60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

兄弟

2011年08月26日 08時36分25秒 | Weblog
先週金曜、新潟にいる弟が出張で東京に出て来た。それに合わせ1年ぶりに兄弟3人が集まった。
兄は昭和16年生れで70歳、次男の私が昭和19年生れで67歳、弟が26年生れで60歳である。
元々男ばかりの4人兄弟であったが、3男(昭和22年生れ)は26歳の時に交通事故で亡くなった。
母は男3人と続いて、今度こそ女の子と期待し、赤い着物を作って待っていたそうだ。しかし4人目も
やはり男であった。3姉妹で育った母にとって子供4人が全て男と言うのは、よほど殺風景だったの
だろう。「我が家には華がない」と、よく愚痴をこぼしていた。お婆ちゃんが生きていた時までは両親
と子供4人の合計7人と大世帯である。我々が生まれたのは戦中戦後である。戦後不況の真只中、
国鉄職員だった父の稼ぎだけで生活していたわけだから、食べて行くだけで、精一杯であったはず
である、子供一人ひとりに回せるお金も少く、今と比ぶべくもなく質素な生活だった。

朝は脱脂粉乳とトースト、昼はうどんか雑炊、夕食は麦ご飯で中にサツマイモが入り、おかずは魚と
野菜が中心であった。肉はめったに食べたことはなく、すき焼きはハレの日のごちそうであった。
おやつなどは無く、いつもお腹を空かせて夕食を待っていたように思う。時々はお婆ちゃんが近くの
海辺で巻貝を取ってきて、それを塩湯でしてもらい、おやつ代りに食べていた。終戦後の食糧事情は
4人の子供を育てる親にとって切実な問題だったのだろうと思う。しかし我々子供達にとっては何と
比較するわけでもなく、それが当たり前の時代であった。

物心ついて小学校に上がるまでは何時も独りぼっちだったように思う。兄は小学校に通い、弟は
まだ1歳2歳で遊び相手にはならない。母は家事と弟の世話で忙しい。お婆ちゃんは兄ばかりを
贔屓にするから、私は祖母を嫌っていた。近所に友達はいなかったので、いつも家で一人遊びを
していたように思う。午後になって、兄が学校から帰ってきて友達と遊び始めると、そこに混じって
遊んでいた。兄からは邪険にされていたが、必死でその仲間に食らいついていた。
自分が小学校に通うようになると今度は自分の世界が広がる。兄とも弟とも共通のものが少なく
なり、ましてや一番下の弟とは7歳もの開きがあるから対象外である。兄と下の弟とは前後3歳
づつの開きがある。今考えると子供時代のこの3歳という開きは微妙で、その後の兄弟間の付き
合い方のベースになっているように思う。仲良く遊ぶという間柄でもなく、男同志でもあり、面倒を
見てやるという関係でも無い。一緒に暮らしているのだから、疎遠ではない。だからといって仲の
良い友達のように、心を開いて打ち解ける間でもない。敵ではないが、ライバルである。憎しみは
湧かないが、嫉妬の対象であった。

兄弟それぞれが、高校に大学にと進学し、就職して親元を離れると、兄弟間での直接の接触は
少なくなる。そして、兄弟の情報や状況はほとんど母親から聞くようになり、家族との絆は母が
起点となってくる。兄が結婚することも、弟の就職が決まったことも、全て母親経由で聞いていた。
こちらの状況も、折に触れ母に報告するから、兄弟も私のことは母親経由で知っていたのだろう。
帰省も各自ばらばらであった。特に私は小売業に勤めていたから、盆や正月に帰郷することは
なかった。したがって私が兄弟と顔を合わせるのは冠婚葬祭のときぐらいである。やがて母が
亡くなり、父が亡くなると、今までのアクセスポイントを失い、家族のまとまりを欠いたようになる。
その後は兄弟同士は年賀状の交換と親戚等の慶弔事の連絡が主で、それぞれの家族状況も
把握できず、何となく疎遠になっていた。

5年前、弟は新潟の工場から東京本社へ転勤になり、単身赴任することになる。そのあたりから
兄が音頭を取って年に1、2度は3人で会うようになった。昨年から、弟は再び新潟へ帰ったが、
東京の本社で会議がある時は兄に連絡を取って、3人で逢うことは継続されている。逢えば話は
弾む。しかし一緒に遊んだという思い出がないから、懐かしい昔話に花が咲くことはない。話題は
両親のことだったり、それぞれの家族の近況だったり、各自の仕事の話が中心になる。
兄は70歳の今でも製薬会社の嘱託(週3日)で働いている。専門の薬剤の知識が幸いしてか、
国に認められている薬を別効能で申請し直し、新たな用途開発の仕事のようである。私は細々と
した個人事業主をやっている。弟は中堅化学メーカーを60歳の定年を迎えた段階で役員になった。
3人が3人とも、いまだ現役である。

兄弟、その関係は親ほど親密でなく、友人知人のように割り切った関係にはならない。なんとなく
助け合って生きていかなければいけないのでは?と言う義務感があり、時には利害関係も生じる。
それぞれが、女房子供とそれを取り巻く環境を引きずって生きている。サラリーマンの家庭に育ち、
それぞれがサラリーマンとして生計をたてていたから、お互い似たような生活環境だったのだろう。
しかし、歩んできた道は一様ではなく、全く別個な道のようでもある。時々母親から兄弟の動静を
聞くと「頑張っているな」という頼もしさを感じたり、「負けてはならない」というライバル心が芽生え
たりと、常に気にかかる存在であり続けたのも、兄弟であるからであろう。

親を起点に、ここまで歩んできた我々3人の兄弟、大きな障害もなく全員が60歳を超えることが
出来た。これは親から放たれた3本の矢がそれぞれの方向に飛んで行き、そして曲がりもせず、
失速もせず、直向きに飛び続けてこられた結果だろう。それには放たれる前の「弓構え」の時に、
両親の思いや教育や意思が充分に込められていた賜物であったのだろうと、今は感謝している。
兄弟にはそれぞれ3人の子供がいる。それぞれの子供はそれぞれの職を得てそれぞれの方向
に歩んでいる。さて彼らはどんな人生を歩んで行くのだろう。我々兄弟はそれを見守るしかない。

母が亡くなる10日前、新潟に見舞いに行った時が、母との最後であった。その折母が喋っていた
ことが今も頭に残っている。「私は死ぬことはちっとも怖くはないよ。私の3人の子供はグレもせず
育ってくれた。それぞれが結婚して、孫達も元気に育っている。・・・私のしてきたことは、ずーっと
繋がっているんだから、・・・」

              

              

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