なストーリーや派手でスリリングなアクション、取ってつけたようなお笑いではなく、
何気ない日常の中にもいろんなドラマがある。日々の中で起こってくる不安や安らぎ、そんな変哲
もない日常を視点を変えて見つめ直して見る。なぜかそんな映画に引かれるのである。最近見た
映画では「阪急電車」というのが印象に残った。

               

父と息子

2011年08月12日 08時55分14秒 | Weblog
                        映画 「こくりこ坂から」

NHKのテレビで、『ふたり』〔コクリコ坂から・父と子の300日戦争〈宮崎駿×宮崎吾郎〉〕と言う
番組を見た。この夏公開されているスタジオジブリの新作アニメーション映画『コクリコ坂から』の
制作現場に密着し、映画制作を通して、父と息子の葛藤を描いたドキュメンタリー番組である。

今回の作品は、父親である宮崎駿が企画と脚本を担当し、息子の吾朗が監督を務めた二人の
合作と言える作品である。しかし、この父と息子の間には長い間、人知れぬ深い葛藤があった。
それは6年前にさかのぼる。鈴木プロディーサーの推薦で、吾朗はアニメーション映画監督として
『ゲド戦記』を作ることになった。しかし宮崎駿は「あいつに監督ができるわけがないじゃないか」と
指摘したうえで、「絵だって描けるはずがないし、もっと言えば、何も分かっていない奴なんだ」と、
吾朗を厳しく批判した。さらに宮崎駿は吾朗を監督に推薦したプロデュサーの鈴木敏夫に対して、
「鈴木さんはどうかしている」と激昂したと言う。そこで鈴木氏が『ゲド戦記』に登場する竜とアレン
を描いた吾朗の絵を見せると、駿は黙り込んでしまった。しかし父親は息子を認めはしなかった。
そして『ゲド戦記』の制作に、宮崎駿は一切関わろうとはしなかったそうである。

2006年上映された『ゲド戦記』、それは興行的にはヒットしたけれど内容的には父の作品に遠く
及ばないと酷評された。ナウシカを彷彿させる荒れ果てた世界、ハイジを思い出させる日常描写、
過去に父が作った作品の繋ぎ合せのようで、自身の世界観が表現されていなかったからだろう。

番組は過去の」『ゲド戦記』の試写会のようすを映す。試写を見ていた宮崎駿は、見るに堪えない
という表情で試写室を中座してしまう。カメラは退出した宮崎駿を追いかけ、映画の感想を求めた。
「僕は自分の子供を見ているようでしたよ。やらなくても良かった仕事だと思うけど息子にとっては
絶対必要だったんでしょうね」、と語っていた。その後2年間、父は息子と口も聞かなかったという。

「監督をするのはこの一作だけだ」と言っていた吾朗だが、自分の中で納得できなかったのだろう。
映画への思いが燃焼できず、くすぶり続けていたのかもしれない。その後、新たな企画の提案を
出し続けたが、すべて却下されてしまう。その後3年間、吾朗は頓挫し続ける。「もう一度監督を
やらないと、自分が前にも後にも進めない。もう止められないんですよ」、そんな心境を語っていた。
そんな時、やはりプロデューサーの鈴木敏夫から『コクリコ坂から』の監督の話が舞い込んできた。
吾朗はその要請を受けた。その時、父の宮崎駿はあえて反対はしなかったようである。

吾朗は自分の子供時代を振り返って言う。周りが私を見るとき枕詞として、「あの宮崎駿の息子」
というのが着いて廻っていた。ここにいる私でなく、常に父と比べられる。「 あなたは私ではなく、
俺の親父を見ているのか」と言いたくなってくる。だから父の存在そのものがプレッシャーだった。
そして自分が大きくなるに従って、父から離れたいと思うようになった。父から離れた世界に行か
なければならないと思うようになった。できるだけ遠くへ。

「宮崎吾朗」、1967年生まれの44歳である。信州大学農学部を卒業後、建設コンサルタントや
環境デザイナーとして、公園緑地や都市緑化などの計画設計に従事していた。1998年三鷹の
ジブリ美術館が計画され、鈴木プロデュ-サーの要請を受け総合デザインを手がけることになる。
五朗は宮崎駿や実際に設計を担当する関係者を取りまとめ、宮崎駿のイメージに近いものをどう
やって実現するかに腐心してきたという。しかし駿の提案に対して、吾朗が法律上の問題を指摘
すると、駿は「なんでそんな法律があるんだ」と食ってかかるなど、親子の間で議論が絶えなかった。
そんな確執がありながらも3年がかりで開館にこぎつけた。その後2001年から2005年まで初代
館長を務めている。

吾朗をスタジオジブリに誘ったのはプロデューサーの鈴木敏夫である。ジブリの次期後継者として
目論見が有ったのか、それともアニメ制作の力を彼に見つけたのか、ジブリ美術館のプロデュース、
『ゲド戦記』の監督、そして今回の『コクリコ坂から』の監督と、プロデュ-サーの鈴木敏夫は常に
吾朗を応援し続けているように見える。

そんな中で始まった『コクリコ坂から』の映画作り、カメラは10ヶ月にわたって制作現場に密着し、
宮崎駿と宮崎吾朗を追い続ける。絵コンテを父に見せないようにし、干渉を排除しようとする息子、
用事もないのに現場に顔を出し、内容や状況をそれとなくチェックする父、幾度も衝突する父と子、
カメラは2人の葛藤を丹念に追って行く。映画の主人公「海ちゃん」のキャラクター設定をめぐって
始まった壮絶なバトル、途中公開延期の危機さえ訪れた。そして3月映画制作の山場で起こった
東日本大震災。 映画の公開は崖っぷちの状況に追い込まれていく。70歳にしてなお映画への
情熱をたぎらせる父、偉大な父と比較される宿命を負いながらも挑戦を続ける息子。ぶつかり合い
反発しながらも「映画を創る」という同じ目標に向かって情熱を燃やす父と子、ドキュメンタリーは
そんな親子の赤裸々な感情を映し出していた。

宮崎駿は吾朗の仕事ぶりを見て、息子批判をする。

「あんな魂のない、フヌケな絵を描いてもしょうがないんだよ」
「あいつは、まだ自分の世界が固まっていないんだ」
「あいつには、分んないんだと思う。本当は演出をやめた方が良いんです。吾朗には向いていない」
「やりたいというのと、やれるのは違うんだ。監督ってそんな半端な仕事じゃあないんだって、
本当に自分を追い込んで、本当に鼻血がでるまで追い込むこと、それができるかどうかなんだよ。
それで初めて何かが出てくる。それでも出てこない奴もいっぱいいる。出てこない奴の方が多んだ」

一方映画制作の責任者としての宮崎吾朗は自分の苦悩を正直に語っている。

「どう描いたら、命の宿った魅力的な主人公になるのだろうと、四六時中考え続けている」
「これでいいんだという確信が持てないんですよ」
「今回のこの新作に、私は監督生命を掛けているんです」
「絵コンテは父には見せない。父が見れば何か言いたくなるでしょう。それによって自分がぐらつく」
「こうやるんだぞって、手取り足とり教えられ、与えられたものでやれと言われれば、やっぱりそれの
方ができそうな気がするけど、やっぱりそれでは、だめなんですよ」
「やっている自分が楽しくないんです」(そんな映画を観客が楽しめるのか?との反省)

そんな膠着状態の中で、父宮崎駿が1枚の絵を描き吾朗に示す。その絵は1963年当時の横浜の
郊外を主人公の「海」が学校に急ぐ姿が描かれていた。セーラー服で右手にカバンを持ち、前のめり
になりながら、大股でスタスタスタスタと歩く姿。そこからは「海」の直向きな姿が見て取れる。
1枚の絵の中に、当時の空気感、主人公の性格や心情までもが折り込まれているようにも思われる。
それが切っ掛けになったのか、吾朗の中のキャラクター設定が明快になり作業は一気に動き始めた。

      
                         宮崎駿が描いた絵

映画発表後の吾朗の談話がネットにあった。
今回の作品、父と共同制作だけにやはりやりにくかった。親子だけにお互いに冷静になれなかった
ところがあります。脚本段階で既に自分のイメージが完成している父から様々な注文がありました。
例えば当時の風景を描くにあたって「大事なのは松の木だ」、「当時は赤松がいっぱいあったんだ」
「時代の空気とか美しさをどう伝えるかを考えろ」とうるさく言われた。「こんちくしょう」と思いながらも
貴重な意見だから取り入れたりする。映画の世界を作るという意味では、父の右に出る人はいない。
だから途中から素直に父の言うことを聞こうと思うようになりました。
頭の中のイメージを紡いでいく父、一方の私はスタッフや鈴木プロデューサーの意見を聞きながら、
制作を進めていく「チーム型」の仕事になっていったように思います。父は作家かもしれないけれど、
僕は自分のことを作家とは思えない。父は作品を作っている時だけが生きている時、闘う男であり
続けることが、生きていくことになっていると思うんです。この人はこういう生き方しかできないから、
それでやるしかないだろうって思うんです。だって無理ですもん、今から変えられないから、
前作の『ゲド戦記』で「これ1本で良い」、と思っていた自分は今回の作品を仕上げて、今後も作品を
作って行きたい気になりました。やっとスタート地点に立ったという気分です。

父と息子「精神的に一度父親殺しをしなければならない」 ということが心理学の本に書かれている。
女性とちがって、父親と息子の関係には、どこかにそうした危ういものをはらんでいるところがある。
なんらかの方法で、精神的にでも、父親殺しをしないと、乗り越えられない・・・。そういうものだろう。
折り合いをつける、とか、乗り越えられるなにかを持つとか。そうでもないと、いつまでも自分の上に
父親が君臨し続ける。そんな関係が、子にとっても親にとっても続くわけである。それが同じ集団の
中に居合わせると、より顕著なものになるようである。同居の父と息子、中小企業の経営者と息子
伝統職人とその後継の息子、動物世界のリーダー争いではないが、その集団の中では2者は並び
立たない。どちらかの雌雄が決するまでは親子の葛藤は続いていくのであろう。宮崎駿は年老いた
といえども、ジブリにおいては圧倒的な力を持つ。今回の共同作品で親子で、ある程度の折り合いが
着いたのであろうか?宮崎吾朗の次の作品、どんな作品になるのか楽しみである。

                

                     

母の思いで(モディリアーニ)

2011年08月05日 08時59分53秒 | Weblog
母が亡くなってから10年、父が他界してから4年が経つ。父が存命中は毎年お盆には親が住む
新潟へ行っていた。女房と子供達は義母が住む神奈川県の大和市に帰っていたから、新潟へは
1人で行くことがほとんどであった。渋滞を避けて朝早くにスタートして関越自動車道をひた走る。
数珠つなぎで走っていた車も、関越トンネルの県境を抜け新潟県に入ると嘘のように少なくなる。
広々とした新潟平野を走る真っ直ぐな道、そこを走るひと時が私には至福の時だったように思う。
それは仕事からも家庭からも解放され、新潟の伸びやかな風景とともに、世俗の一切のしがらみ
から解放されたような解放感があったからだろう。

母は大腸癌で手術をしたが、その時はすでに手遅れで、肝臓に転移していて半年の闘病の後に
亡くなった。息を引き取るまでの5ヶ月、父は母を退院させ自宅で介護しながら看取ったのである。
両親は北側の寝室にベットを置いて寝ていたが、母が亡くなった後も母のベットは片づけることも
せず、そのまま置いてあった。母が亡くなった翌年の夏に新潟へ行った時、私はまだ母の香りが
残っているかもしれないベットに、横になってみたことがある。「母は死ぬ間際、ここで何を思って
いたのだろう」、そう思ったからである。

ベットに横になって天井を見上げて見る。天井は麻の布地のような壁紙が貼ってあり大きな照明の
蛍光灯が張付いている。母はガンの苦しさに耐えながら、この天井をいつも見上げていたのだろう。
左に寝返ると隣に父のベットがある。父はベットサイドに小さなテレビを置いて、イヤホーンで音を
消して見ているのが常であった。母は寝付けずにテレビを見ていた父の背を見ていることが、多か
ったのかもしれない。苦しく辛い時はその父の背に話しかけていたのだろうか。右に寝返りを打つと
そこは板壁になっていて、小さな母専用の本棚が置いてあった。本棚には母の書き溜めた短歌の
ノートや用語辞典、室生犀星の詩集、宮柊二、会津八一の名がある本が、そのままに残っていた。

その本棚の脇の板壁に虫ピンでとめてある二枚の絵が見えた。その大きさは10X20センチ程度、
雑誌に載っていた絵を切り取ったものか、ぺラぺラの紙で両端が捲くれ上がっている。その二枚の
絵はいつも自分に見える所に貼ってあるのだから、よほど母が気にいっていた絵なのであろう。
捲くり上った絵を伸ばしてみた。モディリアーニの絵である。この絵は以前見たような記憶もあるが、
今回はじめて見た気もする。

一枚の絵は長い首の女性がタートルネックのセーターを着、手を膝の上に重ねて椅子に座っている。
灰色がかった水色の壁、面長な顔で長い鼻、目はそのバックの色と同じ色で、くり貫かれたように
水色に塗られていて、瞳は描かれていない。その左にあるもう一枚も同じ画家の絵で、お下げ髪の
少女の上半身である。こちらをじっと見つめるように感じるその絵は、右の絵と違って強い目の光を
感じるのである。母は息を引き取る間際までこの絵を見ていたのでろう。居間に戻ってセロテープを
持ってきて巻き上がっていた端を板壁に貼り付けた。絵の下に小さく題名が書いてある。右の絵は
「ジャンヌ・エビュテルヌの肖像」、左の絵は「おさげ髪の少女」とあった。

「モディリアーニ」、絵に疎い私でもその名前は知っているが、どんな画家で、どんな絵があるのか
詳しくは知らない。しかしこの絵は母が好みそうな絵であることはわかる。母は寝たきりになったとき
この絵を見て、何を思っていたのだろうかと考えてみる。

「おさげ髪の少女」の目は射抜くようにこちらを見ている。半開きの口元から白い歯が覗き、幼さを
感じさせる。この少女は10歳ぐらいだろうか?母はこの絵の少女に何を思ったのだろうか、自分の
孫娘を重ねて見ていたのだろうか。孫であれば写真を置くだろうから、それとは違うようにも思う。
絵を見つめていると、始めて見る絵のはずなのになぜか懐かしく古い記憶の肖像画のように思える。
母は自分の子供時代を重ねていたのではないだろうかと思ってみた。自分がおさげの少女時代を。

では、もう一枚の絵を母はどう見ていたのだろう、ほっそりとした顔、長い首は徳利のセーターから
突き出ている。大きなお尻は椅子に納まりきれずはみだしている。横に傾げた顔はうつろに見える。
それは薄い水色に塗られた目に、瞳が描かれていないからだろう。モディリアーニはなぜ瞳を入れ
なかったのだろうか。人間の肖像画、その絵にとって、もっともポイントになるのが目のはずなのに、
この絵にはその瞳がない。母はこの絵をどんな風に見ていたのだろうか、じっと絵を見つめてみる。
こちらを見ているという感じではなく、どこか遠くを、そして大きく広く全体を包んでいるように感じる。
どこか慈愛を含んだ、まなざしにも見えてくる。母はこの絵に自分の母を見ていたのかもしれない。

ガンの進行に合わせ間段なく押し寄せる痛み、母はその痛みに耐えかねて、この絵に訴えていた
のかもしれない。「私は何にも悪いことをしていないのに、なぜこんなに苦しまなければいけないの」
「お母さん、助けてよ!」、「お母さん、何とかしてよ!」、お下げ髪の少女に戻った母は自分の母に、
こう訴えたのかもしれない。「もうすこし我慢しなさい。そのうち楽になるから」、この瞳のない女性は
母にそんな風に答えただろう。二枚の絵は幼い時の自分とその時の母、そんなことを重ね合わせて
見つめていたのではないだろうかと思った。二枚の絵はそのままにして、私は父の寝室を出た。

これは毎年お盆が近付くと思いだす、母の思い出での一つである。