60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

クレーム

2010年01月29日 16時56分38秒 | Weblog
得意先からクレームの電話が入った。「あ~あっ」と、何とも言えない脱力感が全身を覆う。
当方が食品メーカーに供給したレトルト用の袋が破袋した(袋に穴が開く)というものである。
メーカーでは液状の商品をこの袋に充填し、レトルト(加圧加熱殺菌)をかけるのだが、
その工程で液漏れが出た。その現象が発覚した時点で製造ラインはストップし、まだ充填
されていない原料もラインから外されてしまう。これは生産マニュアル通りなのであろう。
早速事故があったロットの袋が送り返され、製袋工場で事故の原因調査が行われる。

原因は印刷したフィルムから袋にする時、印刷したフィルムをつなぎ合わせる場合がある。
つなぎ目はテープで止めて、それから連続して製袋を行っていく。当然繋ぎあわせた製品は
シール後に感知器が働いて取り除くのであるが、その前後の袋もシール温度にムラが出て
強度が落ちることがあるため安全策として、前後8枚の製品を除去するようなマニュアルに
なっている。しかし、今回はその感知器がうまく作動せず取り除くべき製品が除去されずに、
正規の製品中に混入してしまった。そしてその中の2枚から破袋が出たという事故である。
不良品の発生原因と今後の対策の報告書を持って、一昨日加工メーカーの技術者と一緒に、
謝罪と経過報告のために、お客様である食品メーカーの工場に行ってきた。

不良品の発生原因及び今後の対策は、お客様からは一応の了解は得られたものの、
当然、不良品が原因で発生した相手側の損害に対する保証の問題が発生する。
今回は製造途中でラインを止めたため、未処理原料の保証額が大きくなってくる。
(袋に充填前に冷凍品を解凍したため、冷凍し直して再度使うことができなかった)
まだ最終的な金額は算出されていないが、廃棄処分費等で総額100万円近くになるだろう。
基本的には製袋工場のミスであるため、加工会社の保険を使って処理をすることになる。
それにしても、たった2枚の不良品が100万円の損害を引き起こすことになってしまった。

数年前から、食品業界で色々な不祥事が発生し、新聞をにぎわすことが多くなっている。
産地偽装、表示違反、賞味期限改ざんなど、その内容に悪意があれば企業の存続まで
脅かされることになる。意図的なものでなく、不注意による場合でも、新聞の謝罪広告、
商品の撤去、相手先に対する補償等々、莫大な負担が発生して、そのリスクは大きい。
そんなことから企業はリスク回避の方法として、人の判断を入れない徹底したマニュアル
管理が施行されるようになった。作業時の服装、整理整頓、作業手順、品質管理など
工場内のあらゆることがマニュアル化され、徹底した管理下に置かれるようになったのである。
事故があればさらにマニュアルは強化され、鉄壁なマニュアルが作られていくようになった。

そんな風潮から、マニュアルが整備されていない会社は、遅れた会社、取引に不適な会社
と見なされ、疎外されていくように感じるほどである。
不確かなものは使わない、不安なものは出荷しない。そんな厳しさが徹底するようになり、
そこに妥協も温情も入らなくなっていく。そしてそのたゆまぬ改善が企業が競争力を付け、
商品に信頼感が増し、それを扱う側やそれを使う消費者にとっては安全安心が得られる。
しかし一方で社会全体の風潮が「マニュアル化」の傾向になっていくことにより、「人間味」
というものが無くなって行き、次第に殺伐とした世の中になって行くように思うのである。
「能率」「マニュアル」「標準化」、それは戦後の日本の産業にとっては必要不可欠なことで
あったろうと思う。しかし、多くの企業が競って効率化やマニュアル化を進めていった結果、
個性のない商品ができ、個性のない店が蔓延し、どこの店で買っても、どこの店で食べても
大差ないとう感じになってしまったのも確かなようである。

謝罪に行った工場に着いた時はちょうど昼休みの休憩時間であった。食後のひと時であろう、
工場のあちらこちらで日向ぼっこをして、ぼんやりと時間の来るのを待っている人々がいる。
来社を告げると、2階の会議室に案内された。その途中、広い食堂の脇を通り抜けていく。
そこでもポツリポツリと間隔をあけて人が座って、携帯の画面を見たり本を読んだりしている。
100人以上いるのに、この工場では人が集まっている様子がない、会話が聞こえてこない。
マニュアルにそって、ただ機械のように働いた午前中、その疲れを癒すひと時に人との会話は
反対に負担なのかもしれない。何となく「無機的な雰囲気」「笑顔のない職場」「喜びのない
仕事」そんなことを感じたのは外部から来た私だけかも知れない。

今、相変わらず「能率」「マニュアル」「標準化」が追求され続けている。それは我々が戦い
生き残って行くためには必要不可欠なことかもしれない。しかしそんな「無個性」な世界に
住み続けていると、やがて人も無個性になり、自分さえも見失っていくように思えてしまう。
「出口のない閉塞感」「無気力、無関心、無感動」、このまま進むと国民総うつ病状態という
言葉はまんざら大げさには思えないような気がしてくる。こんなことを考えてしまうのは自分が
今クレームによってうんざりしている性だからなのだろうと、思ってしまう。


アンチエイジング

2010年01月22日 09時54分36秒 | Weblog
8月から通っていた歯医者が先週で終わった。
8月上旬、右上の奥歯が痛むので会社の近くの歯科医に行く。被せ物をしてある歯が割れ、
そこから菌が入り炎症を起こしていて、歯茎がはれあがっているということである。
早速、被せた金属を外し、欠けた一部の歯を抜き取った後、残った歯に金属を再び被せる。
他にも軽い虫歯が2本、歯槽膿漏の影響で揺れる歯が2本あった。
先生が「今後どうしましょう?」と尋ねるので、「今回は徹底してやってください」とお願いする。
それからは歯茎に麻酔をし、毎回1本か2本づつ丁寧に歯石を取って行った。
そして約半年、領収書を数えたら39枚あった。金額はなんと74,540円も掛かってしまった。

今日まで、虫歯の治療や歯石の除去で2~3年に1度の頻度で歯科医には行っていた。
しかし、歯磨きが雑なのか、それとも歳のせいか、徐々に徐々に歯の衰えを感じるようになる。
人の健康のキーポイントは食べることから、それには歯がしっかりとしていなければいけない。
今回の歯痛が良い機会だと思って、歯の徹底的な手入れをしてもらうことにしたのである。
衛生士の指導で歯間ブラシを使い始め、今まで朝晩2回だった歯磨きを昼にも会社で行い、
1日3回にするようにした。電動ブラシも買い、1回に3分以上磨くことを心がけるようにする。
1日でも長く歯を保つこと、それがアンチエイジングの基本かも知れないと思ったからである。

アンチエイジングで思い出すことがある。最近のTVコマーシャルで、真矢みきが宣伝している
「悠香の茶のしずく石鹸」の一言が印象に残る。「あなたのお肌、あきらめないで」と聴衆者に
語りかけるように喋る一言である。女性にとって美容、特に美肌は永遠のテーマであろう。
だんだん年齢を重ねていくうちに美容に対して「めんどう」と手を抜いてしまうのかもしれない。
その時点から、おざなりな化粧をするだけのオバサン化がはじまるのだろうと思う。
加齢に伴う「衰え」、これは避けえないことである。だからと言って努力せず放置しておけば
衰えは加速度的に進行していくように思う。「あきらめないで」この言葉はアンチエイジング
の基本かも知れない。

65歳になる私にとってのアンチエイジングは気力、体力、健康の維持だろうと思う。
どこかで「もういい」とあきらめが出てきたら、その時点からかぎりなく老化するのであろう。
どこまで健康に気を配り、緊張感を持って、生活や仕事ができるかがポイントのように思う。
先日神田のビクトリアに行き「アンクル・ウエイト」という足におもりを着ける器具を買って来た。
以前、75歳でエベレスト登頂を果たした三浦雄一郎がその準備に足首におもりを付けて
訓練しているのをTVで見たことがあり、それを思い出したからである。
体力維持のためにジムへ通っても、長続きはしないことは自分が一番良く分かっている。
特別のことをするのではなく、日常生活の中で手軽にやれることが長続きする秘訣だと思う。
器具は片足1kg、両足で2kgのおもりを足首に巻いておくだけである。朝出かけるときに着け、
帰ったら外す、不精な私には一番の方法である。1日平均12000歩は歩く、その時常に
1kgの負荷がかかることになる。これで多少はアンチエイジングの効果は有るように思う。

※追記
先週書いたY.S氏の喉頭がんの手術、昨日彼の奥さんと連絡を取り、状況を聞いて見た。
(彼の携帯は奥さんが持っているだろうと思って電話したら,、運よく奥さんが出てくれた)
20日は昼からの手術、時間は約2時間半、夕方には集中治療室から出て病室に戻どれた。
当初、声帯の一部を残すことも考えられたが、手術前検査で無理だという判断になって、
喉頭の全摘出となった。今は意識はしっかりしていて筆談はできる。トイレも自分で行ける。
術後は多量の粘液が出るようで、それを出すのが苦しく昨日は一睡もしていないようである。
今は鼻からチューブを入れ、直接胃に食物を流し込んでいる。
手術後先生が「悪いところは全部取りました」とおっしゃったので、今は「ホッ」としている。
自分の声は失ったが、訓練することで食道を震わせ人工的に会話することもできるらしい。
それもこれも今の状況が一段落してから考えたいと思っている。  そんな話であった。

彼が入院する前「こんなになるまで、何か自覚症状はなかったのか?」と聞いたことがある。
がんと直接関係有るのかどうかわからないが、3年前から時々鼻血が出ることがあった。
やはり3年前から、大きな声を出すと声がかすれた。すぐに治ったのでそのままにしていた。
それが、今年の夏ごろから声のかすれが治らず、どんどんひどくなって12月からは痛みが
出てきたそうである。がんとは静かに忍び寄り、症状が顕著になった時は遅いのであろう。
自分の中の微妙な変化を察知し、変化があれば疑ってかかり、すぐに病院に行くこと、
それが歳を重ねていくほど重要なことだとつくづくと思う。

タバコ

2010年01月15日 09時29分43秒 | Weblog
親会社のY.S氏が喉頭がんで手術をすることになった。
先月、声がかすれ、喉が痛み出したということで、近くの病院へ行って検査をしたらしい。
「これは当院では難しいから」と、新橋にある慈恵会医科大学病院を紹介されたそうだ。
早速その病院に行き精密検査する。そして奥さんともども検査の結果を聞きに行った。
診断は喉頭がんでレベル4の段階(レベル1.2が初期がん、3.4が進行がん、5が末期がん)
がん細胞が骨まで達しているので、喉頭を全摘しかないが、手術前の再検査でがんの
進行が遅いようであれば、声帯の一部を残せるかもしれないと言われたそうである。
どちらにしても早い方が良いと、その場で手術日程まで決めたそうだ。
喉頭がんは一般的に男性に多く、原因としてはタバコとアルコールとの関与が言われている。
彼は1日3箱のヘビースモーカーで、いつも酒の匂いが残るほどのヘビードリンカーでもある。
そんな彼の生活習慣からすると、「やはり」と思ってしまうのも致し方ないのかも知れない。

彼は59歳、仕事はデリバリーの仕事(受注した注文を何段階かの加工先に手配し、
商品が顧客に納めるまでの工程と納期管理)である。この仕事は顧客の要求通りに納品
して当たり前、納期遅れや商品クレームは彼の責任である。顧客からの無理な要求や
加工先のトラブルによる遅れは日常茶飯事である。彼はそんなストレスフルな仕事をもう
何十年とやっているのである。多分社内では一番ハードな仕事ではないだろうか。
彼は仕入先や得意先との電話が長くなると、終わるたびに席を立ってタバコを吸いに行く。
又1日の業務を終え家路に着くとき、自動販売機で冬はカップ酒、夏は缶ビールを買って
飲みながら駅まで帰るのが常であった。そんな日常を見るにつけ、彼にとって煙草やお酒は
「息抜き」や「楽しみ」ではなく、ストレス解消のための手段になっていたように思えてしまう。
そんな習慣が何十年も続き、次第に量を増して止められないものになっていったのだろう。

彼の頭は真っ白で10歳は歳取って見えてしまう。体重は50kgを割って、いかにもか細い。
糖尿病による脱水症状からか、1日2リットル入のペットボトルの水を2本以上は飲んでいる。
会社の健康診断で「再検査を要す」の判定が書かれていても、決して再検査には行かない。
再検査に行けば「即入院」と言われるのが分かっているから、と本人は笑って言っていた。
彼は自分の健康状態は充分に認識していたわけである。しかしその現実から眼をそらせ
改善しようとはしなかった。その結果、いよいよ逃げられないところまで来てしまった訳である。

人が自分の習慣を変えることは非常に難しいことのように思える。変えることでの苦労や
苦しみ(禁断症状)をともなうために、なかなか思いきれないし、継続することが難しい。
私もタバコは19歳の時から吸っていた。20年以上も吸っていたが、ある時止める決心をし、
実行に移した。禁断症状が何日も続き、いつもイライラとしていた。それでも我慢していて
2~3ヶ月してやっと楽になる。しかしそれでも人が吸っていると思わず「1本貰って良い?」
と手が出てしまいそうな衝動に駆られたことは1度や2度ではなかった。
禁煙して2年で再び喫煙することになってしまう。夏のある日、八ヶ岳高原ロッジへ遊びに
行った時のこと、そのロッジの喫茶室から、広々とした芝生の向うに八ヶ岳の山並が見えた。
「こんなシュチュエーションで煙草を吸ったらどんなに美味しいだろう」、その時ふとそう思った。
そう思ったらもう止めることができない。「1本だけなら」そう思って煙草を買って吸ってしまう。
1本が2本になり3本吸ってから、残りを箱のまま捨てた。しかし一旦吸ってしまった煙草は
取り返しがつかず、再び吸うようになったのである。私はお酒はあまり好きではないから、
自己コントロールは効くが、タバコはどうしてもコントロールできなかったのである。

その後も止めなければという意識は常にあった。しかし前の挫折があって思いきれなかった。
再び煙草を止めたのは10年前のことである。その間は1日30本以上は吸っていたであろう。
2000年の1月、母が大腸がんになって入院した。手術はしたものの肝臓に転移していて、
回復する可能性はなかった。次第に衰える母、入院を嫌い母は自宅に帰ることを切望する。
不憫に思った父は、死ぬ時は自宅でと思い、母を退院させ自宅で看病することになった。
私は入院以来、毎月のように車を運転して、新潟へ見舞に行っていた。

その年の9月に見舞に行った時、もうあまり長くないだろうと思うほど衰弱がひどくなっていた。
寝室に横たわる母、私はその前に座り母と向かい合う。どろんとした目で私を見ていた母が
「タバコを1本頂戴よ」とやせ細った手を私の方に差し出してきた。私はタバコに火を付けて、
人差し指と中指の間にタバコを挟んでやる。タバコを挟んだ手をゆっくりと口元に持って行き、
いかにも美味しそうにタバコを吸う。母がタバコを吸うようになったのは2~3年前からである。
私もタバコに火を付け、タバコを吹かす。その時、母が「あんた、タバコを止めなさい」と言う。
私は「もうこの歳で、健康に気を使うこともないだろう」と答える。母は私を見据え「馬鹿なことを
言いなさんな!まだ子供が学校なのよ。親として責任があるでしょう。止めるのよ、良いね!」
母は昔の口調で息子の私を叱った。母の手は震え指に挟まれたタバコの灰がポトリと落ちた。
それから1週間して、会社で仕事をしている時に、「母危篤」の連絡を受けとった。

気持ちを整理するため、表に出てタバコに火をつける。その時「この1本で止めよう」と思った。
その1本を吸ってから、残ったタバコとライターをごみ箱に捨てる。一つの切っ掛けである。
止めた後も以前と同じような禁断症状は出てくる。萎えそうになる気持ちを「これは母の
最後の言葉(遺言)だから、その遺言を破って良いのか?」と、自問自答する。
それが歯止めになって今も禁煙は続いている。人の気持ちとは弱くもろいものである。
だから継続させるには自己を制する動機付のようなものが必要なのかも知れない。

会社のY.S氏は「タバコは止めた方が良い、お酒は控えたらどうか?」と言われ続けていた。
しかし彼は「これは自分のこと、後悔はしないから」と誰に言われても止めようとはしなかった。
医者に結果を聞きに行った時「これから煙草を吸ったら、手術はしません」と言われたらしい。
彼もこれだけの大事になったわけである。今回の手術で結果的には声を失うかも知れない。
しかしこの手術がタバコが命と引き換えを実感し、これを機にタバコも酒も止められるだろう。
そして、その後節制して健康を取り戻していけば「不幸中の幸い」になるかもしれない。

来週1月18日に入院し、手術日は20日、術後は2週間の入院予定だそうである。
今、彼は不安な気持ちでいっぱいであろう。それを隠すように平然とした感じを装い仕事の
引き継ぎをしている。ぼそぼそとして聞き取り辛いかすれた声が後ろの席から聞こえてくる。
それを聞いていると、痛々しくいたたまれない気持になってしまう。今は手術がうまくいき、
再び社会復帰ができることを願うばかりである。

お正月

2010年01月08日 09時03分39秒 | Weblog
我が家は毎年女房の実家(大和市)に行き、お正月を迎えるのが恒例になっている。
しかし今年は末の娘が風邪で熱を出した。実家には高齢のおばあちゃんが居るため
うつってはまずいからと、実家には行かず、娘と2人で我が家で正月を過ごすことになる。
元旦に診療する病院を探して娘を連れていく。新型インフルエンザの可能性もあるからと
翌日も検査(発熱して12時間以上経過しないと判定できない)に病院へ連れて行く。
その後は毎日の弁当や飲み物を買ってきてやればオヤジとしての役割は終了である。
そんなことから今年のお正月はのんびりとTVを見たり、本を読んだりして3ケ日を過ごした。
お正月らしいセレモニーは何もなく、したがって意識の切り替えも今年の目標も定まらない
ままに平成22年を迎えた感じである。

休み中に読んだ本で「リンゴが教えてくれたこと」という本が面白かった。

著者の木村秋則氏は絶対不可能と言われたリンゴの無農薬・無肥料栽培を成功させ、
一躍時の人になった。もともと青森のリンゴ農家を継いだ当初はまわりの農家と変わらず、
農薬を使っていた。転換のきっかけは家族が農薬によって健康を害したことに始まる。
大量の農薬を使わなければいけない農法に疑問を抱いた彼は以後農薬の量を少しづつ
減らしていった。年に13回だった農薬散布を6回に、翌年は3回と、様子を見ていった。
しかし農薬散布の回数を減らしてもさほど収穫量は落ちなかった。これならいけると、
農薬を全く使わない自然栽培に踏み切ったのである。しかし自然栽培に切り替えてからは
ただの1個のリンゴも実をつけることはなかった。楽観的な読みは外れ、無収穫の年が
その後9年間続き生活は困窮して行く。その間、北海道などに出稼ぎに行き、なんとか
生活費を稼いで、その日暮らしの生活が続くことになった。

6年たったころ、もう不可能と諦め、迷惑をかけた人達に死んでお詫びしようと山を登って、
ロープを木に掛けようとした時、その木がリンゴの木に見えた。(実際はドングリの木であった)
ところがこの木は自分の木と違って虫の被害もなく、見事な枝を張り、葉を茂らしている。
あたりに土の匂いが満ち、足許がふかふかで柔らかく、湿気がありクッションを敷きつめた
ような感触だった。木村氏はその時に「これが答だ」と直感したそうである。

それまでは木のことしか考えていなかった。雑草を刈り、葉っぱの状態ばかりが気になって、
リンゴの木の根っこの部分は全くおろそかになっていた。雑草は敵だと思い込んでいた。
それがとんでもない間違いだったと気づいたという。ドングリの木の周辺に目をやると、
そこには生命があふれ、すべてが循環しているのだと気づいた。山の自然は何の肥料も
農薬も施していない。落ち葉とか枯れ枝が朽ち、それを微生物が分解して土を作っている。
それをリンゴ畑にも応用しようと、まずリンゴ畑の下草を刈るのをやめた。

その草が伸びた頃、初めてリンゴの木の葉っぱが落ちなくなった。下草がリンゴの葉を
病気から守ってくれるようになったのである。通常、夏場の暑い時には土の表面温度は
35度にも上がる。ところが、草ぼうぼうの畑の土の温度は10度くらい低い。
また草によって土が乾かないので散水も必要がなくなった。ミミズも増えたので土も軟らかく
変わって行く。翌年も下草を刈らなかった。この年は通常の木の三分の一ほどは葉っぱが
残り、1年後に1本だけだが、7つの白い花を咲かせ2個のリンゴを実らせてくれた。
そして翌年ついに無肥料・無農薬に移行した畑がリンゴの花で満開になったのである。

自然には何一つ無駄なものはない。リンゴの木は大きな自然の循環の中でこそ生き生きとし
立派な実をつけてくれる。今までの農業は効率と成果を追求するあまり、大量の肥料を使い
大量の農薬を使う。そんな農業を脱皮して自然の循環に身をゆだね、我々はその循環が
うまくいくよう手助けしていくことこそが重要であると悟ったのである。今はコメや野菜へとその
農法を展開するとともに、日本各地や海外までその農法を指導しているそうである。


風邪の娘も4日目には熱が下がったので、話題の3D映画「アバター」を見に行くことにした。

「アバター」はジェームズ・キャメロンの『タイタニック』以来12年振りの劇場用監督作品である。
ストーリーはいかにもハリウッド映画、主人公の男女が一緒になってハッピーエンドで終わる。
しかし2億ドル(200億円)掛けたといわれる、鳴物入りの3Dの映像は素晴らしいと思う。
入場すると入り口で専用メガネを渡される。昔あった赤と青のセロハンが張られた簡易型の
メガネではなく、ちゃんとしたフレームの偏光グラスの入ったメガネである。
映画が始まり、そのメガネをかけると字幕がスクリーンの一番手前に飛び出して見える。
立体感のある映像は3時間という長い上映時間中も臨場感をともなって飽きることはない。
特に近距離撮影の方が立体感ははっきりしていて、その場にいるように錯覚するほどである。
しかし遠距離撮影の映像はメガネなしで見るのとさほど違いはないように感じた。
今年は「3D元年」と言われる。この技術は今後の映画界の大きな変革になるように思った。

翌日インターネットで、なぜ立体的に見えるのか調べてみた。
原理はプロジェクターの前に偏光板を置き、時分割で左右の眼に入る映像を高速でスイッチ
するらしい。映画は通常24フレーム/秒であるが、3Dでは、左右のぞれぞれの目に対する
映像を72フレーム/秒(合計144フレーム/秒)、時分割し交互に表示することで、左と右で
角度の異なる映像を見ることになり、そのことで立体感が得られるようである。
この技術はやがて家庭のTVにも普及していくらしい、今後家電メーカーはこの手のTV開発で
しのぎを削ることになるのであろう。


2010年の幕が開けた。年明け、これからどんな年になっていくだろうと考えてみた時、
一つは地球温暖化に伴い、今までの行きすぎた人間活動の是正が行われていくのであろう。
「リンゴが教えてくれたこと」ではないが、自然回帰、安全安心、エコなど、大きく地球全体を
捉えての自然の循環の中に我々の生活を組み込んでいくという流れが活発になるであろう。
もう一つはインターネットなどの通信や自動車の変革、映画の3Dのような映像、医学等々、
飽くなき技術の進化ではないだろうか。二つの大きな流れがうまくかみ合い融合しあえば
良いのだが、それがねじれになってしまえば混迷はますます激しくなるのかもしれない。

リーマンショック後、迷走する日本の政治や経済、その中で翻弄されながら年老いていく私は
はたしてどういう老後になるのだろうか、全く先が読めない。もう波乱万丈は望まない。
もう私の生まれ育った「昭和」には戻れない。この先どういう展開になるのであろうか?
この歳になると、世の中の進むべき方向が定まり、私の歩むべき道が見えることが望ましい。
そして今はその道をゆっくりゆっくりと歩いていきたい心境である。