60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

散歩(三崎口~ソレイユの丘)

2016年03月25日 08時10分34秒 | 散歩(6)
 前回東逗子を一緒に歩いたメンバーから、「今度は海を見たい」というリクエストがあったので、今回は海に行くことにした。静かな海岸線を歩くのにはやはり三浦半島まで行くのが良い。そんなことで今回は京急の終着駅三崎口から三浦半島の西側に出て歩くことにした。天気は曇り時々晴れ、暑くも無く寒くも無く、歩くには絶好の気候。広々とした畑を横切り、穏やかな海岸線の砂を踏みしめて歩く。そんな非日常の環境は命の洗濯になる。
 
    
 
                             京急三崎口駅から西へ、田園地帯が広がる
 
            
 
                  打ち捨てられた三浦大根
 
    
 
                      キャベツ畑
 
    

 
            
 
                    収穫の時に使う四輪車
 
    
 
                 蝶が卵を産むのを避けるネット?
 
    

 
            
 
                        農家の集落
 
            
 
    
    

 
              
 
               きれいに洗われ出荷を待つ三浦大根
 
    

 
    
 
                     和田長浜海岸
 
    

 
           

 
    

 
    

 
           

 
    

 
           

 
    

 
    

 
    
 
                      佃嵐崎
 
    
 
                 相模湾をぐるりと見渡す展望所
 
    

 
    

 
    
 
                       粟谷浜漁港     
 
            
 
                     観音像の庚申塔
 
      
  
                       荒崎
 
           
 
                       熊野神社
 
    

 
    
     
 
    
 
                     シラス干し
 
             
 
              この辺りは横須賀市で小泉進次郎の地盤
 
    
 
                       ソレイユの丘

 
                    ここからバスで三崎口駅へ















お通夜

2016年03月18日 08時08分11秒 | 日記
 先週突然に訃報が入った。その人とは干支が同じで私より一回り上の83歳である。20年以上前からの仕事の知り合いだが、リタイアされてからも時々は会うようになってプライベートな付き合いになった。相性が良かったのか、ざっくばらんさに親しみがもてたのか、人生の先輩としてその生き方を参考にさせてもらっていた。今年の1月会社にも訪ねてくれて食事をしたばかりである。会うたびに少しずつ痩せた感じがし、以前の生気がなくなっていくように感じていた。本人によると、最近はお酒も飲まなくなったし食欲も無い。女房が心配して「食べろ食べろ!」と言うのだが、「欲しくないものは仕方ないだろう!」といつも喧嘩になる。一昨年トイレで血を吐いたことがあるが、医者嫌いだから病院へは行っていない。「医者に行けば即入院だろうし、入院すれば悪い所を見つけ出され体をさんざん痛められて終わりである。もうこの歳になっての入院生活など真っ平だ。最後の最後まで自分の意思で動いていたい」そんなことも話していた。
 
 お通夜の席に座ると、隣に小学校時代からの友人という人が座っていた。私は「死因は何だったのでしょう?」と聞いてみた。「朝起きてこないから、起こしに行くと亡くなっていたらしい。あいつは医者嫌いで病院にも行っていないから、はっきりしたことは分からない。一応心不全ということらしい」、「まあ患わず、家族にも迷惑をかけないのだから、理想的な死に方だったのかもしれないですね」、「遺影になっているあの写真、昨年11月にやった同窓会の時のものですよ」などと話してくれた。通路を隔てて右側に座る親族の席を見ると、今まで彼との会話の中で出てきた家族の構成が一目瞭然のように分かる。どちらかといえば不仲だった奥さん、40を過ぎて独身の長男、近所に住む娘夫婦と孫娘が2人、新潟に住む奥さんの兄弟等々、今まで彼が話してくれた人間模様が視覚となってとらえられる。
 
 しばらくして導師様の入場があって葬儀が始まる。読経が進みやがて親族からご焼香が始まった。5、6番目に孫娘2人が焼香台の前に立つ。ぎこちない手つきでご焼香を済ませ、こちらを向いた顔は明らかに腫れぼったい目をしている。彼は近所に住む共稼ぎ夫婦の孫たちを幼稚園の時から送り迎えをし、母親が帰るまで一緒に遊んでやっていた。上のお姉ちゃんは今は中学校1年生、妹は確か小学校4年生だったろうか、お姉ちゃんはスポーツが好きで下の娘は絵を描くことが好きだという。ある時携帯に入っている孫娘の描いた砂絵(色の付いた砂で絵を描く)の写真を私に見せて自慢していたことがある。この2人の孫娘にとって、おじいちゃんの突然の死は衝撃であり、深い悲しみであり、大きな喪失感をもたらしたはずである。
 
 私が訃報に接した時も動揺があった。彼に最後に会ってからまだ2ヶ月である。その時は禿げ隠しの帽子を被りニコニコしながら訪ねてきてくれた。食事をしながら、冗談を交えての世間の批判話は何時もの彼であった。そんな彼にもう2度と接することが出来ないと思うと寂しくなり、その喪失感は大きい。私を支えてくれている多くの人間関係の中の太い糸が、今回また1本プツンと切れたようである。切れた途端精神的なバランスを崩しぐらりと揺れ、体全体が熱を持ったように息苦しさを感じた。そして訃報から1週間たった今でも、その動揺は後を引いているようである。
 
 彼の家のお墓は浅草にある。10年ぐらい前に浅草を一緒に歩いていた時、「我が家のお墓を教えておくよ」と言って、お寺の裏手にある墓地に入ってその場所を教えてくれたことがある。その時、「私が会社(近く)にいる間にお墓に入ることがあったら、時々は会いに来てあげるよ」と冗談のつもりで言ったことがある。それが今回現実になってしまった。だから今年は時々はそのお墓にお参りに行ってみようと思っている。それが自分の喪失感を埋めてくれる一番良い方法かもしれない。この歳になるとつながる糸より切れる糸の方が多くなる。そして次第に社会との繋がりが薄くなり孤立を深めていくのだろう。これも自然の流れだから仕方ないのだろうと思う。今は残った糸をメンテナンスする意味で、なるべく多くの人達と億劫がらずに会い、より太い糸にしておくことが必要なのかもしれない。





散歩(東逗子~追浜)

2016年03月11日 08時12分20秒 | 散歩(6)
  先週の日曜日、横浜線の東逗子から京浜急行の追浜まで歩く。最近は単独行ではなく2~3人が多くなった。年齢とともに付き合う範囲が限定されてくると、お互いに人寂しくなるのかもしれない。今回は3人、横須賀線の東逗子駅で待ち合わせてから歩き始める。このコース、私は以前にも歩いたことがある。一緒に歩く2人に歩くことの楽しさを味わってもらおうと思い、散歩コースとしては少し難易度が高く変化に富んだコースを選んだ。歩行時間3時間(約1万歩)、2人は満足したのか、「今度は海を見に行こう」というリクエストがあった。

    
 
                     神武寺参道
 
    
 
 
    

 
    

 
    

 
    
 
                       神武寺
 
    
 
                逗子八景の一つ 神武寺の晩鐘
   
          

 
    

 
    
 
                     神武寺
 
    
 
          
 
                      台湾リス
         鎌倉を初め神奈川県に広く定着している特定外来生物
            最近被害が多くなって害獣扱いになっている
 
    
 
                     
 
                     ここにも台湾リス

     
 
                       尾根道
 
    

 
    

 
    

 
    
 
                       鎖場
 
    

 
    
 
                  鷹取山公園(標高139m)
 
               鷹取の名は大田道灌が鷹狩をしたとか、
           鷹が多くいて鷹を取ったからという言い伝えがある。
 
    
 
            岩場ではロッククライミングの練習が行われている
    切り立つ崖の様相は明治から昭和初期にかけて石材を採取したため生じたもの
 
                       

 
    
 
    過去鷹取山で死亡事故があり、岩登りは1980年から3年間禁止となった。
    そのため再度事故が起こると全面禁止の恐れがあるため、クライマーのルール
    厳守は徹底されているようである。
 
    
 
 
    
 
 
           

    
    
          この岩石は第三期層凝灰岩で軟らかく加工しやすいため、
           家屋の基礎や塀、護岸など建築土木用として広く愛用された。
 
                    
 
       無数の小さな穴は登山練習のために打ち込まれたハーケンの跡
 
          
 
        崖と体が離れすぎている。一目見ただけで初心者と分かる
 
             
 
       必死で崖を掴んでいるが、これでは直ぐに腕が疲れるのでは?
          もう少し体重を落とさなくては岩登りには向かないように思う。
 
                      
 
                  危なっかしくて見ておれない
 
        

 
              

 
    
 
                   身支度を整え、いざ挑戦
               
   
 
                   展望台からの眺め       
                    遠くは東京湾
 
   
 
                 遠くに魔崖仏が見える
 
        
 
   
 
         魔崖仏の弥勒菩薩は逗子在住の川口満氏の依頼により、
        市内在住の彫刻家藤島茂氏が昭和40年ごろ制作した物
 
   
 
                   鷹取団地内の公園
              同じ材質の岩がむき出しになっている。
 
   
 
                  追浜駅から京急で帰る





 

余命

2016年03月04日 08時43分22秒 | 日記
                    我が家にある義姉の絵

 昨年10月、兄の呼び出しで久々に兄弟で会うことになった。東京駅で待ち合わせ、構内の飲み屋に入って近況を報告しあう。しばらくして兄が、「実は・・・」と兄嫁がガンであることを話し始めた。昨年春ごろから腰が痛いと何度もマッサージに通ったが、一向に改善せず病院へ行く。その結果は肺腺ガンで、肺に何箇所も散らばっており、骨まで転移していてステージ4との診断結果だった。本人の意思もあって、夏に入院し抗がん剤の治療を始める。しかし薬が合わなかったのか、肝臓の数値が異常に悪くなり、途中で中断することになった。しばらく間をおき体力の回復を待ってから、今度は別の抗がん剤の投与を始めるということである。
 
 義姉は私より一つ上、冠婚葬祭の時ぐらいしか会うことも無く、最近会ったのは4年前、私の長女の結婚式の時である。兄に言わせれば煙草を吸うわけでもなく原因は分からない。多少神経が細い所がありストレスを抱えやすいから、それが起因ではと言う。義姉の母親が絵の先生だったこともあり、小さい頃から油絵を描いていて、私の印象は物静かで穏やかな性格のように思っていた。子供たち3人はそれぞれに所帯を持って離れ、今は夫婦2人だけで暮らしている。退院してからは普段と同じような生活で、特に感情を乱しているようなことはない。最近は自分の衣料品など整理し始め、先日は兄が大風呂敷一杯の衣類を資源ごみに出したそうである。
 
 話を聞きながら、「さて、見舞いに行った方が良いか?」と頭をよぎる。普段義姉とはあまり交流が無いので、わざわざ見舞いに行けば自分の死期を感じさせてしまうかもしれない。しかし知らん顔というわけにもいかない。そのあたりを兄にざっくばらんに聞いてみた。兄が言うには、まだ希望を持っているし、ガンと戦うことで自分の気持ちを保っている。そんな時には家族以外は誰にも会いたくはないだろう。ある程度時間が経ち自分の状況を受け入れるようになってからで良いと思う。ということで、当面は見舞いは行かないことにした。
 
 先週、今度は私の方から連絡を取って兄に会うことにした。義姉のことを聞いてからすでに4ヶ月が経っている。病状はどうなっているのか、義姉はどんな状態なのか、兄は今何を思うのか、そんなことが気に掛かるのである。兄によると、2回目の薬は体に合ったのか、ガンも小さくなり少し落ち着いている状態だと言う。しかし医者によると、今は薬が効いて小さくなっているが、転移したガンが消えるわけではなく、免疫力が落ちてくれば一気に勢いを増してくるらしい。薬の影響か、手の皮が薄くなったような感じで、手のひらが異常に敏感になり水も触れない。普段はゴム手袋をしているが、それでもダメで食事は兄が作るか弁当で済ませている。日中は一生懸命絵を描いているが、薬の影響で肝機能が衰え、夕方にはガックリと疲れが出ると言う。そんな弱っている妻を見るにつけ不憫さがまし、何とかしてやりたい、そんな気持ちが強くなってくると言う。
 
 話は別の知人のこと、先月昔の仕事仲間の新年会に彼が久しぶりに出席してきた。彼は1年以上前に「悪性リンパ腫と診断された。しかもガンが脊髄にまで移行し年齢も年齢でということで、「不治療」ということで様子を見ることになった。その時に医者から、症状が出てくるのは2年後といわれる。今年で1年経過し、医者から言われた症状が出るまであと一年である。そんな状態であるが、彼は新年会の中で皆と同じように楽しそうに談笑している。人の心理に興味がある私は「今の彼の心境はどうなのだろう?」と聞いてみたくなった。それとなく席を彼の隣に移し言葉を選びながら慎重に聞いてみる。
 
 彼は素直に話してくれた。今は自分の病状は全てオープンに話している。変わったことと言えば娘達が急に親切になったことだろうか。普段は近所に畑を借りて野菜を作っている。また近隣のバンド3つに所属して、サキソフォンを吹いている。バンドの練習と定期演奏会や慰問、それと家庭菜園で結構忙しくしている。そんなことがあるから下手に考え込まずにすんでいるのかもしれない。自分が今からどんな風になるかはわからないが、そんなに長い時間はないだろう。そんな時に、先に目標を持って何かをする気にはなれず、過去に楽しかったことを追体験したいと思うようになった。だから昔の仲間と旅行に行ったり、こんな風に酒を飲んだりと、なるべく楽しい時間を大切にしたいと思っている。だから最近は人に誘われて断ったことがないと言う。
 
 2人とも余命半年とか1年とか言われたわけではない。しかし自分の人生がある程度限られた状況にあることは確かである。心理学的には人は余命が限られていると知らされると、それを受け入れるまでに5つの段階を経ると言われている。

 第一段階 ショックのあまり、事態を受け入れる事が困難な時期
 第二段階 「どうして自分がこんな目にあうのか?」と、心に強い怒りがこみ上げる時期
 第三段階 事態を打開しようと必死になる時期
 第四段階 事態が改善しないことを悟り、気持ちがひどく落ち込む時期
 第五段階 事態をついに受け入れる時期
 
 これが当てはまるとすれば、義姉は第三段階、昔の仲間は第五段階(あるいは第三段階)だろうか、私の両親や叔父叔母はすでに鬼籍に入り、いよいよ我々にその順番が回ってきたことになる。私も男性の健康年齢を過ぎ、何時余命の限定を伝えられてもおかしくない。その時をどう迎えるか、そろそろ心の準備も必要になってきた。