60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

パスタ店(その後)

2011年06月24日 08時05分39秒 | Weblog
昨年10月にオープンした時から、毎月行っていた友人のパスタ店、ここ3ヶ月はご無沙汰していた。
先日電話をかけたら、「今日は夜の予約が入っているから9時まで営業している」とのこと、今回は
夜の店に行ってみることにした。北総線の白井駅を降り、近道になっている真っ暗な畑の道を歩き、
彼の店に着いたのはPM7時である。すでに予約のお客様は座敷席で和やかに食事をしていた。
夜は予約のみで、スープ、前菜、パスタ(小)、飲み物、デザートのコースメニュー専門で、1580円と
2100円の2種類でやっている。(お酒類は別料金)

私は誰もいないカウンター席に座ってビールを注文する。しばらくして、「これはサービスだから」と
ビールと一緒に、今日の予約客の前菜に盛り付けで余分になったものを付け出しに出してくれた。
座敷の予約客には大半の料理は出し終え、今は手が空いているのだろう。店長は厨房から出て
来て、今までの経過を話してくれた。

10月オープンの月は珍しさもあってお客様は来てくれた。しかし11月、12月と客数は落ちていく、
これはマズイいと思い、夜の営業(予約)も始め、近隣のマンションへ宅訪でチラシを撒いて行った。
その効果もあって1月、2月と徐々にではあるが客数は伸びて行く。しかし、3月11日の震災から
ガクンと客数は落ちてしまう。郊外でしかも駅から離れているこの立地では、ガソリン不足の影響が
モロに出てしまった。4月、5月とお客さんは戻ってきてくれたが客数の伸びは無くなってしまった。

今は月曜定休の週6日間の営業、お昼の営業(AM11:30~PM3:00)がメインであるが、予約が
あれば夜もやる。月によってまちまちであるが夜の予約が入るのは週に2、3回程度だという。
それで夫婦2人で働いて月に15~25万円程度の手取りのようである。これでは夫婦それぞれに
働いた方がはるかに収入は良い。そのあたりは誤算ではないのか?そんなことを聞いて見た。

子供達2人は結婚して家を出て行った。あとは夫婦の生活である。まだマンションのローンは残って
いるが、それでもある程度の蓄えは残しているから、このままでもギリギリでやっていけると思う。
店をオープンして8ヶ月、まだ先が読めずいつも不安は抱えているが、踏み出したことに後悔はない。
サラリーマン時代は社長の意向をせん索しながら、自分の不本意なことでもやらざるを得なかった。
今は自分の好きな料理を作ることでお客様の評価を受ける。良いも悪いも自分のやっていることが、
全て自分に跳ね返ってくる。その方がサラリーマンをやっている時より納得がいくし、ストレスがない。
もうこの歳になると、収入の問題より自分の精神的な安定の方が優先するように思う。

今まで営業していて1日に2、3人のお客さんの日も何日かあったが、11月に一人のお客様も入ら
なかった日が1日あった。朝の買い出しを終え店に帰って、9時から買ってきた具材の仕込みをする。
10時半からはズンドウにいっぱいのお湯を沸かし始め、出入口を清掃して11時半の開店を迎える。
しかし12時、1時と過ぎても、誰一人お客様が来てくれない。そしてとうとう2時を過ぎてしまった。
結局あきらめて、まっさらで沸いているお湯のガスを止める。その時の気持ちは経験した人でないと
判らないと思うが、膝がガクガクと震えるような不安を感じてしまった。と言う。
たぶんその経験があったからだろう。今来てくれるお客さん一人一人をほんとうに大切に思っている。
自分が作った料理を食べてくれ、「美味しかった。また来るから・・・」そう言われた時が一番うれしい。

この前「少し麺が柔らかいかな?」と思ったが、お客さんが立て込んでいて、そのまま出してしまった。
そのお客さんが食べ終わって、何も言わずお金を払い、入口を出るときに少し首を傾けた気がした。
「あっ、これはマズイことをした」、一瞬そう思ったそうである。本当はそのお客さんがどう評価してくれ
たかは言葉に出してくれなければ判らないが、しかし自分の落ち度やミスは敏感に感じるようになる。
季節に合わせ美味しい食材を探し新しいメニュー開発していく。手を抜かず一品一品を丁寧に作る、
「美味しいものを作らなければ、お客様に飽きられてしまう」、それが今の最大のテーマになっている。

店は不便な所にあり、お金がかけられないから、装飾もほとんど自前でやっている。価格もチェーン店
のように安く売ることはできない。結局勝負できるのは美味しさだけである。手を抜かず丁寧に作り、
それを評価してもらって、ファンを広げていく。今はそれができると信じて、やって行くしかないと思う。
まだ採算には合わないが、決してあきらめてはいない。一緒に働いてくれる女房はストレスがたまり、
迷惑をかけていると思っているが、私の方はサラリーマン時代より、はるかに楽しいし充実している。
そんな話をしてくれた。

ビールを飲み終え、「フレッシュトマトとあさりのスパゲティ」を注文した。店長ができ上がったパスタ
を持って来て説明してくれる。このあさりは富津産で小さいけれど、色々比べて一番味が良かった。
市場で買って来て、一つづつ手むきにして、急速冷凍して保存しておく。トマトは毎朝近隣の農家を
回って買ってくる。だからどの食材にも自分のこだわりがあるらしい。
シジミと間違えるような小さなアサリであるが、たっぷりと入っていて麺にからんでいる。確かに彼が
言うようにアサリの味が良く出ている。化学調味料を使わず、まろやかで深みのある味は彼の目指す
味なのであろう。私は味音痴で正しくは評価してあげられないが、味覚の優れた人には彼のこだわり
が判るのかもしれない。一人でも多くのお客様が認めてくれ、この店のが繁盛してくれることを、今は
願ってやまない。

営業スタイル

2011年06月17日 08時32分25秒 | Weblog
一人で仕事をやっていると、苦手な営業も自分でやらざるを得ない。普段は電話とFAXとメールで
何とか業務はこなしているが、ときには相手方に出向いて、商談しなければいけないこともある。
企画提案、商品紹介、商品や資材の値上げのお願い、クレームの事情説明や、お詫び等である。
年々同世代の人達がリタイアしていくため、商談相手のほとんどは年下になり、話題にこと欠き、
益々商談が億劫になる。私は営業経験が無いため、一般的な営業スタンスは身についていない。
したがって営業スタイルは何の愛想もない我流である。一般に営業は「お客様は神様」的な意識が
あり、買う方が優位で、売る方が下位という認識が強いように思う。しかし私は「商売は対等」という
思いが強く、営業先だからと言って特に腰を低くすることもないし、接待もしない。盆暮れの挨拶も
行かないし、ましてやつけ届けもしたことはない。商売はそこに必然性があるから成立するわけで、
普通にコミュニュケーションできれば、営業だからと言ってとくにへりくだることも、卑屈になることも
無いと思っている。従って必然性の無い処に無理やり商売を成立させようとは思わないのである。
営業とは「必然性」を作り上げていくこと、そう思っている。まあ独立して15年間、そういうスタイル
でも何とかなってきた。だから、私の認識もあながち間違ってはいないように思う。

企業にとっては相手先に売り込み、物事を調整したりする営業の役割は大きいものがある。そんな
営業のスタイルも、時代の変遷とともに大きく変わって来たように思う。さてどのように変わったのか?

以前、昔から良く知っている食品メーカーの営業部長(当時55歳ぐらい?)がこんな話をしてくれた。
部下の若い営業が、ある大手スーパーに売り込み、相手も乗り気で商売が成立するかもしれないと、
報告をしてきた。「ここは一発、俺の出番」そう思い、次の商談に若い営業と同行して商談に臨んだ。
相手は30代のバイヤー、私が話す内に、いかにも胡散臭いものでも見るような視線になってきた。
自分が出しゃばったのがマズかったのか、結局はその商談は不成立に終わってしまったそうである。
「彼には悪いことをした。若い奴には若い奴の手法があるのだろう」、そんな風に反省したそうである。
そんな話から、その部長と「昭和の営業」と「平成の営業」という話で盛り上がったことがあった。

我々の時代は、まさしく昭和である。右肩上がりの経済成長の中で、スーパーやコンビニの成長に
合わせ、それにくっ付いていれば、連れて成長していくような時代であった。そのためにメーカーの
営業マンは、とりあえず相手と取引し、継続させることが任務であった。そのためには如何に相手に
「取り入るか」が勝負だったように思う。相手の気分を害さないように気を使い、おべっかを言って
相手を持ち上げ機嫌を取る。飲食で接待し、お車代と称し金を出し、盆暮れのつけ届けは怠らず、
重要な相手であれば、ゴルフや海外旅行まで接待していた。湯水のごとく接待交際費を使っても、
そこに商売が成立すれば、メーカーもそれはそれで潤っていた時代である。営業も営業の特権の
ように、個人目的で営業費をごまかしながら使っていた。そんな(良き??)時代だったように思う。

しかしバブルが弾け、成長が止ってから様相が変わってくる。売り上げが伸びなくなった販売側は
粗利のアップを要求してくる。当然、価格交渉が激しくなり、慣れ合いの商売は難しくなってきた。
そして商売もそれなりの節度を持つようになり、接待の自粛や禁止令を出す企業も多くなっている。
メーカー側も営業経費は抑え気味になり、営業には提案型の営業スタイルを求めていくようになる。

「昭和の営業」と「平成の営業」、その境界ラインは50歳前後なのではないだろうか、先ほど書いた
食品メーカーの営業部長は完璧な昭和の営業である。彼は酒は飲めないが、ゴルフが得意である。
重要な得意先とは頻繁に接待ゴルフをやることが、彼の営業手法であった。多分30代のその若い
バイヤーにも、「どうですか、一緒にゴルフにでも行きませんか?」、そんなことでも言ったのだろう。
今の若い人にそんな誘い方をすれば、警戒心が先に立って、胡散臭く思われるのは当然であろう。
彼のゴルフを使って「相手に取り入る」という戦法は、使う相手によってマイナスになったのである。

では「平成の営業」とはどんなスタイルなのであろう。 
最近の若い営業は概して小ざっぱりした感じがする。昔の営業は「他に使い道が無いから営業でも」
という感じで、会社でもどちらかと言えば灰汁(アク)が強く、むさくるしい社員が多かったように思う。
しかし今のように売れない時代は、企業は営業部門へはそれなりの人材を投入する。だからなのか
身なりも物腰も言葉づかいも洗練された感じがする。しかし全体に昔ほどの灰汁の強さは無くなった。
若い営業は自社の商品は熟知し、こちらの質問にも的確に応えてくれる。そしてマーケットの状況や
情報もそれなりに把握している。それから、目的があれば来るが、昔の営業のように用事も無いのに
頻繁に会社に顔をだす営業は少なくなった。昔は人間臭くてドロドロとした取引関係が多かったが、
それに比べ、今はスマートだが、一面淡白で希薄な関係のようにも思もわれる。

昭和の営業の「相手に取り入る」という戦略に対して、平成の営業の戦略は何があるのだろうか?
多分それは「相手の信頼を得る」と言うことではないかと思う。経済成長が止まり物がみな売れなく
なった時、幾ら安い条件で買ったとしても、それが売れなければ双方に何のメリットももたらさない。
今のような閉塞感の強い時代に、もう自分だけの力ではそれを突破することは難しくなってきている。
だから売る方も買う方も、自分の仕事をこなすためには、協力者(パートナー)が必要になってきた。
気楽に何でも相談でき、違う目線での意見や的確なアドバイスをしてくれる相手が必要なのである。
その相手は誰でも良いわけではない。そこにはお互いが信頼関係で結ばれている必要である。

私が営業マンに期待することは、自分の取り扱い商品の知識は必要不可欠であるが、それ以上に
「自分の世界」を持っていることである。その「世界」は何でもよい。野球でもサッカーでも剣道でも、
釣りでも山登りでも何でも良い。(ただしTVで見ての知識ではなく、自分でやってみた経験が必要)
はたまた鉄キチでもディズニーオタクでも良いのである。そのことを自分の経験にもとずいて、1時間
でも2時間でも語る人の話は実に面白いのである。あることを追求しようとした時、そこに自分なりの
真理を見出すのかもしれない。そのことが他の人と違う発想になったり、見識だったりするように思う。
「この人と話したい」「この人に聞いて見たい」「この人だったらどんな意見を持つのだろう?」、そんな
ことが今は必要とされている。目先の仕事以外で、相手の世界を垣間見ることができる。お互いが
そんな部分を認めあえたら、そこに信頼感が芽生え双方が協力し合うだろう。今の時代おべっかを
言ってもらい、自尊心をくすぐって欲しい人は少ないと思う。そんな相手はうっとおしいだけである。

「営業スタイル」、それは人により時代により様々なようだ。親会社では営業に「頭は何時も低くしろ」
「用事が無くても近所に来ましたからと顔をだせ」、「初対面の人はその日の内にお礼の葉書を書け」
「大切なお客様は玄関までお見送りをして、深々と頭を下げろ」、「相手の身になって物事を考えろ」
「クレームも言い方一つで大事に至らないんだ」、などと教えている。しかしそんなことは若い人には
ちっとも理解されないようである。「お客様は神様」と思ってもいない営業、反対に「理不尽な相手」と
思ってさえいる相手のことを、そう思えと強要することに無理がある。今からの時代お仕着せの営業
ではなく、自分(自分の意見や見識)を持った営業マンが望まれるように思うのである。

友人

2011年06月10日 09時00分05秒 | Weblog
先日6年ぶりに昔の友人と会った。彼とは東京に出て来て、最初に就職した会社の同期生である。
その会社の社員研修の時たまたま机が隣で、それがきっかけで仲良くなった。私は店舗へ、彼は
物流部門へ配属となったが、同じ寮に寄宿していたことで、独身時代の最も仲の良い友人である。
私の結婚式も彼が司会を買って出てくれたほどである。しかしお互いが結婚し、仕事も忙しくなり
次第に会う機会も少なくなり年に1~2度顔を合わす程度になっていく。そして私が45歳で会社を
辞め、彼も子会社を転戦するようになってからは数年に1度と、会う機会はめっきり減ってしまった。

6年前だったろうか?、お互いが60になった頃に会った時、彼の変わりようにびっくりしたことがある。
長身(180センチ)でスリムだった彼が100kgを超すような巨漢になっていたのである。飲み屋の
テーブルに向い合って座ると、2周りも3周りも大きくなって、以前の彼とまったく雰囲気が違っていた。
四六時中「ハア、ハア」と呼吸する息が聞こえてくる。空調が効いた室内でさえ額から汗が吹き出し、
手に持ったハンドタオルで汗を拭いていた。「どうしたの、そんなに太って?」と聞いても、「運動して
体重を落とそうと思っているんだが、なかなか時間が無くってね」と言うだけで、あまり体調や体型の
ことに触れてもらいたくない雰囲気であった。

そんな彼からの今年の年賀状に3月末で嘱託の仕事も完全に辞め、リタイアする旨の添え書きが
書いてあった。それで今回退職祝いを兼ねて会うことになったのである。会ってみると、歳の割には
豊富な頭の髪を丸刈りし、Tシャツを着てさっぱりしていた。しかし腰から下が異様に膨れた体型は、
漫画のムーミンを連想してしまうほどである。退職したことから、精神的には解放されたのであろう。
今回は自分の体調について詳しく話してくれた。

体重は過去に110kgを越えたことにもあるが、今は100kgだそうである。仕事を辞めたことを機に、
運動して体重を落とそうと、毎日歩くことにしたのだが、気負い過ぎて無理をしてしたのか足を痛め、
一時は動けなくなってしまったそうである。しかし今はなんとか1日一万歩を歩けるまで回復した。
今彼にとって「減量」は最も真剣に取り組んでいるテーマなのである。またメタボが引き金になった
のか高血圧症で糖尿病、それに加え胃食道逆流症もあって、毎日7錠の薬を飲んでいるという。
そして4年前には健康診断で肺癌が見つかり、手術で肺の1/4を切除した。今は術後4年目だが、
医者はもう転移はないだろうと言ってくれるので、今はあまり不安は感じないという。

彼は宮崎県出身、鹿児島の大学を卒業して東京に就職した。性格は穏やかで人の面倒見がよく、
おっとりとした性格は如何にも田舎育ちと言う感じである。仕事においても強引に事を運ぶ方では
なく、どちらかと言えば調整型のタイプである。サラリーマンも50代に入り出世競争から脱落すると
関連子会社などに追いやられるのが常である。そんなことで私は会社を辞めたが、彼は子会社や
関連会社を転戦するうようになった。彼が次第に太り始めたのはその頃からではなかったかと思う。
調整型の彼は職場職場で神経を使い、ストレスを溜めていったのであろう。そしてその反動により
過食になりメタボになり、やがて高血圧や糖尿病、逆流症、肺癌と病んでいったのであろうと思う。

人がこの世の中で生きていく上では必然的に競争があり、ノルマがあり、多様な人間関係がある。
そんな中を生き抜いていく時、大なり小なりストレスは生じてくる。そのストレスに対して、どう向き
合い、どうこなしていくのかは、手法も耐性も個人によって違ってくるように思う。同期の彼とは同じ
ような地方出身者であり、性格も能力も似たようなものであったと思う。私は会社の中で行き詰り
これ以上のストレスは耐えられないと思って、会社を辞めてしまった。一方彼は我慢に我慢を重ね
耐え抜き、嘱託を重ねながらも65歳まで勤め上げたのである。その判断の違いは何処にあるのだ
ろうかと考えた時、私より彼の方が少し我慢強かったのではないかと思う。
その分彼はまともにストレスを受け、そしてその代償に病気になったのかもしれない。何が幸いし、
何が災いになるのか、それは誰にも判らない。しかし自分の人生を振り返って見て言えることは、
サラリーマンの仕事で、健康を害してまで、自分を壊してまで、続けるだけの価値はないと思う。
仕事をする上で自分の置かれた環境と自分の能力や忍耐力の限界とを計って、臨界を超えない
ところで止まる。それがいかに大切であるかを今は思うのである。

こんなことを書いているうちに、大昔のことを思いだした。
私の出身は水産系の大学で、一年の夏に夏季実習というのがある。2週間を寮に泊り込み船乗り
の幹部候補としての訓練を受ける。(私の学部は船に乗ることは無いから必要無いと思うのだが)
ロープの結び方から始まって、手旗、カッター(船)、和船の漕ぎ方、遠泳(3時間)、潜水、等々
朝のランニングから始まって、1日中訓練に明け暮れる。その訓練の主旨は「自分の限界を知る」
ことにあるのだそうである。倒れるまで走り、手の皮や尻の皮が剥けるまでカッター船を漕ぎ続け、
溺れるまで泳ぐ。寮では意識を失うまで酒を飲まされ、声の涸れるまで声を張り上げさせられる。
今の時代であれば、到底許される内容ではないのだが、当時はまだ戦前のやり方が生きていた。
「板子一枚下は地獄(海)」、海の上では誰の助けも期待できない。どう判断してどう行動するか、
それには、自分の精神的な肉体的な限界を知っていなければいけない。そんなことを体で覚える
ための訓練だったように思う。当時は相当な違和感と抵抗があった。しかし今振り返ってみた時、
この経験があったからこそ、限界近くまで行き、限界の寸前で引き返せたように思うのである。
(自分でそう思っているだけで、本当は相当手前で引き返していたのかもしれないのだが)

感情のままに流されず、どこかに冷めた自分がいる。そしてその冷めた自分が、「もういい加減に
しろよ」と自分にストップをかけてしまう。傍から見れば「冷めた奴」「面白味のない男」ということに
なるのであろう。6年ぶりに会った友人は何時も全力を出し切っていたように思う。そして刀折れ
矢尽きてしまったのかもしれない。さて、どちらの人生が納得行く人生だったのだろうか、それは
誰にもわからないし、比べるものでもないだろう。それはたった一度の自分の人生であり、今振り
返っても他に 選択肢はなかったように思うからである。
彼とは今後定期的に会い、また一緒に遊ぼうということになった。独身時代無邪気に遊んだ仲間、
お互い仕事と言う枷が取れた時、また無邪気に遊ぶことができるのだろうか?40年という月日の
流れがお互いをどんなに風に変えてしまったのか?そんなことを検証をするのも面白いように思う。


イメージングスクエアー

2011年06月03日 08時01分23秒 | Weblog
             先週のブログの結婚式の写真を絵(色鉛筆)にしてみました。

以前のブログに、任天堂DSの「絵心教室」というソフトを使って、絵にチャレンジしたことを書いた。
DSに写真を取り込みその写真を見ながら小さな画面に描いていくわけであるが、絵心の無い悲しさ、
小学生が描いた様な絵になってしまう。なかなか上達せず、それを繰り返すうち次第に億劫になり、
いつしか遠ざかってしまった。しかし「自在に絵を描きたい」という願望をあきらめたわけではない。

最近、デジカメの競争も一段と激しくなり、機能や価格も行きつくところまで来てしまっているらしい。
そんな中でカシオが「写真革命」と称し、「撮る」「見る」から「表現を楽しむ」ということを打ち出して
他社とは違う戦略で成功しているというニュースを聞いた。そこで早速に家電量販店に行ってみる。
カメラ売り場でカシオのカメラに搭載されているというアート機能について聞いて見た。店員がカメラを
操作して説明してくれるのだが、カメラの小さなモニターではどんな画像の変化になるのか判り辛い。
たまたまそこに「デジカメ画像をネットで簡単変更」というタイトルで「画像変換ネットワークサービス」
の会員募集のパンフレットがあった。後日、案内にもとずいて会員(無料)になり、今まで撮りためた
中から幾枚かを絵画風に変更してみた。それが上下の「絵(写真?)」である。

変更ソフトは油彩やパステル、点描、色鉛筆、ガッシュと12種類の多彩なイメージ画に変更できる。
色々と試してみると、写真の内容によっては画風に似合うものと似合わないものがあることに気づく。
今までは写真の構図を考え、いかにシャープに撮るかを意識していた。しかしこんなソフトが普及して
新しい表現が可能になると、写真の楽しみも今まで以上に広がるように思う。そして絵心のない私も
それなりの表現力を持つことになる。
昨今の技術の進歩に、何処まで、何時まで付いていけるか?それも私の大きなテーマではあるが、
しかし「自分の手で自在に絵を書いてみたい」、その願望は諦めたわけではなく、いづれ再チャレンジ
したいと思っている。

※ 試してみたい方は
【イメージングスクエアー】で検索するか、(http://art.casio.com/square/)にアクセスすれば
そこにイメージングスクエアーのページがあり、会員登録すると無料でサービスが利用できる。

       
                           さくら並木(パステル)

               
                            自画像(ガッシュ)

                 
                              自画像(油彩)

               
                            自画像(パステル)

               
                           自画像(ゴシック油彩)

      
                             故郷(色鉛筆)

      
                            故郷(ドローイング)

                  
                           珈琲(シルクスクリーン)

                  
                          夏の田圃(淡彩点描)

      
                          夏の田圃(重厚な油彩)

                  
                           海(野獣派油彩)

                  
                           海(ドローイング)

      
                           紫陽花(エアブラシ)

                 
                           紫陽花(パステル)

      
                         あじさい(シルクスクリーン)

      
                          バラ(重厚な油彩)

      
                          バラ(野獣的な油彩)

                 
                         古河市(シルクスクリーン)

      
                           さくらんぼ(油彩)

              
                             道(重厚な油彩)

             
                              道(鉛筆)

       
                           農家(ゴシック油彩)

       
                             農家(鉛筆)