60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

水彩画教室(10)模写

2014年06月27日 08時41分14秒 | 美術
                         安野光雅 機関庫

 水彩画教室も通い始めて2年半を経過した。2年半は30ヶ月、月2回で60回、一回2時間で計120時間、これだけ時間をかければ、中学生並みの絵も多少は見れるようになる。しかしもう一方で、どれだけ時間をかけても、いつまでも代わり映えしない絵を描いているようにも思えてくるものである。
 4月に昔一緒に働いたことのある人と酒を飲む機会があった。彼は80歳だがいまだに趣味で油絵を描いている。彼が「貴方が風景画を描くのなら、一度安野光雅の絵を見たらどうですか? 淡い色調で郷愁を感じる安野光雅の絵、私は好きなんです。インターネットで検索すれば雰囲気は分かると思うから・・・」と言う話をしてくれた。
 5月の教室でそのことを先生に話したら、「安野光雅の絵を模写したらどうですか?勉強になりますよ。絵を描く人はだいたい誰かの絵を模写して勉強しています」とのこと、早速本屋に行って安野光雅の「津和野」という画集を買ってきて模写するこのとにした。

 模写することで色んなことが分かってくる。鑑賞するのと違って写し取るわけだから、絵の細部まで見ることになる。そして描き終えた絵とお手本を比べてみると、自分の拙さがまざまざと見えてくる。プロの絵はデッサンがしっかりしているから、サラサラと描いたように見えて、ポイントはしっかりと抑えている。建物の構造や木々の自然なバランス、色の濃淡による遠近感や絵全体のポイント付け等々、・・・・だから絵に風格があり気品がある。一方こちらはギクシャクとしたデッサンや線引き、無理矢理に合わせようとした色、なんとなく不自然で稚拙さが見えてくる。そんなことを繰り返していると、自分が取り入れなければいけないポイントが見えてくる。もうしばらく模写を続けてみて、ある程度安野光雅の雰囲気が真似できるようになれば、今度は自分で撮った写真を安野風に描いてみようと思っている。

  下の2点は従来の描き方

      
                             狭山湖

      
                            六道山公園

  下の絵からは画集の中からのお手本と模写

               
                         安野光雅画集「津和野」


               
                              鉄砲町

      


               
                              段々畑

      


               
                             青野山 Ⅱ

      


               
                              笹山

      


               
                             沙羅の木

      



               
                             青野山 Ⅰ

      


               
                             緑の門林

      






散歩(岡部~深谷)

2014年06月20日 08時07分57秒 | 散歩(3)
 梅雨の中休みか、先週の土曜は久々の晴天だったので2週間ぶりの散歩に出かけた。今回は高崎線の岡部駅から手前の深谷駅までのコースである。岡部駅は埼玉県深谷市にある。深谷市は今、世界遺産登録目前の富岡製糸場(群馬県)とゆかりの地として、PRに力を入れているようである。深谷は近代日本経済の父といわれる渋沢栄一の故郷、その渋沢栄一が実業界に身を投じる前は明治新政府の大蔵省の役人だった。その時製糸場の設置主任に就き、伊藤博文とともに富岡製糸場の計画を進めたといわれている。そして渋沢の従兄弟の尾高惇忠が初代の工場長になった。

 深谷市は埼玉県北部にあり、利根川と荒川に挟まれた平坦な土地である。そのためか農業が盛んで埼玉県で1位、全国でも15位の指折りの農産地である。広い田園地帯を歩くと、当然だが人と出会う機会が少ない。しかしその出会った人のほとんどの人が、大人も子供も「こんにちは~」と挨拶をする。最初は不意を突かれてどぎまぎしたが、そのうち慣れてくると相手と目が合うと会釈するようにした。そしてもう一つ、道が分からなくなり3度ほど人に尋ねたが、誰もが親切に教えてくれる。ある年寄りは道の角まで案内してくれた。そして別れ際、「また分からなくなれば、誰に聞いても良いですよ。ちゃんと教えてくれるはずです」と言う。この地は時間がゆっくりと流れ、経済的にも精神的にも豊かな街なのであろう。

      
                           高崎線 岡部駅

           
                    一足早く幟を作って祝賀ムードに便乗?

      
                            中宿歴史公園

               
                  飛鳥時代の2棟の高床式倉庫が復元されている

      
                            雄大な田園風景

      
                           深谷は鉄塔の聖地
                     新岡部変電所があり四方に送電している

      

               
                    今年の冬の大雪で壊れたビニールハウス

      
                         田植えは終わったばかり

               


      
                         広くて真っ直ぐな農道

      
                           トウモロコシ畑

                 
                             立石寺

      


      


      
                          ねぎの花(葱坊主)

      
                            イモカタバミ

               
           道端に咲く可憐な花なのに、イモカタバミとは野暮な名前がついている


               
                            クローバー

      
                          旧渋沢邸「中の家」

      
         日本の資本主義の父と称される渋沢栄一は1840年ここ深谷で生まれた

      
                         北海道を思わせる農地

      
                           渋沢栄一記念館

      
                           尾高藍香 生家

      
            尾高藍香は水戸学に精通し、渋沢栄一の師として影響を与えた

               


      


      
                             唐沢川

               
                童謡「みかんの花咲く丘」の作詞をした加藤省吾の記念碑
           他にかわいい魚屋さん、笛吹き童子、怪傑ハリマオなど作詞も手がける


      
                           深谷城址公園

               


      
                             深谷駅
       東京駅の赤レンガ駅舎をモチーフにしたデザインで「ミニ東京駅」と呼ばれる。
      これは大正時代に竣工された東京駅・丸の内口の建設時、深谷に所在する
      日本煉瓦製造で製造され、東京駅まで鉄道輸送されて使われたという史実に
      因っている。ただこの深谷駅は煉瓦構造ではなく、コンクリート壁面にレンガ風
      のタイルを貼ることによって東京駅に似せている。
      

      
                          駅前の渋沢栄一像







物価は上がるもの

2014年06月13日 08時43分42秒 | Weblog
 先日の新聞に、ユニクロが夏からほぼ全ての商品を5%値上げすると言う記事があった。また無印良品も高価格商品を増やして平均販売単価を前年比8%引き上げるという方針だという。昨年末からの円安で小麦粉やパン、チーズやハムなどが値上がっている。原油価格が上がり、フィルム関係の包装資材等が値上がりをした。ガソリン価格が上がって物流費が上がる。円安で軒並み輸入原材料が上っているから、値上がりの機運が高まっている。4月から消費税が5%から8%に変わった事で、今まで押さえられていた商品の価格はジワジワと値上がり始めている。

 昔を振り返って見ると、45年前の私の初任給は3万円台だっと記憶している。それが毎年のベースアップと昇給で数年すると10万円を超し、結婚する頃には20万円台になっていたのではないだろうか。月給も毎年万単位で上がっていた時期もあったように思う。そんな状況にあると、次ぎはああしよう次ぎはこうしようと期待が膨らみ、働き甲斐もあったように思う。そして、値上がりが激しいから借金してでも家を買っておいた方が良いだろう、という気になってくる。仕事の方は商品の仕入れを担当していたから、毎年のように値上げが行われ、価格交渉が日常茶飯事のことになっていた。しかもその値上げの大きな要因は人件費の高騰にあったように思う。毎年の賃上でメーカーも商品価格に転嫁せざるを得ないのが実情だったのだろう。しかし物価が上がっても、給料も上がっているから消費は衰えない。また製品が上がっても、品質面で優位だから海外競争力もあったようである。そんな好循環で世の中は活況を呈し、高度経済成長をひた走っていた。しかしその右肩上がりの経済はバブルの崩壊でピタリと止まってしまったのである。

 「失われた20年」、1991年2月から約20年以上にわたり低迷した期間である。その間給料は定期昇給はあってもベースアップはなく、生活にも余裕がなくなり無駄使いはしなくなる。そんな需要の低迷から小売業は安売り競争になり、デフレ状態になっていった。上がると見込んでいた給料が上がらず、住宅ローンの返済が大きな負担になってくる。しかも不動産価格の下落で、売っても借金の額には足りず、身動きできなくなった仲間を何人も知っている。それでも50代以降の人達は夢を見ただけでも良しとすべきなのかもしれない。それに比べて今の20代30代の若者は低迷期の真っ只中で就活をし、仕事をしても思うように給料はあがらず、閉塞感が漂う状況の中の生活を強いられているのである。

 安倍政権が打ち出した「アベノミクス」(安倍とエコノミクスを会わせた造語)、この停滞して動かなくなった経済の歯車を何とか動かそうと打った手である。金融緩和で市場にお金を出し、経済活動にカンフル注射を打った。結果円安になり、輸出はしやすくなったが輸入品は上がる。株価は上がったて一部の投資家は儲かったが庶民に恩恵はない。大手はベースアップがあり給料は上がったが、中小はまだその状況にはない。20年間止まっていた歯車、全てが一斉に動くはずもないのだが、それでも歯車は軋(きし)みながらでも少しずつ動き始めたような気もする。

 バブル期、日本人の観光客がヨーロッパのブランドショップで、商品を買いあさっていると批判されていたことがある。今は中国人の観光客が世界中で同じように買いあさっている。中国も経済発展が遅れた分だけ、今は急速な経済発展の恩恵であろう。しかしやがて日本のバブルの崩壊と同じようなことになるのではないかと言われている。世界はグローバルな経済環境になってきたが、しかし全ての国が一斉に良くなるとは思えない、どこかが良くなればどこかが悪い、入れ替わり立ち代わりが今からの世の中なのであろう。「失われた20年」、そろそろ日本も閉塞感から脱しないと息が詰まってしまう。昔のようなバブルは問題も多いが、やはり緩やかな右肩上がりが望ましい。物価が上がれば我々年金生活者は苦しくなってくる。しかし今の若い人達に夢を持ってもらうには、それも不可避なのだろうと思うことにした。強引で傲慢だと色々と批判も多い安倍政権だが、いまだに人気が衰えないのは、国民の閉塞感からの脱却の期待が大きいからなのであろう。






うつからの脱出

2014年06月06日 08時55分50秒 | Weblog
                          仙台 定禅寺通り

 (私の良く知る)ある会社の若手社員が「適応障害と抑うつ症状」ということで、昨年の10月末から会社を休み、その後会社に復帰してきたまでは、このブログに書いたことがある〔10月25日「うつの前兆」と11月8日「うつの前兆(2)」〕。先週その彼から「新しい会社から内定を貰ったので、今の会社を辞めることにしました」という報告をもらった。

 医者からは「このまま今の会社にいれば再発の可能性が高いから、できれば環境を変えた方が良いでしょう」と言われていた。彼自身も東京での生活は難しいと感じていて、できれば地元の仙台に帰って働きたいという希望を持っている。今年になって新宿の職安に行き、仙台の会社を紹介してもらいって何度か仙台に帰ったようである。しかし書類審査はパスしても、うつの症状がある中での面接は上手くいくはずもなく、結局は失敗に終わったようである。

 彼は病院で処方された抗うつ薬を飲んでいたが、この4月に医者から「もう薬を飲まなくても大丈夫でしょう」と言われ、半年ぶりにウツから開放される。その診断の時に医師が、「貴方の場合、早く病院に来たからよかったのです。一般的には我慢してどうしようもなくなって来るから、重症になりやすいのです」と言われたそうである。よく本に書いてあることだが、伸びきったゴムを長期間放って置くと元に戻らなくなるのと同じで、速やかに緊張を解いてやることが最良の方法なのであろう。ゴールデンウイークには友達と京都に遊びに行くなど、すっかり回復していたようである。しかしそのことは会社には言わず、相変わらずの不調を装って、なるべく対人関係を避けていたようでもある。

 5月になって仙台にいる大学時代の友人が、知り合いの会社を紹介してくれた。たまたまその会社は人を募集しようとしていてタイミングが良く、2度の面接で採用が決まったようである。採用された会社からは、今の会社での引継ぎや引越しもあるだろうからと、7月15日からの出勤を提案されたと言う。彼からその話を聞いた時、私は「今の会社は貴方が辞めることで、新しい人を採用し、その人に仕事を引き継がなければいけないだろう。円満に退社するには、できれば2ヶ月は必要だと思う。だから転職先の会社に1ヶ月延ばしてもらい、8月15日からで交渉してみたらどうだろう」とアドバイスしてみた。悩んだ彼は親と相談したようだが、結局は予定通り、6月末の退社を社長に申し出たのである。

 退社理由は、「父方の祖父がガンで余命半年の状態にある。世話になった祖父なので、近くにいてやりたい」と言うことにし、再就職先が決まったていることは伏せたようである。取って付けたような退職理由、しかし1ヶ月前でもあり、家族の問題での自己都合だから、社長としては受け入れざるを得ない。しかし一方で、彼の周りにいる女性社員にしてみれば、それは許せない行為であった。彼の休んでいた間は余分な負担を強いられ残業が続き、復帰してからも対人関係を嫌う彼をホローし続けてきたわけである。それを充分な引継ぎの時間も設けず、あっさり退社してしまう。彼女達にとっては裏切られたような気持ちになったのであろう。

 彼は常に受身で自分を主張をすることはなかった。言われた事はやるが、言われない事までやることはない。人に受けた好意に対しても感謝の言葉を発することもほとんどなかったようである。そんな彼の性格は「ゆとり世代」の特異的なものという理解がされていたようである。しかし今回の退職騒ぎで、彼に対する不満が噴出したのである。・・・「結局、彼には何も伝わらなかった」、「何も自分では考えられない男、いつまでも新人でいられるより、さっさとやめてもらったほうが良い」、「自分さえよければそれで良い、彼にはそれしかないのだろう」、「こんなに振り回されて、こんな仕打ちを受けるとは思わなかった」・・・・。たぶん彼女達の彼に対する違和感や不満そのものが、彼の抱える病なのであろう。「適応障害」「対人障害」「コミュニュケーション障害」、今回医者に診断された要素を彼は潜在的に抱えていて、会社でのストレスが高じて、病気として発現してしまったのである。

 仙台での会社は組合組織で、彼の職務は各組合員から上がってくる保険等の申請書類に不備がないかどうかのチェックする仕事のようである。話を聞くかぎり対人関係とコミュニケーションはそれほど重要ではないようだし、あとは仕事内容に対する適正があるかにかかっている。彼は仙台に帰ったらアパートを探し実家では暮らさないという。どちらにしても、生まれ育った場所であり、東京に比べれば友達も多く、人間関係も緩やであろう。そんな環境の中での再出発である。彼が自信を取り戻し、職場に適応してくれれば良いのだが、さてどうなるのであろうか?。人間観察が趣味の私は、その後も彼を追って見るかもしれない。