60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

孫(3)

2014年03月28日 08時36分45秒 | Weblog
 私の膝の上で寝てしまったこの子は、長男の方の孫である。昨年の10月7日生まれだからもうすぐ6ヶ月、体重は6kgを超し標準内で、とりあえずは順調のようである。ただアレルギーが酷く、手足のいたるところに湿疹ができて可哀そうである。今は医師の指示で母乳もドライミルクも避け、アレルギー用の特殊なミルクを飲ませているとか。赤ちゃんにとっては与えられるものが全て、親も初体験なのだから戸惑いの毎日なのかもしれない。
 この子に会うのはお正月以来、その時はまだ抱っこも壊れ物を扱うようであった。しかし今は首も座ってきて、抱くのも楽になってきた。見るたびに成長していく孫を見ると、命ということを真摯に考え、それを慈しみ、その健やかな成長と継続を考えるものである。

 今読んでいる本「動的平衡〈ダイヤローグ〉」福岡伸一著のプロローグに以下の文章があった。その一部を紹介してみる。
 「生命とは何か?それは自己複製システムである」。DNAという自己複製分子の発見とともに、そのように定義された。しかし自己複製が生命を特徴づけるポイントであることは確かであるが、私たちの生命観には別の支えがある。柔らかさ、温度、揺らぎ、粒だち、可変性、回復性、脆弱さ、強靭さ、かたち、色、流れ、渦、美しさ・・・・・・私たちは、たとえ言葉にできなかったとしても、それらが生命の重要な特性であることを気づいている。ではそれらは生命の何に由来するのであろうか。

 我々が摂取する食べ物由来の栄養素の大半は、他の分子の一部になったり、分解されて再合成されたりしながら、いったんは身体の内部にとどまるものの、やがて体外に輩出されていく。つまり外からきた栄養素は、生物の身体の中を、くまなく通りすぎてゆく、そしてその通り過ぎつつある物質が、一時、かたちづくっているのが私たちの体にすぎないのである。私たちの皮膚や爪や毛髪が絶えず新生しつつ古いものと置き換わっているように、我々のありとあらゆる部位、それは臓器や組織がけではなく、一見、固定的な構造に見える骨や歯ですらもその内部では絶え間のない分解と合成が繰り返されている。入れ替わっているのはタンパク質だけではない。貯蔵物と考えられていた体脂肪でさえも、ダイナミックな「流れ」の中にある(先入れ先出し)。その結果、私たちの体を構成する要素は、ほぼ1年で完全に入れ変わる。物質的には、私たちは1年で別人になるわけである。つまりここにあるのは流れそのものでしかない。

 肉体と言うものについて、私たちは自らの感覚として、外界と隔てられた個物としての実体があるように感じている。しかし分子レベルではその実体は全く担保されていない。私たちの生命体は、たまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい『淀み(よどみ)』でしかない。しかもそれは高速で入れ替わっている。この流れの事態が「生きている」ということであり、常に分子を外部から与えないと、出て行く分子との収支があわなくなる。「生物が生きているかぎり、生体高分子も低分子代謝物質もともに変化してやまない。生命とは代謝の持続的変化であり、この変化こそが生命の真の姿である。

 著者は分子生物学者だから、その文章もなかなか分かりづらいところもある。私なりに注釈をすると、こういうことであろう。地球を取り巻く分子の流れを大河に例えるとすれば、我々はその水辺にできた小さな「淀み」である。その淀みには常に水が注ぎ込み、また出ていってバランスが取れている。その淀みは1年も経てば全ての水は入れ替わるが、淀みは淀みとして変わったようには見えない。我々が生きているということは、止めどなくこの流れが続いていることにに他ならない。水の流入が止まったり細ったりすれば、淀みはたちまちのうちに消え失せてしまう。

 かつて私という「淀み」も戦争の混乱期に下関と言う地に誕生した。淀みの流れが増大するにつれ「私という意識」が芽生えてくる。やがて時間が経過して、私という淀みが起因して別な小さな淀みが出来上がる。これが子どもなのである。子どもの淀みはまた大きくなり、また別の淀みが誕生する。しかし私という「淀み」は何時までも続くわけではなく、時間とともに流れの速度が落ち、やがて淀みは消え、意識もなくなってしまう。しかし淀みが消えたとしても、それを構成していた要素までがなくなるわけではなく、大河に流れ出しただけである。いずれまた一部が、別の淀みの構成要素になるかもしれない。地球に生命が誕生して38億年、こんな流れが連綿として続いているのである。

 私には宗教心のようなものはあまりない。したがって私は生命観というものを科学を通して考えざるを得ないのである。福岡伸一が唱える「動的平衡」に関する何冊かを読むうちに、私の生命観のようなものが次第に定まってきたように思う。そして今、私の膝の上にある小さな「淀み」の体温を感じていると、著者が言うDNAとは別の・・柔らかさ、温度、揺らぎ、粒だち、脆弱さ、美しさ、可愛さ・・・・という、生命の特性があることを確かなこととして感じることができるのである。





口癖

2014年03月21日 10時00分19秒 | Weblog
 毎朝、(親)会社の朝礼に出席している。朝礼当番は社員の順番制なので、毎日違った人の話を聞くことになる。人それぞれに喋り方に癖があるのだが、その中でも話の合間に、「まあ」という言葉を入れる人が多いのに気づく。「まあ、こう言うことなのですが、・・・・、まあ、私はこのように思うのです。しかし、まあ・・・・」と言う風に、「まあ」が頻繁に出てくるのである。聞き流せば良いのだろうが、意識してまうと、この「まあ」が引っかかってしまい、話の内容が上の空になってしまう。しかし、普段その人たちとの会話ではこの「まあ」は出てこない。朝礼のように人前で喋る時に起こるのである。

 昔、仕事の中で台湾の人を、コンビニエンスの研修生として受け持ったことがある。彼は日本語の会話は充分にできた。あるとき彼と電話で話している時、彼から『「あっ」とは何ですか?』と聞かれたことがある。最初彼が何を言っているのか分からなかった。しかしよくよく聞いて見ると、私が言葉の始めに、「あっ、それは○○なのだが・・・・」という風に、話の始めに付けている「あっ」という言葉の意味が解からないというのである。「相手との会話の中で、間を入れるために使っている」と説明はしてみたものの、彼には意味不明だったろう。その後自分でも電話で喋っている言葉を意識してみた。すると確かに電話の最中、「あっ、○○と申します、・・・」、「あっ、ちょっと違いますね・・・」と言う風に、「あっ」を頻繁に使っていることに気づくのである。そして今度は電話口で「あっ」を使わないように意識すると、「一瞬の間合い」が足りない感じがして、喋り方が不自然なのである。

 こういう言葉を間投詞と言うのだろうか?そう思ってインターネットで調べてみた。間投詞=感動詞・感嘆詞。活用のない自立語で、主語や修飾語にならず、他の文節とは独立して用いられるもの。間投詞は一般に文のはじめにあって、感動・呼びかけ・応答などの意を表す。「まあ、きれいだ」の「まあ」、「もしもし、中村さんですか」の「もしもし」、「はい、そうです」の「はい」などの類、と書いてあった。ここで出てくる「まあ」や「もしもし」、「はい」は間投詞というのだろうが、話の合間合間に入れる「まあ」や、電話の会話の中で私が使っていた「あっ」も、間投詞の一つになるのだろうか?、しかしそれは個人特有の喋り方の「癖」のようなものだから、これはやはり「口癖」なのだろう。

 朝の通勤時、ラジオで時事問題の解説をしている番組を聞いている。曜日ごとに解説者が変わるのだが、その解説者の一人に、「どんどん、どんどん」という言葉を頻繁に使う人がいる。「どんどんどんどん進んでいる」、「どんどんどんどん悪くなっていく」など、30分程度の解説の中で、5、6回以上は使っているように思う。「どんどん」は副詞なのだが、これは完全な口癖なのであろう。やはりどんな言葉でも多用されると、人はそこに違和感を感じるものである。そして文章なら自分でも見返すこともできるが、口から出た言葉はその端々までは覚えてはいない。だからなかなか自分の口癖が自覚できないのである。

 これとは違うもう一つの口癖がある。それは会話の中で、その言葉を多用することでその人の性格まで分かってしまう口癖である。例えば、「要するに、○○なんだよ」の言い方を多用する人は自信家なのであろうし、「だから、○○なんだ」を多用 する人は自己主張が強い人なのであろう。「別に○○だから」は欲求不満の人、「まあ、そうかもしれないね」は自分に自信がない人、「忙しい忙しい」を多用する人は他人から評価がほしい人など、ネットを調べれば色々な口癖が書いてある。そんな中で私のもっとも嫌いな口癖は、「だから日本(人)はダメなんだよ」という人である。自分も日本人でありながら、自分を第三者の位置において批判なする人である。そんな人に限って、「だからサラリーマンは・・・・」とか「だから彼らは・・・・」という風に対象を複数にし、自分をそんな中から一歩抜け出た高みに置いて批判する。こういう人は卑怯な人であろう。

 生まれてから直ぐに使い始めた言葉、もう自分の中に組み込まれた言語ソフトのようなもので無意識で使っている。「言葉は人格をあらわす」、だから相手の言葉は、その人の生まれ育ちやその時の心理状態、そしてその人の性格まで読み取ることができる。しかし反対もある。話し方を変えれば人に与える印象を変えることができるのである。私の電話口での「あっ」は意識しているうちに、いつの間にかなくなった。少しの間、意識して喋ってみる。そうするとそれば言語ソフトに組み込まれて、いつの間にか変わるものである。「意識して続けてみること」、これは自分を磨いていく上で必要不可欠なことなのではないだろうか。






友人の死

2014年03月14日 09時15分10秒 | Weblog
 月曜日の夕刻、私の友人の一人であるM.Sから電話が入った。『Yさんから聞いたんだが、A.Kが亡くなったらしい。死因はすい臓がんだったとか、・・・・あいつ亡くなる前に奥さんに、「誰にも連絡しないように」と言っていたらしく、ほとんどの人は知らないと思う』、そんな電話であった。突然の訃報に、一瞬「そんなバカな」という衝撃が走った。

 亡くなったA.K(62歳)、連絡をくれたM.S(66歳)、そして私(69歳)、この3人は30年も前に同じ部署で仕事をした仲間である。年齢は違うものの、3人は気が合ったのか、いつもつるんでいた。昼飯に行くのも、麻雀をやるのも、飲みに行くのも、どんなグループとの寄り合いにも、3人の誰かが声を掛け合っていた。そして彼らの一人でも一緒だと、なんとなく安心感があり、どんな場にも出て行けるようにな心強さがあったのである。彼らにはどんな失敗も、問題も、心境も、飾ることなく話すことができた。3人には暗黙のうちに「相手のマイナスになることはしない」、そんな信頼関係を共有していたように思うのである。本来ならこういう友人関係は中学生や高校生の時にあるのだろう。しかし私は中学高校と真の友人がいなかっため、このような関係は新鮮で貴重なものだったのである。

 3人が一緒の部署にいたのは30代の5年間ぐらいだったろうか、その後はサラリーマンの宿命でバラバラに離れていく。社内に散らばった彼らとは、その後も社内情報や人事の裏話、時には仕事上のホローなど、会社の中での同士のような存在でもあった。やがて会社の成長も止まり、それぞれが別々の子会社に配転させられていく。普通サラリーマンであれば、同僚が出世することは表面では祝福しても、内心では妬みがあるものである。しかし私は彼らが出世していくのは素直にうれしかった。それは連れて自分のステータスまで上がるように思え、誇らしい気分にもなったものである。そしてバブルが弾けた前後、それぞれの思いから3人は会社を辞めていくことになる。会社が変わっても誰かが声を掛けると3人は直ぐに集まっていた。その時は自分達の近況や昔話を面白おかしく話し合い、時間の経つのも忘れるほどであった。しかし最近は個人的な事情、職場での事情が重なり、個別に会うことはあっても、3人で会うことはほとんどなくなってしまっていた。

 A.Kの訃報を聞いて、「そういえば、今年は彼からの年賀状がなかったのでは?」と思い当たる。家に帰ってから改めて年賀状を探してみた。やはり彼からの年賀状はない。今年のお正月は入院していたのだろうか、と思ってみる。そして今度は昨年の年賀状の束の中を探してみる。そこには彼の一言が添えらえた年賀状があった。それには、「早いもので、私も定年を迎えました。一度ゆっくりお会いしたいですね」と書いてある。「あっそうだ!この文面を見て、その後どうするのか、彼に会って確認してみよう」、そう思ったことを思い出した。「こんなことになるのなら、なぜ昨年会っておかなかったのか」、自分の行動力のなさ、配慮のなさに腹立たしさがこみ上げてくる。後悔先立たずである。彼が元気なうちに3人で会って、昔の思い出話で笑いあってみたかった。それは年長者の私が音頭を取るべきで、それができなかったことに、自責の念が残るのである。

 今までにも知人や同僚の訃報は数多く接してきた。しかしA.Kのそれは私にとっては特別なものである。訃報を聞いた時から、少なからず私の心の中に喪失感というか空虚な感覚が残っている。彼はある時期、仕事上でのネットワークの重要な存在でもあったし、私の人生を楽しく豊かなものにしてくれた友でもあったわけである。彼は私より7歳も若かったこともあり、バブル崩壊の波をもろに受けた世代であった。しかも彼は優秀だったから、どこの職場に変わっても重要なポストに付いていた。そんなことで常に忙しく、苦労の連続であったように思う。そして定年、これからは少し仕事を離れての彼の人生があったはずである。そう思うとさらに悔しさがこみ上げてくる。

 歳を取るほどに自分の周りで、親しんできた人たちが次々と亡くなっていく。特に親族や親しかった友人の死に接すると、今まで自分を構成していたものが、一枚づつ剥がれ落ちていくような感覚になる。そんなことが重なり、自分はだんだん細っていき、最後は朽ち果てていくのだろう。それは脳の神経細胞が歳とともにネットワークを失い、やがて機能不全になっていくのと同じなのかもしれない。そんな自然の摂理に少しでも抗って見るためにも、もっとアクティブに行動し、多くの人たちと会っておくこと、そんなことが必要なのかもしれないと改めて思うのである。





生涯現役

2014年03月07日 09時14分01秒 | Weblog
 得意先の一つに私と同じように個人経営の会社がある。その会社との取引はなかなか広がらないが、その人(社長)の誠実さからか、その人とはもう15年以上の付き合いがある。先日その人と3年ぶりに会った。会う早々、「今度住所が変わったので、・・」と名刺を渡してくれる。その名刺を見ると、名前の上に「生涯現役」と記されていた。「生涯現役」?、その表記の中に何か期するものがあるのだろうと思い。その理由について聞いてみた。

 その人(社長)は79歳になると言う。自宅のマンションが事務所で、奥様が経理、自分は商品開発と営業という二人三脚で今まで運営してきた。元々はある大手の出版社で編集の仕事をしていた。ある時、話題になり始めた「オーガニック(有機)」の本を企画することになる。外国の資料を取り寄せ、農家を訪ね、販売者を探して、オーガニックについて勉強していった。そして「オーガニック」の本を出版する。しかし時期尚早だったのか、企画が悪かったのか、本は惨めなほど売れなかった。しかし本は売れなかったが、彼はそれを期にオーガニックの重要性や必要性について考えるようになった。そしてその可能性を信じて、自らがオーガニック食品を企画販売することを決心をする。勤めていた会社を辞め、自分の会社を立ち上げた。本の出版でお世話になった生産者やメーカーの応援を得て商品を作り、社長自ら営業に飛び回ったそうである。今から35年前の話である。

 船出はしたものの、どうしても割高になってしまうオーガニック食品、なかなか思うようには売れなかったそうである。そこで取り扱いの商品に健康食品(プロポリスやにんにくエキス)などを加えて、通販にも販路を広げていった。大きく儲かった時期もあったが、基本的にはいつも四苦八苦で余裕はなかったと言う。こうして今までは何とか続けてきたが、歳も歳だし銀行からの借り入れも残っていたので、自宅を処分して全ての借金を清算した。そして兄弟の所有するマンションに移り住んで、改めて商売を続けることにしたそうである。私が「もう年金暮らしで良いのではないですか?」と聞くと、その人は「独立してから年金を掛けていなかったので、支給額は人の半分程度です。だから生活していくには働くしかないんですよ」と言う。これが名刺に記した「生涯現役」の理由であり、社長さんの気構えなのであろう。

 私はその人を、見た目の印象から72~3歳だと思っていた。しかし実際は来年は傘寿(80歳)、実年齢より確実に5歳~10歳は若く見える。俳優(特に女優)や政治家が実年齢より若く見えるのは、現役への執着がその要因にあるように思っている。サラリーマンのように定年という区切りがなく、本人の意欲次第で、いつまでも現役続行が可能な職業である。世間と関わりの中から刺激を受け、ストレスは感じながらも、自分の身は自分で処していかなければいけない。多分そんなことが身体機能の老化を防いでいるのではないだろうかと思っている。反対にサラリーマンは自分の意欲や意思にかかわらず、ある時点で強制終了させられてしまう。そのことで今まで動いていた機能(頭や体)にブレーキがかかってしまう。そして今度別の機能を立ち上げようとしても、始動させるだけのエネルギーが残っていないのだろう。一般的に女性の方が男性より平均寿命が長いのは、身体的な特徴もあるのかもしれないが、方向転換することもブレーキを掛けることもなく、今までと同じ機能が使えることにも要因があるように思うのである。

 この社長さんにはお子様はなく、これからも誰に頼ることもできず、働かなければいけないという苦労がある。しかしその反対給付として、同年代の人と比べればはるかに若く、変わらぬ意欲を持たれている。私自身も2018年まで家のローンが残っている。あと5年である。できれば何とかそこまでは働きたい。それが片道2時間の通勤をしてまで働いている大きな要因でもある。人は年を重ねるほどに、見た目と活力に大きな差が出てくるように見て取れる。その大きな要因の一つにモチベーションがある。今までの経緯から「やらなければいけない」という状況にしろ、自発的に「やってみよう」と決めるにしろ、心の火(動機)を持ち続けて諦めないこと、それが重要なのだろうと思うのである。