60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

若者の憂い(2)

2009年01月30日 08時20分08秒 | Weblog
前回のブログを書いた後、彼と飲む機会があった。もう一度彼の結婚感を聞いてみた。

30~40歳の年代の人は男女ともに理屈ぽい人が多く、またプライドが高い人も多いという。
そんな性格からか「結婚」について素直に自分の思いを語らず、理屈先行のように思う。
結婚はどのようにあるべきか?自分の選択基準は?どうして彼(彼女)なのか?等々である。
団塊ジュニアの年代層は人口も多く、受験や就職競争も激烈を極めた世代であった。
偏差値が進路の判断の基準になって、偏差値社会とも呼ばれた時代でもあった。
そのような中に育った彼らは「結婚」相手に対しても基準を作り、その基準からの妥協を嫌った。
大学受験で少しでもいい大学(偏差値の高い)を目指すことと共通するようなものであろう。
背が高く、高学歴、高収入とレベルの高い相手をゲットすることで自分のプライドを保とうとする。
容姿?性格?親?住い?と選択基準を設定し、それを分析し客観視した上で選別して行く。
そして自分の基準内に入る相手がいない場合は「結婚しない」という選択肢を掲げるのだそうだ。

先回も書いたが我々の時代は「結婚しない」という選択肢はなかった。
適齢期になれば結婚することが当たり前で、結婚しない男は「欠陥があるのでは」と言われ、
女性は「行き遅れ」と言われ、世間に肩身の狭い思いをすることを覚悟しなければならなかった。
そんなことから結婚にある種の強迫観念があり、妥協することにあまり抵抗はなかったように思う。
「結婚は妥協の産物」そのようなに親からも周りからも言われたことを思い出す。

世の中に出て、上手く相手が見つかり、結婚生活に入れば第一関門突破である。
しかし30歳を過ぎ婚期を逸しかけ、結婚が難しくなってきた場合に2通りのタイプに分かれるそうだ。
一つは彼のように相手については妥協をしてでも、結婚するということに必死になるタイプ。
もう一つは、妥協はせず、なぜ結婚しないのかの理屈を言い、自分を取りつくろうタイプだそうだ。
「結婚すれば相手に束縛される・・」「私は自由に生きたい・・」「両親を見ていれば結婚なんて・・」
「私に相応しい人がいない・・・・・」等々結婚しない理由を言いはり、自分のプライドを保っている。
本当は自分と同じように結婚願望はあると思うのだが、なかなか本音をさらさない。

そんな30代に比べ、20代は結婚に理屈をつけたりプライドを持ち出すことは少ないように思う。
意外と素直に結婚願望を口に出し、臆面もなく彼氏や彼女に夢中なことを話してくれる。
あっけらかんとした男女関係や結婚問題に対するスタンスは少し軽さを感じるほどである。
自慢話のように彼女や彼のことを語る彼らに比べると、30代はどことなく卑屈さを感じてしまう。
それはやはり競争の中で虐げられてきた年代と、競争が緩和され伸び伸びと育ってきた世代との
差のようなものから来ているのだろうか。

今彼が合コンなどで会って話す相手が30代だとすると、
自分が今まで結婚しなかった言い訳や、結婚するにあたっての条件提示するらしい。
そんな女性を相手にすると結婚へのハードルの高さを感じ、これは付き合い切れないと思うそうだ。
自分には相手の点数表で高得点を得る自信もない。だから相手に対しても点数評価はできない。
また自分のようにある種焦りがある人間は相手から見ればガツガツしているように思われるだろう。
自分には格好をつけたり、飾って見せたり、駆け引きをしたりする器用さはない。
実際に自分はそうなのだから、それを隠しても仕方がない。そのあたりは正直になろうと思っている。
30歳を超えてくると、いまさら恋愛からというのも、時間的な焦りからまどろっこしく感じる。
だからお互いに結婚願望があるなら相性として合うかあわないかで判断するしかないと思っている。
「結婚したい」という正直な気持ちを相手に話してみて、それを相手も理解してくれればいい。
それでだめなら、その時は仕方がない。今はそんな風に思うそうだ。

彼の悩みや考えは充分理解できる。人は一人一人、いろんなことを思っているのだと改めて思う。
我が息子(別居31歳独身)は今何を考え、何に悩んでいるのかと思うと少し心配になってきた。

若者の憂い

2009年01月27日 09時29分41秒 | Weblog
彼は2人兄弟(姉弟)、34歳で独身である。郊外の6軒併設のアパートに1人で暮らしている。
近くに実家は有り両親とも健在である。彼が結婚しから同居できるように2階は全て空けてある。
「わざわざアパートに住まなくても実家から会社に通えば?」それが親の望みなのは判っている。
しかし「親元に居れば自立できないから」そう言ってあえて一人で住み始めた。もう6年になる。
親は「彼女はいるの?」「何時結婚するの?」「周りで、まだ結婚していないのは貴方だけよ」
子供が結婚に本気にならないと勘違いするのか、何時も一番神経に触る言葉を投げつけてくる。
そんな言葉は聞きたくない、聞けば聞くほど滅入ってくる。だから実家から出て行ったのである。
昔の友達も、周りの同年代も皆んな結婚して行って、自分だけが取り残されていく感じがしてくる。
「俺だって結婚したいと焦っているんだよ! しかし結婚出来ないのだから仕方ないだろう!」
親にはそう言い返してやりたい。しかし子にも子のプライドがある。親には弱音ははけないのである。

彼には以前つき合っていた女性がいた。
その彼女は勤めていた会社の人間関係の縺れから辞め、それから家に閉じこもるようになった。
家族と彼と2、3の女友達だけにしか気を許さなくなり、世間との接触を閉ざすようになる。
何時かは立ち直ってくれるだろう。自分がその手助をしてやる。そう思って支えてきたつもりだった。
しかし何時まで経ってもその引きこもりもは改善することなく、時間だけが経過しとうとう8年になった。
30歳を過ぎて、このままずるずると時を重ねても仕方ない。そういう焦りから結婚を申し込んだ。
しかし彼女は「私などと一緒になれば足手まといになり、いずれ嫌われてしまうから・・・・」と言って、
頑なに彼の申し込みを拒否し続けたそうだ。そして仕方なく別れることを決断したのである。

8年間のブランクを埋めるべく、心機一転して彼女(結婚相手)を見つけようと活動を始めた。
コンパ、企業の仲立ちする合コン等、恥も外聞も捨て、積極的に出て行くようにしたという。
しかし、自分を打ち出すことが苦手な性格から、そのような集まりにはなじまなかったようである。
結婚目的と割り切った実利的な出会いの場、なんとも言えぬ虚しさを感じることもあったと言う。
彼の勤め先は女性社員も少ない中小企業。行動範囲も狭く女性との出会いの場も少なかった。
学生時代は仲間とつるんで遊んでいた。しかし彼らも皆結婚し子供ができ家族単位になって行く。
そして仲間達は家族同士で定期的に集まっている、しかし1人の彼は仲間とも疎遠になって行った。
結局、彼は家族から離れ、彼女から離れ、昔の仲間からも離れて孤立するようになったのである。

彼にとって、結婚は今後の人生のスタート地点、これが決まらなければその先に一歩も進めない。
ドライブに行く、共通の趣味を持つ、マンションを買う、子供ができる、仕事を頑張る、家族で遊ぶ、
そして昔の仲間の集いの中に家族を連れて復帰して行く。それが彼の願望で夢になっている。
したがって結婚というステップを踏まない限り、何をやっても本気になれず、むなしく空虚なのである。

日曜日、アパートにいると周りの部屋からはコトリとも音は聞こえてこない。
「あ~ぁ、アパートでこの日曜日、何処にも行かず居るのは俺だけなのか」と焦燥感が起きてくる。
会社に行けば、仕事もあり、しゃべる相手も居るから、不安を感じず時間が過ぎて行ってくれる。
しかし、休みになると自分の孤独な現実があからさまにになり、居ても立っても居られない。
「しょうがない、スロットに行くか」駅前のパチンコ屋に行き9時を過ぎるまで時間を潰す。
「これではいけない。なにか趣味を持たなければ、何か打ち込めることを見つけなければ」そう思う。
お正月、義兄に使い古したゴルフセットをもらった。「そうだ今年はゴルフを覚えるんだ」と言う。
私が「おじさん臭い趣味は止めて、自転車とかもっと若者らしい運動をすれば・・・」と言った時、
「私だってゴルフが本当にしたいわけじゃあないんですよ。ゴルフをすることで、集まりに参加できる。
それが年に1回でも良いんです。何かをやらなければ滅入ってくるし、それだけ苦しいんですよ」と、
強い口調で言い返された。

なぜこの若者はこれだけ苦しまなければいけないのだろうか?
結婚を前提とした人生設計の考え方に間違いがあるのだろうか?
何が問題で、どうすれば彼が望むような人生の構築ができるのであろうか?
彼と話すときに何時も考えさせられる問題である。
彼はあまり面白味はない方かもしれないが、しかし誠実で真面目なタイプである。
女性からすれば「外れ」では無いと思うが、かと言って積極的にアプローチされる方でもないようだ。
考えてみると、我々の年代の方がまだ結婚には楽だったように思う。
昔と比べて何が変化したのだろうかと、考える。

昔は「結婚しない」という選択肢はほとんどなく、結婚が人生の前提になったいたように思う。
だから、本人も家族も親戚を含めた周りも、結婚ということに積極的に関わりを持っようにしていた。
とりあえず世帯を持たせる。そうしないと一人前の大人としては認められない。そんな風潮だった。
戦後になってからも、我々や団塊の世代まではそのような風潮が色濃く残っていたように思う。
結婚は家の問題、両親の了解を必要とする案件。当人同士より親の方が正しい判断ができる。
しかし戦後教育の影響なのか「個人」という意識が強くなり、結婚に対しての考えも変わっていった。
今の30~40歳の団塊ジュニアの世代はそんな意識が変化していく過渡期にあったのだろう。
「個人の意思を尊重する」「結婚は本人の問題で当人同士が決めること」という考えがが大勢である。
やがて周りは結婚のことから手を引き関わらなくなった。親でさえ子供の意思に任せるようになった。
周りからの推薦や支援が無くなった若者は自力で伴侶を見つけなければならなくなったのである。

二番目は女性の意識の変革であろうか。
共学で対等意識の中で育った来た女性達は同年代の男性に頼りなさを感じるのではないだろうか。
物足りない。尊敬に値しない。自分を持っていない。夢がない。将来を託せない。そんな意見が多い。
女性も仕事を持ち、自立するようになって、ますます相手を見る目が厳しくなってきた。
意に染まぬ結婚、好きでもない相手とは絶対に結婚しない。女性には断固とした意識ができている。
そんな中でフルイに掛けられ、誰の網にも掛からず、落ちて行く若い男性が多くなったのだろう。
昔なら、フルイから落ちた場合でも救済のネットワークがあった。今はそれがなくなってしまった。
世の中、結婚願望が強い女性も多いはず、出来ればそんな2人を巡り合わせ組み合わせて見たい。
時々そんなおせっかいなことを思う時もある。しかし自分の結婚生活さえうまくいかないのに、
人のことをかまっていいのか、と自問自答してしまう。やはり、人も動物、生存競争は激しいのだ。
自分の伴侶は自分で見つけざるを得ないのだろう、と思い直してしまう。

彼はこの3月で35歳、「この1年で目途をつける」 年明け浅草寺で決意表明をしてきたそうだ。
そのために結婚のサポート会社に申し込みをすると言う。何とか希望がかなえばと願ってやまない。


腰痛 その後

2009年01月23日 09時04分47秒 | Weblog
腰痛で2ヶ月以上休んでいたMさんは年が明けてから出社するようになった。
オーナーとはどのような話しになったのか彼は言わないが、当面は変則の勤務体系を取るらしい。
朝は11時までの出社、夕方は4時を過ぎてからの退社である。
腰痛の症状が消えるまで、通勤ラッシュを避けての特例とのこと、結構温情のある処置である。
しかし、昨年11月から腰痛で休み始めてからはすでに3ヶ月以上が経過している。
「いつまで甘えているんだよ!」周りからはそんな声も聞こえ始めてきた。
今は受注も少なく彼がやっているデリバリーの業務も、他がホローして何とか回っているようである。
しかしあまりに長引けば周りの不満も増し、会社としても配置を考え直さなければいけないのだろう。
この会社で男性が働ける場はデリバリー業務か営業か、後はセンターの入出庫や在庫管理だろう。
しかし、腰痛持ちではセンターの仕事は無理で、また彼の職歴や性格から営業も難しいと思われる。
したがって、継続して努めるこのと出来る場所は今のこの場所しかないようにも思われる。
本人もそれは自覚しているようだが、しかし体と気持ちが付いていないのも実情のようだ。

話では獨協大学での検査の結果、椎間板の一部が突出しており、当面は様子を見るしかない。
このままで症状が改善することもあるし、長引くこともある。これが医者の見解だそうである。
専門医にしてはなんとも頼りない見解である。果たしてそうなのであろうか?
彼は表面的な体裁を取り繕い、人にはあまり本音を見せない性格である。
彼が「これこれこうしよう」と誰かに提案したとして、それに反論されると「うっそぉ~」と逃げてしまう。
相手を見ながら、言葉を選び、弱みを見せれば突いて来る、強気に出れば引き下がる。
決して相手と意見を戦わせず、自分の主張を通すこともない。少し姑息な感じもする性格でもある。
社内には友人は居ず、たぶん自分の奥さん以外は誰にも本音はさらしてはいないように思われる。
そんなことから考えて、彼が言っている病状をそのまま鵜呑みにはできないようにも思う。

本来彼は佐野の新工場移転に伴い、工場で在庫等のコントロールをやるということで入社した。
しかし佐野への移転は延び、デリバリー業務の要員補充の意味もあって今の仕事に就いたのだ。
この会社にとってはデリバリー業務は実務の要であり、社内的には一番神経を使う部署でもある。
得意先から納期の短縮を迫られることも多く、常に慌ただしく、もっともストレスがたまる仕事でもある。
しかし彼は「全然平気です」「ストレスなぞ感じません」と何時も平常心を取り繕っているように見えた。
その強がりが彼の性格なのか、表だっては弱音を吐かず不満も言わず、黙々と業務をこなしていた。
言ってみれば相手には自分の虚像を見せて、自分の実像は覗かせない。そんな性格なのであろう。

しかし現実には仕事上でいろいろなトラブルが発生し、日々問題は積み上がって行く。
誰に相談せず、オープンにしない性格では判断が遅れ、処理が遅れ、相手の不満が増大していく。
周りの不満と比例し彼のストレスも蓄積して行き、やがて耐えられなくなり破綻していったように思う。
以前にも書いたが、腰痛はストレスから来る筋肉バランスの異変が原因になることが多いようだ。
彼もストレスが高じて精神的な変調をきたし、それが腰痛となって発現してきたのではないだろうか。
ストレスが軽い鬱症状を起こすまでになった。だから朝、自分を思うように起動できず遅刻する。
昼間も長時間神経を使って仕事をすることには耐えらず、早退せざるを得なくなる。
そう考えた方が原因と結果は解りやすい。しかし彼はそれを認めない。あくまでも腰痛で通勤ラッシュ
には耐えられないからと周りには言っている。
たぶん私が同じ立場に追い込まれても、彼と同じように鬱は認めなかったのかもしれないと思うが。

一昨日、この冬一番の寒さということであった。こんな時は筋肉は硬直し腰痛が起こりやすいようだ。
私は彼に「寒い時はホカイロを腰に貼った方が楽だよ。今、持っているからあげるよ」と言ってみた。
彼は「以前は腰のところに貼っていたんですよ。だけどもういいんです。痛みが消えるとまずいから・・」
「痛みが消えるとまずい・・・」彼がポロッとこぼしたこの言葉が気になった。
腰痛がなくなると又元の通勤時間で来なければいけない。それは反対に辛い事になってしまうのか。
「腰が痛むから遅れても仕方ない!」そういう言い訳が、自分にも周りにも使えなくなってしまう。
そう考えると、彼が今の仕事を続ける限り、腰痛は治らないような気もするのだが。

2009年01月20日 08時19分11秒 | Weblog
「さて今日の散歩はどこにしよう」 冬は都心も郊外もあまりぱっとした見ものがない。
花も緑も紅葉も、そして人々の活気もないので歩いていてあまり楽しくはないのである。
「やはり海にしよう」そう思って三浦半島の突端の油壷に行ってみることにした。
池袋からJR湘南新宿ラインで横浜まで、横浜で京急に乗り換えて終点の三崎口で降りる。
駅から1時間に3本程度あるバスで油壷へ行く。乗客は5人、釣り客1人と地元の人3人と私。
以前にもこのバスに乗って油壷にきた。その時は油壷にある水族館を見て三崎港まで歩いた。
今日は油壷の海岸に降りて岬を一周するコースを歩いてみようと思う。
バス停を降りてマリンパーク(水族館)の脇にある鬱蒼とした小道を下って行くと胴網海岸にでる。
長さ40mほどの小さな浜辺、穏やかな波が打ち寄せ対岸に江ノ島方面の湘南の海岸が見える。
浜辺を伝って、岬を回るとやがて岩場があり、岩に貼りついた海藻が磯の香を放っている。
岩場や小さな砂浜を伝い歩きしながら、時に遠くを眺め、時に波の音に耳を傾ける。
高台の岩場に腰を下ろし、ペットボトルの水を飲み、海を見下ろす。
周囲には誰もいない、この空間に自分一人だけで海と対峙する。こんな時が一番落ち着くときだ。

山と海、どちらが好きかと聞かれればやはり海と答えるだろう。
山で、鬱蒼とした木々に囲まれると、閉塞感や圧迫感を感じ、時には孤立感さえも感じる。
それに比べ海を目の前にすると、開放感や安らぎを感じ、高揚感がみなぎってくることさえある。
なぜであろう。
やはり生まれ育ったのが三方海に囲まれた下関という地だったからだろうか。
家は駅に近い高台にあった。窓から外を見渡せばビルや家々の端のどこか必ず遠くの海が見えた。
子供のころは魚屋で10円で一つかみのエビを買って、日曜の度に下関港に釣りに出掛けて行った。
中学校は漁港の傍を通い。下校時には漁船に積み込む粉砕された氷を口に頬張りながら歩いた。
休みには父に連れられて山陰線の海岸へ釣りに行き、夏は兄弟で海水浴場まで歩いて行った。
子供時代から学校を卒業し東京に出てくるまで、思い出す映像のほとんどに海が絡まっている。
農家出身の母が土に触れば落ち着くように、私は海を見れば心が落ち着くのかもしれない。

岩場に降りて波打ち際を眺める。
打ち寄せる波が、岩と岩の間の水かさを上げ、すすっーと海水で埋め尽くす。
波間に茶色や青色の海藻が揺れ動いている。この岩場の先は深く沈んでその先は見えない。
海は人にとっては神秘な世界、未知な世界。この膨大な海水の下はどうなっているのだろうか。
陸上のあらゆる所は人の手が入り管理されている。川も林も山もすべてが人の管理下にある。
しかし海はほとんど人の手は加わっていない。
人が管理できない茫洋、漠とした未知の世界が私の目の前の波打ち際を境にして広がっている。、
子供の時に海水浴で海に潜って感じた、あのジーンとした耳鳴り、海水の味、抗しがたい波の力、
間断なく打ち寄せる波、波が引く音、打ち寄せる音、カラカラと石を磨き続ける音。
私は海を絶対の力と大きさを持つ「神」に見立て、そしてそれを実感してきたのかもしれない。
そう考えると、真摯な気持ちになり、気持は澄んで来て、心は落ち着いてくるように思うのである。


紅梅

2009年01月16日 07時38分22秒 | Weblog
会社の隣にある梅公園の梅が咲き始めた。咲き出すと、なんとなく春の訪れを感じる。
梅は桜とちがって、咲き方も散り方もゆっくり、 1月上旬から咲き出すもの、
3月中旬から咲き出すものなど300種以上の品種があり、さまざまなようである。
例年近隣や散歩で梅を見るが、どこと比べてもこの公園の紅梅が一番最初に咲くように思う。

お正月から1週間してこの公園を通りかかると、ほころび始めた梅の花を見ることが出来る。
まだ外気温は冬の真っただ中なのに、もうこの寒空に紅色の花を咲かせ始めている。
時には春を感じさせる暖かい日差しの下に、時にはみぞれ交じりの冷たい雨の中で、
天候や周りの状況には全く影響されず、自分の中に組み込まれた時計に従って咲くように思える。
天候がどうあろうが、世間がどう変わろうが、人がどうもがこうが、梅にとっては何の関係もない!
そんな信念を梅の中に感じるほどである。だから私の中でこの梅が四季のスタートになっている。
この花を見る度に、「もう春になるのか?」と毎年同じ気持ちを起こさせてくれるのである。

梅が咲きはじめると、菜の花が咲き、桜が咲き、ボタンが咲く。
ツツジになり、アヤメになり、バラが咲く。やがてユリやアジサイの季節になる。
夏にはダリヤやヒマワリが暑さに負けじと咲き、秋にはコスモスやまんじゅしゃげやキクが咲く。
1年間の花暦、そのスタートが梅公園のこの梅<八重寒紅(やえかんこう)というらしい>である。

私の中で四季に対する感受性や花や植物に対する愛着が生まれたのはごく最近である。
家と会社の往復、周りを見る余裕もないままに60歳まで来た感じがする。
60歳を越して一区切りがついたからなのか、周りを見渡す余裕が出来たのかもしれない。
通勤の途中の家々の庭木の花に目がとまり、散歩の間に見る花々を楽しみにするようになった。
歳を取ったからであろうか、残り少ない人生に草花の生命を見て愛おしく思うからなのだろうか。

母親は庭に花壇を作って何時も花を植えていた。百日草、ひな菊、スイトピー、スイセン、など、
晩年病に倒れ、体が弱ってきてもまだ庭に降りて、花壇の傍に座りこんで雑草を取っていた。
「いいから、草は俺が取っておいてやるから休んでいてよ」そう言っても、
母は「こうして土に触っている時が一番落ち着くのよ」そう言って、止めようとはしなかった。
もともと農家出身の母にとっては土と暮らす生活は体の中に組み込まれた本能のようなものだろう。
四季折々、変わることなく繰り返していく生命のサイクル、そんな中に自然を感じ愛おしさを感じる。
歳を取ると、人もまた自然の一部、生命のサイクルに組み込まれていることを実感するようになる。
さあ、今から四季の変化が始まる。精一杯その変化を体全体で感じてみようと思う。

成人式

2009年01月13日 10時37分59秒 | Weblog
今年成人式を迎えた人は133万人、過去最少で総人口に占める割合も1.04%とか、
希少価値のある若者たちである。(過去最多は246万人1970年)
それでも街を歩いているとこんなにも20歳の人がいるのか、と思うほど目立って見える。
女性達の鮮やかな着物姿が陰鬱な世相に少しばかりの華やかさを演出してくれているようである。
ニュースのインタビューで若者たちはそれぞれに、大人になる自覚などを答えていたが、
果たして20歳の分岐点で気持ちなど切り替わるものだろうかと自分の時代を思い出した。

私の20歳はもう遠い過去の話、大学に通っている時である。
当時父が仕事の関係で転勤になり家族は下関から熊本に移り住んでいた。
住民票も熊本に移していたため、成人式の案内はたぶん熊本に来ていたのであろう。
友達もいない成人式に一人参加してもみじめなだけ、結局一人下宿で過ごしていたたように思う。
当時からたばこやお酒は飲んでいたし、政治にも全く関心はなかった。
したがって成人式には何の感慨も自覚もなく、ただただ日常の中で通過していったように思う。
今振り返ってみると大人になるのだという自覚はやはり就職してからだろうと思う。
地方から出てきて東京に就職し、会社の寮に寄宿する。研修を受け職場に配属される。
自分の職分が決り責任が掛かってくる。給料をもらいその中から生活費を出しこずかいを決める。
そんなことからはじめて社会人になったのだという自覚出来たように思う。

それぞれの地区での式が終わり、街に繰り出してきた20歳の若者たち、
手に手に携帯を持って連絡を取り合い、何人かずつの塊が出来上がる。
中学や高校時代の仲間なのであろう、「やぁ~久しぶり~」と歓声を上げながら笑顔がはじける。
成人式、それは女の子の晴れ舞台であり、大規模な同窓会の様相である。

初詣

2009年01月09日 08時15分38秒 | Weblog
今年のお正月は穏やかな天候が続いた。
世界を取り巻く環境と急変していく状況には似つかわしくない年明けの穏やかさである。
ここ数年は、「また1年が過ぎたのか、早いなぁ」と思うのが常であった。
しかし今年は例年と違い、少し緊張した年始めである。
今年はどんな年になるのだろう?、予測もできない年が始まったという感じである。
果たして、今年の衆議院選挙は与野党逆転するのであろうか?
アメリカの自動車メーカーのビックスリーはどういう経過をたどるのであろうか?
オバマは人気通り、アメリカ社会の救世主になるのであろうか?
自分自身健康は、自分のやっている会社は、今年も維持できるのであろうか?
どんな異変が、どんな落とし穴が控えているのかと、不安な気持ちにもなる年始である。

お正月は例年女房の実家(大和市)で過ごす。
運動不足とおせちの腹ごなしにと思って近所を散歩をしていると、熊野神社というのがあった。
その神社は少し高台にあって、階段の下から2列の長い初詣の列が100メートルは続いていた。
2人づつが行儀よくお参りしているから、最後尾からだと30分は並ぶことになるだろう。
これを見ていると、日本人は何と律儀で、善良な国民なのだろうと感心する。
お正月から出かけて来て長い行列を作ってじっと順番を待ち、お賽銭を上げてお参りする。
本当はご利益なぞ期待してはいないのだろし、運勢が変わるとも思っていないのだろう。
しかし年の初めに当たってこの一年の無事を祈らずにはいられない。
それが日本人であり、日本の伝統文化なのであるのだろう。

今、日本全国の主な神社・仏閣に合計で9,800万人もの人々が初詣に行くそうである。
これは日本の人口(1億2768万人)の約77%にあたり、いかに定着した行事かがわかる。
そして日本には法人として登録されているだけでも、15万以上の神社・仏閣があるという。
発表さていた速報だと
関東近県の初詣で多くの神社・仏閣で前年を上回ったようである。(埼玉県40万人増)
何となく不穏な世相、「今年一年無事でありますように」そんな願いが多かったのかもしれない。

我が家では初詣は正月の2日に女房の実家の家族と一緒に近所の諏訪神社にお参りする。
街中の小さな神社でもあり、お参りの人も少なく、比較的落ち着いた初詣になる。
家族の健康や子供達の入試や就職、その折々にこの神社に手を合わせたことを思い出す。
おみくじを引き、その占いに目を通して喜々とし、お守りを買い、屋台でたこ焼きを買う。
毎年変わることなく続く初詣、お参りすること自体が現在の安泰を証明しているのかもしれない。
おみくじを見ながらはしゃいでいる子供たちをみながらふとそんなことを思う。