60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

ブログ

2009年05月29日 09時11分19秒 | Weblog
このブログを書き始めてから今月末でちょうど1年になる。(昨年10月以前は別のURLコード)
毎週2回、火曜日と金曜日に書くことにし、とりあえず1年間は続けてみることを誓った。
毎日毎日次は何を書こう?次は何を書こう?と常にアップする日が気にかかっていた。
「今回は何も書くテーマがない」そんな事で悩む日々、書くことは自分に課せたノルマでもある。
なぜブログでそれほどまでしなければいけないのかということだが、そうするには動機があった。
それはあるテレビ番組を見たことに影響されている。

NHKテレビのプロフェッショナルという番組で、カーデザイナー奥山清行の番組を見たときである。
彼はゼネラルモーターズ、ポルシェと渡り歩き、世界の名だたる名車のデザインを手がけてきた。
現在はイタリアの名門デザインスタジオ、ピニンファリーナ社に籍を置いている。
世界中のメーカーから新車のデザインの依頼が殺到する「世界最高峰」のもの作りの現場だ。
奥山はそこで、デザイン部門の最高責任者・デザインディレクターをつとめる。
彼がその番組の中で自分の仕事のスタンスとして、言っていたことの中に思い当たることがあった。
それはデザインだけではなく、ほとんどのことは「思いつくまで待つ」「思いついたらやる」ではなく。
自分で「思いつくようにする」ということであると。そのために自分にノルマを課しているそうである。
具体的に彼は週に100のデザインアイデアを自分のノートに書き出すということをノルマにしている。
そのため、デザインアイデアのことが頭から離れることがない。毎日毎日何十というアイデアを考える。
毎日毎日アウトプットし続けるとアイデアが枯渇するかのように思われるが、それは全く反対である。
アウトプットするからインプットがある。アイデアを出し続ければ自然にアイデアを思いつくようになる。
そんな話をしていたように思った。
その時「そうなのだろう」と思った。何事も上達するには訓練が必要、訓練なくして上達はないと。

デザインとブログとを比べるべくもないが、書き始めるからには自分の中に向上心をもちたかった。
不特定多数の人に見てもらえる環境の中で、人が読んで興味を持ってもらうものが書きたかった。
文章を書くことは嫌いではないが、慣れていないこともあり、どちらかと言えば不器用な方である。
それで書き続けることで、少しでも文章力を上げたいと思った。そのために自分にノルマを課せた。
「書ける時に書く」でなく、毎週2回で1年間、計100編の日記を必ず書く。そう決めたのである。
会社のパソコンを使うから、土日には書けない。仕事の合間を縫って、ブログの原案を書いていく。
火曜にアップすればもう次の金曜には何を書こうと考える。金曜にアップすれば来週の火曜日は、
来る日も来る日もブログのことが頭から離れない。会社の仕事が疎かになることもしばしばである。
それでもノルマだからと続けてみる。そして、とうとう1年が経過した。

はたしてこの一年間書き続けたことでどれだけ上達したのかは自分ではわからない。
ただ自分が感じることは意外と長い文章が書けるようになったということである。たぶん最初に書いて
いた時より倍の長さになっていると思う。それだけ書くという行為に慣れてきたのであろうと思う。
自分の「思い」を「文章表現」につなげる道があるとすれば、その道の幅が少し広がった気がする。
また、始めから「こう書こう」と決めないで書き始めても、キーボードを打つうちに自分の体の中から
ジワジワと文章がにじみ出してくるようにもなった。このあたりが1年間続けたことの成果であろうか。
さあこれからどうしよう。やはり今のペースで続けていくのは負担が重いように思う。
デザイナーのように仕事であればそれも必要なのであろうが、ブログはあくまでも余暇である。

以前、朝日カルチャーセンターの小説教室に通っていた。それは自分の生きてきた証になるような、
自分の文章を書いてみたいという思いが有ったからである。しかし小説教室は付いていけなかった。
しかしその書きたいという思いは自分の中では消えてはおらず、あきらめられないテーマでもある。
ブログを続けることで、自分のことを客観視できるようになれば、やがて書けるかもしれない。
今はその為にも文章を書くという行為は続けていきたいと思っている。
今ブログには毎週約200名の訪問者がある。基本的に知らない人たちであるから読まねばならぬ
義務も義理もない。だからこの方たちの訪問頻度が自分の文章に対する評価だろうと思っている。
自分が納得いく文章が書け、多くの人達に読んでもらえるように、これからも書いてみようと思う。

私にとって「ブログ」を続けることは文章力のアップが一つだが、もう一つ自分がメッセージを発信し、
それを毎回誰かが受け取ってくれているという実感が持てるということにもあるように思える。
それは言い替えれば「誰かと接している」「自分は確実に今を生きている」ということを感じられること
なのかもしれない。mixiが支持される要因はここにあるのであろう。mixiのように仲間との直接的な
やり取りは義務感が発生し、そのうち億劫になって続かないであろう。
自分で決めたペースで、自分なりに黙々と書いていく、私にはその方が似合っているように思う。
そのあたりが「歳」なのであろうか。
これからは頻度を減らし(週一金曜日)、もう少し自分の内面的なことを打ち出し、文章の表現
描写を考えながら書いてみたいと思っている。

認識不足

2009年05月26日 09時19分26秒 | Weblog
今読んでいる本で、何個かの新しい知識を得ることができた。

一つは時間の感覚
たとえば私が10歳の時、朝7時に起き、学校に行く。授業が終わり下校して、一旦家に帰り、
再び友達同士で校庭に集まって野球をする。日が暮れるまでたっぷり遊んで家に帰る。
宿題をしてご飯を食べてお風呂に入り、一家団欒の時間を過ごし、10時には寝かされていた。
そんな1日の時間を今の1日の時間に比べると、ものすごく長かったように感じるのである。
今は1日がアッと言う間に終わり、1年がアッと言う間に過ぎていく。まさしく「光陰矢のごとし」と
感じてしまう。同じ1日、同じ1年なのに、なぜなのか?

本にはこう書いてある。
細胞分裂のタイミングや分化プログラムなどの時間経過は、すべてタンパク質の分解と合成の
サイクルによってコントロールされていることが解っている。つまりタンパク質の新陳代謝速度が
体内時計の秒針なのである。そして我々人間の新陳代謝速度は加齢とともに確実に遅くなる。
つまり体内時計は徐々にゆっくりと回ることになるということである。
体内時計の速度が遅くなるに従って、1年の感じ方は徐徐に長くなっていく。にもかかわらず、
実際の物理的な時間はいつもと同じスピードで過ぎてゆく。
まだ1年なんて経っているとは思えず、半年くらいという感覚でも、実際の1年は経過してしまった。
そして時間を振り返ったとき、愕然とする「もう1年が過ぎたのか」と。
つまり歳をとって時を早くと感じるのは、実際の時間の経過に生命の回転速度がついていけない。
そういうことらしい。

そうか反対に考えていた。歳をとると時間の経過を早く感じるのだろうと、しかし現実は反対で、
時の流れを実際よりゆっくり感じていて、もうこんなに経過したのかという感覚が残るからだという。
目からうろこである。

二つ目はコラーゲン、
今、人に勧められて、毎朝アミノコラーゲンを珈琲に入れて飲んでいる。
ネットなどの広告によれば、人の新しい皮膚を作り出す真皮には、コラーゲンが70%も含まれている。
年齢を重ねるとコラーゲンの含有量が減少し、関節痛や肌のハリがなくなる原因といわれている。
これらを防ぐためにも、コラーゲンを多く含んだ食品を摂るようにすることが重要だ。と説明されている。

しかし、本にはこう書いてあった。
コラーゲンは細胞と細胞を満たすクッションの役割を果たす重要なたんぱく質である。肌の張りは
コラーゲンが支えていると言っていい。ならばコラーゲンを食べ物として外部からたくさん摂取すれば、
衰えがちな肌のハリを取り戻すことができるのだろうか。答えは端的に否である。
食品として摂取されたコラーゲンは消化管内で消化酵素の働きにより、ばらばらのアミノ酸に消化され
吸収される。吸収されたアミノ酸は血液に乗って全身に散らばって行く。そこで新しいタンパク質の
合成のための材料になる。しかしコラーゲン由来のアミノ酸は必ずしも体内のコラーゲンの合成原料と
はならない。むしろほとんどコラーゲンにならないと言ってよい。

コラーゲンが不足するからコラーゲンを補うという考え方はあまりにも素人的な生命観である。
それは生物をミクロな部品からなるプラモデルのようにとらえる、ある意味ではナイーブすぎる機械論
でもある。生命はそのような単純な機械論をはるかに超えたいわば動的な効果として存在している。
これと同じ構造の「健康幻想」は至るところにある。タンパク質に限らず、食べ物が持つ組成は
消化管内でいったん完膚なきまでに解体されてしまう。だから口から入れたものがそのままダイレクト
に体の一部にとって代わることはあり得ないのである。

         福岡伸一 「動的平衡」  -生命はなぜそこに宿るのかー  より

今までコラーゲンを1缶(28日分)1980円で買っていた。
これが何の意味もないとすると、私は完全にだまされていたことになる。改めて商品を見てみた。
「付属のスプーンで1日すりきり1杯(約7g)を目安に溶かしてお召し上がりください」とは書いてある。
しかし、コラーゲンの説明もコラーゲンを摂取すればどうなるとはどこにも何んとも書いていない。
世間でコラーゲンが大切だ。だからコラーゲンを摂取しようという、短絡的な発想に元づいて商品を
売りだしたのであろう。こうなると、企業は何を基準に商品を作るのだろうかと思わずにはいられない。
結局この企業もこの商品を開発した担当者も素人的な生命観しか持っていないことになるのだろう。


今世間を騒がせているインフルエンザ、世の中からマスクがなくなった。通勤途中の山手線でも1割
程度の人が着けている。はたしてマスクは有効なのか?そんな疑問が起ってくる。
花粉症対策のマスク、花粉の大きさは数10ミクロン(1ミクロンは1mmの1000分の一)、ウイルスは
数10~数100ナノメートル(1ナノメートルは1ミクロンの1000分の一)ということは花粉の大きさの
1/1000である。花粉をサッカーボールとすればウイルスは仁丹の粒くらいの大きさだろう。
これでサッカーネット大のマスクを何枚重ねてもウイルスは引っ掛からないのは道理ではないか。
感染者がくしゃみをして、その時の飛沫の粒は大きくマスクでも飛散を防止することができるだろう。
しかし、マスクをしていたからと言って空気中に浮遊するウイルスを除去することは不可能であろう。
最近は医療用マスクとして、N95マスクというのが販売されているそうである。これは0.1~0.3ミクロン
(つまり100~300ナノメートル)の微粒子を95%以上捕捉する性能を持つマスクで、結核やSARSの
感染予防に効果があるらしい。しかしこのようなマスクでも細菌の1/100の大きさのウイルスには無益
だと言われる。今市販されている花粉用マスクを争って買う人々、気休めとはいえ、やはりおかしい。

女房にマスクの話したら、「そんなことを言って、万が一感染したら世間から叩かれるではないか、
マスクをしていて感染したなら仕方がないが、着けない理屈を言っているだけだ」そんな返答である。
とかく我が家は道理が通らず観念的な判断で抑え込まれる。夫婦仲が悪いのも仕方がないか・・・。

新型インフルエンザ

2009年05月21日 15時57分51秒 | Weblog
兵庫大阪に上陸した新型インフルエンザ、今度は八王子、川崎にも上陸した。
今朝の朝刊ではその感染者数は267人とか、じわじわと確実に広がりを見せている。
ここまで広がってくれば、もう歯止めは利かず、身近でまん延してくるのは時間の問題であろう。
新型だから、誰もが免疫を持っていない。したがって、感染対象者は公平に全国民である。
これが毒性の強い鳥インフルエンザで死者が出始めていたのならば、今頃はパニックになっていた。
しかし幸いなことに、今回のインフルエンザはの毒性が弱く、通常のインフルエンザと同じらしい。
今回、収まったとしても、冬に大流行し、いずれ誰もが感染せざるを得ないのであろう。
毒性が少なくリスクが少なければ、今のうちに感染して免疫を持っておくのも良いかもしれない。

コンピューターウイルスが生き物ではなく不正なプログラムであるように、インフルエンザウイルスの
ウイルスも細菌などと違い、生物学上は非生物とされ、遺伝子情報そのものだそうだ。
コンピュータウイルスがパソコンからパソコンに感染し、パソコン内のプログラムを書き変え被害を
もたらすように、インフルエンザウイルスもほかの生命体の細胞に入り込んで不正を働く。
ウイルスが人間の細胞の中に入り込み、その細胞を利用して、自分のコピーを作らせる。
細胞の中で自分のコピーが大量に作られると、やがて細胞は破裂して死んでしまう。
破裂した時細胞の中から大量のウイルスが飛び出し、他の細胞に入り込み増殖していく。

本によると、ウイルスは太古の昔から存在した。一説ではウイルスが生命体の細胞から細胞へ
渡り歩き、その細胞の遺伝子情報を書き換えたから、生命の進化があったとも言われている。
生命体と並行して存在してきたウイルスは過去に人類にはいろんな被害をもたらしてきた。
1918年のスペインかぜ、このときの感染者数は6億人、死者は5000万人と言われている。
その後のアジアかぜ、ソ連かぜ、香港かぜ等々、人類に対して津波のように襲ってくる。

インターネットを見ていたら、耳寄りなニュースが載っていた。
米疾病対策センターは20日の記者会見で新型インフルエンザに対する自然免疫が1957年以前に
生まれた中高年層に、存在する可能性があるという。
1918年に大流行を起こしたH1N1型のスペイン風邪は、1957年にH2N2型のアジア風邪に
とってかわられた。このため、57年以前に、スペイン風邪のウイルスが変異したH1N1型の
インフルエンザにさらされた経験を持つ高齢者は、やはりH1N1型の新型インフルエンザに有効な
免疫を獲得した可能性があるという内容である。
1944年生まれの私はその変異したH1N1型のインフルエンザにさらされた可能性もあるだろう。
そうなれば新型インフルエンザも恐れるに足らない。

明日から印刷の立会で大阪へ出張しなければならない。
自分としては今回のインフルエンザは獲得免疫があるか否かも興味があるし、感染するかどうか
試してみたい気もする。しかし大阪で万が一感染して、埼玉県第1号として報道されるのもまずい。
やはり首都圏でまん延し始めてから、マスクをつけないでチャレンジしてみようと思っている。


趣味はバラ

2009年05月19日 09時05分18秒 | Weblog
ゴールデンウイークが明けてから、通勤途中にある一軒の家の庭に色とりどりのバラが咲いている。
この家は駐車場のスペース以外は庭全体にバラが植えてあり、鉢植えのバラも所狭しと置いてある。
通勤で6時半ごろこの家の前を通るのだが、ほとんどいつもバラの手入れをするご主人を見かける。
年齢は私ぐらいだろうか、毎朝起きてからバラの面倒を見ることは、彼には至福のときなのであろう。
こういう人がバラキチと言いわれ、バラの魅力に取りつかれた人なのであろう。

3年ぐらい前、鎌倉の散歩で鎌倉文学館に行ったことがある。丁度庭園に秋のバラが咲いていて、
それを手入れしていた庭師さんに、バラについて色々と教えてもらったことがある。
バラは春と秋の2回花を咲かせてくれる。春は5月中旬から、秋は10月中旬から花を付ける。
やはり植物は春の方が生命力があり、花の数も多く、また大きな花をつけてくれるそうである。
秋は力がたりず、開花までの時間は長くなるが、そのぶん蕾がゆっくりふくらみ、 花色も鮮やかで、
花姿もしまりがあり香りも強いそうである。そして花としての寿命も長いそうである。
バラは「植えつけや植え替え」「肥料」「剪定」「病害虫対策」を中心に、1年中手がかかる。
仕立て方を工夫し面倒を見て、いかに美しい花を咲かせるか、それがバラを育てる楽しみ、
美しい花を咲かせるかどうかは環境次第、言ってみれば育てている人間次第なのですよ。
そんな話を聞かせてくれた。

今朝この家の前を通ると、ご主人がデジカメで、花一輪一輪を慈しみを込めてカメラに収めていた。
丹精こめて育てたバラ、バラに注ぐ愛情は子供や孫のに対するものにも似ているのかもしれない。

最近、人が物や人に対してかける愛情について思うことがある。
このご主人のようにバラに注ぐ愛情、人が犬や猫のペット等に注ぐ愛情、子供や家族に対する愛情、
どれもみんな根源は同じものではないだろうか、と思うのである。
人が人に対しての愛情で、友人への友情や家族に対する家族愛も、恋人に対する恋愛感情も
その対象が違うだけで、基本的には人が持っている一つの感情に起因しているように思うのである。
簡略に言えば「愛」というより「興味」と言うことなのだろうか?その興味が人に向かえば「愛」になる。
それがペットなどの生き物に向かったり、植物を育てるこことに向かったり、物や仕事に向かっていく。
言ってみれば人の中の「興味」というベクトルがどこに向かうか、どれだけのエネルギー量があるかで
愛情が深かったり、興味の対象が変わったりするだけの問題なのではないだろうか、と思うのである。

なぜそう思うのか、
もともと人間も動物である。愛情とか興味と言うものが、始めから多様にあったとは思えない。
動物の世界であれば「生存する」「子孫を残す」と言うことだけが最大のテーマであったはずである。
しかし人間社会はその「生存」はある種保障されたものになり、「子孫を残す」という本能的使命も、
地球上に人があふれている現代では、もう強いモチベーションにはならなくなってきたのであろう。

そして「生存」という本能がしだいに「興味」というベクトルに変容し多様化したのではないだろうか。
若い人が結婚しない。夫婦が子供を作らない。仕事一辺倒から、生活をエンジョイする人生へ。
そういうことからすれば、人間の動物的な本能は徐々に希薄になり退化してきているのであろう。
なにか、うがった見方のようだが、今の世の中の大きな流れからそう推察するのである。

毎朝庭に出てバラを育てるご主人、たぶん今から先、死ぬまで庭のバラを慈しみ育てるのだろう。
しかし、このご主人も思春期には同級生の女の子に恋心を抱き、失恋したのかもしれない。
そして結婚し、家庭を持ち、子供を愛し育てていくことにエネルギーを注いできたはずである。
今はその愛情はバラに向かっている。人が持つ「興味」のエネルギーはある時は「愛」になり、
ある時は「友情」になり、ある時は「仕事」に向かい、ある時は「趣味」に形を変えていく。
人が内包する「エネルギー」の源はただ一つ、人により年代によりその形は様々に変化していく。
最近はそんな風に思うようになった。そう思う方が、自分も人も理解しやすいと思うからである。

このバラを育てるご主人に比べ、私の興味の向く先はまだまだ揺れており何も定まっていない。
女房はもちろん、子供たちに対しての愛情も、仕事に対する興味も次第に薄れてきている。
かといって、動物や植物を育てることに興味は起きない。物に対する執着も薄いようである。
まだまだ私の中では俗世界に対しての未練が強いようである。今からさらに歳を経るに従って、
自分の中の興味の対象がバラを育てるご主人のように定まっていれば良いと思うのだが。

接客(2)

2009年05月15日 09時07分59秒 | Weblog
もう30年も前の話、ファミレスのデニーズに入ったとき、「ようこそデニーズへ」と言う挨拶を聞いた。
それは今までの対応と違っていて、違和感を感じたものの、ある種のさわやかさもあったように思う。
その頃からだろうかマニュアルということが言われるようになったのは、一番マニュアル化が徹底して
いると言われたのがマクノナルド、人員配置からアルバイトの出勤管理、作業手順から接客の
受け答えまで、すべてがマニュアル化されていて、さすが外資系と言われていた。
それ以来、日本の企業もそれに習ってマニュアル作りが行われるようになったように思う。
コンビニエンス、スーパーのレジ、百貨店の販売員、喫茶店やレストランのウエイターやウエイトレス、
アルバイトやパートさんなどを大量に使うサービス業において特にそんな流れが顕著になっていった。

時代の流れとともに個人のお店が淘汰され、企業によるチェーン化されたお店が巾を効かせて行く。
そして、ほとんどのお店が画一的で均質な接客になって行ったように思うのである。
先日夜、ローソンに入ったら、「いらっしゃいませ今晩は!」と声がかかる。最近この言葉をよく聞く。
ある1人の店員が、入店するお客さん一人ひとりに「いらっしゃいませ今晩は!」と大声で声をかける。
その声が狭い店内に響き耳に付いて仕方がない。「バカの一つ覚え!」急に不愉快になってくる。
こんな耳障りな言葉を発するのであれば、無言の方がはるかに良い、そう思うのである。

毎日毎日、買物をしたり、飲食のために店に入ったりすると、否応なしに接客ということに出会う。
郊外型の寿司屋に行って、注文すると注文する都度「ガッテンです!」と言われる。
店の名が「がってん寿司」だから言わせるのであろうが、これを言うことに何の意味があるのかと思う。
駅前の飲み屋で注文するとアルバイトの女性が「よろこんで!」と大声で言って注文を受ける。
これを言う従業員も、これを聞くお客も何となく気づまりな感じがする。もう2度と行く気はしない。
あるラーメン屋で注文をすると「一生懸命頑張って作らせていただきます」と大声で言われた。
もうこうなるとメイドカフェで「お帰りなさいませご主人様」と言われているのと大差ないように思う。

「お客様は神様」に見立て、売る側がした手に出ることで、お客さんに優越感を持ってもらおう、
そういう演出なのかもしれない。そしてこれが優れた接客マニュアルだと勘違いしているのであろう。
私はもうこんな心にもない表面だけの対応はうんざりである。反対に腹立たしくなってくるのである。
こういう風に感じるのは私だけなのだろうか、それとも私に柔軟性がないからなのであろか。

接客とは人と人との接点である。だから優しく、やわらかく、自然に接したいものだと思っている。
特に気負うことなく自分なりの自然なスタンスで良いと思う。人には器用な人も不器用な人もいる。
不器用は不器用なり、仕事に対しての一生懸命さが見えればお客さんは納得するものである。
奇をてらったり、手抜きをしたり、言葉だけになったり、そんなことはお客さんには直に判ってしまう。
一生懸命であれば、言葉が違おうが、釣銭が違おうが、待たされようが鷹揚でいられるように思う。
「誠意を持って接する」、接客だけではなく、これが人間関係の王道ではないであろうか。

私は最近はネクタイを買う時、池袋駅構内にある小さな衣料品店と決めている。
そして、その店で働く白髪の初老の店員さんがいるときだけ、その店に立ち寄ることにしている。
彼はセーターをたたみ直したり、ハンガーの商品を掛け直したりしながら何時も動いている。
私が店内でネクタイを見て回っていても決して声をかけたりしない。しかしいつ声をかけられても
良いような距離保ちながら、そしらぬ顔で黙々と作業をしているように見える。
「すいません」と声をかけると作業を止めて近づいてくる。 「今着ている背広にはどんなネクタイが
合いますかね?」自分が選ぶものは変わり映えしないと思うから、最近はほとんど人任せである。
彼は少し離れたところから私を見つめた後、陳列されている棚の端から端まで商品を見て回る。
そして1本のネクタイを選ぶ。「紺色ですから、基本的にはどんな色を選んでも良いのですが、
今から夏に向いますから、こんな色がさわやかで良いと思いますよ」
そう言いながらネクタイを結んで手渡し、ガラスケースの上にある鏡をこちらに向けてくれる。
私が首に当てて見ている間、彼は又陳列棚に向かい、今度は2本のネクタイを持って来る。
「あと、こんな色も良いと思いますね」結局私の前に3本のネクタイが示される。
どれも自分であれば選べない柄である。その3本の中から私は1本を選び買うことにする。

この店の何がいいのだろう?なぜここでネクタイを買いたいと思うのだろう。
私は自分にないセンスを彼に求める。求められた彼は喜々として私のために商品を選んでくれる。
この背広に合う色を、顧客に合うデザインを自分の経験とセンスを総動員して一生懸命である。
こんな雰囲気を感じると、頼んだ私もうれしい。頼まれた方も自分の存在感が確認できるはずだ。
結局、接客とはこんな顧客満足度が基本になるのだろうと思う。
そのためにはマニュアルはいらない、マニュアル的な対応は返って人との間に壁を作るように思う。
接客に必要なのはその人の誠意と努力とセンスや対応力ではないだろうか。

100年に1度の不況の中で生き残り、これから再び伸びていくのはマニュアル化された店ではなく、
個性的でナチュラルな品揃えやメニューを持ち、暖かく自然な接客ができるお店であると思いたい。

接客

2009年05月12日 08時54分57秒 | Weblog
毎週土曜日の朝、近所のクリーニング屋にその週に使ったワイシャツを持っていくのが習慣である。
私はそのクリーニング店に行くたびに、そこのある店員(パート)の接客に不愉快さを感じ続けている。
その人の接客がぞんざいでも不親切なわけでもなく、反対にあまりにもマニュアル通りで、それから
一脱しないからなのである。もう何年この店に通っているから、その人は私の名前も覚えている。
店に入ると「いらっしゃいませ、○○さん、電話番号の下4桁をお願いします」そういう風に聞いてくる。
私が下四桁の番号を言うと、その番号をレジに打ち込んでから、ワイシャツの数を打ち込んでいく。
打ち込むとトータル金額が表示され「○○円でございます」「○○円お預かりします」と型通りの応対。
そしてお金を受取りキーを打刻すると、ビビビと預かり書が打ち出されてくる。
「お預かりは5点です。本日6時以降でお渡しできます。その時はこのお預かり伝票をお持ち下さい」
まずこの言葉が不愉快なのである。もう何年も通っていて顔も名前も覚えているのだから当然何時
から引き取きとれ、その時預かり伝票を持ってくることぐらいもう充分解っていると理解すべきである。
その相手に対してこの紋切り型の接客はなんとも味気なく、最低の接客ではないかと思うのである。

このパートさんはこの店のボス的な存在だろう。何時も他のスタッフに指示をしているように見える。
歳は50前後であろうか、大柄で、かなり太っていいて、顔も大きく相手に対しての威圧感がある。
それに加えて化粧も濃く、口紅も真っ赤である。私の先入観からなのか不快感を持つのである。
そんな人に毎回毎回馬鹿丁寧にマニュアル通りの接客をされると、「ムカッ」と来るのである。
私はマニュアルとはアルバイトなど接客に慣れない人が、最低基準として覚えるものだと思っている。
マニュアルが必要なのは20代まで、あとは創意工夫で発展させていべきものではないだろうか。
スタッフ全員が50代前後、皆いい大人に対して、彼女はマニュアル通りにやることを強要している。
クリーニング店であるのだから、ほとんどのお客さんがもう何回も何十回も来ているはずである。
他のお客さんがどう思っているかはわからないが、私はこの接客に対しては否定的なのである。
だから特にこの人が接客してくれる時は「むっと」する感情を押し殺して無愛想な顔になる。

日曜日にワイシャツを引き取りに行った。その時、運悪くこの人が接客することになってしまった。
伝票を受け取ると「いらっしゃいませ、しばらくあちらで、お待ちください」とカウンターの端を指差した。
私はこの指図するかの言い方に日頃の不満が臨界に達したのか、怒りが込み上げてくる。
「今は私以外誰もお客さんもいない。それなのに今いるこのカウンターではなく、なぜ向こうまで
歩かせて、そこで待たねばいけないの?」
イラッとしていたから、口調としてはきついものになっていたのだろうと思う。その人も身構える。
「こちらが、受付カウンターで、向こうがお渡しのカウンターで対応させてもらっていますから」と言う。
「ならば、受付とお渡しの表示をしっかり書くべきではないのか、何にも書いてなければ分からない」
「お客様が立て込んだ時の社内のルールでやっていますから」
「社内のルールは私には関係ない。今は誰もいない、ここで渡すことに何の不都合があるのか」
あっけにとられたような顔をして「こちらでお渡ししても良いのですが」そう言ってハンガーに掛かった
洗濯物を取りに行った。

クリーニングを受け取って外に出る。窓越しに見ると、その人は他のスタッフと何やら話している。
たぶん、「あの人はなぜ怒っているのかわからない。私が何をしたのよ!」と言っているのだろう。
私も思う、あんなにむきになるなる必要があったのだろうか、果たして何に腹を立てたのだろうか?
あのしまりのない体型?、あの派手な化粧?、それともあの感情のない紋切り型の喋り方?、
それともそんなこんなが複合された彼女全体がもつ接客のスタンスに対してなのだろうか?

自分でもはっきりとは解らないが、たぶん今までの長い間の彼女の接客態度を見ていて、
この接客の仕方はおかしいし、間違いだと思う気持ちが積もり積もっていたのであろう。
彼女がマニュアルを金科玉条のように思い、他のスタッフに指導している図は特に許せない。
「どうですかこの素晴らしい接客技術は・・」と誇らしげに言っているように見えていたのであろう。
そしてその無知さ加減に対して、次第にイラつき、腹が立ってとうとう爆発したのだろうと思う。
しかし私が間違っていると思う接客も、彼女にとっては正しい接客であり一生懸命やっている。
したがって、私がいきり立つ必要はなく、嫌であればこの店に来なければいいだけの話である。
しかしこの店は我が家から一番近くにあり、駐車場があって便利だからついつい行ってしまう。
このあたりが私のジレンマなのであろう。

人にはどこかにウイークポイントがある。たぶん私の弱点は自分が受け入れがたいことに対して
受け流せず、次第にその思いが増幅していき、こらえ切れずに爆発することなのかもしれない。
「良い歳をして大人げない。こんなことでは今度このクリーニング屋に行きつらくなるではないか」
そう反省はしてみるのだが、果たして又同じことが起きたら我慢できるのであろうかと自信はない。

塩船観音

2009年05月08日 09時51分41秒 | Weblog
ゴールデンウイークの5月3日、友人に誘われて、青梅の塩船観音へ行ってきた。
その友人の自宅は塩船観音の傍にあり、毎年この塩船観音のツツジを見に来いと誘ってくれる。
塩船観音は八百比丘尼によって開山された,1300余年の歴史を今に伝える古刹である。
青梅市の市街地の北にあり、JR青梅線の河辺駅や青梅駅からバスで20分程度である。
春のツツ、初夏のあじさい、秋の曼珠沙華など四季折々の花が咲く寺としても広く知られ、
特に春は15種約2万本のツツジが咲き、最近はツツジの名所として有名になっている。
周囲を小高い丘に囲まれ、すり鉢状になっていて、その斜面にビッシリと植えられたツツジが、
一望に見渡せる風景は、花がお寺を包み込むようで、特異な雰囲気を醸し出している。

友人の話だとこのお寺はお墓を持ってなく、したがって檀家が少なく、貧乏な寺であったようだ。
戦後、近隣の人々が境内に花(ツツジ)を植えるようになって、お寺を盛りたてていったそうだ。
友人が引っ越してきた20年前、町内で塩船観音の境内のツツジの管理分担が決まられており、
植樹、下草刈り、剪定と住民による整備が進められて、花の寺として生まれ変わっていった。
今は花のシーズンに入場料を徴収しその資金を境内の維持管理に当てているようである。

友人に案内され境内に入る。入山料は300円だが彼がくれた招待券で無料で入ることができた。
入場券を売る人、受け取る人、屋台で物を売る人、テントにいる長老達、皆彼に声をかけてくる。
「そうなのか、この時期ここの運営は地元の人達が総出でやっているのだ」と納得がいった。
彼によると、この地域の人々との交わりは深いようで、ソフトボール、町内の運動会、盆踊り、等々
色々なイベントを通して地域のコミュニケーションは深まり、地域の力は結集しているという。
その大きな核になっているのが、この塩船観音なのであろう。

今私は自分の住む地域とのつながりは極端に薄い。それは私が人付き合いが悪く、引っ込み思案
という性格からであろうか。引っ越してきて30年、近所に親しい人はいず、たまに声を交わすのは
隣のご主人ぐらいである。あとは朝、家の前を掃除している近所の奥さん達に会釈する程度である。
女房は子供つながりで、何人かとの交流はあるようだが、年々その関係も薄くなっている感じである。
地域でのイベントは皆無で、2ヶ月1回公園の草取りがあるだけ、それにも最近は出たことはない。
町内会の役員選出も皆しり込みをして集まらず、結局班ごとに順番制でやるようになった。

友人の住む青梅市のその地域と比べ、我が地域と私自身の繋がりの薄さは極端なようにも思う。
この違いは何が原因なのであろうか?個々人の性格?田舎と都会?そればかりでもないであろう。
同じ都心でも隣は何をする人ぞ、という無関心のところもあれば、下町の人情が厚いところもある。
今住んでいる地域は40年前、山を切り崩して造成した新興住宅地である。
当時ここを購入した人は同じ年代層で、しかも都心に通うサラリーマンが大半であったようである。
近所に神社もなければ商店街も大きな広場もない、ただただ一戸建て住宅が広がるだけである。
すべての人が新入りで、しかも集う機会が乏しく、地域としての習慣が出来なかったのであろう。
それが今だに続いており、皆がばらばらの都会のマンションのような環境の住宅地の所以であろう。

たぶん、人々がコミュニケーションを維持していくには何にか核になるものが必要なのかもしれない。
たとえば塩船観音のような、たとえば下町のお祭りや盆踊りのような、そしてそれを束ねるリーダーが
必要なのであろう。昔はそれぞれの地域に神社仏閣があり長老がいて一つの纏りがあったのだろう。
今まではこの地に長らく住んでいてもさほどは近所とのコミニュケーションの重要性は感じなかった。
しかし今後仕事を辞め、ここに住み続けることを考えると、地域との付き合いも必要なのだと思う。
地域の防犯や災害時のネットワーク、そんなことも日々のコミュニュケーションが元になるのであろう。
友人の住む塩船観音を見てそんなことを思ってみた。


足底腱膜炎

2009年05月01日 09時09分57秒 | Weblog
2ヶ月前から右足の踵(かかと)が痛む。歩行時足が地面に着く度に、踵にチクチクした痛みがでる。
基本的には長い時間歩いた後に痛みはひどくなるようである。「まあそのうち治る」そう思っていた。
しかしその状態が1ヶ月、2ヶ月と経過しても痛みは一向に消えてくれない。
「ここまで長いということは、どこか骨にでも異常があるのだろうか?」と少し心配になってきた。
「毎週歩く散歩が負担になっているのだろうか、それとも加齢によって出てくる異常なのだろうか?」
インターネットで会社の近くにある整形外科を探して、行ってみることにした。

病院に行くと、先生は症状を聞き、看護婦にレントゲンを撮るように指示をする。
待つこと10分、レントゲンの現像が仕上がって来たようで、看護婦さんに呼ばれ診療室に入る。
「骨に異常があるかと思い、レントゲンを撮りました。見る限り、とくに骨には異常はないようですね。
今の痛みは足底腱膜炎でしょう」 そう言って足の図が書いてあるプリントを渡され説明が始まった。

足底、すなわち足の裏にある腱膜の炎症で、歩いたときの踵の痛みが主な症状のようである。
足底腱膜は、踵骨の下面から5つの中足骨の先端の下面まで扇状に広がる腱様の膜で、
足の「土踏まず」のアーチが弓だとすると、足底腱膜はつるの役割を果たしているということらしい。
跳躍や急激な運動によっても症状が出るようだが、加齢に伴っても足底筋膜炎を起しやすくなる
らしい。自然に痛みが出てくる場合もあり、長距離歩行や立ち仕事などがきっかけになることも
あるようである。
治療は柔らかい靴の中敷をいれること、ヒールカップという踵のクッションをいれるなどの対策が
有効であり、土踏まずのアーチを支えるような足底板(靴の中敷き)も効果があると言われた。
足のストレッチ運動もやった方が良いと言われ、ストレッチの説明図も一緒に貰った。
一応の説明のあと、先生は脱脂綿を小さく丸めた塊を作り私の土踏まずに当ててテープで止めた。
「こんな風に踵を保護するようにしたらいいですね。しばらく様子を見て悪ければまた来てください」
そんなことで病院を出た。

会社までの間、先生が入れてくれた脱脂綿の塊がゴツゴツと土踏まずに当たって歩きずらい。
あまりにも脱脂綿を硬く巻き過ぎて、しかも足の裏にフィットしていないために異物感があるのだろう。
なにか良い方法はないのだろうか?そう思ってドラッグストアに立ち寄って、売場を廻ってみる。
土踏まずに合うようなもの、いろいろ見て回ったが適切なものはない、やはり自分で作るしかない。
そう思って、キッチンで使う角いスポンジ(5ヶ入り)と幅広の粘着包帯を買って会社に帰った。
スポンジを半分に切り、土踏まずに合わせ周りのスポンジをカッターナイフでそぎ落とす。
そして土踏まずに当てて粘着包帯で足の裏に固定した。少しの違和感はあるものの体重が踵
だけにかからず、足のうら全体にかかるような感じである。しばらくこれを続けてみようと思う。

これで又一つ体にトラブルが発生した。まあ、あまり深刻なトラブルでもないから良いとしよう。
若い時なら、打ち身や捻挫、疲労や筋肉痛でも1~2日すればすぐに回復したように思う。
しかし歳とともにその回復力は衰えてくる。これが「歳を取った」ということで仕方ないのであろう。

最近は体の回復がままならないのと合わせ、記憶力、と注意力が如実に衰えたことも痛切に感じる。
デジカメの電池を外し充電していたのを忘れ、カメラを持って出かけて、写そうと思ったら起動しない。
読みかけの小説、読もうと思って電車の中で鞄を開けたが無い!そうだ寝る前に読んで枕元だった。
携帯電話が見当たらない。どこで置き忘れたか記憶をさかのぼってもなかなか思い出せず探し回る。
こんなことは日常茶飯事、どこまで激しくなり、どこまで深刻になってくるのかを思うと少し不安である。

体の衰え、記憶や注意力の衰え、人に聞けば、「これも年相応、人並みなのだ」と言われる。
この衰えを抑えつつ、なおかつ平然とした顔で、世の中で通用させて行く、それも私の課題であろう。
体力、注意力は衰えても、できれば気力だけは失いたくない。そんな風にも思うのであるが、果して。