60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

瞑想(座禅)

2017年06月30日 08時43分35秒 | 日記
 先週は瞑想(マインドフルネス)のことを書いた。しかし瞑想といえば最初に思い描くのが座禅である。そこで座禅を経験してみたくなって、インターネットで探し、台東区の谷中にある臨済宗のお寺に座禅の体験に行くことにした。事前予約の必要もなかったので、お昼過ぎにお寺にいく。入り口で参加費500円を払い本堂に入ると、すでに10人ぐらいの人が座布団に座って待っていた。本堂にある白板に「座禅体験への独り言」として住職の座禅に対しての心構えのようなものが書いてあった。それには、
 
    
 
          
 
                 座禅体験への独り言
 まずは体験してみましょう。みなさんはふだんは一生懸命に身体を動かして働き、家事をして頭で考え、他者と出会い、感情のやり取り、言葉のやり取りを交わしていますね。そこを一切止めるのです。とても簡単なことでしょう。ただなにもせず、なにも考えず、一人で黙って座れば良いだけです。
 いろいろ考えてしまう時は考えを止めようと無理をする必要はありません。あるがままでいいのです。体験に身をゆだねましょう。自分を責めたりせず、否定したりせず、考えることを悪いことだとは思わないでください。なにかを考えてしまっても良いのです。いったいなにを考えてしまうのか、よく観察してみて下さい。
 そして、ああ、自分はいつもこんなことを考えているんだな、というふうに落ち着いて見つめてください。考えを深めない。考えを発展させない。考えを追わないようにします。是非自分自身をみつめる観察者になってください!!  住職
 
 1時30分の開始時間までに入って来た人は27名、若い人も多く女性も7~8人混じっている。定刻になって住職から座禅を組むに当たっての説明がある。足は胡坐をかいた後、右足を抜いて左ももに乗せる「半跏跌座(はんかぶざ)」。さらに左足を抜いて上から右ももに乗せる「結跏跌座(けつかふざ)」がある。正式にはこの結跏跌座で座るのだが、身体のかたい人や足の悪い人は、半跏跌座、正座、胡座、椅子と一番楽な姿勢をとって良いとのこと。手は左手の親指を右手全体で包み、腿の上に静かに置く。目は薄く開いて1間(約2m)先を見つめる。呼吸は吐く息を細く長くゆっくり吐いて、これに注意を向ける。そして何もせず、何も考えず、黙って座る。
 
 座禅は15分ごと休憩を挟んで2回体験してもらうとのこと。座禅の時、住職が警策(背中を打つ棒)を持って、座禅者の前を歩くので、警策を受けたい人は合掌し頭を下げて合図をしてほしい。住職が止って向き合ったら、両手を互い違いにして肩に置き前かがみになる。右に2回左に2回背中に警策を入れる。なぜそれをするかといえば、座禅中に雑念が入りすぎるとか、気持ちを切り替える、とか自分が打って欲しい時でかまわないということであった。
 
 それから住職と短いお経を唱和してから座禅は始まった。急に本堂の静けさが意識される。27名もの人が一堂に会しているとは思えない。近所で工事しているのだろう、時々鋸を引く音が聞こえてくる。私はマインドフルネスで経験があるから、呼吸が意識から外れることはない。しかし新しい環境だから周りが気にかかる。・・・皆はなにを目指してここにきたのだろう。何も考えずに座っていられるのだろうか。・・・・女性も胡座をかくように座っているのだろうか?。時々板を踏む住職の足音が意識のなかに入る。・・・・左隣の人は正座している足が痛いのか、モゾモゾと動く。・・・・右の人は口呼吸しているのだろう、スースーした呼吸音が気になる。やがて住職の気配があり左隅に住職の足が見える。合掌し一礼する。住職はこちらに向き直る。手を交差させ肩において深く頭を下げると、「ビシッ、ビシッ」と左肩に警策が振り下ろされる。次ぎは右肩に、お互いに合掌し一礼して住職は又歩き始める。音の大きさの割には痛みは無い。平手で打たれたような感じで、気持ちがビシッと立ち直った気がする。
 
 休憩を挟み15分、15分の2回で座禅体験は終わり、再びお経の唱和の後、住職との質疑応答の時間になる。「座禅を続けたら、自分の中に何か変化が期待できるのでしょうか」、「いつ、どのぐらいの時間でやれば良いのでしょう」、「住職が薦められる座禅に関する書籍はありますか」・・・・・等々。参加者の質問の内容には座禅を続けてみようという意欲がうかがえる。最後に住職が、「当初このお寺で座禅体験を始めたときは3名でした。それが今日は27名、平日の昼間にこんなに大勢、皆さんはいったい何をされている人なのかと不思議に思います。折角時間を割いて座禅を体験されたのですから、是非皆さんの日常の中に座禅を取り入れられたらと思います」、そんな内容で座禅体験は終わった。
 
 仏教で座禅をする宗派(禅宗)は臨済宗、曹洞宗、黄檗宗(おおばくしゅう)の3つがある。臨済宗は座禅の修行をし悟りを目指す。曹洞宗は悟りを目指して座禅をするのではなく、座禅の姿そのものが悟りの姿だと教える。黄檗宗は禅と浄土思想の合致した念仏禅で、自己の中に浄土を見出し阿弥陀仏を発見しようとする教えである。座禅の型にも違いがあり、通路の方を向いて座禅しているのは臨済宗、壁の方を向いて座るのは曹洞宗だそうである。
 
 マインドフルネスと座禅、どちらも同じように瞑想するのだが、そこには違いもある。座禅は宗教であるから「悟り」を目指す。一方マインドフルネスはアメリカで広がったからか、そこには実利的な効果が期待される。感情のコントロール、ストレス耐性、ものごとへの集中、自己の客観視、等々であろうか。しかし私は残り少ない人生だから、それほど期待するものもない。あえて期待するとすれば、マインドフルネスで脳疲労を押さえ、認知症の予防に繋げることだろうか。
 
    
 
                 座禅を終え、寝転んで休息中
 
  

瞑想(マインドフルネス)

2017年06月23日 08時54分17秒 | 読書
 以前見たNHKのクローズアップ現代という番組で細胞老化の話をしていた。その中で細胞老化を遅らせる手段として、有酸素運動、野菜を中心の食事、人とのつながり、良質な睡眠、そして瞑想を上げていた。今まで健康番組で最初から5つはよく耳にするが、「瞑想」というのは初めてである。そこで「瞑想」について知りたくて本屋に行った。本屋の棚を探し、瞑想に関する本の中から、マインドフルネスというジャンルに興味を持ち、その解説書2冊買って読んでみた。
 
 マインドフルネス、Mindfulは心を傾けるという意味だそうで、それに-nessを付けて名詞にしたもの。辞書を引くと、「今現在において起こっている内容的な経験および外的な経験に注意を向ける心理的な過程である」と書いてある。マインドフルネスという言葉に聞き馴染みがなく、瞑想といえば日本では座禅の方が馴染みがある。マインドフルネスは座禅から宗教色を取り、日常のストレスケア施策としてシリコンバレーの企業で取り入れられ始め、人気を得ている瞑想法のようである。今では精神科でも取り入れられたり、街に道場があったり、グーグルなど最先端企業の社内にも瞑想室があるまでに発展にしているという。
 
 ではマインドフルネストはどういうものか。人間は元々、現実に生じていないものの過去に起きた出来事や、将来起こるであろう可能性を想像し頭の中を駆け巡らせている。そのため常に意識は分散し、目の前の事象に対しての意識の集中がおろそかになりがちである。さらに過去の辛い出来事や将来のネガティブな可能性を想像して、ストレスを抱えていくことにもなる。マインドフルネスは自己の意識を集中させ、自身の内面に向き合うことで、日ごろ無意識に働かせている感情や思考、雑念といったものの影響を受けずに現在と向き合う心の持ち方を鍛える方法のようである。
 
 本にはマインドフルネスの効果については
(1)怒りや不安といった感情に対して、影響されることなく自身をコントロールすることが可能になる。
(2)仕事の遂行中に生じるプレッシャーに動じなくなり、精神が安定する。
(3)ストレス耐性を身に付けることができ、昨今変化の激しい時代を生き抜くうえでの精神的な幹ができる。等々が書いてある。
 
 では実際にどういうことをやるか。基本的には静かで落ち着ける場所で、背筋を延ばし楽な姿勢で床に座るか、椅子に腰掛ける。そして軽く目を閉じ、自分の呼吸に意識を傾け続ける。ただそれだけである。我々は普段は特に呼吸を意識することはない、一方意識して呼吸することもできる。その呼吸に意識を向け続けることで、分散しようとする意識を自分に集中させる。そのことで、常日頃、雑念の中にいる自分を目的の方向へ意識を傾けさせる訓練なのであろう。

 今、私は会社に行くのに各駅停車で座って行っている。自宅の最寄駅から池袋駅までは約45分、最初の15分は新聞に目を通し、後の30分を瞑想(マインドフル)の時間に使うようにしている。始めてみれば分るのだが、自分の意識を呼吸に向けていても、色んな考えが頭の中をよぎり、意識は呼吸から外れてしまいそうになる。「はっ」とそれに気付きに、また呼吸に意識を戻す。この繰り返しである。時には雑念が多く、自動呼吸になっているときもある。本にはサゼッションとして呼吸をカウントすると継続し易いとも書いてある。私は瞑想を始めてすでに1ケ月が経過した。今では30分間(呼吸数で430~460回)、多くの雑念は入るが、自分の呼吸に対して何とか意識を外さずにいることができるようになった。
 
 瞑想を始めて、まだ明確な変化を感じ取ることはできない。しかし少し変化もあったようにも思う。例えば、池袋駅に着いて山手線に乗り換えるために地下のコンコースを歩く。その間に大勢の人とすれ違う。今までは人の間を縫って歩くのに、人を邪魔な存在のように感じていた。今はすれ違う人ごとの服装や歩き方や顔つきまで見ているように思う。大げさに言えば、すれ違う僅かな時間の間に、その人の人となりまで感じとっているような気がするのである。
 
 また、上野駅に降りて会社まで歩く間、今までとは違う目線で前を見て歩いているようである。上野駅付近の道路は碁盤の目になって直線になっている。最近は歩いている時は200~300m先を見ているような感覚である。時には見える範囲の先まで並ぶ信号機の赤や青の色を認識し、その色の変化を順番を追って見ていることもある。
 
 では何がそうさせるのであろう。たぶん今までは意識が分散して雑に見ていたものが、意識が集中することで、より細かくより深く見るようになったのかも知れない。アナログテレビで見ていたものが、デジタルテレビや4Kテレビを見た時に、同じ画面でも見る視点が変わったように感じたのに似ている。勝手な推測だが、今まで分散していた意識が、自分の見るものに集中するようになって、同じ事象に対しての認知力(処理能力)がアップしたのではないかと思う。シリコンバレーで働く多くのビジネスマンで広がるマインドフルネス、それは明らかな効用効果があるからであろう。私もこれを続けていくことで、自分の中の何が変化していくのか、それを知ることが楽しみでもある。
 
         

    すれ違う人ごとの細かな部分まで認識しているように感じる。
 
  
   
           はるか先の信号まで意識の中に入ってくる。



 

視力アップ

2017年06月16日 08時26分55秒 | 読書

 夕方になると目が霞んでくるようになってもう何年にもなる。テレビ、パソコンやスマホをある程度の時間観ていてれば、必ず目は霞んでくる。医者に行けば、「加齢だから仕方がないでしょう」と言われるのは分かっているから行く気はない。原因は分っている。加齢によって、目のレンズのピント調整する毛様体が衰えての機能低下が原因であろう。今まで薬局で眼精疲労の錠剤や目薬を買って使ってみたこともある。錠剤や目薬は血行促進することで、ピントを調整する機能を活性化するのであろうが、しかし今まで使ってみて、値段が高い割にはあまり効果があるようには思えなかった。 

 先日本屋で「押圧で目はよくなる」という雑誌が目に入った。パラパラとめくってみると、押圧(軽く押さえる)により目の血流をよくし、ピント調整機能を回復させるというものである。目薬や錠剤に頼らず、直接目に働きかける処方の方がおもしろいと思った。730円+税、これで眼精疲労が改善すれば、目薬を買うより安上がりである。そう思って早速試してみる気になった。
 
 押圧は、親指で眼球の周囲をジワ~ッと押すと、周囲の毛細血管の血液が静脈側に押し出される。そしてパッと親指を離して素早く圧を開放することによって、酸素や栄養をたっぷり含んでいる新鮮な血液が動脈側から毛細血管に流れ込む。これを繰り返すことで目の血流をよくし、目の若返りを図るというものである。雑誌の表紙を見ると、いかにも大げさで、胡散臭さを感じるのだが、反面ここまで言い切るには、いくばくかの実績もあるのだろうとも思う。この歳になれば怖いものはない。「なんでも試してみる」、それがが今のモットーである。
 
             
 
 私は眼科に対して不信感を持っている。それは2人の娘が中学生の頃から相次いで近視になった。眼科に行くとメガネを掛けることが最善で当たり前のようにメガネを進められる。しかしメガネを使用するようになって、娘たちの近視はどんどん進行していった。そしてその都度メガネを買い換えることになる。その時医者やメガネ屋が言うのは、「度数の合った正しいメガネを掛けないと、どんどん悪くなりますよ」という言葉である。ある医者が本音として書いていたのだが、医者が近視を良くする為のリハビリや指導をしても医療点数にはならない。したがって眼科医は儲からないからそんなことはしない。またメガネ屋は近視が進む都度メガネを買い替えてもらう方が儲かる。だから今の眼科の医療システムにかかわっている限り、近視が良くなることはないということである。
 
 私は、近視は先天的なもの以外はまぎれもない生活習慣病だと思っている。読書やスマホなど近距離でものを見続ければ必然的に近視になる。その生活習慣を改めずにメガネを掛ければ、より目を酷使することになり、ますます悪くなるのは道理である。私は高校生になって黒板が見づらくなってメガネを買って貰った。しかしメガネを掛ける鬱陶しさから、教室や映画館などでは掛けたが、普段は裸眼で過ごした。たぶんそれが良かったのだろう、近視がそれ以上進むことはなかった。私の兄も高校生になってからメガネを掛けた。兄は掛け続けた結果、今は0.1以下の視力である。私の方はというと高齢になってから反対に近視は改善して、今では運転免許証も眼鏡使用はなくなったし、老眼鏡も使用していない。そんな経験から、目が霞むようになったからといってメガネに頼りたくないのである。
 
 押圧を初めて今日で5日目である。何時もであれば会社を出るときには目が疲れて、ボーと霞んだ視野なのだが、最近は幾分はっきり見えるようにも思う。押圧をしているという意識から、パソコンの画面を見る時間が短くなっているのかもしれない。どちらにしても自分で結論を出すまでは続けてみるつもりである。

 注:この押圧は押すケ所や圧の強さの問題もあるので、試されるのであれば本を読んでからにしてください。







 

散歩(養老渓谷)

2017年06月09日 08時46分35秒 | 散歩(6)
 先週の土曜日は千葉の富津岬へ行った。散歩の本の富津の次ページに掲載されていたのが養老渓谷である。という理由だけで、今回も千葉に行くことにした。東京駅に7時半待ち合わせ、8時2分の総武線で五井駅へ、そこから小湊鉄道に乗り換えて養老渓谷駅に着いたのは10時33分である。
 
  駅を出て、ほとんど人の通らない林間の道を歩き始める。道路は舗装されて緩やかな上りが続く、道にはほとんど案内板がないから地図を見ながら見当を付けて歩くことになる。写真を撮ったり、友人と喋ったりしてあるいていたからなのか、渓谷への分岐する道を見落としたかもしれない。「もう少し先か、もう少し先か」と進んでも枝道もない。通る人もいないので聞くこともできない。とうとう引返すしにはそうとうな覚悟のいる距離まできてしまった。「このまま行けば誰かに会うか、案内板があるだろう」そう思ってこのまま先に進むことにした。
 
 いい加減歩いた所で、国道465号線にでた。そこで1人の老人と出会う。地図を持って「道に迷ったようなのですが・・・」と近づくと、「迷ってますね。こんなところへ歩いてくる人はいませんから」と言われる。「養老渓谷に行きたいのですが」、「来た道にお墓があって、○○バンガローという表示があったでしょう、あそこを曲がるんですよ」と老人。確かにそのような標識があったような記憶もある。しかし、あそこまで戻るには40分はかかりそうに思う。「この国道からは行けませんか?」、「う~ん、距離的には少し遠くなるけど、同じ道を戻るより良いでしょう」、と国道からの道順を教えてくれた。
 
 それからコンクリートの国道をひたすら歩くことになる。車はほとんど通らないから、騒音や危険を感じることもない。ただ強い日差しと単調さの中での忍耐力を求められる歩行であった。2時間ぐらい歩いただろうか、やがて鬱蒼とした緑に囲まれた養老渓谷に着く。川のせせらぎ、水面に写る新緑の鮮やかさ、しばし渓谷伝いの道を歩くと、今までの忍耐の歩行も忘れさせてくれるようである。苦あれば楽あり、今回の散歩は相当に印象深く記憶に残ることがろう。

 家に帰って万歩計を見たら40120歩になっていた。何年ぶりかの3万歩超え、しかも翌日も足の痛みはなかったから、まだまだ歩くことには自信を持っていいのだろう。
 
   
 
                   小湊鉄道五井駅
 
   
 
              2両編成 キハ200形デイーぜル気動車
                     9時25分発
 
   
 
   無人駅が多いから、車掌が駅に降りての改札から切符の販売までと忙しい
 
           
 
             線路の手入れが悪いのか、振動が激しい
 
           
  
                   昔ながらの扇風機
 
   
 
                     養老渓谷駅
                    10時32分着
 
   
 
   
 
                  小湊鉄道の線路
 
   
 
                     宝衛橋
 
      
 
   
 
       
 
                木に巻きついて締上げている
 
   
 
   
 
 
   
 
   
 
              このあたりで分岐点を間違ってしまった。
 
   
 
           黄色い線が本来のコース、赤が我々が歩いたコース
  
                        
 
               行けども行けども分岐点が見つからず。
 
                        
 
               とうとう国道465号線に出てしまった。 
 
   
 
          
 
          
 
          
 
                     ひたすら歩く
 
          
 
   
 
          
 
          
 
          
 
          
 
          
 
                 養老渓谷へ入るトンネル
 
   
 
                               やっと養老渓谷に着く
 
   
 
   
                
                        水面に写る緑が鮮やか 
 
   
 
                   飛石
 
   
 
   
   
 
   
 
   

                     弘文洞跡
 
   
  
     江戸時代に作られた隧道が崩壊し、独特な景観を作り出している
 
   
 
   
 
   
 
   
 
                     観音橋
 
   
 
                      白鳥橋
 
   
 
               再び来た道に合流、駅を目指す
 
   
 
                    養老渓谷駅
                    PM4:33発

 追伸

 先週の富津岬のスケッチ

   


   





 
   

散歩(富津岬)

2017年06月02日 08時31分55秒 | 散歩(6)
 今回は少し気分を変えようと千葉の海を選んだ。朝8時半に東京駅で友人と待ち合わせ、総武線、内房線を乗り継ぎ、青堀駅に着いたのは11時前。そこからバスで15分、大乗寺前で下車し、下洲港、下洲海岸を経由して富津岬を目指して歩く。

 富津岬は千葉県の内房、富津市の小糸川河口付近から東京湾に面して南西方向に、約5kmにわたって突き出した岬である。富津洲と呼ばれる砂洲で成り立った岬は平坦で、上空はすべて空と、空間の大きさを実感することができる。日常の喧騒から離れ、大きな広がりと静寂の中に身を置くと、心までが伸びやかになり、大きく深呼吸してみたくなるものである。反面、初夏のような強い日差しの中をコンクリートの道を歩くと、今からの夏の厳しさを予感させる散歩でもあった。

   
 
                  内房線 青堀駅
 
   
 
                    青堀駅前
 
   
 
         青堀駅からバスで大乗寺バス亭で下車して南へ
 
   
 
                   下洲港
 
   
 
   
 
                   下洲港
 
   
 
   
 
   
 
   
 
   
 
                 下洲海岸(布引海岸)
 
   
 
   
 
                 対岸は神奈川県
 
   
 
                この先の突端が富津岬
 
   
 
            ズームすると、突端に三角の建造物が見える
 
          
 
   
 
   
 
   
 
                   富津公園
 
   
 
          公園入り口の食堂で名物の穴子丼を食べる
 
   
 
                さらに突端を目指して歩く
 
   
 
   
 
             岬の建造物は五葉松を模したという「明治百年記念展望台」
 
   
 
            展望台からの眺め、付け根側。両端は海
 
 
                 展望台から海側の眺め
 
   
 
             突端は砂浜が続きやがて海に消えていく
 
   
 
                 君津市側の工業団地
 
   
 
   
 
   
 
             Uターンして再び富津公園入り口へ
 
   
 
        
 
        
 
        
 
        
 
   
 
   
 
             富津公園 橋をわたっると中の島
 
   
 
                   富津公園
 
        
 
              富津公園からバスで木更津へ
 
        
 
           木更津から高速バスで新宿バスタまで
            また喧騒の世界に戻っていく