60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

物忘れ

2012年11月30日 08時45分17秒 | Weblog
 久々に新宿で商談を終え山手線の鶯谷まで戻ってきた。しかし駅前に出ると冷たい雨が激しく降っている。持ってきたのは小さめのビニール傘、これで15分歩いて会社に帰るのは少し億劫になる。「えいっ、タクシー使おう」そう思ってタクシーに乗った。会社まではワンメーターの710円である。右後ろのポケットから折りたたみの財布を出し1000円札を運転手に渡す。運転手は「10円ありますか?」と問う。今度はズボンの左ポケットの小銭入れを出して10円をだし運転手に渡す。300円のお釣を渡されてタクシーを降りた。

 会社に戻ってしばらくし何気なく後ろポケットに手をやる。「あつ、財布が無い」、あわてて背広の全てのポケットを探し、机の周りも探して見てみる。しかし見当たらない。自分の行動を振り返える。タクシーで1000円札を出してから財布には触っていない。「そうだ、タクシーの中だ!」そう気づいた。1000円を出すときには財布は手に持っていたはずである。しかし小銭入れをズボンの右ポケットから取り出し、ジッパーを開くとき両手を使うから、財布はタクシーの座席に置いてしまう。そして降りるときには置いた財布を忘れてしまったのでる。しかしタクシーの会社名も車の色も覚えていない、領収書も貰っていない。

 財布には月末の給料後で1ヶ月分の小遣いが丸々入っていた。銀行カード、免許証、家電量販店のポイントカードが4枚、そして会社で精算するために入れていた領収書が3~4枚、スイカの定期券(とチャージ額5000円以上)等々、「ああ~っ」と思わずため息が出てしまう。財布をタクシーに置き忘れたのはこれで2度目である。前回は運転手が気づいてくれ、財布の中に入れていた名刺を見て電話をかけ、わざわざ届けてくれた。しかしそれはたまたま良心的な運転手で運が良かったのである。今回は現金が沢山入っているから、運転手でも後から乗った乗客が見つけても、戻ってくるのは難しいように思ってしまう。現金が無くなったことも悔しいが、銀行カードの停止や再発行、免許証の再交付、考えただけでも気が重くなる。「あの運転手が、10円と言ったからこんなことになったんだ!」、自分の愚かさは棚に上げて運転手の所為にしてまう。どこにもぶつけようの無い怒りが湧き上がり苛立ってくる。仕方なしに東京タクシーセンターに電話して落し物の届出をする。銀行に電話してカードの使用を停止してもらい、インターネットで再発行の手続きをする。会社の近くの交番に行き紛失届けを出す。あとは善意の人に拾われることを期待して待つしかない。

 翌日1日待ったが何の連絡も無い。運転免許証が無いと、免許不携帯で罰金になる。出てこないことを前提にすれば再発行してもらうしかないだろう。そう思ってその翌日鴻巣市にある埼玉県の免許センターに行った。往復4時間の時間をかけ、交通費と印紙代で6000円以上になった。ほんの少しの不注意が大きな損害になり、無駄な時間をとられてしまうことになる。しかし考えてみればこれは単なる不注意ではなく、自分が持っている盲点のように思うのである。そして年齢的な問題で今後も避けては通れない現象のように思うのである。歳を取るほどに2つの違う動作を同時にすることが難しくなってくるのだろう。自分の動作に満遍なく意識が働かず、無意識で動作していることが多くなる。だから小銭入れに意識が向かうと、財布のことを忘れてしまう。これからは一つ一つの動作を確実に終え、それから次の動作に入らなくてはいけないのかも知れない。さてこれからはどうしたら良いだろう?

 以前は定期券、紙幣用の財布、小銭入れ、カード類と4つに分けていた。しかし分けると管理が難しくなるからと思い、小銭以外は一つにまとめ2つにした。しかし今回のことで反対に失った場合のリスクが大きくなる。ではどうするか? これからは使うシーン別に、そして使う頻度別に分けて携帯しようと考えてみた。しかも全てを身に着けずカバンにも分散しようと思う。一つは小銭と1000円札用の財布を作る。二つ目は高額紙幣とカード類を一緒にしてこれはカバンに入れる。三つ目は定期券を薄い定期入れにして胸のポケットに入れる。このことで一つの動作でなるべく完結させるようにして、しかもリスクを分散させることができるように思う。

 歳を取るにしたがって今までに考えなかった新たな問題が発生してくる。これにどう対処していくかは加齢に向かっての大きなテーマなのである。先日本屋でシルバー川柳集というのを見つけ買って見た。その中の句で、物忘れを題にした作品を取り上げてみる。

           忘れ物 口で唱えて 取りに行き
           万歩計 半分以上は 探し物
           改札を 通れずよくみりゃ 診察券
           探し物 やっと探して 置き忘れ
           立ち上がり 用事忘れて また座る
           名が出ない 「あれ」「これ」「それ」で 用を足す
           へそくりの 場所を忘れて 妻に聞く 
           紙とペン 探している間に 句を忘れ、

               
 

離婚理由

2012年11月22日 17時22分36秒 | Weblog
 年末の喪中葉書に混じって、「Restart! single life again.」と書いた葉書が送られてきた。文面には「突然ではありますが、この度シングル生活に舞い戻ってきました! すでに新たな人生を始めておりますが、今後も変わらぬおつきあいを頂ければ幸いです」、と言うものである。7~8年前に彼女の結婚式に出席し、それ以来毎年の年賀状は欠かしたことはない。たぶん離婚してから自分宛の年賀状が元の夫に届くのを避けたかったから葉書を出したのであろう。葉書を手にしたとき、まず「何があったのだろう?」と考えてしまう。彼女はどちらかといえば、大人しく無口で耐えるタイプの女性であった。だから夫の浮気?、それとも暴力?、夫は多少マザコンのタイプだったから、そのあたりに耐えられなかったのだろうか?、思いつく原因はどうしても夫の側の問題を考えてしまう。

 葉書をもらったからには返事をしなければと思い、「何があったのでしょう?残念です。落ち着いて心境でも話せるようになったら一度お会いしましょう」、そんな内容でメールを送った。しばらくして返信がある。「別居したのは昨年の秋、紆余曲折あって離婚届けを出したのは今年の夏、だからすでに1年経過していて、気持ちとしては吹っ切れています」と言う内容であった。もう一年も経過しているのなら経緯も話せるだろう。そう思って先日彼女に会ってきた。彼女が結婚した年の年末に、忘年会でみんなが集まったことがある。多分その時以来の再会であった。だいぶ時間は経っているが、雰囲気は当時とはあまり変わっていない。それは子供がいないからかも知れない。お互いの近況を話してから、やはり話題は離婚原因の話になる。以下彼女が喋った離婚理由を要約して書いてみる。

 付き合い始めて5年目に結婚した。結婚してから今年で8年である。結婚した当初は、お互いの生活習慣や夫の癖が気になってストレスを感じていた。しかしそれも時間が経つにしたがって許容できるようになり、その後は結婚生活も快適に思えるようになっていった。3年前にマンションも購入し、自分も週3~4日のパートタイマーをこなして家計を助けるようにしていた。それと自分が妊娠しづらい体質と分かって、不妊治療に通い始めるようになったのもその頃である。そんな生活が6年目になった頃からだろうか、夫の性格である「優柔不断さや頼りなさ」が次第に鼻についてくるようになってくる。そしてそんな自分の気持ちが日を追うごとに膨れ上がっていった。「私はこのままこの人と一生暮らすのであろうか」、そう思えば思うほど耐えられない事のように思えてくる。不妊治療もやめてしまい、とうとう自分の方から離婚を言い出した。当然夫は晴天の霹靂である。夫に「なぜ?」と問われても、自分の気持ちを上手く伝えることができず、不毛な話し合いと言い合いが続いて行く。そんなこともイヤになってしまい、昨年の秋にとうとう家を出て実家に帰る。

 その後も話し合いは続いた。相手の親も出てきて、「あなたのためにマンションも買ったのではないか、どうするのだ!」とか、自分の父にも、「おたくの娘はどういう考えなのだ!」と抗議が続く、しかし父親は「これは2人の問題ですから」と取り合わなかった。彼女は自分でも自覚しているほど頑固な性格である。一度こうだと言い出すと後には引かない。夫のほうもそれが分かっているのだろう。時間の経過と共に言い合いもなくなり、今年の夏に離婚届に印を付いてくれたそうである。最後に荷物を引き取りに行ったときも穏やかに別れることが出来たという。

 この話を聞いて、自分の中では「?」マークが7~8個並ぶような不可解さである。付き合って5年、結婚して7年、合計12年もお互いを知っているわけである。それなのに夫に不満が出できたから別れるというのであれば、夫のほうこそ狐につままれたようで全くの被害者ではないか。「好きな人が出来た」というのであればまだ分かりやすい。しかしそれは絶対無いという(彼女の性格から嘘ではないと思う)。夫が浮気しているとか、酒癖が悪いとか、暴力を振るうとか、ある程度理解できることが理由であれば納得が行く。しかし彼女の言う理由が本当に離婚理由なら、多分世の中の多くの男性は理解できないのではないだろうかと思ってしまう。

 彼女から話を聞いて別れた後も、自分に納得できる理由付けを考えてしまう。会話の中で彼女が話した夫の性格に関することを思い出し、拾い出してみる。「何か相談されて私の考えを伝えたとする。しかしそれには何の反応も示さない。しかし同じ相談を自分の親にして私と同じ答えが返ったら、それは素直に聞き入れる」、「彼は能動的なタイプではない。食事に行くのも旅行をするのも、私が動かないと彼のほうからは絶対に動かない」、「無口で無表情、喜怒哀楽をほとんど顔に出さない」、「特にこれといった決定的な理由があるわけでなく、小さな不満が積もり積もって破綻してしまった」、そんなことを言っていたように思う。こういうことが要因なら、程度の差はあるだろうが私も基本的には同じであろう。そして仕事に疲れた多くのサラリーマン男性もまた同じようなものだと思うのである。

 「子供がいたら別れたのだろうか?」と聞いてみた。「その場合は別れていなかったかもしれない」と彼女は答える。と言うことは、彼女は子育てという目的が有れば耐えられた結婚生活が、それが無いために夫との関係に重きをおいてしまった。一方夫の方は仕事に目が向き、ある程度長くなった夫婦関係には気を使わなくなる。そんな不満が積もり積もってやがて臨界点に達してしまった。当然彼女だって感情のままに家を飛び出したわけではないだろう。夫との生活を続けた場合と、別れた後とを天秤にかけたはずである。そのとき今までの生活を続けるより、どうなるか分からない未知の方に天秤が傾いたのではないだろうか。そして傾いた天秤は元には戻らなくなった。今はそんな風に考え、とりあえずの理由付けしてみた。しかしこれが彼女の本当の心境かどうかは分からない。彼女は今実家で父親と2人(母親は9年前に亡くなった)で暮らし、都心の調剤薬局の事務のパートとして働いている。これは彼女にとって居心地のいい場所なのかもしれない。そうだとすると、もう再婚は難しいようにも思ってしまうのである。


アルゴ

2012年11月16日 08時46分44秒 | 映画
 映画「アルゴ」を観て来た。この映画は史実に基づく映画と言うことである。1979年、親欧米化路線を敷いていたパ-レビ国王の圧政に、フランスに亡命していたホメイニーを指導者とする反体制勢力が立ち上がり、イラン革命が勃発する。そんな状況下でパ-レビ国王は皇后や側近とともにエジプトに亡命し、その後癌の治療のためにアメリカに渡った。ホメイニーらが敵視するアメリカが、同じく敵視する国王を受け入れたことに学生らが反発し、同年11月4日にテヘランにあるアメリカ大使館を襲撃し占拠してしまう。そしてアメリカ人外交官や駐留していた海兵隊員とその家族の計52人を人質にし、パーレビ国王の身柄引き渡しを要求した。そんな混乱の中で一部大使館員とその家族の6人が脱出し、テヘランのカナダ大使の私邸に逃げ込んだ。

 襲撃占領の前に大使館員の写真つき名簿等はシュレッダーにかけていたが、名簿がシュレッタ-から復元されれば脱出者がいることが分かり、捕まれば処刑されてしまう。アメリカ国務省はCIAに応援を要請し、人質奪還のプロ、トニー・メンデス(ベン・アフレック)が呼ばれる。トニーは、6人を「アルゴ」という架空の映画のロケハンに来たカナダの映画クルーに仕立て、出国させるという作戦を立てる。プロデューサーに扮したトニーはイランへと向かい、文化・イスラム指導省で撮影許可を申請した後、6人が隠れているカナダ大使の私邸に入る。そこで脱出計画を6人に伝えるのだが、計画のリスクに彼らは反発する。しかし他に脱出の手段はない。仕方なくロケハンに成りすますべく、それぞれの役柄のプロフィールを暗記していく。翌日トニーは怖気づく大使館員を説得して、カナダ大使の私邸から6人を連れ出した。 

 国王の引渡しと反アメリカで殺気立つテヘランの街の中を7人は空港へ向かう。そして200名の民兵が監視する空港を通り抜け、スイス機に搭乗して国外へ脱出を図る。映画はその緊迫感をリアルに描いている。細部は脚色がなされ史実とは違いがあるのであろうが、いかにもハリウッド仕立てのCIAのプロジェクトが実話である事に驚かされる。成功のためには味方をも欺かなければならず、また救済後の問題を懸念して、クリントン大統領がこの事件を明らかにするまで18年間もの間、機密扱いとなっていたという。

 今、イランやリビアなどの中東と欧米との軋轢は抜き差しなら無い状況になっている。なぜそこまでこじれてしまったのか?今まで石油利権に絡んで、その国の権力者に取り入ってきた欧米は、民主化運動の高まりと宗教的な軋轢の中で、今までの利権を失っていく。国内紛争のどちらか一方に加担していると、体制が逆転すれば、加担した側はそのしっぺ返しを食らってしまう。次々と広がっていく中東の紛争の原点と言うべきイラン革命、この映画を見るとイラクやチュニジア、エジプト、そしてリビアの変動とその経緯や流れの一端を感じるとることが出来るように思った。

 街を揺るがす民衆の騒動、今までの積もり積もった権力者への憎悪の感情が一気に吐き出す。法も秩序も理性も良識も失われ暴徒化してしまうさまは、今回の尖閣列島問題で中国の騒動にも同じようなものを感じてしまう。そんな国中を敵に回した中での救出劇である。アメリカ国民だと言うだけで、自分の命を張って救出を実行するCIAのエ-ジェント、日本人だと誰もが尻込みしてしまいしうなリスクの高い仕事を引き受ける。さすがにプロの国だと改めて見直してしまう。そしてもう一つ、この映画を決してヒ-ロ-物とはせず、史実をリアルに描き出そうとするスタンスは、ハリウッド映画の懐の深さとその実力を改めて感じてしまう。見終わって「勉強になった!」と思える良作である。

             


父のこと

2012年11月09日 09時03分45秒 | Weblog
 朝、出勤前に池袋のセルフ式の喫茶店に寄るのが毎日の日課である。カウンターから珈琲をトレーで運び席に座る。そこで思わず、「ハア~」というため息が漏れた。その「ため息」がいかにも父のそれと似ていることに気が付く。そのタイミング、長さ、声の質、これはまさに親父ではないか?・・朝夕、鏡に映る自分の顔を見つめると、そこに親父がいるのではと、まじまじと自分の顔を見つめることがある。顔全体の輪郭なのか、太い眉であろうか、それとも口もとか、歳を取るごとに親父の顔に近づいてくる感じである。「まあ仕方ないか?遺伝子の半分は親父から引き継いでいるのだから」

 父は5年前に亡くなった。新潟で父と同居している弟から、父が入院したと電話がある。体力的な問題で充分な検査は出来ないが、多分肺がんが進んでいて肝臓にも転移している、というのが医者の所見だそうである。一週間前に父と電話で話した時は声はカスレていたものの、なんの異状も訴えてはいなかったのに、・・・・・。「とうとう来るべきものがきた」そんな思いで弟の話を聞いていた。

 1年ぶりに見た父の表情は苦悩に満ちたものだった。鼻に酸素吸入の管を当て、それでも肩で息をしている。弟に詳しく聞くと、レントゲン検査では肺の2/3は白くなり、日々進行の度合いを早めいて次第に呼吸が困難になっているという。体が日に日に衰弱しており、病気を特定するための細胞の採取も出来ず、今は適切な治療が出来ないようである。しかし病状から見ると進行性の早い肺がんだろうということであった。父は部屋の中にあるトイレでさえ何分もかけて行き、ベットに帰ればハアハアと大きな息をする。食事を採れば新陳代謝が増して呼吸が苦しくなるからと、ここ一両日は食事も全く手をつけないようだ。今はただ点滴と注射による現状維持をしているだけである。翌日一番上の兄も見舞いに来る。兄弟3人が集まり、治療方針を話し合う。検査で病気が肺がんと確定しても、今の父の様子では抗がん剤や放射線照射治療は無理である。92歳の父にこれ以上の苦しみを味合わせたくない。あとは穏やかにあって欲しい。3人の意見は一致する。

 病名も、自分の置かれている状況も、可能性も、何も知らされない状態で、ただただ苦しい時を耐えている父。自制心が強い父ではあるが、そのことから来る苛立ちが私に伝わってくる。「もう夏は越せないと思っている」、「もう退院は無理だよ」、死が迫っている自覚はあるものの、どういう経過をたどろうとしているのか、先の見えない状況が父には一番の苛立ちのようである。あまり背が高くないものの、がっしりした体格の父を、私は子供のころからライオンをイメージしていた。ベットの上にすわり肩で息をしている父見るとき、「ナルニア国物語り」に出てくる傷ついたライオンのように思えた。物語ではライオンはよみがえるが、目の前の父の復活はありえないのだろう。

 見舞い3日目、病院に行き弟と交代する。父は昨日より若干楽なようで、ベットを斜めにして新聞に目を向けていた。しかしその目線は動かず、呆然としたした感じで時々目をつむり、何か考えているようでもあり、思い出しているようにも見える。私も持ってきた本を読みながら、時折父に目を向ける。2人の間に沈黙と静寂の時間が続いていく。父が元気なとき、新潟の実家で父と2人で沈黙があったとしても、それはさして苦痛でもなく、お互いが勝手な時間を楽しんでいるという風であった。しかし今はお互いがどう接すれば良いのか、考えながらも何も出来ず、重い空気が流れているだけである。父の息は相変わらず荒く、苦しい時間をただひたすら耐えているように見える。午後の3時を過ぎ、そろそろ東京に帰る時間になる。「じゃあ、俺は帰るけど、また見舞いに来るよ。頑張ってね」と声をかけ、父の手を握る。父も私の手を握り返し「あまり心配するな」と、たどたどしい言葉が返ってきた。これが父との最後の会話になった。

 その後、父の様態は瞬く間に悪くなっていった。翌週の土曜日に新潟へ行った時はすでに意識はなく、酸素マスクを口にあて、呼吸の間隔も長く、時折荒い呼吸をしている状態であった。弟によると、父は苦しがって点滴の管をはずまでになり、その苦しみを和らげるためにモルヒネの量を増やし、それでも苦しがるからと、今日は麻酔の処置を施したということである。目の前に横たわる父はもう二度と自分の意思を伝えることも出来ないであろう。死期を早める処置ではあるが、苦しむ父を見るのは辛い。家族にとってこれが最良の処置なのである。昨夜から徹夜の弟夫婦を家に帰し、病室は私と父の二人になった。昏睡状態の父に何を語りかけても反応はない。もう自分は何をしてもあげられない。父のそばに座ったまま新聞を手にしたり、寝息に耳を傾けたり、時おり病室をでて休憩室で珈琲を飲む。

 弟を帰して2時間が経過したころから、父の呼吸の間隔がしだいに長くっていることに気づく。 等間隔の呼吸が時折長く止まり、そして大きく息をするような感じで再開する。その長くなった停止が20秒以上になるのが気になって、ナース室に報告に行った。報告を聞いてしばらくして看護士2人が入ってくる。「おじいちゃん、体の向きを変えるからね」と声をかけながら体の向きを変え始めたので、私は病室から出て、看護士の仕事が終わるのを待つ。しばらくすると看護士がバタバタとモニターを病室に持ち込み、父の胸をはだけ電極のついたコードをつなぎ始める。モニターには3本の波形が移動し、数字が表記される。84の数字が64とか75とか唐突に変化する。これは多分心拍数なのであろう。その下の波形は呼吸の回数のようで、3になったり2になったりしている。看護士は私に、「心拍数が落ちています。至急家族の方を呼んでください」と伝えた。

 私は病室をでて弟に携帯電話をする。病室に戻ると、モニターは先ほどより乱れが大きくなっている。心拍数の80代が少なくなり、時折40代も出てくる。私は父の手を握る。父の呼吸はさらに少なくなり、数字は2回だったり1回だったり、心拍数が突然ゼロになる。「あっ、ゼロですよ」と看護士に伝えた途端、また80代の数字が現れる。 「もう時間がない、弟は間に合うのか」、私一人で看取ることへの後ろめたさに似た気持ちが湧き上がってきた。 再度携帯に電話する。「今、何処!」、「病院の玄関のところ」、「じゃあ、走って!」 父は時折り思い出したように息をする。「そう、その調子、息をして、頑張って」、そのたびに看護士は声をかける。しかし私は父には何の声もかけることも出来ない。「ああ、良く頑張った」心の内でそう思うだけであった。

 弟が駆け込んでくる。モニターの脈拍は時々ゼロになったり、それでも80代40代60代とランダムな数値が入り乱れていく。呼吸もゼロか1かで、実際の呼吸はなくなったようである。しばらくして、突然、心拍の波形がフラットになり、数値はゼロにななったままになる。看護士が病室を出て行き、すぐに医者が入ってきた。医者は父の胸に聴診器をあて、心音を聞き、父の目を開いて瞳孔を見ている。型どおりの診察を終えた医者は我々の方へ向き直り、「心拍も呼吸も聞き取ることが出来ず、瞳孔も開いているため、死亡と確認します。私の時計で午後5時3分です」

 入院して10日間、あっという間の父の死であった。苦しむ時間が少なかったと言えなくもないが、しかし壮絶な死でもある。肺の機能が次第に衰えて呼吸困難になって行き、最後は窒息死である。ベットを倒して横になれば肺を圧迫して呼吸が苦しくなるから、わずかにベットを傾けた状態で座った状態での10日間であった。「さぞ苦しかっただろう、さぞ辛かったであろう」そう思わずにはいられない。その間父は一言の泣き言も言わず、じっと自分の死を待っていた。「果たして自分にそれが出来るのか?」、それが私の最終の課題である。

葬儀

2012年11月02日 10時16分17秒 | Weblog
 今週の火曜日、一緒に仕事をしたことのある仲間の葬儀があった。彼は61歳(享年62歳)、独身で両親もすでに他界し、今年の春には実の弟さんも亡くなっている。血縁のある身寄りと言えば、東京に住んでいる妹の娘さん(姪)だけである。彼はアル中といっても過言ではないほど、無類の酒好きであった。多分それが原因なのだろう、60前から体調を崩し、仕事から遠ざかってしまっていた。そして最近の情報では、一人での生活が難しいほど悪くなって近所の病院に入院したと聞いた。そんな矢先、「先週の土曜日に亡くなりました」と、姪御さんから元の会社に連絡が入る。死因は肝硬変の悪化だそうである。「さもありなん」、誰もが納得する病名である。彼と関係が深かった何人かが葬儀に参列することになった。

 彼は家としては仏教系のある宗派に属していたのだが、彼自身は無宗教を貫いていたようである。生前姪御さんにも、「戒名も何も要らないから、お骨にして墓に入れてくれればそれで良い」との遺言であったようである。
 当日斎場に集まったのは20名弱であった。予定の時間になって施設内にある安置所に案内される。そこは冷房がしっかり効いていて、壁面に3段の棚があり、名前が書かれた7~8体の棺が納められていた。安置所の中央にはすでに台車に乗せられた彼の棺が置かれていた。一通りの挨拶があってから、お盆に乗せた切花を参列者は故人の傍に手向けていく。彼の顔は黒ずんで、頬はこけ、白髪が目立ち、小さな方だった体は、棺の中ではより小さく見える。全ての花を入れ全員がそろって合掌し終わると、葬儀社の人は棺に蓋をし台車を押してそのまま焼き場に向かう。一同もその後に続いた。

 焼き場には火葬炉がずらりと並び、その左から2番目の炉に棺は収められた。鋼鉄の扉が閉められてその前に焼香台が置かれてから参列者は最後のご焼香をする。焼香台に飾られていた彼の小さな遺影は、この半年以内に撮られたものだろう。ブレザー姿の顔は笑っているようにも見えるが、げっそりと痩せた頬と落ち窪んだ目、やはりその衰えは隠しようもない。焼香が終わると、「しばらく時間がかかりますから、控え室でお待ちください」と言われ、控え室に案内された。部屋にはお茶やジューズやビールが並び、つまみやお菓子も袋のまま置いてある。お茶を飲みながら待つこと40分、やがて案内があり全員は再び火葬炉の前に集まった。

 炉が開けられて台車が入り、散乱した遺骨が引き出される。係りの人の手で頭部を別に分けたあと、2人一組で箸で骨を拾って骨壷に収める。一通り拾い終わると係りの人が残りの骨を骨壷に収め、最後に頭部の骨を一番上に置いて蓋をした。骨壷は桐箱に入れられ、白い風呂敷で包み、貼箱に収めてから姪御さんに渡された。最後に姪御さんがお礼の挨拶をして全ての葬儀が終わる。斎場に来てから2時間弱のセレモニーであった。
 
 彼は印刷物の製作過程の中で版下作業を受け持っていた。デザイナーが描いたデザインを印刷物にするための刷版の原稿製作で、この版下の校了後に製版が行われる。誤植はその後の印刷工程の全てダメにしてしまう。だから版下製作は間違いが許されない仕事である。彼は一人で部屋にこもり、コンをつめたち密な作業の毎日であった。常に納期に追われ、徹夜をすることも日常茶飯事であったようである。彼は時に営業のいい加減な仕事の泥を被ることがあっても、仕事に対してはひたむきで誠実であった。しかし生活面ではルーズで、一人身の寂しさと仕事でのストレスからか、彼は酒におぼれてしまった。仕事帰りには必ず行きつけの居酒屋へ行き、最低3合の日本酒を飲む。その居酒屋が定休日のときは別の店へ、仕事が休みの日は地元で行きつけの飲み屋へ、1日3合のお酒は欠かしたことは無かったようである。たぶん生涯で3合X360日X40年=43000合(43石)約7700リットル以上のお酒を飲んだことになる。

 私は彼とは20年近くの付き合いである。その間に50回程度は一緒に飲んだだろうか。そんなことからすれば、彼が肝硬変になった一端の責任は私にもあるのかもしれない。飲めば故郷の大垣のことやを語り、会社の昔を語り、今の会社の憂いを喋った。彼は基本的には日本酒党である。枡の中にグラスをセットし、そこになみなみと冷酒を注いでもらう。こぼれたお酒が枡に溜まり、それに口を添えて愛おしそうに、実に美味しそうに飲むのである。この時間が彼にとっての至福の時であったのだろう。

 葬儀が終わって、参列者の中から「寂しい葬儀だったね」という言葉が聞こえてくる。確かにそうかも知れない。しかし彼にとっては一番相応しいように思うのである。無宗教を通す彼には大勢の人が集まっての告別式の方が不本意なことなのであろう。孤独に生きてきた彼にとってはひっそりと静かに送られるほうこそ本意のように思うのである。

 今回のように自分より若く身近な人の死に接すると、さて自分の葬儀はどうしたらいいのだろう、どうして欲しいのだろう?と考えてしまう。人に集まってもらい、お坊さんを頼んでお経を上げてもう。果たして高い葬儀代を払ってまで戒告別式を行う必要があるのだろうか? お布施を納め戒名をもらう、家に仏壇を置き、霊園かお寺に墓地を買って墓を作り、そこに埋葬されるべきなのだろうか? 両親が入る先祖代々の墓は新潟にあり、今は弟が継いでいる。だから今の私には菩提寺も無ければお寺との関わりもまったく無い。たぶん子供達は我が家がどこの宗派なのかも知らないであろう。

 残る子供達に負担はかけたくないという思いもある。それと別に、死んでいく自分には何の見得も、はばかる外聞もなくなっているだろう。そして死んだあとには意識も魂も残らず、私を構成していた全ては霧散していくものだと思っている。だから後は残る子供達の納得の問題だけであろう。白洲次郎が遺言で「葬式無用、戒名不要」と残したそうであるが、私も「葬式簡素、戒名不要」で良いと思っている。歳とともに付き合いも少なくなるのだから葬式は内輪だけで簡素にやれば良い。後は今回のように焼き場で遺骨にしてもらい。遺骨は故郷の下関の海に散骨してもらうか、所沢近辺の山に樹木葬が良いように思うのである。今の健康状態では、もう少し考える時間はあるだろう。ある程度自分の寿命を悟って来たときは、こんなことを家族に言って置こうと思っている。