60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

祈りの幕が下りる時

2018年02月23日 08時49分38秒 | 映画
 
 通勤途中のラジオで「映画祈りの幕が下りる時、絶賛上映中」のCMが耳に残り、「久々に映画でも見に行こうか?」と思い立つ。この阿部寛主演で東野圭吾原作の加賀恭一郎シリーズ、小説も何冊か読んでいる。最終話ということなので、小説を読んでから見に行こうと思い、会社の帰りに書店によって同名の文庫本を買い読み始めた。 
 
昨今のTVサスペンスはマンネリで、粗製濫造の作品が多いように思う。取って付けたようなストーリーをこね回し、最後は後出しジャンケンのような結末。こんな内容で1時間は耐えられても、2時間ドラマに仕立てたものはうんざりする。そんなサスペンス作品の中で東野圭吾の作品は群を抜いて質が高いように思う。ぐいぐい引き込んでいくストーリー展開、緻密さ、意外性、一度読んでしまうと、次々に手を出してしまう中毒性も持っている。東野圭吾作品ではTVの「探偵ガリレオ」(福山雅治主演)が面白く、劇場版の「真夏の方程式」や「容疑者Xの献身」など見たことがある。今回の加賀恭一郎シリーズも、NHKのTVドラマのシリーズで「新参者」、映画で「麒麟の翼」、本としては「赤い指」など何冊かを読んだことがある。
 
 主人公の加賀恭一郎役はずっと阿部寛が演じている。本の中での主人公の描写は、初めから阿部寛を当てはめて書いてたようにピッタリとハマる。だからか本を読んでも加賀=阿部としてイメージされ、読んでいると常に阿部寛の表情が浮かび上がってくるほどである。さてこの作品、別々に存在する4つの殺人事件が、次第に接点を持ち始め、それが絡み合い複雑な事件の様相を呈してくる。4つの事件に係るそれぞれの登場人物、それを追う警察関係者、さらにそれぞれの事件が錯綜し絡み合ってくると、頭の中で整理がつかず、「この人物どこででてきたっけ?」と考え込んでしまうことになる。そんなことで、つっかえつっかえ読むから一気に読めず、今ひとつ面白さが伝わってこなかった。
 
 そして先週、映画を見に行く。複雑な事件の絡み合いを、2時間の中でどう表現していくのか?、そのあたりも「読んでから見る」時の楽しみの一つである。映画は小説で書かれている内容をうまく整理し強弱を付けながらも、作者の意図をキチット表現していたように思う。配役も小説からのイメージとの違和感もなく、大勢の登場人物も視覚で見分けるから、今度は事件の絡み合いにも意識は付いていける。小説を読んでいるから結末は分っている。しかし、そこに役者の演技に映像と音楽が加わることで、小説以上にストーリーに集中し楽しめたように思う。
 
 見終わってから「小説を読んでいなかったら、映画だけでこのストーリー展開に付いていけただろうか?」、「ひょっとしたら、小説+映画で一人前に作品を理解できたのかもしれない」と思ってみる。最近特に自分の中の読解力、理解力、集中力が衰えていることを感じるようになった。それに伴って感受性も薄くなっているのだろう。歳をとると5感(視覚、聴覚、触覚、味覚、臭覚)が徐々に衰えていくと同時に、第6番目の感覚(知的・芸術的な感覚)も衰えてくるようで悲観的になってしまう。老後対策として、すこし小説も読んでみよう。そのれには東野圭吾の作品は良いかもしれないと思う。
 
 
 
 

君の名は。

2016年09月23日 08時30分48秒 | 映画
  9月19日日経新聞の春秋というコラムに下記のような映画の紹介があった。・・・・「君の名は。」-現在ヒットしているアニメ映画の題名だ。往年の名作ラジオドラマと混同しそうだが、末尾のマルで区別するらしい。舞台も現代であり、全く別の話だ。しかし共通点が2つある。男女のすれ違いを描くことと、物語の背景に大きな災厄があることだ。
 ▼ラジオドラマ「君の名は」では、東京大空襲と戦後の混乱が、主役2人の運命を大きく変えていく。放送開始は終戦からわずか7年後。空襲もその後の混乱も、まだ同時代の体験だった。翻弄される2人の姿には、作り事のメロドラマを超えたリアリティーがあった。人気を博した裏側には、そんな共感もあったのだろう。
 ▼現代の「君の名は。」はスマートフォンを操る若者達の話だ。前半は甘酸っぱい恋愛話かと思わせ、後半はぐっと色彩を変える。内容の詳細にはふれないが、やはり東日本大震災を経て生まれた作品だと感じる。都会の人間は、遠い地方の災害を見世物として楽しんではいないか。そんな問題提起も、見る人たちの心に迫る。
 ▼今年はゴジラ映画の最新作も議論を呼んだ。第一作は終戦から9年後、空襲や水爆実験を背景に作られた。最新作は東日本大震災や原発事故を大怪獣と重ねて描き大人の客も呼ぶ。ドラマなどの娯楽作品だからこそ表現できる心の振るえがある。震災から5年半、新世代の作り手が練り上げた「災後」映画の問いかけは重い。
 
 何かの媒体で映画の解説を読むことで、行ってみようという気になる。雨の祭日、このコラムを読んで早速見に行く気になった。いつもは30分前に行っても見られる映画館だが、さすがに100億円突破目前と言われるだけはあってすでに満員、結局2回待ちになってしまった。映画は田舎町に住む女子高校生と東京に住む男子高校生、性別も住む環境もまったく異なる2人が夢の中で入れ替わるファンタジックな設定で始まる。やがて女子高校生が住む田舎町がすい星の落下で大きな災害に見舞われることになる。その間の2人の入れ替わり、男子高校生が住む現在と、災害に見舞われた3年前とのタイムスリップ、ストーリーはめまぐるしくその設定場面が入れ替わる。
 
 緻密で美しい描写の風景、テンポの良いストーリー展開、これがポスト宮崎駿と目される新海誠監督作品なのであろう。ジブリの作品は中高生が主体だったように思う。今回の新海作品は20代前後の若者がターゲットなのだろう。ファンタジーなのかSFなのか、どちらかと言うと論理立ててものごとを考えるタイプの私には、その新海ワールドに戸惑いを覚えてしまう。しかし戸惑いながらも映画の中に引き込まれていく。
 
 上映が終わって、館内を出るとき隣を歩いていた大学生風の2人の男子、1人が「映画で泣くことはないのだが、今日は涙が出て止らなかったよ」と話す。もう1人も「そうだよな、久々に感動する映画だった」と答えている。映画を見ながら終始「???」を繰り返していた私は涙など出る閑はなかった。もう1、2度見ればそれを感じることができるかもしれない。やはり私には小学生の時ラジオで聞いた「君の名は」の方が、分かりやすく心が震えたように思う。それほど今の若者と比べ感受性が衰えているのであろう。

   

   

   

   

   

   
 
 

英会話

2016年07月22日 08時09分15秒 | 映画
 本屋の中を見て歩いていたら、《ローマの休日を見るだけで英語の基本が身につく》、という本が目に止った。この映画、30年と10年ぐらいに前にTVとレンタルDVDで2回見たことがある。その時、オドーリーヘップバーンの大きな瞳とキュートな笑顔が印象的で、思わずストーリーに引き込まれていた。この映画で英語をマスターできれば面白いかもしれない。定価は1620円、英語が身につかなくてもDVDを買ったと思えば損はないだろう。そう思って買うことにした。
 
 中学高校の各3年間、大学の2年間と併せて8年間英語を習ったのに、全く身についていない学科が英語である。高校時代、数学、幾何、物理が得意科目で、英語、社会(日本史、世界史等)や化学は苦手科目、その得意不得意は極端だった。例えば得意科目が80~90点だとすると不得意科目は30~40点、平均して60点という感じだった。もう少し不得意科目が克服できていたら、自分の希望する大学にも行けたのに、と思ったこともある。
 
 結局人生70を越して今まで、英語を使う機会はなかった。唯一アメリカに研修旅行に行ったときにそのチャンスはあったが、結局通訳に頼りきりになってしまった。だから土産を買うときだけ「How much?」程度しか使わなかったように思う。そして帰りにハワイに立ち寄り、ワイキキの浜辺で地元の女の子が隣に座ったとき、勇気を振るって、「How old are you?」と聞く。すると彼女は「thirteen!」と答えてから、ベラベラと喋り始めた。しかしそのスピードに何を言っているのか理解できず、「I can't speak English very well.」と答えて逃げたことがある。それ依頼英会話とは無縁である。
 
 英語に対する苦手意識、それを克服する人生最後のチャレンジなのかもしれない。目標は東京オリンピックまでの4年間、その時多少でも外人と話せれば良い。そう思ってレッスンを始めた。
 
 本には、実生活に必要な生きた本物の英会話を効果的に習得するには映画が良い。その中でも「ローマの休日」が教材として最高だろう。なぜならストーリが断然面白い。そしてすぐに使えるフレーズが満載で、楽しみながら飽きたり挫折したりせず、長続きできると書いてある。

 
    
 
 DVDは日本語字幕、英語字幕、字幕なしの3パターンから成り立っている。まず日本語字幕を観てストーリー展開と大雑把な会話の内容を確認する。それから英語字幕で観て、英語を確認する。さらに本に書いてある英語のセリフと日本語訳を見て、分からなかったり聞き取れなかった部分を確認していく。そしてスピードになれ、ある程度聞き取れるようになったら、字幕なしで英語の音声だけで映画を楽しむ。
 
     
 
     
 
 買ってから日本語字幕で3回、英語字幕で3回ほど観た。ストーリや会話の大雑把な内容は大体分かった。しかし英語の簡単なフレーズは聞き取れるが、長い会話は何個かの単語しか聞き取れない。まあ5回目より10回、10回目より20回とだんだん会話のスピードに慣れてくるのだろう。そして聞き取れる単語も多くなり、最終的には字幕なしで楽しめるのかもしれない。極端な話、本に書いてあるセリフを暗記し、映画を100回観ればそれは可能であろう。果たしてそこまで自分の意思が続くかどうか、それが問題である。
 
      
 
       
 
        

     




 
 
 
 
 
 
 
 

映画の映像技術

2016年01月22日 08時11分42秒 | 映画

  先週と今週2回ほど映画を見に行った。1本は「スターウォーズ/フォースの覚醒」、もう一本は「シーズン/2万年の地球旅行」という動物の生態を追ったドキュメンタリー映画である。スターウォーズはもう30年近く前からあるSFのシリーズ作品だが、今まで映画館でもTVでも一度も見たことはなかった。それは最初から見ていないから物語の繋がりが分からなこと、現実から遊離した空想の世界には興味がもてなかったからである。

 今回見に行ったのには切っ掛けがある。お正月の初めにNHKで、「ハリウッド映像王国の挑戦」と題して、スターウォーズの製作現場にカメラを入れ、映像の技術革新の実態をドキュメンタリーで見たからである。番組はスターウォーズを手がける映像スタジオ「ILM」の現場に密着し、製作者の苦闘の様子を追っている。ILMは「E.T.」や「ジュラシックパーク」などを手がけ、世界最高の特撮技術を持つと言われる。SF映画は当初模型や縫ぐるみの実写から始まった。それからしだい技術革新がなされ、ジェラシックパークあたりからCG(コンピュータ・グラフィックス)が使われ始め、今はCG全盛期である。

 CGの導入によってクリエイティブで面白い視覚効果がたくさん使われるようになったが、反面過剰に使われると、作り物の世界を感じてしまう。今回、スターウォーズの製作に当たって監督のJ・J・エイブラムスは宇宙船の実物大模型を作ったり、登場するキャラクターも人の手で動かすなど、CGに極力頼らず、手間のかかる実写撮影にこだわったと言う。そんなNHKの番組を見て、実際にそのこだわりの映像を確認するために見てみることにしたのである。

           

        

        

 もう1本が「シーズン/2万年の地球旅行」、これもラジオの映画解説で視覚の面白さを取り上げていた。無音小型バギーの開発で、馬やオオカミと同じ視線で狩りの臨場感あふれる映像を撮り、改良を重ねた軽飛行機を駆使して、渡りの雁の群れと並走飛行して撮影し、鳥となって大空を浮遊する爽快さが体感できる映像など、動物の目線で捉えた映像が新鮮だというものである。

        

        

        

 確かに両作品とも映像的は工夫され面白いと思った。しかしストーリー性において物足りなさを感じる。スターウォーズは相変わらずハリウッド映画の勧善懲悪のワンパターンで新味が無い。一方シーズンもそれぞれの野生動物の生態映像を組み合わせ、氷河期から現在までの2万年を必死に生き残ってきたというストーリーに違和感がある。2作品とも「まず映像有りき」で、ストーリーに意外性も感動も無いのである。

 映画の歴史も長くなってネタ切れになったのか、もう昔の名作と呼ばれるような作品が出てこなくなったように思う。その代わりにトリックやCGを駆使して壮大さや迫力を追い求めているように思う。そして遂に、私がよく行く映画館でも4DXと呼ばれる体感型の上映システムが現れた。映画のシーンに合わせて前後左右に座席が動き、嵐のシーンでは水が噴霧され風が吹きつけ、雷鳴で劇場にフラッシュがたかれる。さらに臨場感を演出するため、煙や香りも出すようである。(通常料金+1000円) 映画もここまで来たのか、こうなればもう遊園地のアトラクションである。

 我々の時代は映画に感動を求めたように思う。それに対して今の時代はディズニーランドやユニバーサルスタジオと同じように刺激を追い求めるようになったのかもしれない。時代の変遷と共に映画も変わっていくのは仕方ないと思うのだが、しかしオールドファンとしては映画の中に引き込まれ、その展開に一喜一憂し、心揺さぶれれ、終わったあとに満足感がある。そんな映画を求めたいのである。そう思うのは私だけなのか、それとも私が年齢と共に不感症になって、今の映画に感動しなくなただけなのか、・・・・・





映画

2015年12月04日 08時20分50秒 | 映画
 
 日曜日、「リトルプリンス-星の王子様と私」という映画を観てきた。この映画を観ようと思ったのには訳がある。16年前、箱根に星の王子様ミュージアムがオープンすることになった。その企画に参画する人を介して、このミュージアムで売る星の王子様のキャラクターを使ったお土産のお菓子の依頼があった。パッケージ、中のお菓子、加工方法と相手の意向を聞きながらの企画で、何度も青山にあった企画本社に通うことになった。その時、この企画に携わるには「星の王子様」の本は読んでおかなければなるまい、そう思って本を買って読んだことがある。
 
 何十ページかの薄い絵本で、読むにはさほど時間はかからなかった。しかし読んで見てそのファンタジックさは分かるものの、作者のサン=テグジュベリが何を言わんとしたのかが、今一つぴんとこなかった。なぜ愛するバラを置いて他の星へ行くのか、なぜ自ら毒蛇に噛まれて命を失うのか?、物事を論理立て頭で考える私に、ファンタジーの世界は理解を超えていたようである。
 
 今回の映画は原本の星の王子様のストーリーと、映画に出てくる主人公の女の子の行動とをダブらせて描いてある。そんなことから、この本を読んだことが無くても、星の王子様の主題は分かるようになっている。本を読んで、各々の感じ方が違うように、星の王子様も人によって感じ方も違うのであろう。私の感性では理解が及ばなかった内容も、この映画を観ることで、少しは分かったような気になった。
    
          

      

      
 
      
 
 
 映画は出来れば映画館で、ということで年に5~6回は映画館に行くようにしている。毎週のように入れ替わる作品、その中からどの作品を観るか?歳とともにその趣向も変わってきたようである。昔はアクション、冒険、SF、戦争、ミステリーなど、気晴らしに観るエンターテイメント性の強い映画を観ていたように思う。しかし最近は、映画を味わいたいという気持ちが強くなった。少し文学的な作品、映画の舞台になる美しい風景、見終わった後少し考えさせられる作品、ほのぼのとして後味が良いもの、そんな作品を観たいと思うようになったのである。これも歳の所為なのであろうか。下の映画はこの1年で観た作品である。
 
         
 
                ヨーロッパ最東端の国ポルトガルが舞台
             いかにもヨーロッパ的な雰囲気が味わえる。
 
        
    
            舞台は能登半島の先端石川県珠洲市
           海のそばにある珈琲を焙煎する店がユニーク
  
 
        
 
       舞台は鎌倉、散歩で歩いて見知った風景がたくさん出てくる
 
 
        
 
     カンヌ国際映画祭 ある視点部門(監督賞)受賞作品とあるように
      成仏できない夫との旅、日本的な死者に対する考え方が新鮮

 
        
 
          釧路を舞台に、北海道の殺伐とした風景と
             ストーリーがマッチした文学的な作品







映画 思い出のマーニー

2014年08月12日 09時59分59秒 | 映画
  先週NHK総合TVで、『アニメーションは七色の夢を見る』という番組を見た。宮崎駿監督が引退を宣言し、ジブリを今まで引っ張ってきた大御所がいなくなった。さてこれからの日本のアニメーションはどうなるのか?そんなテーマで、宮崎アニメの遺伝子を受け継ぐクリエーターとして、一人は、宮崎駿監督の長男で、「ゲド戦記」「コクリコ坂から」をヒットさせた宮崎吾朗監督。もう一人は、「借りぐらしのアリエッティ」で監督デビューし、この夏、2作目の「思い出のマーニー」(現在公開中)を手掛けた米林宏昌監督を取り上げていた。
 
 宮崎吾朗監督が挑むのは、テレビアニメの「山賊の娘ローニャ」(NHKBSプレミアムで10月から放送予定)。彼は今はジブリを離れ、3DCGを使った新しい表現に挑んでいる。CGというこれまでとは全く違う環境のなか、自分の目指す表現に格闘している様子をカメラは追いかける。もう一人の米林宏昌監督は実写映画で著名な種田陽平氏を美術監督に迎え、新たなジブリ作品に挑戦している。内容もこれからの目指す方向も対照的な二人だが、共通しているのは、初めて宮崎駿監督が関わらない形でアニメーションを作るということである。
 
 私の関心はCG方式に変わった宮崎吾朗ではなく、今まで継続的に見てきたジブリ作品、しかも伝統的に一枚一枚アニメーターが書いていくセル画方式を引き継ぐ米林宏昌監督の方に興味がある。彼が手がける今回の「思い出のマーニー」は、イギリスの作家、ジョーン・Gロビンソンによる児童文学作品である。主人公の杏奈(アンナ)は、もらいっ子という立場からか無気力で友達も無く、心を閉ざしている。彼女は喘息を患っていて、医者から転地療養を勧められ、夏休みに北海道の海辺の町で過ごすことになった。そこでアンナは、「これは私が探していたもの」と直感的に感じる古い屋敷を見つけた。そしてその屋敷の娘マーニーと親友になり、毎日のように接することで、次第に心を開いていく。・・・・  そんなストーリーである。
 
 宮崎駿はこの「思い出のマーニー」について語っている。「以前読んだとき、原作は好きで面白い作品だと思った。そして小説の中で描かれている風景に引かれたが、作者が描いている地図と僕の中で浮かんだ地図とが全然違っていて、これは絶対アニメーションにはならないと思った。なぜならそれはあまりにも人の内面の問題だからである。・・・」と言っている。そんな原作に米林宏昌監督が挑んだわけである。
 
 心を閉ざし他人に心を見せない少女、そんな少女の心の微妙な変化、文学ではそこを丁寧に書いていけるが、アニメではどう表現するか、米林監督はそんなアンナの心のゆれを、微妙な仕草や表情で表現して行こうとする。米林監督が言う、「この作品はジブリの今までの作品のように、青い空に白い雲が浮かんでいるという感じの世界観じゃない。これまでのジブリの常識に抗うとするものなです。ジブリは今までも常に殻を破って前進してきました。だから今回も新しいものに挑戦していきたいと思っています」
 
 「こんなTV番組を見たら見に行くしかないだろう」、そう思い日曜日に映画を見に行ってきた。小さめな館内は6~7割の入りか、やはり宮崎駿のビックネームがないからかもしれない。観客も中学生以下の子供は少なく、どちらかといえば高校生以上の女性が中心のようである。映画は2人の少女を中心に淡々と進んでいく。それは今までのジブリ作品のように型破りな表現方法で観客を驚かせたるような物ではなく、少女の心の変遷が主体である。背景画は今までのジブリ作品と同じように、緻密で美しい。伸びやかな北海道の自然の中でストーリーはテンポ良く進んで、やがて謎解きのような結末で映画は終わる。
 
 見終わって感じるのは、イギリスの児童文学だからなのか、今までのジブリのファンタジーと色合いが違うように思った。日本と西洋が入り乱れ、現実と妄想とファンタジーが入り乱れ、なんとも不思議な雰囲気をかもし出している。見るうちに次第にストーリ展開に追われていき、監督が意図した主人公の繊細な心のゆれの表現方法までは見て取れなかった。それは一回見ただけでは私の受信力(理解力)では無理だったのかもしれない。2人の微妙な表情や仕草の描き方、美しい背景画、重厚な建物や室内のこだわった美術、そんなものを確認するためにも,、もう一度見ておく必要があるようである。


   


            

                             杏奈(アンナ)

                 

                               マーニー

     

                杏奈(アンナ)は列車で札幌から海辺の町に向かう
 
     

                            舞台のモデルは釧路湿原の藻散布沼という汽水沼とか

   

                      入り江に建つ古い屋敷 通称・湿地屋敷

   

                        満潮になると広々とした湖になる

   


            


   


   








映画「かぐや姫の物語」

2013年12月20日 08時32分30秒 | 映画
 ジブリの映画、高畑勲監督の14年ぶりの新作『かぐや姫の物語』を観て来た。原作の『竹取物語』は千年前に書かれた日本最古の物語とされ、竹から生まれた女の子が絶世の美女に成長し、男たちの求婚を難題を出して拒み、月の世界に帰って行く……という内容だったと記憶している。今回の映画も、「今は昔、竹取の翁という者ありけり・・・・」というナレーションで始まり、竹林で翁が竹の中から小さな女の子を見つけるところから始まる。そして美女に育ち、都の公達たちからの求婚を退け、やがて月に帰っていくところで終わっている。したがって基本的に原話に忠実な作品なのである。
 ではなぜ高畑監督(スタジオジブリ)がかぐや姫を取り上げたのか?。それは原作では今ひとつ分かりづらいストーリーを現代風にアレンジし、かぐや姫がなぜ月から来たのか?なぜ月に帰らなくてはいけなくなったのか?という謎解きを入れ、そしてそこに人生のメッセージ性をも持たせることで、昔話を今に蘇えさせえる試みなのであろう。

 映画を見て感じることは、絵が実に綺麗に丁寧に描かれていることである。CGに頼らず手書きでやわらかく繊細な質感がすばらしい。輪郭がなく色だけの部分も多く、細部の描写はなく省略や塗り残しも多い。何か平安時代の絵巻物とか日本画や水彩画を見ているような雰囲気である。人物と風景が地続きになって、線と色のドラマを伝えてゆく。この当たりが高畑勲監督のこだわりの部分なのであろう。昔話を取り上げ、作画にも挑戦的な試みをしている。従来のアニメにはなかった手法である。映画が終わり、長いクレジットの間も、ほぼ満員の場内で誰も席を立つ人がいなかった。作品を見終わって、人によって違うのだろうが、それぞれに感動があったからであろう。監督の知名度や作品の性格上、あまり人気は上がらないようであるが、アニメ作品のエポック的な存在として見ておく価値は充分にあるように思った。

 前回の宮崎駿監督の「風たちぬ」もそうなのであろうが、高畑勲監督もアニメに対して一過言ある監督であるようである。作画数50万枚(通常7~8万)、製作年数8年、制作費50億円と、一つのアニメを作るには膨大なエネルギーを費やした作品である。ここまで監督のこだわりを認め、採算度返しでの映画作りができるジブリという会社、今の日本の映画界で特異な存在なのであろう。宮崎駿、高畑勲、両監督ともすでに70歳を超えて老齢の域になってしまった。もうアニメに対して今までのような情熱をかける事はないであろう。したがって今回の「風立ちぬ」と「かぐや姫」はジブリ的な作品の最後になるのかもしれない。

        

      

               

           

      

                

      

      

         

               

      

      






風立ちぬ

2013年07月26日 08時45分02秒 | 映画
 先週ジブリ作品「風立ちぬ」の映画を見てきた。7月20日の公開前にNHKテレビ、民放テレビ、新聞各紙の多くで特集が組まれいた。各社が競ってジブリを応援しているかのような様相である。これを宣伝費に換算すると莫大なものになるだろう。なぜ各社でこれほどまで取り上げるのか?、それはジブリ作品が日本アニメの象徴的な存在になってきているからだろうと思う。宮崎駿の作品はいつも主人公が生き生きと描かれている。絵も丹念で質が高く、その背景画は郷愁や親しみを感じ、日本の原風景を思い出させてくれる。そして宮崎駿のメッセージは常に前向きな生き方である。そんなことから安心して見れる作品として大勢の人の支持を得ているように思うのである。味があり独特の雰囲気を持つ宮崎駿、いずれ国民栄誉賞を取ってもおかしくない人なのかも知れない。

 今回の「風立ちぬ」は宮崎駿の「崖の上のポニョ」以来5年ぶりとなる作品。ストーリーは零式艦上戦闘機(零戦)を設計した実在の人物「堀越二郎」と、同時代に生きた文学者「堀辰雄」の小説「風たちぬ」を織り交ぜ、堀越二郎の姿を描いた大人のラブストーリーである。時代は大正末期から第二次世界大戦まで、関東大震災が起こり、やがて戦争の足音が近づいてくる。そんな激動の中で必死に生きる人々を描いている。映画のポスターに『生きねば』とあるから、映画の大きな主題は、「どんな時代でも生きることに一生懸命であれ」、という宮崎駿のメッセージであろう。

 映画の風景は私にも少しの名残がある昭和初期である。高い建物がないカワラ屋根の町並み、人々の服装は着物が普段着として当たり前に残っている。輸送手段は荷馬車や人力車、地方と結ぶ鉄道は蒸気機関車が走っている。映画の中のそんな風景を見ながらふと思う。「これは私の両親と時代はかぶっている」、「父と母の青春はまさしくこの時代にあったのだ!」と。自分には未知の時代や環境の中で、私の両親もまた青春を謳歌しつつ必死に生きたのであろう。そう思って見ると、映画の後半でヒロインの菜穂子が、結核で生きられないとた悟った時の無念さに、思わず涙がこぼれてしまった。
 映画は今までの宮崎駿作品のようにファンタジーではない。あるTV番組で宮崎駿自身が「今はもうファンタジーを見る時代ではない」と語っていたから、彼の作品にはもう「となりのトトロ」や「魔女の宅急便」のようなファンジーな作品は出てこないのかもしれない。しかし今回の物語には主人公堀越二郎の夢の中での出来事が頻繁に描かれている。これが映画の雰囲気をファンタジーな色合いにし、丁寧な絵や背景画も何時ものジブリのトーンである。やはりこれは紛れもなく宮崎駿の世界である。

 感想としては、物語全体の流れとバランスが悪かったように感じてしまった。主人公堀越二郎の飛行機への夢、航空機設計への情熱、関東大震災、ヒロインの菜穂子との恋、そして戦争、題材がてんこ盛りで宮崎駿の描きたいものがいっぱいあるのは理解できる。しかしそれが上映時間の中に納まりきれず、まとまりの悪いまま不完全燃焼で終わってしまった感じである。それは私の中のストーリーを追う意識、絵をしっかり見たいと思う目線、そしてバックに流れる音楽を聴こうとする耳、それぞれが追いきれずに上手く調和しないことが原因なのかもしれない。
 見終わったあと池袋の西武百貨店のギャラリーで『風立ちぬ原画展』という企画展を見つけて入ってみた。そこには宮崎駿のイメージボード、キャラクター設定、背景画や美術ボードなど100点あまりが展示されていた。「キャラクターはこんな経過を経てできたのか?」、「宮崎駿の絵はこんな絵なのか?」、「こんな綺麗な背景画が映画の中にあっただろうか?覚えていないなぁ~」、「やはりもう一度映画を見てみよう」、「そうすれば今度はストーリーを追わないから、じっくり絵や音楽が楽しめるかもしれない」

      

      

      

      






東京家族&東京物語

2013年01月25日 09時29分14秒 | 映画
 先日『東京家族』という映画を観てきた。『東京家族』は名匠・小津安二郎の名作「東京物語」をモチーフに、設定を現在に置き換えたリメーク作品のようである。田舎に住む老夫婦と東京で暮らす子供たち、近くて遠い両者の関係を通じて、夫婦や親子の絆、老いや死について問いかけた山田洋次監督の作品である。

 ストーリーは瀬戸内海の小島に暮らす老夫婦・平山周吉(橋爪功)と妻とみこ(吉行和子)が、子供たちに会うために東京へやって来る。そして個人病院を開く長男・幸一(西村雅彦)、美容院を営む長女・滋子(中嶋朋子)、舞台美術の仕事に携わる独身の次男・昌次(妻夫木聡)の3人の子供たちと再会を果たす。しかし、仕事を抱えて忙しい日々を送る彼らは両親の面倒を見られず、二人を横浜の豪華ホテルに宿泊させようとする。そんな状況に寂しさを覚えた周吉は、やめていた酒を飲んで騒動を起こしてしまう。一方のとみこは、一人身の生活を心配していた昌次(妻夫木聡)の住まいを訪ね、そこで恋人の間宮紀子(蒼井優)を紹介される。お互いが話し合ううちに恋人紀子の人となりに触れ、昌次の将来に安堵する。そんなことで上機嫌で長男の家に帰って来たのだが、それを皆に報告する前に突然倒れてしまった。そして救急搬送された病院で亡くなってしまう。突然の事態に戸惑う家族、 葬儀は故郷の瀬戸内の小島で執り行なわれる。葬儀が終わると長男と長女夫婦はそそくさと帰ってしまうが、昌次と恋人の二人は島に残り、今まで疎遠であった父との絆を取り戻していく。小津安二郎の「東京物語」とは多少の相違はあるが、しかし基本的には同じようなストーリー展開である。

 小津安二郎の「東京物語」は1953年制作である。小津映画の集大成とも言える作品で、国際的にも高い評価を受けたと聞いていた。白黒の古い作品だから当然実写では観てはいない。10年ぐらい前だったろうか、ビデオショップで借りて見たことがある。戦後まもなくの経済成長の真っ只中、子供たちは故郷を離れ皆都会に出て就職していった時代である。田舎に残された年老いた両親、そして都会で自分たちの生活に汲々としている子供たち、小津安二郎の細やかな叙述法で家族の繫がりと、その喪失という主題を見る者の心に訴えかける作品であった。私はその映画の中で、父親役の笠 智衆(りゅう ちしゅう)の演技のすばらしさが一番印象に残った。感情を抑え淡々とした語り口、実直で朴訥とした性格が滲み出し、映画全体の雰囲気や格調の高さを作り上げていたように思った。

 さて今回の山田洋次監督の『東京家族』である。当然映画はカラーである。時代は現在であるから、老夫婦も携帯電話を持っている。都内観光も「はとバス」に乗り、景色の中に東京スカイツリーが見えていた。二つの映画の時代背景のギャップは60年にも及ぶわけである。「東京物語」の時代は古い家族意識が残る反面、アメリカ文化の浸透と経済成長という背景の中で今までの家族関係が崩壊して行く時代であった。しかし60年後の今日はその崩壊は行き着くところまで行き、新しい家族の秩序のようなものが出来上がりつつある核家族の時代である。昔は夜行列車で一昼夜かけて上京してきた時代、しかし今は新幹線でわずか5時間である。そんな時代に広島県の小島から東京に出てきて、狭い子供たちの家庭に、予定も決めず何泊も(5~6泊)する親がいるのだろうか?東京見物をするのに子供が休みを取ってつれまわしてくれることを期待する親がいるのだろうか?映画全体に現代の感覚とのズレを感じてしまうのである。

 映画を観ていると、時々館内で失笑が聞こえてきた。その失笑は、全国くまなく情報が届く時代に、あまりにも現代離れしたトンチンカンな両親の言動に対するもののように思ってしまう。端的に言うと60年前の親が現代にタイムスリップして来たような印象である。小津安二郎の「東京物語」はシリアスな映画であったように思う。しかし山田洋次監督の『東京家族』はコミカルな映画のようでもある。インターネットで見た映画解説に山田洋次の監督生活50周年を機に、名匠・小津安二郎の「東京物語」にオマージュ(尊敬、敬意)をささげた家族ドラマと書いてあった。しかし私には比ぶべきも無い全く異質な映画のように思えてしまった。

               

               

               

               

               

アルゴ

2012年11月16日 08時46分44秒 | 映画
 映画「アルゴ」を観て来た。この映画は史実に基づく映画と言うことである。1979年、親欧米化路線を敷いていたパ-レビ国王の圧政に、フランスに亡命していたホメイニーを指導者とする反体制勢力が立ち上がり、イラン革命が勃発する。そんな状況下でパ-レビ国王は皇后や側近とともにエジプトに亡命し、その後癌の治療のためにアメリカに渡った。ホメイニーらが敵視するアメリカが、同じく敵視する国王を受け入れたことに学生らが反発し、同年11月4日にテヘランにあるアメリカ大使館を襲撃し占拠してしまう。そしてアメリカ人外交官や駐留していた海兵隊員とその家族の計52人を人質にし、パーレビ国王の身柄引き渡しを要求した。そんな混乱の中で一部大使館員とその家族の6人が脱出し、テヘランのカナダ大使の私邸に逃げ込んだ。

 襲撃占領の前に大使館員の写真つき名簿等はシュレッダーにかけていたが、名簿がシュレッタ-から復元されれば脱出者がいることが分かり、捕まれば処刑されてしまう。アメリカ国務省はCIAに応援を要請し、人質奪還のプロ、トニー・メンデス(ベン・アフレック)が呼ばれる。トニーは、6人を「アルゴ」という架空の映画のロケハンに来たカナダの映画クルーに仕立て、出国させるという作戦を立てる。プロデューサーに扮したトニーはイランへと向かい、文化・イスラム指導省で撮影許可を申請した後、6人が隠れているカナダ大使の私邸に入る。そこで脱出計画を6人に伝えるのだが、計画のリスクに彼らは反発する。しかし他に脱出の手段はない。仕方なくロケハンに成りすますべく、それぞれの役柄のプロフィールを暗記していく。翌日トニーは怖気づく大使館員を説得して、カナダ大使の私邸から6人を連れ出した。 

 国王の引渡しと反アメリカで殺気立つテヘランの街の中を7人は空港へ向かう。そして200名の民兵が監視する空港を通り抜け、スイス機に搭乗して国外へ脱出を図る。映画はその緊迫感をリアルに描いている。細部は脚色がなされ史実とは違いがあるのであろうが、いかにもハリウッド仕立てのCIAのプロジェクトが実話である事に驚かされる。成功のためには味方をも欺かなければならず、また救済後の問題を懸念して、クリントン大統領がこの事件を明らかにするまで18年間もの間、機密扱いとなっていたという。

 今、イランやリビアなどの中東と欧米との軋轢は抜き差しなら無い状況になっている。なぜそこまでこじれてしまったのか?今まで石油利権に絡んで、その国の権力者に取り入ってきた欧米は、民主化運動の高まりと宗教的な軋轢の中で、今までの利権を失っていく。国内紛争のどちらか一方に加担していると、体制が逆転すれば、加担した側はそのしっぺ返しを食らってしまう。次々と広がっていく中東の紛争の原点と言うべきイラン革命、この映画を見るとイラクやチュニジア、エジプト、そしてリビアの変動とその経緯や流れの一端を感じるとることが出来るように思った。

 街を揺るがす民衆の騒動、今までの積もり積もった権力者への憎悪の感情が一気に吐き出す。法も秩序も理性も良識も失われ暴徒化してしまうさまは、今回の尖閣列島問題で中国の騒動にも同じようなものを感じてしまう。そんな国中を敵に回した中での救出劇である。アメリカ国民だと言うだけで、自分の命を張って救出を実行するCIAのエ-ジェント、日本人だと誰もが尻込みしてしまいしうなリスクの高い仕事を引き受ける。さすがにプロの国だと改めて見直してしまう。そしてもう一つ、この映画を決してヒ-ロ-物とはせず、史実をリアルに描き出そうとするスタンスは、ハリウッド映画の懐の深さとその実力を改めて感じてしまう。見終わって「勉強になった!」と思える良作である。