60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

巡礼(秩父三十四ヶ所)

2013年12月27日 08時22分30秒 | Weblog
                           武甲山

 今日は秩父三十四ケ所(観音霊場)の19番から25番札所を巡ってみることにした。今まで秩父を散歩した折りに何ヶ所かは訪れているので、34ケ所中半分は行っているかもしれない。しかし順番に回って歩くのは初めてである。秩父鉄道の大野原駅に降りて19番札所の龍石寺を目指す。ある区間は自動車道を通るが、基本的には昔ながらの巡礼道を歩くようになっている。時には畑の道を歩き、時には農家の庭先を抜け、木々の生い茂る山道を歩む。所々に「巡礼道」の札があり、昔からの石の道標も見える。その道順に沿って次ぎの札所から次の札所へと目指して歩くわけである。

 札所に着くと何組かのお参りの人を見かけることもある。しかしほとんどは車での巡礼である。車のない昔は、巡礼の旅支度を整えてひたすら巡礼を続けていたのだろう。この秩父三十四ヶ所で約100km、徒歩で4、5日の行程のようである。ふと、昔の人はなぜ巡礼という習慣を考えたのだろうと思ってみる。では自分は今なぜ歩いているのだろうと考えてみる。一つは健康のため、一つは日常から離れての気晴らしのため、一つはカメラを持って心に残る風景を撮っておくため、決して信仰心のためではない。たぶん昔の人も信仰の為だけに歩いたとは思えない。娯楽の少ない日々の生活の中で、巡礼という非日常の世界に身を置くことでリフレッシュし、巡り終えたことでの達成感が、次の生活への糧となったのかもしれない。

 私は仕事をリタイアした後の目標に「四国八十八ヶ所を歩いてみたい」という希望がある。四国八十八ヶ所を歩くには、1200kmを40日以上の日数で、費用も40万円以上かかると言われている。リタイヤして時間がたっぷりできた時、果たして四国八十八ヶ所を踏破するだけの意欲と脚力が残っているだろうか?、そのためにも健康であること、歩くことを苦にしないこと、とりあえずの資金を貯めておくこと、これを来年からも意識していきたい。そしていつの日か四国の地を巡りながら自分の人生を振り、そこで何を感じ何を思うのか、それを人生の総括にしたいと思っている。

      
                  西武鉄道秩父線 上り電車とのすれ違い
                    数日前に降った雪がまだ残っている

      
                       秩父鉄道 大野原駅

                 
                     所々に巡礼道の案内がある

      
                        札所19番 龍石寺

      
                            荒川

      
                          旧秩父橋

      
                      札所20番 岩之上堂

      
                          岩之上堂

      
                           巡礼道

      
                       札所21番 観音寺

      
                       遠くに武甲山が見える

      


      
                        札所22番 永福寺

      
                        巡礼道は山道に入る

      
                         秩父市街を一望

      
                         札所23番 音楽寺

               
                         今度は山道を下る

               


      
                        農家の庭先を通って

               


            
                         札所24番 法泉寺

      
                            法泉寺

                 
                      この地蔵誰かに似ている

      
 武甲山は石灰岩の山、日本屈指の良質な大鉱床で可採鉱量は約4億トンと推定されている
 1940年に秩父石灰工業が操業開始してから、山姿が変るほど大規模な採掘が進んでいる
             ふと、顔をかじられたアンパンマンを思い浮かべてしまう

      
                   山肌は先日の雪が残っているから白い

      
                     歩くほどに山は姿を変えて見える

      
                       巡礼道の道標 昔と今

      
                        札所25番 久昌寺

               
                     寺の正面の弁天池は凍っていた

               
                    凍った弁天池を歩いて餌を探す小鳥

           
          巡礼者は朱印帳に朱印を貰う 1社300円X34ヶ所=10200円

      
                  再び荒川を渡り 秩父鉄道の浦山口駅へ

※ この1年、拙いブログをご覧頂きありがとうございました。
  本年はこれで終わりとし、来年は1月10日(金)からまた更新したいと思っております。







映画「かぐや姫の物語」

2013年12月20日 08時32分30秒 | 映画
 ジブリの映画、高畑勲監督の14年ぶりの新作『かぐや姫の物語』を観て来た。原作の『竹取物語』は千年前に書かれた日本最古の物語とされ、竹から生まれた女の子が絶世の美女に成長し、男たちの求婚を難題を出して拒み、月の世界に帰って行く……という内容だったと記憶している。今回の映画も、「今は昔、竹取の翁という者ありけり・・・・」というナレーションで始まり、竹林で翁が竹の中から小さな女の子を見つけるところから始まる。そして美女に育ち、都の公達たちからの求婚を退け、やがて月に帰っていくところで終わっている。したがって基本的に原話に忠実な作品なのである。
 ではなぜ高畑監督(スタジオジブリ)がかぐや姫を取り上げたのか?。それは原作では今ひとつ分かりづらいストーリーを現代風にアレンジし、かぐや姫がなぜ月から来たのか?なぜ月に帰らなくてはいけなくなったのか?という謎解きを入れ、そしてそこに人生のメッセージ性をも持たせることで、昔話を今に蘇えさせえる試みなのであろう。

 映画を見て感じることは、絵が実に綺麗に丁寧に描かれていることである。CGに頼らず手書きでやわらかく繊細な質感がすばらしい。輪郭がなく色だけの部分も多く、細部の描写はなく省略や塗り残しも多い。何か平安時代の絵巻物とか日本画や水彩画を見ているような雰囲気である。人物と風景が地続きになって、線と色のドラマを伝えてゆく。この当たりが高畑勲監督のこだわりの部分なのであろう。昔話を取り上げ、作画にも挑戦的な試みをしている。従来のアニメにはなかった手法である。映画が終わり、長いクレジットの間も、ほぼ満員の場内で誰も席を立つ人がいなかった。作品を見終わって、人によって違うのだろうが、それぞれに感動があったからであろう。監督の知名度や作品の性格上、あまり人気は上がらないようであるが、アニメ作品のエポック的な存在として見ておく価値は充分にあるように思った。

 前回の宮崎駿監督の「風たちぬ」もそうなのであろうが、高畑勲監督もアニメに対して一過言ある監督であるようである。作画数50万枚(通常7~8万)、製作年数8年、制作費50億円と、一つのアニメを作るには膨大なエネルギーを費やした作品である。ここまで監督のこだわりを認め、採算度返しでの映画作りができるジブリという会社、今の日本の映画界で特異な存在なのであろう。宮崎駿、高畑勲、両監督ともすでに70歳を超えて老齢の域になってしまった。もうアニメに対して今までのような情熱をかける事はないであろう。したがって今回の「風立ちぬ」と「かぐや姫」はジブリ的な作品の最後になるのかもしれない。

        

      

               

           

      

                

      

      

         

               

      

      






散歩(葛西臨海公園)

2013年12月17日 11時19分51秒 | 散歩(3)

駅からの散歩(葛西臨海公園)

東京都江戸川区 葛西臨海公園      12月15日

 今日は広大な葛西臨海公園を一周し、そのあと新左近親水公園、ファミリースポーツ公園、フラワー公園、富士公園、なぎさ公園と回って再び葛西臨海公園駅に戻る約11kmを歩くコースである。葛西臨海公園は、都が東京湾沿岸の汚染や埋め立てで破壊された自然環境を再生しようと整備されたものである。今では東京23区でも見ることが少なくなった動植物が、園内の森や池に生息している。公園は東京都が所管、開園面積は約81万平方メートルであり、上野恩賜公園や新宿御苑より大きい。

 公園を歩きながら、ふと「この地面の下はゴミが埋まっているのだろうか」と考える。この広大な公園は、人が破壊してきた自然に対しての自責の念から作ったのであろう。人工的ななぎさ、人工的な植生、今そこに徐々に鳥達が暮らし始めてきた。しかし公園を外れて一歩市街地にでると、大きなマンションが林立するコンクリートの世界である。全てが人工的に感じるこの地域、人と自然が馴染むにはもう少し時間が必要なように思ってしまう。

      
         葛西臨海公園駅のプラットホームからデズニーランドの施設が見える

               
                      JR京葉線 葛西臨海公園駅

      
                        葛西臨海公園入り口

      
                           大観覧車

      
                           鳥類園ゾーン

      
                            下の池

               
                             青さぎ

      
                            上の池

      


      
                           臨海ゾーン

      


               


      
                            東京湾

      


      


               


               
                             尾なが

               
                             ヒヨドリ

      


      
                臨海橋 公園を出て湾岸道路を渡って市街地へ

               


      
                  市街は大きなマンションが林立している

      


      
                        新左近親水公園

      
                         フラワーガーデン

               


               


      
                          なぎさ公園

      
                          旧江戸川

      






うつの前兆(3)

2013年12月13日 09時22分24秒 | Weblog
 このブログで以前書いた「抑うつ症状」の診断書を提出し、会社を休んでいた若者が今週から会社へ出社してきた。休み始めてから約1ヶ月半ぶりである。当初2週間が経過した頃、彼を呼び出して新宿で昼食をしてから、気晴らしにと旧古河庭園や六義園などの散歩に連れ出したことがある。その時は「外に出ることが億劫で、無理にでも外にでたり、友達に会うようにしている。誘ってもらって助かります」と言っていた。しかしそれからさらに1ヶ月経過し、今回出社してきた彼はすっかり様子が変わっていた。顔は青白く生気がなく、頬がこけて病み上がりのようである。しかも喋り方はたどたどしく、少しドモリが入ってくる。いったい彼はどうなったのか?会社の帰りに彼の状況を詳しく聞いてみた。

 休み始めてから3週間ぐらいは何をするにも億劫で不活発な感じだった。しかしそれでも規則正しい生活は守るようにしていた。しかし日を追うごとにその不活性さは進行して行き、外に出ることができなくなってしまう。部屋にいても何にもする気が起こらないし、TVを見ても感情が死んだように何も感じず、見ることすら嫌になってしまう。部屋も全く片付かなくなる。意を決して洗濯をしても、普段であればシャツなどはシワを延ばし、靴下は左右そろえて干すのだが、気がついてみると無秩序にただぶら下げているだけの状態になっていた。それに気づいた時、自分が無意識の時間帯が長く有ったことを知り愕然としてしまう。やがて食事をすることも面倒になる。胃は空っぽなはずだが空腹感は全く感じない。これではまずいと思い近くのコンビニに行って弁当を買って無理矢理に食べる。そんなことで1日1食程度になり、体重はまたたくまに5kgもダウンしてしまった。

 やがてベットから出ることが出来なくなり、ただただ布団を被って耐えているだけになる。このときの苦しさは自分の人生で経験したことにない質の苦しさである。多分これは体験者でないと理解してもらえないだろう、と彼は言う。不安感、恐怖感、圧迫感、あらゆるものが織り混ざって身動きすらできない。そしてその何もできない自分の不甲斐なさを自分自身が責めてしまう。布団を被って寝る日が5日間ほど続いた頃、「これでは自分がだめになってしまう」、「何とかしなければ、何とかしなければ、・・・」ともがく。しかし何もできない。そのもどかしさや不甲斐なさが高じて発狂しそうになる。むちゃくちゃに暴れだしてしまいそうになる。ベットの柵の金具に自分の頭を思い切りぶつけてみる。窓を開けて下に飛び込めば楽になれるかもしれない、そんな考えがフーッと自分の中をよぎったような気がする。「これはまずい」、「これでは自分が終わってしまう」、そう思い仙台の実家に助けを求めた。当然親は直ぐ帰って来いと言う。

 着の身着のままで、アパートからバスで高田の馬場へ、そこから山手線で上野駅へ、途中一歩でも足を止めてしまうと、その場にうずくまって動けなくなってしまいそうな感覚が襲ってくる。まわりに気を散らさず、ただ前だけを見つめて必死に歩く。そしてようやく実家にたどり着いた。実家に帰った時、母親が彼の異変に驚きの声を上げる。「あなた、どうしたの!」、「そんなに痩せてしまって」、「そんな汚い身なりをして、こんなになるまでほったらかしの会社ってどんな会社なの!」、「直ぐに会社を辞めて帰ってらっしゃい!」、・・・・・

 実家で寝起きし始めて、とりあえず落ち着きを取り戻した。何日か休んだあと、父親の伝手で、ある産業医(精神科医)を紹介してもらいカウンセリングを受けることになった。先生は彼の症状から、「対人障害(対人恐怖症)・コミュニュケーション障害」だと診断する。「今の症状は《人》が起因して起こってしまった。しかしこの症状を癒してくれるのも《人》である。だから苦手な相手とはなるべく話さず、自分が話しやすいと思う相手と積極的に話すようにしなさい。仕事も徐々に元に戻れるように、単純な作業からはじめたたほうが良いでしょう」、そんなアドバイスを受けたようだ。

 会社に出てきて社長と話し、当面は休みや休みに出社し、仕事も対外的なものはなるべくせず、単純作業を優先にしてもらうようになった。以前であればなんでもない作業、しかし精神的に疲れてヘトヘトになりながらもその日1日を乗り越えた。仕事中ふと気づくと、伝票を持ってすくんでいる自分に気がつく、「自分はこの伝票をなぜ持っているのか?」、「この伝票をどうしようとしていたのか?」、考えても思い出すことができない。やがて何十秒かを経過して、伝票を束ねるだけだったことを思い出す。そんな感じに自分の意識が飛んでしまうようなことが何度かあったそうである。この不甲斐ない自分をまた自分が責めてしまいそうになる。しかしカウンセリングの先生に、「自分を責めることは絶対やめなさい」、と言われた事を思い出す。「そうだ、今は仕方がないんだ」と思うようにする。
 ※この文章は彼の言葉をつなぎ合わせて書いたもので、必ずしも彼の内面を正確に表記するものではありません。

 さて、これから彼はどうなって、否どうして行くのだろう。私が思うに、今のギスギスとした環境(人)が彼の一番弱い部分に作用して「抑うつ症状」をおこしてしまったわけである。だからといってこの対人障害という弱点を今の環境の中で癒し克服していくのは無理なように思ってしまう。やはり彼に合う環境を探し、回復を待つ方が懸命だろう。だから1日も早く今の職場を離れ、彼にあった職場を見つけ、再び活動して欲しいと願うのである。



散歩(運河~流山おおたかの森)

2013年12月10日 15時46分40秒 | Weblog
駅からの散歩

運河(東武野田線)~流山おおたかの森(つくばエクスプレス)     12月6日

 東武野田線のその名も「運河」駅に降り立ち、運河水辺公園に向かう。「利根川運河」は明治23年にオランダ人技術者ムルデルの手によって、利根川と江戸川を結ぶ一級河川の運河として開通した。運河水辺公園から利根川に向かって運河を左手に見ながら並木道を進む。やがて運河から外れ東深井公園、柏の葉公園をまわり、つくばエクスプレスの流山おおたかの森駅まで歩いた。つくばエクスプレスは8年前秋葉原から茨城県つくば市まで開通した新しい路線である。今各駅周辺は住宅地を中心に開発が進んでいる。おおたかの森駅は東武野田線との乗換駅で、駅周辺はオフィスビルも多く、この線の中心駅の存在である。

      
                       東武野田線 運河駅

      
                         運河水辺公園

      
                         運河水辺公園

                  

      
                        利根川運河並木道

      
                          利根川運河

               

      

               

      
                   広大な敷地にある東大柏キャンパス

      
                          柏の葉公園

               
                           寒さくら

               


               


               


                  

      
                          柏の葉公園

               


      


      
                        駒木ふるさとの森

      
                    開発が進むおおたかの森駅周辺

      
                       おおたかの森駅前

               
                     流山おおたかの森駅で托鉢






堤 清二

2013年12月06日 08時36分23秒 | Weblog
 先週11月29日の朝刊に、「堤清二氏が肝不全のため、都内の病院で死去、86歳」という記事があった。堤清二氏は西武グループ創業者で衆院議長も務めた故堤康次郎の次男として生まれ、議長秘書を経て、西武百貨店、西友ストアー(現西友)などの社長を務めた。堤義明・元西武鉄道会長は異母弟になる。80年代から90年代初頭にかけて、西武百貨店、西友、パルコを中核とした流通グループを、生活総合産業を掲げ幅広い事業を手がけるセゾングループに育てた。進出した事業は、ホテル事業やマンション販売、リゾート開発、金融サービスなど多岐にわたった。しかし、金融機関からの借入金に頼った拡大路線がバブル崩壊で破綻し、ホテル事業、リゾート開発などから撤退。2000年には不動産会社の西洋環境開発を清算する際に、私財提供を余儀なくされた。グループ企業の経営から退き、セゾン文化財団理事長を務めた。
 また、詩人・辻井喬として61年の「異邦人」で室生犀星詩人賞、92年の詩集「群青、わが黙示」で高見順賞のほか、00年には日本の敗戦や戦後と向き合った長編詩「わたつみ 三部作」で藤村記念歴程賞を受けた。小説家としては69年、婚外子としての自身の複雑な出生などをつづった自伝的作品「彷徨の季節の中で」でデビュー。経済人で歌人だった川田順をモデルにした小説「虹の岬」で谷崎潤一郎賞を受けた。03年から04年にかけて朝日新聞に新聞小説「終わりからの旅」を連載した。04年に「父の肖像」で野間文芸賞。07年に芸術院会員、12年に文化功労者。朝日新聞文化財団理事を務めた。

 私は1943年東京に出てきて、堤清二率いる西武流通グループの会社に入社した。時代は高度成長時代である。特に流通各社の延びは大きく、流通革命と呼ばれて古くからの商店街にとって変わって急速に拡大していった。西武流通グループも、西武百貨店、西友から始まって、パルコ、ファミリーマート、無印良品と次々と新業態を打ち出していく。当時の覇権争いは激烈でダイエー、西友、ヨーカ堂と全国に店舗網を広げ戦国時代の様相であった。各社の社長は戦国時代の殿様のように、企業の旗頭であり絶対君主でもあった。そしてその差配や戦略は企業の浮沈を大きく左右していた。堤清二の率いるセゾングループは勢いに乗って流通以外にも不動産、ホテル、保険とその展開は多岐渡り、最盛期にはグループ企業は100社以上、従業員数は4万人を超えていたと思う。マスコミも時代の寵児として取り上げ、我々従業員にとって、堤清二をトップに持つことを誇らしくも思っていた時代である。

 そんな大所帯の企業で、我々社員が堤清二と直接話す機会はほとんどない。せいぜいエレベーターの中で挨拶をするか、品揃え内見会等で質問を受けて答える程度である。だから我々が直接社長の話を聞く機会は、年始のマイク朝礼での挨拶か、上期下期の年2回の幹部集会に話を聞く程度である。私も40歳を越す頃から幹部集会に出席するようになった。そんな中でいまだに記憶に残っている堤清二の言葉がある。
 それはある時の集会の冒頭に突然、「滅私奉公はするな!」と言い始めたことである。言葉の端々に怒りが入り、相当激しい口調だったように記憶している。(多分直前に何らかの布石があったのであろう)。「滅私奉公することが働く人の鑑だと考えている社員がいたら、そういう社員は即刻辞めてもらいたい!」、「会社とは自己発現の場である。自分を生かす場である。そんな場で自分を滅する(殺す)のであれば、それは働くに値しない!」、そんな内容だったと思う。その話を聞いた私は、改めて堤清二の真髄を感じたように思った。

 飛ぶ鳥を落とす勢いのあったグループも、バブルの崩壊から大きく傾き始めてくる。 インターコンチネンタルホテルの買収、各地でのリゾート開発、マンション販売と小売業から離れた部分が大きな負担となって、やがてグループが離散の運命をたどることになるのである。西武百貨店はセブン&アイへ、西友はウォルマートへ、ファミリーマートは伊藤忠商事へ、パルコはJ・フロント(松坂屋、大丸グループ)へと売られることになった。当然マスコミは堤清二の無軌道ぶりを叩き、栄枯盛衰を面白おかしく報じることになる。その後堤清二はマスコミには表立って出ることはなくなり、ペンネームの辻井喬として時々見かけるぐらいであった。

 察するに堤清二にとっては悔いの残る人生だったのかもしれない。しかし私の知る限りセゾングループに働いた社員で、堤清二を悪く言う人をほとんど聞いたことがない。グループのリーダーとして我々社員に夢を見させてくれ、働くとは何なのかを教えてくれ、その超人的な活躍に羨望のまなざしを持ち、自分達の人生の中で鮮烈な想い出を作ってくれた。そんな堤清二に感謝こそすれ、結果に対して恨むことはない。若い頃は共産党員であり、資本家であり、経営者であり、詩人であり、小説家であった堤清二、やはり昭和の時代を駆け抜けていった鬼才である。安らかなるご冥福を、心からお祈りしたいものである。合掌







散歩(稲田堤~向丘遊園)

2013年12月03日 15時10分19秒 | 散歩(3)
駅からの散歩

稲田堤~向ヶ丘遊園      12月1日

 東京都と神奈川県にまたがる多摩丘陵の東端エリアには生田緑地をはじめ、いくつもの緑地帯が存在する。それらを結ぶのが多摩自然遊歩道や東生田自然遊歩道など。今日はそんな遊歩道を伝って、稲田堤から生田緑地にある日本民家園まで歩いてみた。

      
                         南武線 稲田堤

      
                            三沢川

      
                          ふれあいの森

      
                           小沢城址

      


      
                 とぐろを巻く木 ナニコレ珍百景に登録なるか?

      
                            寿福寺

      
                         農業技術センター

      
                         多摩自然遊歩道

      


               


      
                         東生田自然歩道

      
                          土渕不動院

      
                          東生田緑地

      
                            竹林

      
                           生田緑地

      


      


           
                           枡形山へ

      


      


               


      
                          日本民家園

      


      


                  


      

               
                         なめこそば630円

      
                          日本民家園

               
                           ボランティア

               
                           ボランティア

               
                             

      
                          日本民家園

               
                        小田急 向丘遊園駅