60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

散歩(新橋~有楽町)

2012年03月30日 08時40分36秒 | 散歩(2)
                          浜離宮 菜の花畑

 東京都心から始めたこの「駅からの散歩」も、330回目になった。このシリーズ以前に西武線70数駅に降りて歩いていたから、合計すれば400回を超える。以前このブログにも書いたが、11年前に母が亡くなり、心にぽっかり穴のあいたような空しさを感じていた。「この空しさを紛らわせるために歩いて見よう」、そう思って近隣から歩き始めたのがスタートである。西武沿線、東京都内、神奈川県、埼玉県、千葉県、茨城県、群馬県と散歩の手引書を頼りに、日帰りで行ける範囲はだいたい歩いたように思う。もう目新しい場所は残っていない。これ以上は自分の好きなテーマを決め(例えば「鉄橋」とか、「城」とか、「美術館」とか)、単発で出かけるしかないのだろうか。しかし今のところ私にそこまで興味のもてるテーマは見当たらない。かと言って歩かなければ無性に歩きたくなる。10年も歩いていれば、これも一つの生活習慣になったのだろう。「しかたがない、これからはどこでも歩いてみることにしよう」。そうと決めたら東京のど真ん中から再スタートである。


駅からの散歩    

No.330    新橋~有楽町     3月25日

 JR新橋駅に降りて浜離宮の方向へ歩く、浜離宮へは何度も来ているが、菜の花が咲いている光景が一番印象に残っている。ビルに囲まれた大都会の中に、春の太陽をいっぱい浴びて黄と緑が輝いている。ここはまさしく都会のオアシスである。300年前の徳川家の庭園が今も我々を癒してくれる。やはり、それぞれの時代の残すべきものは残し、変えていくべきは変えるという、行政のビジョンが重要なのだろう。色々なところを歩いて見て、日本には神社仏閣以外は古いものがあまり残っていないように感じてしまう。それはヨーロッパの国々などに比べて、伝統や文化に対する国民の意識やこだわりが薄いからなのだろうか。
 浜離宮を出て築地から首都高速に沿って京橋まで、そこから折り返して歩行者天国の銀座中央通りを歩く。銀座は江戸時代の銀座役所として銀貨の鋳造が行われたのが始まりのようである。明治になって横浜間の鉄道の起点である新橋と、経済の中心だった日本橋の間に位置する銀座を、「文明開化の象徴的な街にしたい」という、当時の東京府知事の強い主導で、新たに煉瓦の街並みが建設された(1877年)。思惑通り、今は外国の有名ショップも数多く店を連ねる日本最大の繁華街になっている。未来を見つめての施策、そこには強力なリーダーシップと夢とが必須である。今の日本の政治に最も欠けているところなのであろう。

     
                         JR新橋駅 銀座口

     
                          新橋駅 ガード

     
                     古いレンガ作りのガードが残っている。

               
                       手前は鉄道歴史展示室
                      後方は汐留シティーセンター

     
                      旧新橋駅停車場 プラットホーム

               
                 鉄道の起点にあった「0哩標識(ゼロマイルポスト)」    

     
                        浜離宮恩賜庭園入口

     


     
                           三百年の松
                  六代将軍家宣が庭園を改修した時に植えられた。
             都内最大、太い枝が横に張り出し、添え木なしては自立できない。

     
                         浜離宮 菜の花畑

     
                           左は電通ビル

     

               

     


     
                            汐入の池

     
                          あと少しで倒れそう

               
                            東京湾側

     
                          東京湾晴海方向

               
                     横堀水門 牡蛎殻がギッシリ付いている。

               
                            浜離宮 鴨場

     
                      築地市場 日曜で閑散としている。

               
                           拾得物の掲示板
            しらす干し、黒あわびだけ、活伊勢海老など、さすがに市場の落し物

     
                            新橋演舞場

     
                      工事中の歌舞伎座 来春完成予定

     
                           大野屋総本店
                 歌舞伎役者などを顧客に抱える老舗の足袋メーカー
               安永年間創業、嘉永2年(1849年)に現在の新富町に移転

               
                              京橋

     
                       銀座中央通り 歩行者天国

     
                     世界の高級ブランドの店が勢揃している。

     


     


     
                           KENZOガール

     
                          街頭インタビュー
      日本テレビ系列で月曜~金曜の5:50~8:00に放送されている情報番組らしい。

     
                     待ち合わせは三越ライオン像の前で、
        
     


     
              3月16日オープンのユニクロ銀座店 年商100億を目指す。

               
                         入場制限で長蛇の列

     
                            有楽町マリオン
              かつては阪急百貨店と西武百貨店の2館が併存していたが、
             今は阪急MEN’S TOKYOとルミネ有楽町店に替わっている。

     
                若者のルミネから大人のルミネを目指して、高級志向?

     
                    盲導犬の募金活動 犬もお疲れの様子

     
                年末ジャンボで3億X3本+1億X2本=計11億円 出た。

     
                           有楽町駅 銀座口

仏像

2012年03月23日 08時36分32秒 | Weblog
 会社の近くの喫茶店で「作仏展」をやっている。作家は福井市で手づくりの箸や器など、木材食器の制作販売している宮保克行さんという若い職人さんである。たまたまこの喫茶店を訪れ、店の雰囲気が気にいったのか、「自分の作品を展示してほしい」と依頼された。店主は気さくな女性で、その若者の朴訥な人柄に触れて、応援する気になった。仏像はわずか10~15センチ程度の小さなものと、流木に顔を彫った素朴なものとの2種類。町屋の雰囲気を残した小さな喫茶店に、この小さな仏像達は馴染んでいる。
 仕事の合間に作った自分の作品、これから発展させていきたいと言う思いがあるのだろう。まずは下町の住宅地の喫茶店からの手探りのスタートなのかもしれない。値段は付けていないが、欲しい人がいれば販売するらしい。流木を使ったものが4000円、小さな仏像が7000円、大きいものが10000円だそうである。展示して5日の間に7点が売れたそうだ。こけしなどの民芸品と違い一応は仏像である。買う人にどんな動機があるのだろうと思ってみた。そう言えば私もむかし仏像を買った思い出がある。

 まだ独身の時代(40年前)、仕事で台湾に出張したことがある。養豚場やハム工場を見学した後、大きなお土産店に連れて行ってもらった。会社の上司や同僚にはすでに免税ショップで、ウイスキーとブランド品のネクタイを買っていた。私は観光土産的なものには興味は無く、同行者が買物をする間、店内をぶらぶらしていた。その時、彫刻のお土産コーナーの中に一つの仏像が目にとまる。高さ25センチぐらいで、台座に立った日本的な仏様である。荒削りな仏像であるが土産品の中で、それだけが異質な存在感を持っているように感じたのである。それを眺めていると早速店員が寄って来て、たどたどしい日本語で、「どうですか?」と売り込んでくる。値段を聞くと土産品の値段とは違い、結構高い値段を言われる。「それは高い」、そう言ってその場を離れた。

 その仏像に興味を引かれたのには理由がある。それは以前に見た宮本武蔵の映画の中で、何度もの決闘を勝ち抜き、その後の旅の途中に、農家の納屋でひたすら仏像を彫っている場面が印象に残っていた。決闘といえ大勢の人の命を奪い、その弔いの気持ちを仏像を彫るという演出で表現していたのであろう。そのシーンに出てきた仏像と、今見た仏像が繋がりを持ったのかもしれない。「仏像」という私には無縁と思われたものが目の前に、しかも手に届く値段で置いてある。一端売り場から離れたものの、やはりその仏像が気になってしまう。再び売り場に戻って値段交渉をした。幾らで買ったのかは覚えていないが、今の価値で言えば2~3万円ぐらいだったろう。それを手に入れた時から、自分の持ち物の中で一番価値のある「お宝」になった。

 当時私は独身で、東村山市の1DKの木賃アパートに住んでいた。ある時、母が一人で訪ねてきたことがある。部屋を片づけていたのだろう、和箪笥の上に置いていたその仏像を見つけた。仏像を手にして眺めていた母が突然、「これ私に頂戴」と言う。「何と簡単に言ってくれるのだろう。これは俺のお宝なのに・・・・」、そうは思ったものの母の一途な思いが伝わってくる。思わず「良いよ」と言ってしまった。母はその仏像に強い思いが働いたのだろう、有無を言わせぬ強引さで持って帰ってしまった。

 当時母は3番目の息子(私の下の弟)を交通事故で亡くして落ち込んでいた時期である。一緒に暮らしていないから定かではないが、多分毎日を泣き暮らしていたのだろうと想像できる。私のアパートに一人で遊びに来たのも、気晴らしの意味合いがあったのかもしれない。私のアパートを訪れてから何ヶ月も経ってから、母から長い手紙が届いた。・・・貰った仏像は仏壇に置き、毎日俊男(私の弟)の冥福を祈っている。この仏像を眺めて手を合わせていると、そこに俊男がいるように思え、語りかけている私がいる。「なぜ、なぜ、なぜ?、・・・お前は一番の親不孝者だよ」、そんな恨みごとを言っていることもある。しかし穏やかな仏様の顔を眺めていると、心が落ち着き、俊男があの世に旅立ったことが実感できるように思う。・・・・・こんなことが手紙に書いてあった。

 その後何年かして両親は上京して、上野の仏具店で15センチぐらいの阿弥陀如来像を購入した。浄土宗の仏像は本来は阿弥陀如来のようである。多分これは母のたっての希望だったのかもしれない。その後下関の実家に帰った時、母は(私から奪って行った)仏像を持ってきて、「この仏像はあなたに返すから、あなたからお母さん(義母)にあげてくれないだろうか」と言う。前年に私の義父(女房の父)は食道がんで亡くなっている。「連れ合いを亡くした悲しみ、この仏像がそれを癒してくれるかもしれない」、母はそんな思いで私にこの仏像をことづけたのであろう。今その仏像は女房の実家にある。名も知らない台湾の職人の手になった一つの仏像、それは作品として未熟なものであったとしても、見る人の気持ちが通うのであれば、それはただの彫刻ではなくなってしまう。それが仏像なのかもしれない。

 喫茶店に来て並べてある仏像に興味を持った人は、一つ一つを丹念に見て自分の思いが通じたものを買って行くそうである。その顔が故人に似ているとか、笑顔が良いとか、一番幼く可愛いいとか、それぞれにそれぞれの理由があるようである。外国の宗教と違って仏教はいかにも人間臭い宗教である。仏教伝来から1500年、我々は仏像を通して「慈悲の世界」を見ているのかもしれない。

      

      
                        流木に顔を入れた仏像

心がとらわれる

2012年03月16日 09時01分01秒 | Weblog
 東日本大震災から1年、先週はTVも新聞も追想の報道が大半を占めていた。1年前、震災の凄まじさと悲惨な状況を嫌というほど見続けていた。「もう見たくない」、そんな気持ちが働いたのか、TVはあまり見ないようにしていた。それでもTVを付ければ当時の惨状が飛び込んでくる。「この経験を忘れてはいけない」、そんな論調で押し流される街の様子を何度も何度も放映している。そんな報道スタンスは、被害を受けた人々への配慮が欠けているようで、不快感を感じてしまう。

 家族を失い、家を失い、未だに避難所で暮らす人々にとって、忘れようにも忘れようのない現実を、今も生きているのである。出来れば無かったことにしたい。早く忌まわしい記憶を払しょくして普通の生活に戻りたい。そう願っている人々に対して「忘れてはいけない」という言葉は、古傷を無理やり触られているように感じてしまうのではないだろうか。そしてもう一つ、被災したお婆ちゃんが言っていた言葉が気になった。「みんなは頑張れ頑張れと励ましてくれる。自分はこの一年、ずっと頑張ってきた。これ以上どう頑張ったらいいのか・・・」と言う言葉である。言葉をかけることはたやすい。傷つき疲れ果てている人に言葉で励ますより、被災者の悲しみや心の内を聞いてあげることの方が、重要なように思うのである。

 私は過去の忌まわしい記憶を忘れることができるなら、サッサと忘れる方が良いと思う。ダメージが酷ければ酷いほど、そのことは意識から離れない。思い出すたびに暗澹とした気分になり、振り払おうとしても意のままにならないものである。そんなことがトラウマになれば、その人にとってプラスになることはない。首都圏直下型地震が近いと言う報道があったからと言って、そのことを何時も意識に置いて生活することはできないように、人は2つのことを同時並行では考えられないのである(PCで言えばデュアルコアではなくシングルコアである)。一つの憂鬱が意識を占有してしまえば、どうしても普段がおろそかになってしまう。だから憂鬱を吐き出してしまうか、意識の奥深くに押し込めてしまうしかないのであろう。吐き出すにしても、意識下に押しやる(忘れる)にしても、ある程度の時間は必要である。その時間はダメージの程度にもよるが、少し心が軽くなるのは半年から1年半ぐらいのように思う。今日はそんな話を書いて見る。

 昔、一緒に働いたことがある知人が、会社から車で帰る途中で交通事故を起こしてしまった。事故現場は神奈川県の片側2車線の県道である。彼は信号機のない交差点で右折の為に中央線ギリギリで止まり、対向車が通り過ぎるのを待っていた。そこへ2台のオートバイが中央線寄りに反対車線を走って来る。先頭のオートバイが彼の車を避けきれず、接触して転倒した。後を走ってきたオートバイは前方が見えなかったのか、もろにぶつかりボンネットの上を跳ね上がって、何メーターか飛んで落下する。一人は重症、もう一人は打ちどころが悪く死亡してしまった。彼はオートバイが中央線をはみ出して走行してきたと言う。オートバイ側は車が中央線をはみ出して動いたと主張した。その判定はどう決着したのかは覚えていないが、当然車の方が賠償責任を負うことになる。

 彼は死亡した若者の葬儀やお詫びに遺族の家に通う。覚悟はしていたが、家族や親戚からののしられ罵倒される。その後は保険会社が入り賠償交渉になった。しかしその交渉は遅遅として進まない。保険会社は規定に基づいて金額を提示するのだが、相手の親は、「こんな金額で息子の命が償えると思うのか!」と交渉のテーブルにも着かない。そんな膠着状態は何カ月も続く。事故とは言え、自分が原因で人1人が死んでしまったわけである。後悔や自責の念が重くのしかかり、晴れることはない。そんな状態が半年を越す頃、彼はたまらず相手の遺族の元に出向いた。「保険会社の提示金額ではご不満と聞いております。私が持っている預金の全て(約400万)をプラスさせていただきますから、何とか了解していただけないでしょうか」、そんな風に申し出たそうである。その時の相手の返事は、「お前は息子の命を奪っておいて、その責任を金で解決しようとするのか・・・・」と罵倒され追い返されてしまった。彼としては自分の誠意を示そうとしたのであろうが、一面早く楽になりたい一心でもあったはずである。

 その話を保険会社の担当者にしたら、「それは無理ですよ。我々は相手先に通い続けなければいけないけれど、通ったからと言って解決するものではないのです。ある期間が過ぎるまではどうしようもないことなのです」、そんな話をされたそうです。それから一周忌を過ぎ数ヶ月経ってから、あれほど頑なだった相手は嘘のように書類に判子を押したそうである。結局家族が息子の死を受け入れるまでに一年以上の月日を要したのである。

 もう一つ、ある知人(30代で3児の母)が、心の葛藤を何度かのメールに分けて綴ってきた。自分の中で処理ができず、かと言って近親者に心の内を晒すわけもいかない。直接生活に影響のない第三者として私が選ばれたのであろう。彼女の心をとらえて離さなかった事件、メールの一部を抜粋してまとめてみた。

 彼女に小学校に上ったばかりの長男のママ友がいた。愚痴を言い合い、何でも相談でき、子どもを預かったりするほどの親しい間柄である。そんな友人がある時期、同じグループの他のメンバーから疎外されるようになる(女性同士のいじめ?)。そしてそれが原因なのか、元々その気質があったのか、その友人はウツを発症してしまう。彼女はそんな友人の悩みを聞き、相談を受け、子どもを預かったりして助けになろうと努力した。しかしその友人は自殺してしまう。
 その日、彼女の家で遊んでいた友人の子どもを「今からそちらに送リ届けるから」とメールをすると、その友人から「また来週、うめ合せするから、・・・」と返信があった。そしてその子を連れて友人のマンションに行く。しかし部屋には人の気配がしない。子どもが家中を探し、ベランダで首をくくっていた自分の母親を見つけた。当然彼女もその光景を目の当たりにすることになる。「いったい、なにが起こったのか」、彼女にとっては青天の霹靂である。その後この事件は彼女をとらえて離さなくなってしまう。

 なぜ??、私が彼女の子どもを連れて帰るのを知っていたのに・・・・・
 本当に死にたかったのだろうか?
 本当は誰よりも生きたかったんじゃないのだろうか?
 それとも…死にたくて死にたくて…やっと死ねると思ったのかもしれない…
 最後の最後に私に助けを求めたのかもしれない…

 あの日、私が助けても…また同じようなことは起るのかもしれないし、何が何だかよくわからない。
 子供は今まで通り我が家に遊びに来るのに、彼女が存在しないことが不思議でならない…
 自殺したら、魂は安らげるのでしょうか、それとも無になって楽になれるのでしょうか…
 彼女が怖いという感覚は今の私には感じないので、やっぱり楽になったのかなと思ったりする。
 でも…親がまっとうに生きなかったら、その宿命は子に受け継がれると聞いたことがあるから、
 幼い子どもが心配でなりません…
 私には謎ばかりで、本当にわからないことばかりです。

 自分も責めるし、友だちのことも憎んじゃう、
 暇があると考えちゃうから、とにかく忙しい方がいいと思って、
 悩むヒマがないくらい、がむしゃらに毎日を過ごしていこうと思ってみたり…
 でも…亡くなったのが家族だったら、
 もっともっと苦しいんだろうなと思うと、ほっとしたりもするんですよね…

 共感しよう共感しようと振り回され、最後はひどい苦しみの中に突き落とされた感じです。
 彼女は、本当に自分のことしか考えていなかった…
 自分が楽になることばかり、ウツって怖い病気です…
 本当は、亡くなった友だちが憎くて憎くて仕方なくて泣いているんです…どうしても許せなくて…
 助けてあげられなかった罪悪感と、・・・・許せる日は、いつか来るのでしょうか、

 こんなに苦しい思いをなぜしなくちゃいけないのかなと思うと、
 やっぱり彼女を恨んでしまうことも多いのです。
 それも全て私のわがままで…、未熟な心によるものなんだなぁ、とも思ってしまいます。
 彼女とのことを振り返っても、なにか空しいメールのやりとりばかりでした。
 生きているうちに、もっと彼女と色々話しておきたかったなと思ってみたりします。
 私は彼女とつき合いながらも、本当はどんどん嫌いになっていったように思うのです。

 「大丈夫、嫌いになんかならないよ」と約束したのに…
 自分の器の小ささが悲しいですね…
 最後の頃は、いつも彼女に監視されているような…
 いつも見られているような…怖い感覚があり、本当におびえていました…
 今でもその時の恐怖感を夢に見る時があります。
 死んだ人間を嫌いだなんて、なかなか言えなかったのです。

数ヶ月に及ぶメールのやり取りで、直近にこんなメールを貰いました。

 Fさんとメールのやりとりをして以来、ほとんど彼女の事を考えなくなったのです。
 不思議です。あんなにとらわれていたのに、吐き出すことって大事なんだなとつくづく思いました。
 今日、久しぶりにふと考えたくらいで、考えないことのほうが多くなりました。
 しかも、あんなに憎んでいた思いが消えて、気持ちがずっと楽になりました。
 今も、何で彼女がいないのか、不思議だなと思う時はあるのですが・・・・・
 前みたいな気持ちはなく、涙も出なくなりました。
 人は忘れる生き物だからかもしれませんが、自分のことも、責めなくなりました。
 運命を受けとめることができたのかなと思います。
 私と彼女は、性格が全く違っていて、どちらかというと、私が彼女に振り回されていました。
 それでも、彼女といると、本当に楽しかったのです。

               



3D映画

2012年03月09日 09時55分51秒 | 映画
  アカデミー賞「アーチスト」の対抗馬になっていた「ヒューゴの不思議な発明」を観に行った。この映画の舞台は1930年代のフランスのパリである。時計職人だった父を火事で失い、孤児となって駅の時計台に隠れ住むヒューゴという少年の「愛と冒険の物語?」である。ハラハラドキドキで最後はハッピーエンドで終わるストーリーに新味はなく、「なぜ、これがアカデミー賞候補なのだろう?」と思ってしまったほどである。作品賞の「アーティスト」は日本ではまだ上映されていないから比較のしようもないが、物語性としては期待に反してガッカリした気分である。しかしこの映画の価値は3Dと言う立体映像を使って、映画のエンターテイメント性をとことん追求しているところにあるのだろうと思う。

 3年前「アバター」という初の本格的な3D映画が話題を集めた(興行収歴代1位で約2000億円)。これを見た時は「映画もここまで来たのか」という驚きがあった。主人公が森を歩くと、足下の草がサラサラと自分の足を撫でるように感じ、空を飛ぶシーンは如何にも自分が空中を浮遊しているような臨場感があった。映画の歴史はサイレントからトーキーへ、モノクロからカラーへ、そしてついに立体へと変わって行った。「アバター」はそのエポックメイキングな作品だったように思う。しかしそれ以降の3D映画にはお手軽な作品が多く、見ている内に、「これ、3Dなの?」と思いなおすような作品も多かった。所々に3Dを使ったような手抜きの映像、何時も暗く見難い画面、平坦な画像を何層か重ねたような画面は、学芸会の背景の衝立のようで薄っぺらい。「これで割増料金を取るのか」、そう思う作品も多かったように思う。

 「ヒューゴの不思議な発明」は80年も前のフランスのパリが舞台である。荘厳な石積みの建造物、石畳の街並み、遠くにエフェル塔が見える。蒸気機関車が走り、駅の時計塔は大きな歯車が回るアナログの世界である。映画が始まるとすぐにクラシックなパリへタイムスリップした気分になる。場面はほとんどが夜で、これが3Dの持つ宿命なのか、全体に暗くなってしまう。それでも映像の構成の面白さ、画面も綺麗で立体感もしっかり出ていた。画面の美しさや面白さにこだわり、クリアで奥行きがある映像は昔のパリを彷彿させファンタジーな映画に仕上がっていたように思う。アカデミー賞の作品賞、監督賞は逃したものの撮影賞、美術賞、視覚効果賞、録音賞、音響効果賞と5つの技術賞を総ナメしたのは納得のいくところである。

 3Dの映画を見る時は何時もメガネをかけることになる。今まで何館かで3D映画を観たが、よく行く映画館はメガネを100円で買い、次回からはそのメガネを持参するようになっている。他の映画館ではその都度回収する映画館もある。調べてみると3D方式には何パターンかあるようで、それによってメガネも違う。何時も行っている映画館はRealD(リアルディー)方式というもので、左右の映像を毎秒144回切り換え、それに同調した偏光フィルターをかけて上映し、フィルターがある眼鏡をかけて観る方式である。他に国内で主流なのは干渉フィルター方式といい、多重コートフィルタを使って6つの色チャンネルを左右に振り分ける事で立体感を出すようである。この方式はフィルター眼鏡が高価なために、使用ごとに回収して洗浄の必要があるようである。 さらに最近出てきたのがIMAXデジタル3Dという方式、左右の映像を二台のプロジェクターで上映するために映像が明るい。一度観たことがあるが、湾曲したスクリーンが上下左右に大きく広がり、視野全体が画面の中にある感じで迫力や臨場感は圧倒的である。しかし設備が大がかりになるためなのか、3D料金よりさらに高い料金設定になっていた。

 3年前まで無かった3D映画、今ではシネコンには必ずワンスクリーンはある。私がよく行く映画館はツースクリーンが3Dである。3D映画の上映本数もしたいに増えて行き、今は何時行っても見られるほどになった。TVが出現して映画の斜陽が言われて久しいが、TVでは堪能できない美しい映像やファンタスティックな映画が多くなれば、しだいに映画館に行く回数も多くなるのではないだろうか。今回のアカデミー賞で作品賞は「アーチスト」というモノクロのサイレント映画だそうである。はからずも「ヒューゴ」と同じ時代設定である。トーキーの登場でサイレント映画の時代が終わり、没落する男優と躍進する女優を描いた作品だそうである。今度上映されればこの映画も見に行ってみようと思っている。

      

      

      

鶏のはなし

2012年03月02日 09時11分18秒 | Weblog
 先週のブログを書いていて、「なぜ生物学が好きになったのだろう?」と思い直してみた。高校の時は物理が好きであった。「空はなぜ青いのか?」「夕日はなぜ赤いのか?」そんなことから始まって、「宇宙の果てはどうなっているのか?」「相対性理論って?」、という風なことに興味が向いていたように思う。学校を卒業して就職してからもその種の本は読んでいた。それがある時期から、生き物に対しての興味に変わって行ったように思う。
 会社に入って5年目、量販店の仕事が本部で商品部のバイヤーになった。最初に担当したのが「鶏卵」で、全国に散らばる店舗で売る卵の仕入の窓口である。鶏卵の価格は相場に連動するから、私の主な仕事は、品質の良い鶏卵の安定供給であった。その為に関東近県はもとより全国の養鶏場を見て歩いた。多分その時に見聞きした鶏の話が切っ掛けで生物への関心が高くなったように思う。今回は今でも覚えている鶏の話を書いてみる。

 当時(40年前)、鶏は全国に1億2000万羽飼われていると言われていた。人口が1億2000万人であるから、1人1羽の勘定である。1羽が1年間に約300個の卵を産むから、日本人1人が1年で平均300個の鶏卵を消費する計算になる。これは家庭で食べる卵料理以外にマヨネーズやお菓子の原料などに使われる卵も含めてである。鶏は孵化後、約5ケ月で卵を産み始める。産み始めて1年も過ぎると産卵率が低下して効率が悪くなる。そこで「強制換羽」(きょうせいかんう)という処置を施し再生を図る。鶏は秋から冬にかけて古い羽毛が抜け落ち、新しい羽毛に切り替わるが、その時には産卵は止まる。そして春先にまた生み始めるのが自然の姿である。その習性を利用して人工的にコントロールするのである。鶏に餌を与えずにいると、やがて産卵が止まり羽毛が抜け始める。そこで再び餌を与え鶏舎の中を明るくすると、春がきたと錯覚し再び生み始める。これを「強制換羽」と言うそうである。それからまた1年弱の間は卵を生み続け、最後は廃鶏として処理業者に渡されスープ等の原料となる。鶏も自然に飼えば10年以上は生きるのであろうが、採卵の鶏は3年弱の命である。
 
 養鶏方法には大きくは「ゲージ飼い」と「平飼い」とのいう2つの方法がある。ゲージ飼いは30cm角程度のゲージに2羽の鶏を入れる。余分な運動はさせず餌の効率をよくするために、あえて身動きが取れないスペースで飼うのだそうである。そんなゲージを何列にも繋げ、何段も重ねて細長い団地のような鶏舎にする。大きな養鶏場ではこんな鶏舎が何棟もあり、合計で何十万羽という単位で飼われている。鶏舎の中は何時も薄暗く、裸電球で昼夜や季節をコントロールしている。まさしく鶏卵生産の工場の様相である。一方平飼いの方は、平屋の大きな建物の中に何百羽単位で鶏をいれて飼う。鶏は日光も浴びるし運動もする。どちらかと言えば自然環境に近い飼い方である。当然餌をよく食べるし、産卵率は悪くなるからコスト的に高くつく。しかし健康な鶏から生まれた健康な卵と言われ、特殊卵として価格の高い卵として流通している。

                           

 ある時、この平飼いの養鶏場を見学させてもらったことがある。広い平屋の鶏舎に何百羽の鶏が入れられている。これだけ同一種の鶏が集まると壮観である。そのような鶏舎が何棟もあり、場内は「カアカア」と言う鶏の鳴き声で人との会話もままならないほどであった。その鶏舎と鶏舎の空き地に何羽の鶏が自由に歩きまわっていた。養鶏場を案内してくれる人に質問して見た。「なぜ、あの鶏だけ放し飼いになっているのですか?」と、「鶏舎に入れておくと周りの鶏につつき回され、やがて死んでしまうからですよ」と言う話であった。確かに放し飼いになっている鶏の尾羽の周りは羽根がむしり取られ、地肌がむき出しになって傷跡に血が滲んでいた。そんなことを切っ掛けに鶏の生態について話をしてもらうことになった。

 例えば鶏100羽をいっせいに鶏舎に入れると、しばらくの間は喧嘩が絶えなくなる。それも時間とともに治まり、やがて穏やかになってくる。喧嘩によって鶏舎内の1位から100位までの順位が決まるそうである。秩序が整った群れの中に、また何羽かの鶏を入れると、再び小さな小競り合いが連鎖のように起こって行く。これは投入された鶏が第何位に位置するか、順位決定戦のようなものだそうである。それほど鶏の世界は順列を重んじるのである。一番下位の鶏はどの鶏からもつつかれ、何時も逃げ回っているからなかなか餌が食べられない。ほっておくとやがて衰弱して死んでしまう。だから鶏舎から出してやるのだそうだが、しかし外に出せば今度はカラスや犬に襲われるリスクもある。「どの世界も生存競争だから、仕方がないですね」、という話であった。

 また鳥に関してのこんな話もしてくれた。越冬で西日本や九州の方に飛来するコクマルカラス(?)という小さなカラスがいる。彼らは群れをなして生活する鳥で、やはり一位からビリまでの順位(雄雌混合)は厳格にあるそうである。一位のカラスは餌場などで仲間を蹴散らして、最優先で餌をついばむことができる。その一位のオスがビリのメスとつがいになったとすると(一夫一婦)、そのメスの順位は一気に二位に躍進するそうなのである。今まで小さくなっていたそのメスは、今度は仲間を蹴散らして餌場の女王になる。「社長夫人になった女性と似ていますね」、鳥類学者のような養鶏家はそんなことも話してくれた。鳥の世界、人間界にも共通するように思って興味深く聞いていた。

 数年ごとに仕事の担当は変わり、鶏卵からハムになり牛乳等に変わっていった。その都度その分野の専門家の面白い話を聞くことが出来た。例えば牛乳を担当した時、これは常識なのだろうが私には衝撃だった話がある。「牛乳は、牛の体内を回っている血液が乳房に入ると一瞬にして赤色から白色に変わる。牛乳と血液の組成はほとんど同じで、牛乳は牛の血液から出来ている」、と言う話を聞いた。我々は牛の血液を飲んでいることになる。赤ちゃんは母親の血液を飲んで大きくなる。そのことから母親にとって「血を分けた子」、と言う意味を知った。ある専門分野に深く携わっている人は、その内容の深さが違う。そんな人の話は勉強や観察に裏打ちされた一つの自然の摂理を語っているように思えるのである。多分それが切っ掛けなのだろう。雑学的な話では物足らなくなり、その分野の専門家が書いた本を選んで読むようになった。