60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

新入社員

2011年11月25日 14時24分47秒 | Weblog
親会社の新入社員と一緒にランチに行った。彼は仙台の大学を卒業したものの、昨今の就職難で
半年間浪人して、昨年の11月に中途入社した。今月でちょうど入社1年を経過したことになる。

「この1年どうだった?」
「最初の頃は毎日毎日疲れ果てて、帰って寝るだけでした」
「まあ、最初は仕事を覚えなければいけないから大変だったけど、もう慣れて来たんじゃない?」
「仕事的には慣れてきたけれど、今は周りの人間関係に神経を使って、疲れますよ」
「この会社、無政府状態だから、草食系としては神経を張り詰めていなければ、いけないよね」
「周りが肉食系という訳で無く、自己チュウの人が多すぎるんですよ。私が一番の歳下で反発する
訳にもいかず、無理な事を押しつけられたり、難癖をつけられないように気をつけるしかないんです。
今、気を使わずに話せるのは、Fさん(部外者の私)とSさん(一番年齢が近い)の2人だけですよ」
そんな話から社内の人間関係をどう考えれば良いかの話になった。

会社が人の集団である以上、自分の立場を有利にしようという力は常に働いている。当然キャリア
の古い人や年配者は、若い人を自分の意のままに動かそうとする。だから無意識のうちに色々な
手法を使って取り込みにかかる。仲良くしながら、自分の方が上位なのだと認識させていくタイプ、
自分が如何に有能で力があるか、過去の武勇伝を聞かせて、子分として従わせようとするタイプ、
相手のミスを見つけ、それを叱ることで相手に恐怖心を植え付けてコントロールしようとするタイプ、
その手法は千差万別である。しかし相手がなびいてこないと分ると、「無視」することで、仲間外れ
にして排除しようとする。それは多少の差はあるものの、どこの会社にもあることである。世の中を
生き抜いていくには、「人との関わりをどうこなしていくか」それが最大の課題なのである。

私も今は多少「人」と言うものを理解できるようになった。しかし学校を卒業して地方から出て来て
就職した当初は人の渦の中でもがいていたように思う。人の冷たさ、理不尽さ、身勝手さ、不信感。
反対に優しさ、親切、信頼感、人が様々に見せるその内面をどう見定め、どう対処すればいいのか
戸惑いの連続であったように思う。

入社から半年経った頃だろうか、直属の上司に「紹介したい人がいるから」と言われて、喫茶店に
に連れて行かれた。喫茶店に行くとそこに一人の年配の女性がいた。上司は私を引きあわせると
会社へ帰ってしまった。女性は自分の名は名乗らずに、上司の知り合いという立場で話し始める。
「勤めには慣れましたか?」そんな話から、「東京で一人の生活は何があるか解らないものです」
という話しになり、「保険は社会人として不可欠なもの」という展開になり、「生命保険に入るべき」
という話になっていった。上司の紹介ということもあり、ムゲに断るわけにもいかず、「検討します」
と言うことでその場を辞した。後日人から聞いて判ったのだが、その女性は上司の奥さんであった。
それ以降、私は事あるごとに上司に反発し、それが原因で半年後に別の店に出されてしまった。

新たに配属された店で、ある時未婚の女性社員の妊娠が発覚したことがある。そのことで店長は
相手の男性のことを聞きだし、何とか上手くま収めようとした。しかしその女性は頑として相手の名も
明かさず、結局子供を産むということで、会社を辞め実家に帰っていった。「なぜそうなるのだろう」
「何が人をそうさせるのであろう」、私の常識では理解の範囲を超えていた。

上に書いたことはほんの一例である。地方からぽっと出の私に、このようなことが日々起こっていた
ように思う。田舎で「のほほん」と育った私には、東京は「生き馬の目を抜く」油断のならない世界に
感じていた。そして人というものが、自分とは全く異なる思考方法で動いていることを、初めて突き
つけられたように思ってしまう。「この東京で自分は暮らしていけないのではないだろうか」、そんな
不安を抱き始めたのもそんな頃だったように思う。「何か人を判断する指針が欲しい」、そう思って
血液型の本を読み、周りの人の血液型を覚え、相手の性格を把握しようとした。しかし4分類だけ
では現実に役に立たず、次に心理学の本を手当たりしだいに読み漁っていたのである。

入社3年を過ぎると同期の仲間は本部に上がったり、店でも役がつくようになり始めた。小さな店で
毎日単調な作業に明け暮れていた私は、「このまま忘れ去られて埋もれて行く」そんな恐怖を感じた
ものである。仕事仲間とも一線を引き、打ち解けもせず、ひたすら自分の殻にこもっていたように思う。
ある時、出張で東京に出てきた父と食事をしたことがある。私がウダツが上がらず、ふてくされている
様子を察したのか、父がこんなことを話したのを覚えている。

会社は大勢の人の組織で動いている。当然人は早く出世したいと思うから上の人の足をひっぱり、
下から上ってこようとする者を抑えようとする気持ちが働く。これではダメである。上の者を押し上げ、
下の者を引き上げてやる。一見不合理なように見えるが、そうすれば自分も連れて上って行くのだ。
上の者の足を引っ張り、引き下ろせば自分もやがては落ちて行く。それが組織というものなのだ。

もう一つ、人が人を評価するのだから当然そこに感情が入る。一人の人を評価してダメと評価すれば
長くその評価は変わることはないだろう。しかし、その人を10人が評価したとすれば、「×」が7つで
「○」が3つかもしれない。見る人が変われば評価も変わるものである。組織の人事は、人の評価を
多数決では決めない。7:3は7:3として記録として残しておく。そして、その人を「○」の方向に配置
転換で活かそうとする。それが人を伸ばし、会社の活性に繋がり、延いては会社の力になって行く。
そんな話をしてくれた。この話が私に影響したかどうかの自覚はない。しかし未だに覚えているという
ことは心のどこかに刺さったのであろう。1年後私は本部に上り、仕事のおもしろさを見出していった。

私は人と接するとき、できる限り自分の主観だけで人を評価しないようにしている。私が「×」と評価
しても、それは私の見方でしかない。だから私の意見は1/10と考える。それから周りの人に自分の
意見を押しつけることが無いよう心がけている。そして周りの人に、「あの人をどう思う?」と聞くように
している。人の意見は意見として、そのまま私の記憶の中で、その人の個人ファイルに保存しておく。
(むかし周りの人の血液型を全て覚えていたように)、そうすることで私は組織の相関図を手に入れる
ことが出来るのである。誰が誰のことをどう思っているか、誰と誰が組み、誰が誰に反発しているか、
人の集団の中の人間模様が見えてくる。それはサル山のサルを遠くで眺めているように、私は人の
集団の中の葛藤を客観的に見ることができる。しかし何時も傍観者でいるわけにいかない。時には
人の渦の中に入って行って闘わなくてはいけない。その時は、自分の作り上げた相関図を携えて、

就職してから40年以上が過ぎ去って行った。私の新入社員の時の体験が、私に人との関わり方を
勉強させてくれた。しかしそれを会得した時にはもうその必要が無くなっている。人は自分の体験の
中から、自分に合った世の中の対処法を身につけて行くのであろう。ランチを一緒にした新入社員が
これからどんなものを身につけて行くのだろうか、私は今は傍観者として楽しんで見ているのである。

散歩(原宿・六本木)

2011年11月18日 09時05分51秒 | 散歩(2)
駅からの散歩

No.325          原宿・六本木          11月13日

以前の会社で環境関係の部署に所属している友人から、「青山で環境ボランティア見本市がある
から行って見よう」と誘われた。最近は時間が許せば、出来る限りお誘いは受けるようにしている。
それは歳とともに、無関心なものが多くなり、興味の範囲が狭くなり、行動力が無くなってしまうから
である。「相手から誘ってもらえる」、このチャンスは逃してはいけない。そう思うのである。

朝10:30に青山紀伊国屋前で待ち合わせた。渋谷に向かって歩くと国連大学という施設があり
その1Fに、それぞれの団体のブースが並んでいる。地球温暖化防止、リサイクルと廃棄物対策、
生物多様性などの環境活動の紹介である。友人はそれらのブースに立ち寄って話をしていたが、
私は「御苦労様」と思うものの、彼らのように献身的な気持ちの人々とはかけ離れた存在である。
すんなりとは入り込めず、友人とは一歩離れたところで見ていた。

同じ国連大学の歩道側に「ファーマーズ・マーケット」という農産物主体の市場が開催されていた。
実利的な私はこちらの方に興味を引かれた。全国各地からのこだわりの農産物を集め毎週土曜
日曜に開催されているらしい。スーパーに比べると5割前後は高いと思われるが、商品それぞれに
語るべきうんちくがあるようで、それが消費者に興味と安心感を与え人気になっているのであろう。
環境ボランティアとファーマーズ・マーケットを見終えて渋谷まで歩く。渋谷駅近くで、友人がTVで
紹介されていた「ラーメン屋」に行こうと言いだし、久々に豚骨のラーメンを食べて友人と別れた。

今週、小田原に住む友人の奥さんが表参道ヒルズで手織り服の催事をやっている。案内葉書を
もらっていて、どうしようと迷っていた。販売商品は全て女性物で買う気もないから行っても仕方が
無いのだが、「ここまで来たから、ついでに寄って見よう」、そう思い直して山手線の原宿で降りた。
原宿駅から表参道を歩く。ケヤキ並木の大きな道には、銀座と違って若者向けの有名ブランドの
店が並ぶ。少し人通りが少なくなったあたりに表参道ヒルズがある。その一角にオバサマ相手の
彼女の店があった。お店を覗いてみたら彼女の友人なのであろうか、服を見ながら談笑している。
商売の邪魔をしてはいけないと思い、来たことだけを告げて帰ろうとすると、「あっ、ちょっと待って、
日展の招待券が余っているから行ってみない?」、そう言ってレジそばにあったバックから券を出し、
私に渡してくれた。まだ昼の1時過ぎである、時間もあるから招待券をもらって観に行くことにする。
今度は明治神宮前から乃木坂へ、思いもしなかった国立新美術館で「日展」を見ることになった。

日展はもう30年以上前になるだろうか、上野で開催されていた時に女房と1度行ったことがある。
会場は1Fから3Fまで6つの展示室に分かれていた。最初に洋画の展示館に入る。大きな会場
全体を包むように絵具の匂いが漂う。作品のほとんどが脚立が無ければ描けほどの大作である。
作品一つ一つに掛けた膨大な時間とエレルギー、画家の「この一作」に賭ける意気込みを感じる。
洋画、日本画、工芸美術、彫刻、書、と見て回るが、その圧倒的な展示数(洋画だけで2000点)
に戸惑う。最初はゆっくり鑑賞していたが、これでは回りきれないと思い後半は流すように歩いた。

「犬も歩けば棒に当たる」ではないが、最初は友人と環境ボランティアに行くだけの予定であった。
そこからつながりつながりして、思わぬことに「日展」まで見ることになった。見れば見たで、そこに
感想が生まれ、私の鈍い感性の刺激になる。なにも「今日はこうしよう」とスケジュールを立てて
行動しなくて、行き当たりばったりで動いても、それはそれで結構面白いものである。論語で言う
「七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず」(七十になってから、心のおもむくままに行動し
ても、道理に違うことがなくなった、と言う意味らしい)、私も70真近である。きっちり計画を立てて
行動しなくても、大きな問題が起こることもないであろう。自分の中に制約を設けず自在に動く。
そのことが歳とともに顕著になってくる、「興味の範囲が狭まり、無関心になり、行動力が無くなる」
ことへの対策になるのかもしれない。

      
          青山の国連大学広場で 環境ボランティア見本市が開催されていた。

      
   同じ国連大学前で行われるファーマーズマーケット@UNUは毎週土日10:00~16:00開催。

              

              

      
        不揃い野菜、珍しい品種、旬の野菜など、これまで一般には手に入らなかった
             知る人ぞ知る人気生産者から直接野菜や果物を販売。

              
                  食べる「ほうずき」 1個100円は高い。
                  1個食べて見たが、甘い独特な味がする。

      
                 北九州小倉区出身の「唐そば」と言う店で昼食

               
                          つけ麺 800円

              

      
                             表参道

              
                    歩道に座るのに抵抗はないようだ

              
             表参道から脇道に入ってもズラリと人が並ぶ。約100m

               
           その先頭にあったのは「Eggs'n Things(エッグスンシングス) 」と言う店
           ハワイを訪れる世界中の旅行客にとって人気のカジュアルレストランとか

    
                              表参道ヒルズ

      
          友人の奥さんが、表参道ヒルズで毎年1週間「手織り服」の催事を行う

              
                         一点3万から5万円


            明治神宮前から地下鉄で乃木坂へ、国立新美術館へ向かう

                 
          以前は上野で開催されていたが、国立新美術館に移って5年目だそうだ
   
      
                           国立新美術館

      
                              洋画

                    

展示場の洋画、日本画、彫刻など各分類ごとに10点前後の「特選」という金の紙が貼られている。
膨大な作品の中から選者は何を基準に「特選」を選ぶのだろうか?興味があるのでインターネットで
「特選」の受賞理由を調べてみた。それを何作品かの写真に添付してみる。

              
                      特選 小休止(パイプの煙)
                           受賞理由 
    人形にレインコート、砂時計等、使い古された愛着のある物ばかりをアトリエの一隅に配置し、
    くり返し見て描くことにより深味のある表現になっている。今回一段と完成度の高さが見られ、
    今後の展開が楽しみ。

              
                          特選 アルテミス
                            受賞理由 
       北海道育ち、雪の白さの中で培われた作品。長年にわたり白い世界を追求し続け、
       今回の作品に結実した。卓越したデッサン力と構成力には目を見張るものがある。
       今後さらに大きな飛躍が期待出来る。

              
                     特選   チョーク絵のある静物
                            受賞理由 
     長崎で活躍する26才の新鋭。「チョーク画」という新しい技法を武器に臨んだ作品である。
     ジャンルとしては、静物画になるが、背景に人物を配するという難しい課題を若い感性で
     見事に融合させた秀作である。

              
                           特選 獺祭図
                            受賞理由 
      テーマに合ったものを少しずつ集め、丹念に観察し、彼独自のスッキリとした空間と
      ものの存在を感じさせる作品である。

               
                          特選 アトリエ・物語
                             受賞理由 
  日展らしい奥行きの深いフィールドでの描き手として力を発揮している。的確な描写力に裏打ち
    されている表現は説得力を持つ。2度目の特選受賞者として、さらなる発展を期待する。

               
                          特選 光差す時間
                            受賞理由 
      郷里のベンガラ工場跡に座す自分を描いたものである。風化したコンクリート壁の色と
      服の色がノスタルジックに語りかけ、差し出された手のひらには、幸せを願う青い鳥が
      しのび寄る。象徴的な作品となり秀作。

      
                              特選 雄流
                               受賞理由 
    現代のリアリズムを問う作品である。作者はあえて、現実と映像の「はざま」を追求している。
    ここで表現された空間は、堅牢であり、手で触れることのできる不思議な被膜となっている。
    写真を超えるリアリズムとして秀逸である。

               
                上の絵の右の草地、1本1本の草まで描き込んである

               
                          水の透明感がすばらしい

      
                             日本画

      
                             日本画

      
                            工芸美術
                      この世界まったく理解不能

      
                              彫刻
                      マネキン置き場にいるような感覚

               

      
                         人と彫刻とが混じり合う

               
                         内閣総理大臣賞  春雷
                              受賞理由
    「思いきり躍動する馬の形態を、写実と抽象のはざまで表現したもの」との作者の弁。 
    作品は熱情と詩情に溢れた大作で、馬の細部表現を省略し、ダイナミックな動勢を空間に
    大らかに自然に構成し、その存在感は量感を伴って的確である。作者の感性による独自な
    様式化は、永年に亘る作者の内実の輝きも加わり、生命感のある秀作である。

               
                           日展会員賞 花茎
                              受賞理由
    静謐の中に凜とした佇まいを示した作品である。コスチュームは流れるような量感表現であり
    ながら、アクセントをつけて制作されている。更に、両手の空間構成も作品のもつ心象を補う
    働きをつくりだしており、特筆できる優作といえる。

      
                              書

                 

      
                        3Fから1Fのカフェを見下ろす

      
                       夕日に照らされる国立新美術館

      
                           美術館から六本木へ

      
   11月20(日)に開催される「六本木マスカレード」(仮装パレード)の為の仮面コレクション。
   「六本木マスカレード」は、今回六本木で初めて開催される仮装の祭典で、国立新美術館
   の六本木星条旗通りを思い思いの仮装でスタートする仮面での仮装パレードらしい。

               世の中のイベントも段々様変わりしてくる感じがする。

               
                             チャイ300円

               
                           サングリア 300円
                 さすが六本木の屋台、扱い商品がシャレている

水彩画教室

2011年11月11日 08時21分33秒 | 美術
11月から水彩画教室に通うことにした。毎月第一と第三金曜日で、PM6:45から2時間である。
受講料と諸費用で6320円/月、1回当り3160円である。お酒を飲むことを考えれば良しとしよう。
絵心もなく、中学生以来絵筆を持ったこともないが、絵を習うことは前々から考えていたことである。
それは10数年前NHKラジオの深夜番組で、ある老齢の女流作家が言っていたことに端を発する。
その内容は、 《今からは老齢社会になる。子供は離れ、連れ合いとも死別し、何時一人になるか
分らない。その時になって慌てても遅い。定年を迎える前に、「一人でも生きて行ける」という準備と
心構えが必要がある。》と言うものであった。心構えは5つあったと思うが、今は3つしか記憶にない。
1、自分のことは自分で出来るようにしておく、2、プライベートなネットワークを出来るだけ作っておく、
3、自己表現の手段を持つ、である。

今まで会社や家族の中で職務を分担し、チームとしての生活が成り立っていた。人間関係もそれを
基盤にして広がって行ったわけである。そして、自分達が携わってきた仕事や子育てなどを通して、
日々自己表現をしていたわけである。「この仕事は俺がやった。すごいだろう」、「私の子育ては・・」、
これも自己表現である。しかし子供が離れていき、リタイヤして仕事が無くなってしまうと、今まで、
当たり前にあった人間関係のネットワークも、仕事や家族での自己主張の場も、手段も失ってしまう。
仕事を離れ死ぬまで楽しく暮らしていくためには、今までに代わるものを身に付けておく必要がある。
これが作家の提言であった。この話を聞いてから、1と2は、ある程度は心がけて来たつもりである。
しかし、無趣味で通して来た私にとって、3が最も難しいことであった。

7年程前、カルチャーセンターの「小説教室」へ通ったことがある。これも自己表現の手段と思った
からであるが、しかし、わずか9ヶ月で挫折してしまった。むかし、母が「短歌」をやっていて、私に
「俳句を勉強してみたら、」と言っていた。しかし新聞などに投稿されている俳句を読んでも、ピンと
来るものがなかった。陶芸や彫刻も考えたが、少し大げさで、長く続けるには、それ相当の覚悟が
いるように思ってしまう。結局、一番取り組み安く、手軽にやれるのは、「絵」と言う結論に至った。
絵はスケッチブックと鉛筆があれば、見たままを描けばよい。努力次第で、多少上手にもなるだろし
楽しめるかもしれない、そう考えたのである。しかし私には絵の素養は全くない。だから長く続けて
いくことを前提にすれば、我流でやるより、基礎だけは習っていた方が良いだろうと思ったのである。
しかしこの歳になっての習い事は億劫で、なかなか踏ん切りがつかず、延ばし延ばしになっていた。
「もう時間がない。まだ少し稼ぎのあるうちに習っておかなければ・・」、そう思って重い腰を上げた。

先月、教室を見学に行ってみた。先生は多摩美術大学出身の40前後の女性である。生徒さんは
全て女性で、多い日で4~5人だそうである。キャリアも長い人で5年、短い人で1年程。雰囲気は
女性ばかりだからか、雑談が多いようにも思うが、しかし年齢もバラバラで和気あいあいとしている。
少ない人数だから先生はそれぞれに合わせて指導する。別に水彩画でなくても油彩でもパステル
でも自分の好みで良いということである。「会社の帰りに習いに行くとすればココしかない」、そんな
ことでその場で入会手続きをした。帰りに先生から、最初はデッサンから始めるからスケッチブック、
HB、2、4、6Bの鉛筆、練り消しゴムを持参するようにと言われた。

当日10分前に教室に行くと先生だけで誰も来ていない。挨拶も早々に早速デッサンに取り掛かる。
先生は私のスケッチブックをキャンバスに置き、自分のバックからリンゴを取り出しテーブルに置く。
「今日はこのリンゴを描いてみましょう」、「物体を表現するには光と影を考えなければいけません」、
「球体を描くことが基本になります」と言いながら、自分の描いたスケッチを手本にし説明してくれる。
それから実際に絵を描く段階に進む。鉛筆の持ち方から始まり、鉛筆の使い分け、濃淡の付け方、
ティッシュを使って色の馴染ませ方、消しゴムの使い方、光と影の関係、テーブルに映る陰の処理、
空気遠近法(手前を濃く、後ろを薄く)、私の描く合い間合い間に近づいて来て実地で教えてくれる。

他の生徒さんも順次教室に入って来て、大きなテーブルの思い思いの場所に座る。そして持参して
きた自分の作品の続きを始めた。先生はそれぞれの作品を見てアドバイスしたり、質問を受けたり、
基本的には生徒のペースに添っての指導のようである。私は初回であり、周りは全て女性でもあり、
緊張の中で描いていた。最初はリンゴ1個、次はリンゴを横にして、次はリンゴを2個と描いていく。
久しぶりの緊張と集中の2時間、あっと言う間に過ぎていった。下がその時に描いたスケッチである。

               

               

               

               

初日を終えて思ったことがある。
思い切って習いに来たことは、「正解」だったのだろう。通信教育やTVや本を見ながらの勉強では、
自分の絵が基本に添っているかどうか認識しずらい。だから常に不安があるのではないだろうか?
結局自分のやっていることに自信が持てず、一人よがりになってしまって、長続きしないように思う。
教室に通い、先生に教わっているという「確かさ」、自分の作品に対する「客観的な評価」があれば、
やがては自分の自信にもつながっていくように思うのである。
さて、自分の中に絵に対するセンスがあるのか? 自分が絵を描いて見て、今度は美術館などで
絵を見たとき、多少でも違った風に見えてくるのか?、そんなことも楽しみになるように思えて来た。

禁煙

2011年11月04日 11時32分28秒 | Weblog
                禁煙補助薬「チャンピックス」(成分名・バレニクリン)

先日同窓会で隣に座った友人から肺ガンで肺の1/3を取った話を聞いた。40年間タバコは一度も
止めたことはなく、1日1箱は吸っていたそうである。健康診断で、たまたまガンが見つかったことは
ある意味ラッキーで、自分が肺ガンになったことは、やはり必然だったのかもしれないと語っていた。
会社の近くにある喫茶店のマスターと話していたら、やはりお父さんがヘビースモーカーで肺ガンで
亡くなったそうである。その最期は壮絶で、あれを見るとタバコは絶対に吸ってはいけないと言う。

そんな話を聞いていて、たまたまNHKの「ためしてガッテン」の番組で禁煙を取り上げたのを見た。
タイトルは「感動!禁煙がこんなに簡単だったなんて」。これを見ていると禁煙も昔と比べて簡単に
なったように思う。番組によると、今は禁煙補助薬「バレニクリン」と言う薬があり、これを服用すると
禁煙しようと思わなくても、タバコが欲しく無くなるそうである。この薬を3ヶ月続けると、8割の人が
禁煙できると言う。しかしせっかく禁煙しても1年以内にまた半数の人が喫煙するようになるらしい。
これが禁煙の難しさである。結局「禁煙」は本人が「止める」という意思を持ち続けられるか否かの
問題である。

大学時代、周りが吸うから何の抵抗もなくタバコを吸い始めた。それは父がタバコを吸っていたから
大人になれば吸って良いものと、罪悪感も無かったように思う。当時シンセイが20本40円、これを
1日1箱ぐらい吸っていた。映画館に行くと、映写機の光が館内のタバコの煙のモウモウとした様を
写していたのが印象に残る。タバコは病室でもOK、禁煙という概念は無く、「タバコは大人の嗜み」、
「タバコは動くアクセサリー」、そんな時代であった。当時の男性の8割はタバコを吸っていただろう、
学校を卒業して就職しても、事務所の机の上は常時灰皿があり、山盛りの吸い殻が積まれていた。
20本が次第に増え30本になり、やがて2箱にもなってしまった。(※男性喫煙率1965年で82%)

何時からだろう、タバコの害が取り上げられるようなり「嫌煙権」などの言葉が言われるようになる。
やがて会社でも、事務所内で喫煙することは禁止され、喫煙室が設けられるようになった。40歳を
過ぎたころ、私も禁煙にチャレンジした。しかし何度チャレンジしても、その禁断症状に打ち勝つこと
ができず、2、3日で挫折してしまう。何度か禁煙に失敗の後、ある時「禁煙飴」と言うのを見つけた。
この飴、タバコを吸いたくなった時に舐めると、口の中がギトギトと油っぽくなり、禁断症状を薄める。
その飴を手助にし再び禁煙を始めた。禁断症状が出てイライラしてくるとこの飴をなめて我慢する。
タバコを吸いたい気持ちを1時間また1時間とやり過ごし、それを1日また1日とひたすら耐えて行く。
禁断症状も1週間までがピークで、しだいに薄らいで行った。さらに1、2ヶ月と、時間の経過とともに
禁断症状は薄くなっていく。しかし、だからと言って完全にそれが消えるわけではない。禁断症状は
ある時突然に現われてくる。食後に同僚と喫茶店で話しているときなど、隣でタバコを吸うのを見て
思わず「タバコ1本もらうよ」と、手を出そうとする。「この1本だけで、あと吸わなければ大丈夫だよ」、
そんな悪魔のささやきを何度聞いたことだろう。

「ためしてガッテン」の番組で言う8割が止められると言うのは、私の苦しい禁煙当初の経験が薬で
簡単に出来るようになったということである。しかしその後1年で半数がタバコを再開すると言うのは
これ以降に起こる「時々顔を出す禁断症状」をどう乗り越えて行くかが問題なのである。

私の禁煙も3年目に入ったある時、家族で八ヶ岳高原へ行った。高原を見渡す所にロッジがあって、
そこに落ち着いた雰囲気の喫茶室があり、ここで一休みすることにした。「こんなシチュエーションで、
珈琲を飲みながらタバコを燻らす」、それは今まで思い描いてきた「至福のひと時」のように思えた。
「ここで1本だけ吸ってみよう。1本吸って止めれば良いんだ。これまで禁煙できたのだから大丈夫」、
今回はその悪魔の囁きに抗しきれなかった。自動販売機でマイルドセブンとライターを買ってしまう。
珈琲を飲みながらタバコを燻らし、思い描いた形を取る。しかし2年以上止めていた体にニコチンは
効きすぎるのか頭がクラクラとするほどである。これでは不満が残り、もう1本、もう1本と、結局3本
吸ってしまった。それから自分との約束だからと、タバコとライターをロッジのごみ箱に捨ててしまう。
しかし一旦崩れてしまった自分の意思を持ち堪えることは出来なかった。翌日からまた喫煙を始め、
結局は元の木阿弥になったしまったのである。

タバコを吸うことは「百害あって一利なし」と自分でも思っているのに、なぜまた吸ってしまうのか?
番組ではタバコを吸うとその影響は6秒で脳に達し、快楽物質の「ド-パミン」が放出され、強烈な
快楽が得られるということを学習し、それが記憶に刻み込まれるのだと図解を交えて説明していた。
さらに最近の研究では、「タバコがないと喜びが完成しない脳になってしまう」と、いうことが解って
きたと言う。つまり喜びの一端を担っていたタバコを、単に取り去っただけでは喜びは未完成のまま
残ってしまう。不完全な喜びを完成させる為にはタバコがどうしても必要であり、ついつい手が伸び
てしまうという理屈らしい。

「食事をしてから一服する」、この行為は食事を終えて、タバコを吸い終えるまでが一つの区切りに
なっており、一服しないと食事を食べた満足感が完成しないことになる。私の八ヶ岳高原も、雄大な
景色を見て珈琲を飲みながら一服することで、至福の時が完成するわけである。その時にタバコを
吸わないと、それが完成しないことになる。20数年、物事の区切り区切りに一服して満足感を得る
習慣がついていた私は、2年や3年止めただけでは、その記憶から抜けることがなかったのである。
その後10数年喫煙が続き、禁煙に再びチャレンジしたのは今から10年前の57歳の時である。

番組では、ついついタバコを吸ってしまう人は、止められる人に比べて将来の喜びより、今の喜びを
優先する傾向があるという。すなわち禁煙を続けるためには、将来の喜びが待てるような動機付けが
必要だと言うことらしい。その為に吸ったつもりで500円玉預金をし、溜まったお金で自分の好きな
ものを買うとか、禁煙の節目(例えば1ケ月単位)で、妻と一緒に外食をするとか、吸いたくなったら
子供の写真を見るとか、歯医者で歯をクリーニングして、歯を綺麗に保つ目標を持つとか、何んらか
将来に対してプラス要因を設定することが、禁煙成功の為に必要なことだと結論づけていた。

私の再度の禁煙については以前ブログに書いたが、もう一度そのことについて簡単に書いて見る。

2001年母は大腸ガンで手術したものの、すでに肝臓に転移していて回復する可能性は無かった。
次第に衰える母は入院を嫌い自宅に帰ることを切望する。不憫に思った父は「死ぬ時は自宅で」と
母を退院させ、自宅で養生するようになった。母が亡くなる10日前、新潟に見舞に行った時のこと、
ベットに横たわる母の横に座り、向かいあって合って話をしていた。どろんとした目で私を見ていた
母が、「タバコを1本頂戴よ」と、やせ細った手を私の方に差し出してきた。私はタバコに火を付けて、
母の人差し指と中指の間にタバコを挟んでやる。母はタバコを挟んだ手をゆっくりと口元に運んで、
美味しそうにタバコを吸った。私もタバコに火を付ける。そのとき母が、「あんたタバコを止めなさい」
と言った。私は「もうこの歳になったら、健康に気を使うこともないだろう」と、安易に答えてしまう。
その時母は私を見据え、「馬鹿なことを言いなさんな!まだ子供が学校なのよ。親としての責任が
あるでしょう。止めるのよ、いいわね!」と、昔の口調で息子の私を叱った。

それから10日が過ぎ、会社で仕事をしているときに突然、「母危篤」の連絡を受けとった。気持ちを
整理するため、表に出てタバコに火をつける。そのとき「この1本でもうタバコは止めよう」と決心した。
その1本を吸って、タバコとライターをごみ箱に捨てた。母の死を「禁煙」の切っ掛けにしたのである。
止めた後も以前と同じような禁断症状は出てくる。萎えそうになる気持ちを「これは母の最後の言葉
(遺言)だから、その遺言を破って良いのか」と、自問自答する。それが歯止めになって、今も禁煙は
続いている。

人の気持ちは弱くもろいものである。だから禁煙を継続させるには、自己を制する動機付けのような
ものが必要なのかも知れない。私の父も一旦止めていたタバコを再開して肺ガンになってしまった。
異常に気付いた時はすでに手遅れで、ガンは急速に肺に広がり、最後は呼吸困難で窒息死である。
私の禁煙は母の死を切っ掛けにし、母の最後の言いつけと父の最期の死に様を歯止めにしている。
禁断症状は人によって強弱があるようである。私はどちらかと言えば禁断症状が強く出る方である。
今このようにブログにタバコのことを書いていると、タバコのことを思い出し、胸がキュンとなるぐらい
吸いたくなる。10年経った今でも脳に刻まれたタバコの記憶は生きている。