60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

営業とは

2013年11月29日 09時03分06秒 | Weblog
 日本経済新聞朝刊最終面(文化面)に掲載されている「私の履歴書」とう連載読み物がある。1ヶ月にわたって著名人が、出生から現在に至るまでの半生を描く自伝である。今月11月は積水ハウス会長兼CEOの和田勇氏が書いている。氏は1941年に和歌山県に生まれ、関西学院大学卒業後の1965年に設立まもない積水ハウスに入社した。名古屋東営業所に営業として配属されたあと、戸建注文住宅の営業として力を発揮し、名古屋の営業所長、中部第一営業部長、取締役、常務、専務、から1998年に代表権取締役社長に就任した。

 社長就任に際して、「顧客満足度」を高めることが究極の目標とし、そのためには「お客様本位」を徹底追求すること。そして「社員が働きやすい環境にする」ことが自分の役割と決めたと言う。営業の現場を歩み続けた筆者にとっても、「お客様本位」は彼自身が身をもって体現してきたことで、創業以来一貫した会社の姿勢でもあるそうである。そしてそれを達成するためにも社員が働きやすい環境が必須条件であると言う。厳しい時期に社員に厳しい要求をしなければならない。だからこそ、上司は部下に目を行き届かせ、風通しの良い組織をづくりに努める。「部下は上司を変えられない。だが上司は部下を変えられる」。そんな組織の中ではタテ割の垣根を取り払う意識の改革を進める必要があると書いてあった。

 この「私の履歴書」は毎回読んでいる。しかしここに掲載される人は社会の中である種「功成り名を遂げた人」である。そういう人は自己顕示欲の強い人も多い。人にもよるが、「あれも俺がやった」「これも俺がやった」、「どうだすごいだろう!」という武勇伝的な書き方でうんざりする回もある。今回の積水ハウスの会長の話も若干それに近いものがある。彼はむかし流行語にもなった「モーレツ社員」さながらに、休みもとらず、何をも恐れずがむしゃらに営業してきた。その失敗や成功の中で多くを学び自らも成長していくことができたと言う。常に部下や協力工務店を巻き込み、「顧客満足度」を高めるために挑戦し続けてきた。やがてそれが認められ社長にまで上り詰めたと言うサクセスストーリーである。

 私は「私の履歴書」を読むことで、その人物を賞賛することはない。それは私自身が直接接しているわけでもなく、自らの自己評価と人の評価とは往々にして違うことが多いと思うからである。しかしその人が仕事を通じて気付いたもの、会得したもの、己の信念になったもの、そういうことは働く人間として参考になり、知識として有用に思うのである。今回の履歴書を読んだ中で一つ共感したことがある。それは営業の真髄のようなことである。
 積水ハウスの営業は戸建の営業だから、一人一人のお客さんを捕まえていかなければいけない。そのために戸別訪問から始まり、お客さんのニーズを捉え、自社の特徴を説明し、住宅を提案し、信頼を勝ち得て契約に至るわけである。それには膨大なエネルギーとともに多くの無駄が生じてくる。そんな中から筆者が実感し、会社としても大きな柱になっているのは「紹介営業」だと言う。積水ハウスを建てて満足していただいたお客さんが、新たに別のお客さんを紹介してくれる。それが「紹介営業」で、積水ハウスでは今やその比率は新規契約の5割にも達すると書いてあった。

 住宅メーカーの評価は住み始めた時から始まる。住宅販売とはクレームの連続で、そのクレームへの誠実な対応が、お客様の信頼につながり、「顧客満足度」の推進になる。だからクレームは新たなニーズの宝庫である、と言う発想である。確かに一生に一度あるかないかの高い買い物に不満が残れば、そのメーカーを人に紹介することは絶対にしないであろう。自分の購入した住宅が気に入り、そのメーカーの対応に信頼を持ち満足して初めて、自分の知人や友人に紹介するようになる。紹介された方も(相手との信頼関係にもよるが)、あの人が推薦するのだから「良いものではないか」と思うようになる。メーカー側は住宅建築を希望する顧客を効率よく把握でき、しかも信頼を得るまで有利に作用し、結果的に成約率も上がるとことになる。

 この「私の履歴書」読み始めたころ、通勤途中に建設中の一戸建てが、たまたま積水ハウスの物件であることに気がついた。当然この企業のトップの言うことが現場まで浸透しているのかと、興味を持って見ることになる。見るのは朝晩の為、工事しているところを見ることはできないが、進行していく様子は日々観察できる。古い家屋の解体から基礎工事、今は建屋が組みあがった段階である。建築に関して素人であるから、構造や施工の優劣は分からないが、今までに見かけてきた他の工務店の建築現場との比較はできる。その比較の中で感じることは、現場が整理整頓され整然と管理されていると言う印象である。
 敷地の周囲はアコーデオン式の柵で囲い、工事が終わればキッチリ閉めて施錠してある。道具類を仕舞うための物置がおいてあり、上からカバーが掛けてある。工事現場でよく見かける縦長の簡易トイは周りが衝立で囲ってあり、それと分からないように隠してある。基礎のコンクリート打ち後にシートをかけて養生するようであるが、雨の予報があった前日には急遽ブルーシートが掛けられていた。・・・等々見ている限り仕事が丁寧にされていると感じるのである。これだけ気を使えば近隣からの苦情は少ないだろうし、注文主がいつ見学に行っても安心するだろう。こういう姿勢で仕事が出来ることが会社としての力のように思えるのである。

 私が考える営業力とは、口八丁手八丁で強引且つ巧妙に事を運んでいくということではなく、やはり無骨であっても丁寧に誠意を持って対応し、相手の信頼を築いていくことが王道であり、それでこそ営業は広がっていくだろうと思う。では相手の信頼をどうやって勝ち得るか、それは業種によって個人によってそのスタイルは違うのかもしれない。しかし共通することは性急に事を成そうとせず、急がば回れのような気がするのである。








騙しのテクニック

2013年11月22日 08時12分59秒 | Weblog
 先日の夜中、息子から電話がかかってきた。「タカシだけど、今病院から・・」、電話に出たのは女房である。女房は少し声が違うように感じ、「少し声がおかしいね?」と言う。その途端に電話はブツと切れてしまった。いわゆるオレオレ詐欺である。他人事かと思っていたが、いよいよ身近までせまってきたようである。いまや年間被害額は400億円を超えると言われる特殊詐欺、あれほど報道されているのにも関わらず、なぜ世の中の年寄りは、いとも簡単に騙されてしまうのか不思議である。
 オレオレ詐欺の騙しのテクニックは色々言われている。一つは母親と息子の関係を利用する。一つは事前に個人情報を調べておいて会話の中に織り込んでいく。一つは緊急事態という設定を作る。「お金を取られてしまった」、「会社の金を置き忘れた」、今回の電話は「事故を起こしてしまって至急に金が要る」という設定なのだろう。そういう状況を聞くと母親はパニック状態になり、冷静な判断ができなくなる。「何とか助けてやらなければ・・」それが相手の思う壺なのである。

 詐欺にも色々あるようで、高利回り元本保障と謳う資産運用、未公開株のもうけ話、冷静に考えればそんな上手い話は無いだろうと思うのだが、これもまた相変わらず新聞を賑あわせている。歳を取って稼ぐことができなくなると、将来に対する不安が付きまとう。だからできれば少しでも楽に、少しでも有利に、今持っている資金を運用したいという欲が出る。そんな気持ちに付け込まれて儲け話に乗ってしまうのだろう。

 阪急阪神ホテルズによる虚偽表示に端を発した食品の表示問題、これも言ってみれば騙しである。芝エビを使っていると言ってながら実際はバナメイエビ、車海老がブラックタイガー、鮮魚や活ホタテが冷凍品、ステーキが牛脂をいれた加工肉、自家製パンが既製品と、虚偽表示が次から次へとあぶりだされてきた。1社や2社ならともかくホテルや百貨店がこぞってこの種の虚偽表示があったという。ここまで一般化していたということは、その背景に日本人のブランド志向の強さがあると言われている。あのブランドだから安心、高いから良いもの、あそこで食べるものは一流、そこにブランドに意識付けられた自分自身の盲点があるのではないだろうか?
 私は伊勢海老を美味しいとは思わない。それが伊勢海老かどうかを見分けられる舌も持っていない。現に今まで虚偽表示を見破った消費者はほとんどなく、皆満足して食べていたのである。我々がこだわっているブランドとはそんなものである。伊勢海老だろうがブラックタイガーであろうが、同じたんぱく質で栄養価に変わりはなく、言ってみれば自己満足の世界である。こだわるから虚偽表示が起こるわけで、ブランド信奉が盲点になる。ブランドに頼らず、自分の目や舌や感性を大切にする。できればそうありたいものである。

 「朝採れレタス」「朝摘みイチゴ」とスーパーの店頭に表示があったら、それは今朝採ったものだろうと錯覚する。しかし誰も今朝とは言っていない。昨日の朝かもしれないし、3日前の朝かもしれない。「血圧が気になる人へ・・・」と書いてあれば血圧降下に有効だと錯覚する。しかしそんなことに何の保証もない。この手の表現はごまんとある。「採れ立て」、「新鮮」、「有効成分配合」、「特別価格」、「原価割れ」・・・・、何を基準にそういっているのか不明確なものもばかりである。特に食べるものや美容、健康に関するものはこの種の曖昧な表現は満ち満ちているように思うのである。それは言葉から連想して消費者が錯覚してくれることを期待している。商売は「売らんかな!」である。そういう前提に立って、少し冷めた目で「売り文句」は受け止めるべきであろう。

 人の気持ちを誘導して思い通りに操りたい。そのためにあの手この手と考え、人の盲点を突いてくる。その手段が法に触れれば詐欺になり、法に触れなければ「上手いやり方」なのである。我々の周りには騙しのテクニックがあふれている。だから何を信じてよいのか?誰を信じてよいのか?いつも疑心暗鬼で暮らしているのかもしれない。「人の言うことは安易に信じてはいけない」、「ブランド信奉はやめ、自分のセンスや価値観を磨く」、「イメージに流されず、自分なりの客観的な価値基準を持つ」そうは言っても、そんなことばかりを気にしていては日々暮らしていくには窮屈だし楽しくない。

 思うに、この種の問題は風邪やインフルエンザと同じように思うのである。手洗い、うがい、マスクとどんなに防御しても万全ではない。しかもいつも武装していたのでは鬱陶しい。だから風邪やインフルエンザに罹らないためには、最後の塞である免疫力を高めておくしかないように思うのである。
 私は「騙し」に対する免疫力は「判断力」ではないだろうかと思う。騙されるのは人であるが、騙すのも人である。だから、人の言葉を言葉通り信用することはほとんどしない。とは言っても人の話を聞いていないわけではない。多分人一倍相手の話を聞く方である。そして相手を観察し、相手(人)を理解しようとする。そうすればその人に関わることで判断ミスをすることはなくなる。私が万が一にも人に騙されたり、引っかかったりしたとすれば、それは私に人を見る目(免疫力)がなかったと自戒するだけである。






散歩(多摩ニュータウン)

2013年11月15日 08時24分21秒 | 散歩(3)
駅からの散歩

多摩(よこやまの道)       11月10日

 結婚した時から6年間は多摩ニュータウンに住んでいた。だからいまだに本籍地は多摩市である。我々が住んでいた頃は多摩ニュータウンも開発途上で、まだあちらこちらに農家や畑、雑木林が残っていた。ジブリの漫画映画「平成狸合戦ぽんぽこ」で描かれていたように、昔この多摩丘陵は狸の住む地であったのであろう。しかし今はすっかり都市化され、整然とした人工的な町並みが続いている。

 若い頃は散歩などの余裕も無く、自分の生活圏にしか目が行かなかった。あれから35年、歳とともに余裕ができてきたのか、それとも暇になったのか?今日はその多摩を歩いてみることにする。ニュータウンの東の端の若葉台駅に降り約20分歩き、丘の上広場から「よこやまの道」に入る。この道はニュータウンを囲む多摩丘陵の東西10kmに渡って延びる尾根筋の散策路である。この道は古代より西国と東国をつなぐ交通の要衝だった。中世~江戸時代、武士・町人や巡礼者など多くの人々が往来し、幕末には土方歳三や沖田総司が出稽古のために通ったと言われ、今も古街道の名残や痕跡が残っている。

 歩き始めから歩き終わりまで、時折住宅地を通るがほとんどが雑木林の道である。道はうねうねと曲がり、昇ったり降りたりと多摩丘陵の尾根筋を進む。時にはススキの原、時には雑木林、時には公園の中、時には古道、人ごみを離れ、土の道と落ち葉を踏みしめ、色付く木々に季節の移り変わりを感じて歩く。このコースのゴールの唐木田駅に近づいくると、「もう少し歩いていたい」そんな気持ちになる散歩道である。

      
                       京王相模原線 若葉台駅

      
                          多摩ニュータウン

      
                          多摩ニュータウン

      
                         多摩よこやまの道

      
             多摩ニュータウンの外周はススキの原や雑木林が残っている

      
                    雑木林の中を通る「よこやまの道」

               


                         防人見返りの峠
                     多摩ニュータウンが一望できる

      
                     道は多摩丘陵の尾根筋を通る

      
                       古街道の名残がある

      
                       国士舘高校 野球場

               
                       一本杉公園 古民家

      
                         旧加藤家住宅

      
                         旧有山家住宅

      
                            モミジ

               
                          ハナミズキの実

      
                           ハナミズキ

      
                   要塞のような多摩市総合福祉センター

      
                        奥は多摩市温水プール

      

      

      
                       多摩清掃工場とガスタンク

      
                         唐木田車両基地

      
                       小田急多摩線 唐木田駅

最近の作品  秋2題

      
                         小田急線 海老名

      
                           秩父 横瀬









うつの前兆(2)

2013年11月08日 08時45分17秒 | Weblog
 このブログで先々週書いた「適応障害と抑うつ症状・・・」の診断書を会社に提出し、今は会社を休んでいる若者と会ってきた。日曜日のお昼、新宿で待ち合わせしてレストランに入る。「調子はどうなの?」と、その後の様子を聞いて見る。「そうですね。部屋の中に閉じこもっていると、色んな事を考えてしまい気分が滅入ってきます。どこかに出かければ良いのでしょうが、それも億劫なのです。こういう状態を鬱々としていると言うのでしょうか?」そんな話から始まって、彼の生い立ちやこの2週間の経過を聞いてみた。

 彼は仙台に両親がいて3人兄弟の長男である。父親はワンマンな人で子供達に対して自分の言ったことに逆らうことを許さなかった。弟は兄の後ろに隠れ、妹は要領よく立ち振る舞う。したがっていつも長男の自分が矢面に立って叱られていた。母親と子供3人の同盟と父親との確執というか不和、それが彼の育った家庭環境だったようである。「学校を卒業してからは地元仙台で就職し親と別居して暮らす」、これが彼の希望であった。しかし地元での就職は厳しく、就職時期を逸し結局は就職浪人になってしまった。しかたなく仙台からインターネットで職を探し、3年前に東京で今の会社へ就職したのである。

 診断書を提出して休み始めて直ぐに実家に帰ったそうである。そして今の状況を親に話した時、父親は「帰って来て地元で就職先を探せば良い」と地元に戻ってくる事に賛成した。しかし母親の方は息子の体調の事を心配するだけで、戻って来たほうが良いとは言わなかった。それは父親との不和から、同居は息子にとって辛くなるだろうと言う思いがあったからだろうと言う。結局実家に長居する気になれず、早々に東京へ帰って来たそうである。。

 彼はどんなに考えても、今の会社に復帰する気にはなれず、転職を決心せざるを得ないと言う。できれば仙台で就職したいという思いは強く、東京の職安(ハローワーク)で仙台を中心に会社を検索することにした。職安へ行き担当者に相談しながら、これと思った会社へ履歴書とエントリーシートを提出する。ここ10日ぐらいで仙台の会社3社に応募したそうである。週に1、2度職安に顔を出すだけ、それ以外には全く用事がない。就職浪人中はアルバイトに行っていたから、それなりに忙しかった。しかし今は「暇とはこんなに持て余すものか?」、と思うそうである。

 土日は友達を引っ張り出して会ったりしても、平日は全く一人で部屋の中にいる。「これではまずい。なにか気の紛れる事をしなければ、本当にウツになってしまう」そんな恐怖からか無理矢理外出して、新宿をフラフラと歩くそうである。先日は目的もなく中央線の電車に乗った。そして乗り継ぎしながら、各駅停車で甲府まで行った。しばらく甲府市内をぶらぶらし、名物の「ほうとう」を食べて帰ってきたと言う。出かけても楽しくもないが、しかし部屋にいるよりましである。今はそんな日々が続いているようである。

 彼の一番気になっていることは、会社への出処進退のことである。会社側は彼が復帰することが前提であるから、新たな人の採用活動はしていない。中小企業で余裕がないから、彼の仕事は同僚が全てをカバーしなければいけなくなってくる。そのためその同僚の仕事の負担は2人分になり、残業と休日出勤でこなしているようである。彼にとってそのことが一番気がかりで、心苦しいことなのである。転職を決めたのなら、退職を言えば良いのだが、本音としては再就職の目処が立ってから退職を申し出たい。そのことが彼の気持ちを苛んでいるようでもある。

 先回のブログで書いたように、「うつ」への引き金が、「恐怖、ストレス、孤立・・の中に長く身を置く・・・」と言うことであれば、次が無いのに退職すると言うことは、自らが社会的な帰属を断ち切り、孤立の状態に入るということである。東京と言う都会には馴染まない、今の会社には適応し辛い、実家にも自分の居場所がない。今彼を取り巻く環境は出口が見えない最悪な状況なのである。
 最近の子供達は社会や親が敷いたレールの上をひたすら走り、その延長線で社会に出てくるように思う。だから一旦そのレールを踏み外してしまうと、自力ではなかなか立ち直おることができないひ弱な一面を持っている。自分のこれからをどう考え、どう決断し、どう行動していくのか、彼にとっては試練の時である。
 今週の金曜日、精神面の途中検査で再びメンタルクリニックへ行くそうである。その場で医者と相談し、退職願を出すかどうか決めたいと言っていた。さてどうするのか?どうなるのか?しばらくは彼の様子を見守っていくつもりである。






孫(2)

2013年11月01日 09時29分30秒 | Weblog
 7月、長女に孫が誕生したのに続いて、10月に長男の方にも孫が生まれた。2人とも女の子である。長女の方は我が家に1ヶ月ほど里帰りしていたが、長男のお嫁さんは実家が遠いこともあって、里帰りはせずこちらで育児することになった。我が家に来れば楽なのだが嫁姑と互いに気を使うからと、結局は我々夫婦が交代で長男のアパートに行ってサポートするようにした。私の分担は火曜水曜と隔週の金曜日、会社を早退して5時には息子のアパートに行く。そしてお嫁さんから赤ん坊を受け取り、会社から息子が帰ってくる9時ごろまで面倒を見る。その間にお嫁さんは仮眠を取るという段取りである。

 赤ちゃんの寝顔を横に見て、買ってきた弁当を食べながらTVを見ている。こんな状態が続いてくれれば楽なのであるが、時間中必ず1回や2回はグズリ初め泣きだしてしまう。そうなるとオシメを点検し、濡れていれば交換しなければいけない。泣き方が激しくお腹が空いていると思えば哺乳瓶にミルクを作って授乳することになる。自分の子供、長女の孫、何回もやっているから慣れているはずだが、やはり赤ちゃんと2人だけだと心細いものである。オシメの留め方はこれで良いのか? 苦しくないだろうか? ミルクの温度はこれで良いだろうか? ミルクの量は足りたのか? ゲップはちゃんと出ただろうか?一つ一つの動作を意識するからぎこちないものになってしまう。せいぜい3~4時間のことではあるが、これが意外に長く感じるものである。息子が帰って来て赤ちゃんをバトンタッチすると、肩の荷をおろしたようにホッとするものである。

 何時もミルクを飲み終えると、私の腕の中にすっぽり収まってウトウトし始める。眉がまだそろっていないから寝姿は小さなお地蔵さんのように思える。そんな赤ちゃんの顔を見つめていると色んなことが思い浮んでくる。「いいかい!おじいちゃんの顔と臭いを忘れるんじゃないぞ!」、「大きくなってもおじいちゃんを嫌ちゃあだめだぞ!」、「頭の先が尖がっているがチャンと整うのだろうかなぁ~」、「瞼は一重だがこの子は誰に似てくるのだろう?」、「おかあさんに似て華奢で意外に美人になるのかも」、「長女の孫と比べて手が掛からず育て安いと言うが、どんな性格の子になるのだろう?」、孫だという実感は2人切りでいる今この時、腕の中の温もりと一緒に伝わってくるものである。
 生まれたばかりの時は肌はがさついていたようだが、最近は張りもあり艶も出てきたようである。1日30~40g増えていくと聞くが、抱いていてもずっしりとした手ごたえを感じるようになった。今寝ているこの時も、この小さな命は爆発的に細胞分裂を繰り返し、世の中に出て行く準備をしているのだろう。やがて首が据わり目が見えるようになり、1年を経過する頃には歩けるようになり、喋れるようになる。生まれたばかりの無垢な命、今は無限の可能性を持って成長しているのであろう。

 今読んでいる本の中に、こんなことが書いてあった。
人間は生まれてから3年間で、脳の神経細胞のシナプス形成(情報を伝えるための神経細胞間のネットワーク)を完成させます。3歳の時点で1000億個の神経細胞が互いに連結して、たった一つの神経細胞に対して1億5000個のシナプスを形成させるのです。しかし3歳以降になると不思議なことが起こります。大量かつ入念につくられた脳のシナプス回路のうち、頻繁に使っている一部のみしか使わなくなってしまうのです。こうして16歳ごろには、回路の半分は使い物にならなくなります。これをシナプスの『刈り込み』と言います。脳は入ってくる情報をフィルタリングして、多くの情報のうち一部を受け取り、一部を無視する作業をしているのです。この一連の作業でシナプス回路が強固になり、人それぞれが特有の才能を持つようになります。つまり、興味を持って楽しく繰り返している作業ほど、脳は強いつながりを形成するのです。反対に興味がなくなって、つまらないと感じる作業に関する回路は淘汰されていきます。したがって自分の持っている脳の回路をさらに強化するには、好奇心を持ち、好きなことに挑戦し続けることが必要なのでしょう。・・・・・

 「三つ子の魂百まで」と言うが、幼い頃の性格は、年をとっても変わらないと同じように、幼い頃に興味を持ったものを育んでやれば、特有の才能に恵まれた子に育つのかもしれない。この子が中学生ごろまでに、自分自身で何か興味を持ち好奇心を持てるようなものを見つけてくれれば良いと思う。さてこの子はどんな子に育っていくのだろう。この子の将来は私の手の届かないところで展開していくのだろう。そしてこの子が成人するまでは見守っているわけには行かないかもしれない。だからこそこの子に幸多く心豊かな人生であって欲しいものだと願うのである。