60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

母の思いで(モディリアーニ)

2011年08月05日 08時59分53秒 | Weblog
母が亡くなってから10年、父が他界してから4年が経つ。父が存命中は毎年お盆には親が住む
新潟へ行っていた。女房と子供達は義母が住む神奈川県の大和市に帰っていたから、新潟へは
1人で行くことがほとんどであった。渋滞を避けて朝早くにスタートして関越自動車道をひた走る。
数珠つなぎで走っていた車も、関越トンネルの県境を抜け新潟県に入ると嘘のように少なくなる。
広々とした新潟平野を走る真っ直ぐな道、そこを走るひと時が私には至福の時だったように思う。
それは仕事からも家庭からも解放され、新潟の伸びやかな風景とともに、世俗の一切のしがらみ
から解放されたような解放感があったからだろう。

母は大腸癌で手術をしたが、その時はすでに手遅れで、肝臓に転移していて半年の闘病の後に
亡くなった。息を引き取るまでの5ヶ月、父は母を退院させ自宅で介護しながら看取ったのである。
両親は北側の寝室にベットを置いて寝ていたが、母が亡くなった後も母のベットは片づけることも
せず、そのまま置いてあった。母が亡くなった翌年の夏に新潟へ行った時、私はまだ母の香りが
残っているかもしれないベットに、横になってみたことがある。「母は死ぬ間際、ここで何を思って
いたのだろう」、そう思ったからである。

ベットに横になって天井を見上げて見る。天井は麻の布地のような壁紙が貼ってあり大きな照明の
蛍光灯が張付いている。母はガンの苦しさに耐えながら、この天井をいつも見上げていたのだろう。
左に寝返ると隣に父のベットがある。父はベットサイドに小さなテレビを置いて、イヤホーンで音を
消して見ているのが常であった。母は寝付けずにテレビを見ていた父の背を見ていることが、多か
ったのかもしれない。苦しく辛い時はその父の背に話しかけていたのだろうか。右に寝返りを打つと
そこは板壁になっていて、小さな母専用の本棚が置いてあった。本棚には母の書き溜めた短歌の
ノートや用語辞典、室生犀星の詩集、宮柊二、会津八一の名がある本が、そのままに残っていた。

その本棚の脇の板壁に虫ピンでとめてある二枚の絵が見えた。その大きさは10X20センチ程度、
雑誌に載っていた絵を切り取ったものか、ぺラぺラの紙で両端が捲くれ上がっている。その二枚の
絵はいつも自分に見える所に貼ってあるのだから、よほど母が気にいっていた絵なのであろう。
捲くり上った絵を伸ばしてみた。モディリアーニの絵である。この絵は以前見たような記憶もあるが、
今回はじめて見た気もする。

一枚の絵は長い首の女性がタートルネックのセーターを着、手を膝の上に重ねて椅子に座っている。
灰色がかった水色の壁、面長な顔で長い鼻、目はそのバックの色と同じ色で、くり貫かれたように
水色に塗られていて、瞳は描かれていない。その左にあるもう一枚も同じ画家の絵で、お下げ髪の
少女の上半身である。こちらをじっと見つめるように感じるその絵は、右の絵と違って強い目の光を
感じるのである。母は息を引き取る間際までこの絵を見ていたのでろう。居間に戻ってセロテープを
持ってきて巻き上がっていた端を板壁に貼り付けた。絵の下に小さく題名が書いてある。右の絵は
「ジャンヌ・エビュテルヌの肖像」、左の絵は「おさげ髪の少女」とあった。

「モディリアーニ」、絵に疎い私でもその名前は知っているが、どんな画家で、どんな絵があるのか
詳しくは知らない。しかしこの絵は母が好みそうな絵であることはわかる。母は寝たきりになったとき
この絵を見て、何を思っていたのだろうかと考えてみる。

「おさげ髪の少女」の目は射抜くようにこちらを見ている。半開きの口元から白い歯が覗き、幼さを
感じさせる。この少女は10歳ぐらいだろうか?母はこの絵の少女に何を思ったのだろうか、自分の
孫娘を重ねて見ていたのだろうか。孫であれば写真を置くだろうから、それとは違うようにも思う。
絵を見つめていると、始めて見る絵のはずなのになぜか懐かしく古い記憶の肖像画のように思える。
母は自分の子供時代を重ねていたのではないだろうかと思ってみた。自分がおさげの少女時代を。

では、もう一枚の絵を母はどう見ていたのだろう、ほっそりとした顔、長い首は徳利のセーターから
突き出ている。大きなお尻は椅子に納まりきれずはみだしている。横に傾げた顔はうつろに見える。
それは薄い水色に塗られた目に、瞳が描かれていないからだろう。モディリアーニはなぜ瞳を入れ
なかったのだろうか。人間の肖像画、その絵にとって、もっともポイントになるのが目のはずなのに、
この絵にはその瞳がない。母はこの絵をどんな風に見ていたのだろうか、じっと絵を見つめてみる。
こちらを見ているという感じではなく、どこか遠くを、そして大きく広く全体を包んでいるように感じる。
どこか慈愛を含んだ、まなざしにも見えてくる。母はこの絵に自分の母を見ていたのかもしれない。

ガンの進行に合わせ間段なく押し寄せる痛み、母はその痛みに耐えかねて、この絵に訴えていた
のかもしれない。「私は何にも悪いことをしていないのに、なぜこんなに苦しまなければいけないの」
「お母さん、助けてよ!」、「お母さん、何とかしてよ!」、お下げ髪の少女に戻った母は自分の母に、
こう訴えたのかもしれない。「もうすこし我慢しなさい。そのうち楽になるから」、この瞳のない女性は
母にそんな風に答えただろう。二枚の絵は幼い時の自分とその時の母、そんなことを重ね合わせて
見つめていたのではないだろうかと思った。二枚の絵はそのままにして、私は父の寝室を出た。

これは毎年お盆が近付くと思いだす、母の思い出での一つである。

              


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