60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

雑談力

2012年09月28日 09時21分27秒 | Weblog
 先日朝のラジオの番組の中で「雑談力」というハウツー本が出版されたり、「雑談力」のセミナーが開かれて好評だという話をしていた。それを聞いていて「雑談」にも力がいるのか?、「雑談」するのになにか能力や知識が必要なのか、と思わず聞き入ってしまった。話の内容は今の若い人達は同じ世代や同じような価値観を持つ人達とは雑談できても、それ以外の人とは会話が旨くいかずコミュニケーションがとれないという悩みが多いようである。学生時代はそれで良いとしても、一旦社会に出るとそれでは通じなくなる。上司との関係、営業先との商談など、当然仕事の話だけでは味気ないから、関係を和ませるためにも雑談を挟むわけである。そのときの雑談で「話のネタがない」とか「会話が続かない」などの苦労があるようである。コミュニケーション能力の向上を図って、良い人間関係を築きたい。そんなニーズから「雑談力」なるものが注目を集めているのだそうである。

 書店に行くと「人間力」「発信力」「決断力」「悩む力」「断る力」というような本を目にすることがある。このような本を「力(ちから)本」とよぶのだそうだ。今までそれらの本は読んでいないからなんとも言えないが、いずれの力も教えてもらって学び取るものではなく、自分の経験や体験の中から自分なりに会得していくもののように思うのである。本を読んだからといって速成で人間力がアップしたり、決断力が付いてくるような簡単なものではないだろう。社会の中で、もがき苦しみ、悩み考えながら人間力は上がり、自らの勇気を振り絞って実行してこそ、決断力や断る力が付いてくるように思う。だから「雑談力」も然りであろう。雑談の中身は相手によりシュチュエーションにより変わってくるものである。あるときは時事問題になり、あるときは社会問題になり、あるときは趣味の話になり、あるときは身の上話しになったりと、雑談のテーマに定型はなくその時々で変わっていく。これこそ「人間力」の問題のように思うのである。

 私自身は仕事で営業職の経験が少ないから、相手に対して気を使いながら雑談を意識したことは少ない。それに元々社交的なタイプではないから、こちらから話題を作って話を盛り上げていくのは苦手である。そんな私でも、商談相手と「良い気候になりましたね」、「この時期、仕事の状況はどうですか」、という話から入って次の話の矛先をどうもって行けば、相手と親近感が持てるようになるかを考える。今までの経験上、時事問題などはそれぞれが捉え方が異なることが多く、意見が違うと反対に反感を買うようになるからあまり適切ではない。どちらかといえば個人的な話題のほうが、お互いの人となりが解かり、親しくなれるように思うのである。さりとて初めから相手の内情にずかずかと入っていくことははばかられる。そんなことから最近は、「今はどこにお住まいですか?」とか「どこのご出身ですか?」という風に、個人情報の中でも比較的差し支えのない質問からはじめることにしている。

 それは以前の仕事の関係から日本全国で和歌山県以外すべての県庁所在地には訪れていること、そしてブログでも時々紹介しているが、この10年で関東近県の主だったところは大体散歩で歩いている。そのことで相手の居住地や出身地を聞けば、その近辺の名所旧跡、公園や主な神社仏閣は大体は分かるのである。そして会話の中から共通の場所を見出すことが出来れば、それが糸口になって話は広がっていく。人とは不思議なもので、一つでも共有する話題があれば意外と親近感を覚えるものである。そして2回3回と回数を重ねるごとに、お互いの認識を深めていけるものである。そしてそれからは私の興味「人間観察」の段階に入っていく。

 人は付き合いが浅く、相手のことが分からなければ当然警戒するものである。だから親しくない相手には自分の内情はあまり喋らないのが普通である。しかしこちらの質問に答える形で、知らず知らずに自分の内面を喋べらされたとする。すると相手は「ここまで喋ったのはまずかった」とは思わず、「自分はこの人を信頼しているから喋ったのだ」と逆に考えてしまう。だから相手が自分のことについて喋れば喋るほど、聞き手に対しての信頼感は増すことになる。結果としてよく言う「聞き上手は話し上手」、「聞き上手は得をする」ということになるのだろう。後はその信頼を裏切らないようにすれば、人間関係はより深くなり、長く維持していけるように思うのである。

 今までに歳の分だけ多くの人と雑談してきたことになる。その中でつまらないと思う雑談はテレビネタや新聞ネタに終始する時である。テレビの解説者が喋ったことを、さも自分の意見のように喋ったり、マスコミの論調にのって世の中のことをダメだしする人達である。自分の意見に対する反論を恐れるからか、自分の見識のなさが晒されると思うのか、自分の感じたことや意見を喋らず、人の意見を借りて話す人である。反対に魅力を感じるのは自分のことを素直に語れる人である。自分の失敗や苦労話、今の悩みや課題、将来の夢、そんなことを何の衒いもなく語れる人である。そんな人達は年齢や性別や地位に関係なく好感を持つのである。意外と自分と共通することが多いこと、自分とは違う感覚や感性を教えてもらえること、そんなことがお互いの信頼感につながり、一層親近感が持てるようになるものである。近しい人達だけの打ち解けた雑談だけではなく、思い切って世代も性別も違う人達と胸襟を開いて雑談して見ると、意外と自分の視野が広がり、世の中捨てたものではないと気づくものである。たかが雑談、されど雑談である。

尖閣問題

2012年09月21日 09時25分10秒 | Weblog
 今、尖閣列島の領有権の問題で中国と不穏な雰囲気になってきている。先週から中国国内で反日デモや日本企業への焼き討ちや略奪、そして尖閣列島付近での漁船や監視船の出動と、中国はなりふりかまわない威嚇行動を取っている。こういうニュースを見るにつけ中国の本性を見る思いがし、不快感と同時に中国という国の不気味さを感じるのである。しかし、今世界全体では中東をはじめさまざまなところで紛争がおきている。極東の島国でアメリカの庇護の下で平和ボケしているといわれる我々日本人も、世界の争いの中で決し高みの見物をしていられる立場にはないことを突きつけられている感じである。

 我々日本人は単一民族でしかも島国だから人種的な軋轢に鈍感で、どうしても他国のことも自分達と同じような認識で見てしまいがちである。しかし実際には歴史も宗教も考え方もまったく違う他民族なのである。東日本大震災の時、あの混乱の中で略奪や犯罪行為もなく、自制心と連帯意識が機能した行動に世界中の人々が称賛したといわれた。しかし反対に考えれば我々日本人は世界と比べて、理性が勝ち優等生然としすぎているのかも知れない。だから相手からすれば危険性は少なく甘く見られ、付け入る隙を見せているようにも思うのである。中国や韓国とは同じルーツを持つ民族同士だからか、あるいは戦争の後遺症からか、隣国にいながらあまり馴染まず、敵対心がすぐ表面化してしまう。もうここまで来たらこの問題は先送りせづ、中国とも韓国ともある程度の摩擦は覚悟の上で、堂々と渡り合っていく時期のように思うのである。

 私が中国人(台湾)と直接接したのはもう25年前のことである。仕事である時期10回ぐらい(延べ日数で2ヶ月程)台湾に出張していたことがある。そのとき多くの台湾の人と親しくなり、本音で喋れるようになった。そしてその時初めて日本人との違いを感じたものである。まず彼らは国や企業などの体制を信用せず、自分のことは自分で守るという意識が非常に強いのである。金持ちは銀行に自分の資産を置かず、金の延べ棒やドルで金を持ち、アメリカに家を持って子弟は海外留学させている人も多いと聞いた。それはいざとなればいつでも逃げられる体勢を取っているのだそうである。また庶民レベルではほとんどの人が自宅の鍵を5個も6個も持ち歩いていた。それは何重にもロックしておかないと何時泥棒に入られるかわからないからという用心だそうである。当時は家族経営の会社も多く、そんな中小企業ではお金は絶対に身内意外には扱わせない。彼らは人はだます者裏切る者という前提であるから、基本的には家族以外の人は信じていないのである。また公衆のマナーは極端に悪く、部屋の窓から外へごみを捨て、街中の食堂でもテーブルの下へ平気で食べかすやごみを捨ててしまう。それは自分の周りさえ綺麗であれば他はどうでもいいという感覚からのようである。当時、そんな自己中心的な彼らの考え方を見聞きしたとき、国民性の違いをまざまざと感じたものである。

 私の友人で仕事で中国本土に7~8年住んでいた男がいる。彼とはよく中国の話をするのだが彼曰く、親日的な台湾に比べ反日的な本土の方は、中国人の自己中心的な考え方に加え、さらに生き馬の目を抜くような油断のできない狡猾さを感じるそうである。役所などと仕事を旨くやろうと思えばワイロを使うのは当たり前、会社で従業員とトラブになれば平気で会社の器物を壊したり、エスケープしたり、仕事の妨害したりするそうである。自分の欠点や自分の非は認めず、それをとがめると反対に報復されかねないという。彼らは戦争当時の日本の非道な行為を学校教育の中で教えられているから、基本的には日本人には気を許さないし反発心を持っている。そんな中で仕事をやっていくためには、信賞失罰をはっきりし、物事に対してはあいまいにはしないスタンスが必要だといっていた。

 広い中国では三国志の時代から覇権争いが繰り返され、何時の時代も人民はそれに翻弄され犠牲となってきた。そんな歴史の中で培われてきた中国人の自己本位で狡猾な国民性は筋金入りであるように思う。いまも一党独裁の中国は13億人の人民を700万人(5.5%)の共産党が牛耳っている。だから為政者は国民をどうコントロールしていくかが最大の課題で、そのためには国内の不満を反日に誘導してガス抜きを計るくらいは平気でやる。これも中国人の狡猾さである。さてこんな相手にどう対処していけばいいのだろうか、これは難問である。
 今、騒ぎが落ち着くにつれ、裏で糸を引く権力者の作為が報道されるようになってきた。今はインターネットの時代である。どんなに国内で情報コントロールしようとしても、中国で起こっていることは瞬時に全世界に流れ、彼らのやり口も暴かれていく。だからこんなことを繰り返せば中国は無法な国として世界から敬遠され世界の協調からはみ出し、やがて中国バブルは弾けて経済的にも失速していくようになる。だから今日本は自分の主張を堂々と世界に訴え続けれていれば、いずれ攻守は逆転するように思うのである。


 尖閣諸島の領有権について(今までは異端に思っていた)日本共産党の説明が一番公正で解かりやすいように思ったので、以下その文章の要約を載せてみた。

 尖閣諸島の存在は、古くから日本にも中国にも知られていたが、中国の明代や清代に中国が国家として領有を主張していたことを明らかにできるような記録は出ていない。一方、日本側にも、この時期に日本の領有を示すような歴史的文献は存在しない。したがって近代にいたるまで尖閣諸島は、いずれの国の領有にも属せず、いずれの国の支配も及んでいない、国際法でいうところの「無主の地」であった。

 この「無主の地」の尖閣諸島を日本政府が沖縄県などを通じてたびたび現地調査をおこなったうえで、1895年1月14日の閣議決定によって尖閣諸島を日本領に編入した。歴史的には、この措置が尖閣諸島にたいする最初の領有行為である。これは、「無主の地」を領有の意思をもって占有する「先占」にあたり、国際法で正当と認められている領土取得の権原のひとつである。日本政府は、尖閣諸島を沖縄県八重山郡に編入したあとの1896年9月、以前から貸与を願い出ていた古賀辰四郎氏に4島(魚釣、久場、南小島、北小島)の30年間の無料貸与の許可を与えた。古賀氏は尖閣諸島の開拓に着手し、貯水施設、船着き場、桟橋などの建設をすすめ、アホウドリの羽毛の採取や鳥糞の採掘などを主な事業にして「古賀村」が生まれた。これが尖閣諸島における最初の居住である。大正期に入ってからは鰹節の製造や海鳥のはく製製造がおもにおこなわれた。最盛期には漁夫やはく製づくりの職人など200人近い人びとが居住していた。このように、尖閣諸島にたいしては、第二次世界大戦まで中断することなく日本の実効支配がおこなわれてきた。

 1945年の日本の敗戦により、日本が中国から奪った台湾などの地域は、連合国のカイロ宣言(1943年11月)やポツダム宣言(1945年7月)にもとづいて、中国への返還が決められ、実行された。このなかには、尖閣諸島は含まれていない。尖閣諸島は、沖縄の一部として、アメリカの軍事支配下におかれることになった。1951年9月に調印されたサンフランシスコ平和条約によって、尖閣諸島を含む「北緯29度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む)」などは米軍の施政権下に置かれ、米国は、一定の地代を支払うことと引き換えに、尖閣諸島の大正島と久場島を米軍射撃場として使ってきた。施政権は奪われていたとはいえ、尖閣諸島にたいする主権は日本にあった。日米の間で1971年6月に調印された沖縄返還協定が1972年5月15日に発効したことにともなって、尖閣諸島の施政権は日本に返還され、今日にいたっている。

 一方、尖閣諸島に関する中国側の主張の中心点は、同諸島は台湾に付属する島嶼として中国固有の領土であり、日清戦争に乗じて日本が不当に奪ったものだ、という主張である。日清戦争(1894~95年)で日本は、台湾とその付属島嶼、澎湖列島などを中国から不当に割譲させ、中国への侵略の一歩をすすめた。しかし、尖閣諸島は、日本が不当に奪取した中国の領域には入っていない。
 この問題では、台湾・澎湖の割譲を取り決めた日清講和条約(下関条約)の交渉過程、とりわけ、割譲範囲を規定した同条約第2条の「二、台湾全島およびその付属諸島嶼」のなかに尖閣諸島が含まれていたのかどうかが、重要な論点となる。
 中国側の立場を擁護する主張の中には、日清戦争で敗戦国となった清国には、尖閣諸島のような絶海の小島を問題にするゆとりがなかった、とする見解もある。しかし、国際法上の抗議は、戦争の帰趨とは無関係にいつでもできるものである。もし、尖閣諸島が台湾に属すると認識していたのなら、講和条約の交渉過程でも、またその後でも、抗議できたはずである。 このように、日本による尖閣諸島の領有は、日清戦争による台湾・澎湖列島の割譲という侵略主義、領土拡張主義とは性格がまったく異なる、正当な行為であった。

 尖閣諸島をめぐる紛争問題を解決するために、何よりも重要なことは、日本政府が、尖閣諸島の領有の歴史上、国際法上の正当性について、国際社会および中国政府にたいして、理を尽くして主張することである。この点で、歴代の日本政府の態度には、1972年の日中国交正常化以来、本腰を入れて日本の領有の正当性を主張してこなかったという弱点がある。領土画定を明確にするよい機会であった1978年の日中平和友好条約締結の際に、中国のトウ小平副首相が尖閣諸島の領有問題の「一時棚上げ」を唱えたが、日本側は、日本の領有権を明確な形では主張しなかった。それは、尖閣諸島の領有権が日本にあることについて中国側に確認を申し出ることは「全く要らざることである」(福田首相の衆院外務委員会答弁、1978年10月16日)という立場からの態度だった。また1992年に中国が「領海および接続水域法」を採択し、尖閣諸島を自国領と明記した際には、外務省が口頭で抗議しただけで、政府としての本腰を入れた政治的・外交的対応はなかった。

生活習慣

2012年09月14日 09時36分07秒 | Weblog
 7月27日のブログで「腹だけ痩せる技術」という本のことを書いた。その内容を実践してみて1ヶ月後に健康診断に行く。そして先週その健康診断の結果を聞きにい行った。結果はある程度予想していた通りのもである。腹囲が3.5cm改善し体重は2.3kg落ち、その結果脂質の測定値はそれぞれに改善したわけである。LDLコレステロールが基準値より高めでB評価であるが、他はおおむね良好であった。やはり体型を標準に近づければ血液検査の結果も標準に近づいてくるものである。

  
 《計測》    基準値      今回     昨年      差

 身長              171cm    171cm
 体重               68.3kg  70.8kg    △2.3kg
 BMI(18.5~24.9)    23.3    24.0      △0.7 
 腹囲 (男85以下)     84.5cm   88.0cm   △3.5cm

 《脂質》              今回     昨年      差

 中性脂肪 (30~149)    106     171     △65
 HDL・C (40~119)     62      75     △13
 LDL・C  (60~119)    131     144     △13
 
 順天堂のある医者の言葉で納得したものがある。「生活習慣病を〈薬〉で治そうとする人がいる。しかしそれは間違いである。生活習慣病は生活習慣を改善することで治るのである」というものである。しごく尤もな話である。生活習慣に起因する病気として糖尿病、高血圧、脂質異常症があり、がん、脳血管疾患、心臓病などもその影響が大きいとされている。生活習慣(食習慣、運動習慣、休養、喫煙、飲酒等)の偏りが積もり積もって、やがて生活習慣が病気の発症に関与するのである。薬はあくまでも対症療法であって病気が治るわけではないのである。

 以前にも書いたが仮性近視は一時的な近視で、私はこれも生活習慣病と思っている。目の疲れを癒し、見る物との間に距離を保っていれば近視は治るのである。しかし普通はその生活習慣は変えずにメガネでそれを補ってしまう。そして習慣が変わらないままメガネをかけ続けるからますます度が強くなっていく。眼科医やメガネ店はそれが自分達の生活の糧であるから、生活習慣を正すことについてはおざなりで、積極的に治そうとはしない。高血圧も塩分を控え運動をし、野菜を多く取れば薬を服用しなくても血圧は下がるものである。しかし定期的に診断し薬を出すことが医者の儲けになるから、積極的に降下剤の処方を薦めるのである。糖尿病にしても米やパンや麺類等の炭水化物を摂取しなければ(糖質制限法で)数値は劇的に改善される。だから生活習慣病といわれるものから脱し、健康を維持しようと思えば生活習慣を正せばいいわけである。しかしこれがなかなか出来ない。「水は低きに流れ、人は安きに流れる」。だから常に意識していないと、安易な方向に進んでしまうのである。

 以前紹介した「腹だけ痩せる技術」の本に書いてあったのだが、ダイエット方法で食事制限でも運動でも、続けている内は良いが、止めてしまえば簡単にリバウンドしてしまう。しかも続けることが出来るのは、自分にとって無理をしなくてもやれる方法だけである、と。その最も簡単な方法として腹筋に力を入れて、お腹を凹ませることを1日5~10回、一回に何十秒かやれば良いと書いてあった。それを読んで以来、朝起き歯を磨くとき、電車の中で立っているとき、通勤で歩いているとき、時々思い出しては腹筋に力を入れてお腹を凹ませている。もう1ヶ月半続けている。今回の健康診断で腹囲が落ち、体重が減り、結果として血液検査の脂質の数値が落ちたということは、やはりこの効果があったことは確かであろう。

 では、お腹を凹ませるだけで本当にこれほどの効果があったのか?と聞かれると、「そうだ!」とはいえない気もする。腹囲が3.5cm減った成果の半分は付随してやっていた食事のコントロールの影響もあったように思っている。毎日お腹を凹ませる行動をしていると、やはり食事にも意識が向かうのである。「今自分はお腹を凹ませて腹囲を落とそうとしている。それなのにこんなに食べて良いのだろうか?」というブレーキが働くようになった。日常の食事で分量やバランスを考えるようになり、酒を飲むときでも勢いに任せて食べなくなった。たぶんこの効果が半分以上はあるように思うのである。「自分の食生活を意識する」、それを継続をさせているのが腹を凹ませるという簡単な行為からなのである。

 私は高校時代から仮性近視でメガネを持ち、必要な時はメガネを掛けていた。だから運転免許も眼鏡使用の条件が付いていた。それから55歳頃から老眼が始まり老眼鏡の必要性を感じてメガネは携帯していた。しかし今は免許証の眼鏡使用の条件はなくなり、老眼鏡をかけることなく新聞が読める。これも遠くを見たり近くを見たりと意識することで、目の毛様体を動かして水晶体の調整機能をある程度取り戻すことが出来たからであろうと思っている。他にも意識を働かせることで改善する方法に、「計るだけダイエット」という方法がある。これは毎日朝晩の体重を計り記録を付けるだけで減量するという手法である。腰痛も同じように何時痛みが発生したか、そしてその日の出来事を毎日記録することで改善するらしい。思うにこれらの方法でやろうとしていることは、自分ではコントロールが不可能だと思っていた自律神経を自分の意識の中に取り込むことで、自律神経に働きかけて徐々に正常な状態を取り戻すようにすることなのだろうと思う。「腹だけ痩せる技術」もこれと同様な効果なのであろう。

 以前読んだ曽野綾子の「老いの才覚」という本の中に、「老年は一日一日弱り、病気がちになるという絶対の運命を背負っている。いわば負け戦みたいなのである」と書いてあった。負け戦であるから、抵抗することを諦めてしまえば、あっという間にボロボロになってしまう。だから気を抜かず意識して抵抗し続けることが、結局は自分の健康を維持して行けることなのだろうと思っている。

おわら風の盆

2012年09月07日 09時22分26秒 | Weblog
 先週の土日で友人と富山の「越中おわら風の盆」というお祭りを見に行くことになった。友人は以前仕事で福井市に単身赴任していて、そのとき地元の人に紹介されて見に行った。そして「涙が出るほど美しい」とすっかりはまってしまい、それ以降4度ほど訪れたらしい。彼がそれほど言うのならと、友人3人で車で行くことにしたのである。高崎線の北本駅で待ち合わせ、高速道路の関越、上信越、北陸自動車道を通って富山に着いたのは6時間後の午後4時を回っていた。会場の八尾(やつお)町は車の乗り入れ規制で、遠くの臨時駐車場に車を止めバスか歩きになる。我々は会場まで30分の距離を歩き、着いたときは5時をまわっていた。夜の部はPM7時からと言うことで食事をしてから町の中を散策する。

      
                          富山市郊外

               
                   八尾スポーツアリーナ臨時駐車場

      
                        富山市八尾町地区へ

 「風の盆」の祭りが行われる八尾(やつお)町は富山市の南部に位置した飛騨山脈の山裾に広がる小さな町である。昔ながらの狭い旧街道沿いには格子戸の旅籠(はたご)や土蔵造りの民家が並び、風情あふれる「坂の町」である。毎年9月1日から3日間、各家の軒先にぼんぼりを灯して、山間の町は時ならぬ祭りの街に変容する。「越中おわら風の盆」は300年の伝統を誇る民謡踊りである。二百十日の初秋の風が吹く頃、「風鎮め」のために始まった伝統行事だと言う。この祭りは高橋治の小説「風の盆恋歌」で有名になり、その後歌謡曲やテレビドラマの題材にも再三取り上げられ、全国区の人気になった。期間中に人口2万人の町に26万人もの観光客が押し寄る。

      
                      日本の道百選に選ばれた道

      

               

      
                            紙細工

 街を散策しているうちにあたりは次第に暗くなり、ぼんぼりの灯がいっそう鮮やかになっていった。しかし踊りの始まる7時が近づいた頃、曇っていた空は一気に様相を変え雷と一緒に豪雨となる。人々は民家の軒先に一斉に非難する。20分30分雨はやまず、足元は川のように水が流れ下る。しかしこの祭りを見に来た何万人もの人々はじっと軒下で耐えて、誰一人立ち去る人はいなかった。40分を過ぎたころ雨脚は落ちてしばらくして雨は止む。人々はまた通りに繰り出し、そして踊りの始まるのを待つのである。楽器の三味線や胡弓をダメにするから、雨が一粒でも降る間は踊りは始めないらしい。大幅に遅れたものの、やがて雨はすっかり上がり踊り手が順次町に繰り出していった。

 この小さな町には「おわら風の盆保存会」が十一支部あり、それぞれ独自の流儀で踊るようである。それぞれの町の踊り手たちは地方衆(じかたしゅう)が奏でる三味線や胡弓(こきゅう)、囃子(はやし)、唄、太鼓の調べに合わせ、女性は浴衣、男性は法被を着て踊る。街に繰り出す踊り手は男女とも25歳以下の独身に限られるという。そして踊り手はみな編み笠を目深にかぶり顔は見えない。(子供は編み笠は被らない)

      
                           急な雨

      
                     人々は軒先を借りて雨宿り

      

      
                   雨が上がり再び人が通りに出てくる

               
                   2階から通りを見下ろせる特等席

      
                     子供は編み笠をかぶらない

      
                女性の踊り手を先頭に町流しの行列が続く

      
   三味線や胡弓(こきゅう)、囃子(はやし)、唄、太鼓の地方衆(じかたしゅう)が後に続く

      
                  主だった家の前で踊りを披露(東新町)

      
                 高校生か?まだ踊りがさまになっていない

 見ていて感じることがある。それは今まで見たどのお祭りの踊りよりも、優美で気品があるように思うのである。多くの人が感想として、「涙が出る」とか「心に染みる」、「幻想的」、「引き込まれていく」と評をする所以が解かる気がする。「なぜだろう?」と考えてみる。 旧街道沿いの古びた町並み、胡弓の音色、ゆっくりしたテンポの唄、若でやかな浴衣で統一された踊り手、そんなものが相まって全体の雰囲気を醸し出していくのだろ。そして最も重要だと思うのは編み笠である。若い女性が髪を上げ、うなじを見せて編み笠を目深にかぶる。そのために誰もその顔を見ることがない。人は顔で個人を特定する。その顔が見えないから目の前の踊り子は現実世界から遊離した存在に感じるのではないだろうか? ほっそりとしてしなやかな体にあでやかな浴衣をまとい、うなじを強調することでほのかな色香が漂う。そんな踊り子が胡弓の音にあわせ、ぼんぼりの灯の下でゆっくりと舞う。その姿は日本人形を見るようである。

      
                   町内それぞれ独特の流儀で踊る
     手先、指先まで気持ちがこもったゆっくりとした所作は大勢の見物客を魅了する

      
                       町流し(西町)

      
              編み笠を目深にかぶっているから顔は見えない

      

      
                      地方衆(じかたしゅう)

      
              町の中心部にある大きなお寺(闇名寺)の会場
             こちらは町の中には繰り出せない「既婚者?」の踊り

               
                           地方衆

      
          長い年月踊ってきたからだろう、しっとりと落ち着いて優美である

      

               

      
                         下新町
                   夜通し踊りは続くようである

 「おわら風の盆」はこの小さな町で300年受け継がれて来たという。日本には昔からこのような地域に根ざしたお祭りがどこにもあったのだろう。若い男女が年一回のお祭りに合わせ集まり、練習をくりかえす。その中で男女の出会いが有り、恋が芽生えるのかもしれない。多分この八尾町に生まれ育った人は誰もが踊れ、誰もがこの祭りに参加してきたのだろう。祭りを通して地域のコミュケーションが保たれ、地域への愛着が生まれ、地元を誇りに思うようになるのではないだろうか。そんな仕組みが日本の伝統文化の基盤なのかもしれないと思った。

 このお祭りはあまりにも有名になったから全国から人が集まる。駐車場には遠く愛媛や香川の四国ナンバーや東北の車も多くあった。初日は13万人の人がこの小さな町に押し寄せたそうである。だから細い道々に人があふれ、風情を味わう雰囲気にはなれなかった。後で知ったことだが、案内のパンフレットには夜の10時ごろまでのスケジュールしか載っていない。しかし本来このお祭りは夜を徹して続くそうである。観光客が引き上げてしまった11時以降が地元の人達の本当のお祭りになるようである。だから見に行くなら徹夜覚悟で夜の10時以降にこの町を訪れるべきである。次回いくときは本当の「おわら風の盆」をじっくり味わって見たいものである。