60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

ブローカー

2009年07月31日 09時49分48秒 | Weblog
仲間が次々と退職していくと、何かと集まりが多くなる。
職場から解放されると同時に、自分の身の回りに人がいなくなり、寂しくなってくるのであろう。
先日も昔の会社の同僚達が集まった。昔話に花が咲いて、和気あいあいの時間が過ぎて行く。
「これからは定期的に集るようにしよう!」誰かが発案する。「次回は9月だな!」と声が出る。
幹事を決め、連絡方法を確認し、やがてお開きになる。会社組織に対しての帰属が解けると、
やはり皆との繋がりが維持されていることを確認することで、安心感を得るのかもしれない。

こんな席で必ず聞かれることがある。「お前、今、何をしているんだっけ?」という質問である。
私のように65歳で現役でいることは珍しく、退職組からすればうらやましい状況でもあるらしい。
「パッケージを扱ったり、そのパッケージを絡ませて相手方のPBを作って商品とともに供給したり、
問屋的に商品を流したりと色々やっているんだよ」と答えるのだが、ほとんどは理解してくれない。
「まあ個人商社と言うかブローカーと言うか、パッケージや商品の仲介業務だよ」というと理解する。
長く組織で働いてきた彼らにとっては、個人で仕事が成り立つということに、なんとなく、うさん臭さ
を感じるのであろう。だからブローカーという言葉がぴったりくるののかもしれない。不動産ブローカー、
証券ブローカーなどというと、どちらかと言えば聞こえがいいほうではないだろう。しかし自分では
これは一種のネットワークビジネスで必然性があるビジネスだと思っている。

ブローカー業(仲介業)は、Aというメーカーからこの商品を売ってほしいと依頼があれば、自分の
ネットワークの中から販売先を探す。Cという販売者から、「こんな商品はないか?」と問われれば、
ネットワークの中からそんな商品を作るメーカーを探す。相手が求めるもの、相手が期待するもの
そんなものを手軽に探し出してパイプをつなげていく。そんなビジネスである。
もともとの親会社がパッケージ業者だから、デザインから包材の製作まで大体のことが可能である。
このノウハウを活用して販売先のブランドを冠してのPB商品を作ったり、商品供給もやっている。

製造から末端の販売まで、その流通網は多岐にわたり、決して大手だけが担うものではない。
百貨店、スーパー、専門店、コンビニ、小売店、お土産店、カタログ通販、ネット通販、等々
ありとあらゆる流通チャネルがあり、その中を様々な商品が日々現われては消えしているのである。
その中で求められるのは、手軽でスピーディーでリーズナブルな単価での商品開発や提案であろう。
大手以外にも中小は中小のネットワークがあり、そんな中で生き残っていく余地はあるように思う。

もともと私は大手スーパーに入社した。4年間店舗で販売実務をしたあと、本部の商品部に転勤し
そこで食品のバイヤーという仕事をする。約15年、いろいろな商品を担当しその流通を理解した。
その後同系のコンビニエンスへ転籍し、ここでも仕入れの仕事を3年やってからある理由で退社した。
その後は小さな問屋やメーカーの商品開発の手伝いを経験した後にパッケージ会社に再就職した。
そのパッケージ会社の子会社を任され、やがてこの子会社を自分で買い取り一人でやるようになる。
スーパー入社以来、小売から食品メーカー、問屋、パッケージ会社まで経験したことが、今の仕事に
生きているように思う。45歳以降、転々としていた時代は腰が定まらず不安定で不安でもあった。
しかし今思えばこんな経験もまた得がたい財産なのであろうと思っている。

今のような自称ブローカー業を続けてきて10年以上経つ、その間も多くのネットワークが生まれた。
中小零細企業はどうしても、会社対会社の付き合いより、個人対個人のつながりの方が強くなる。
何年も何十年もの取引になるため、お互いの実力やお互いの性格やネットワークは把握している。
そんなブローカー仲間とのネットワークを活用するにはお互いに暗黙の了解事項があるように思う。
それは「一人勝ちをしてはいけない。成果は乏しく分けあう」と、最近は思うようになった。

先日仲間から電話が来る、「あまり出回っていない物で、日持ちが60日程度のお菓子が欲しい」、
早速、2社に電話しサンプルを送ってもらう。その人はサンプルをやはりスーパーに強い仲間に送る。
そしてその彼が主力にしているスーパーに出向き商談をする。そして商品は中堅スーパーに決まる。
その間私はサンプルの送付指示と見積り作成と、商品の規格書の転送だけで机からは動かない。
やがて導入日が決まる。(E)というスーパーから問屋(D)に発注が来て、(D)から私の仲間の(C)に、
そしてその仲間から私(B)に発注がある。私はメーカー(A)にFAXで発注をする。
商品はメーカーから直接スーパーに送られるが、伝票は(A)→(B)→(C)→(D)→(E)と回って行く。
考えればいかにも長いルートで、商売の原則からすれば逆行しているように思われる。だからここで、
それぞれが思うような値入を確保していったら、この商売はなり立たない。お互いが少しずつ我慢し
取引を成立させるということを最優先する。このためには「乏しく分かち合う」ということが必要である。

(E)というスーパーに強い(D)という問屋。(A)というメーカーと懇意な(B)というの私。
そこに(D)と(B)を結びつけた(C)。それぞれがそれぞれの役割を果たし、商売を成立させていく。
私もメーカーの営業もスーパーに商談に行くこともなく、それに関わる煩雑な仕事をしなくても良い。
一旦決まれば(B)も(C)も(D)もFAX一枚で商品を右から左へ流し伝票一枚で売上を立てて行く。
しかし楽な分だけ、おのずとそれぞれの粗利も少なくなる。これが「乏しく分けあう」ということである。
PB開発のようにデザイン費、資材費、生産ロットに対するリスクまで負うのであれば、それなりの
粗利は取ってしかるべきであるが、しかしブローカー商売は5~10%の粗利で商売すべきだろう。

もう昔の気力も体力も失せてきた。そんなときに支えてくれるのは、構築してきたネットワークである。
セイフティーネットを自分の周りに張り巡らしておけば、やがてそのネットが自分を助けてくれる。
サラリーマンで定年まで勤めるのが一番安全なのだろうが、しかし定年してから何かやろうとしても
その時はすでに遅いように思う。気力、体力、知識力、行動力そんなものが充実している時に、
次のステップに変わってみるのも良いように思う。出来れば50歳から、理想的には45歳から、
自分の将来のためのセーフティーネットを意識しそのための準備をしていたほうが良いのだろう。
滅私奉公で企業戦士を貫き通すより、ある程度のスキルを身につけたら、戦いの渦の中から外れて、
独自の路線で生きることを模索していくのも、これからの時代の一つの道のように思える。
昔の仲間の退職後の憂鬱や無気力な生活ぶりを聞くにつけ、そんな風にも思ってみるのである。


グーグル携帯

2009年07月24日 09時03分38秒 | Weblog
先週、携帯電話を新しい機種に買い換えた。
最近使ってみたいと思っていたのはソフトバンクのタッチパネル形式のアップルの「iPhone」である。
しかしドコモからソフトバンクに変えるには、法人契約で面倒な手続きが必要で諦めていた。
最近の広告でドコモから同じようなのタッチパネル形式のグーグル携帯が発売になったのを知る。
「インターネットを持って外へでよう、ケイタイするGoogle!」のキャッチフレーズに引かれてしまった。
子供の時からメカニックなことが好きだったから、そうなコマーシャルを見ると欲しくて仕方がなくなる。
早速、ドコモショップへ商品を見に行き、説明を聞いてみることにした。

当初、こちらで勝手に考えていた機能内容と違っていて、この携帯ではiモードが使えないという。
したがって今までのiモードのアドレスが使えなくなり、新たにGメールを設定する必要があるらしい。
他にiモードのホームページを見たり、テレビ電話、ワンセグ、お財布携帯機能、着うたなど、
同じドコモからの発売なのに、電話番号以外共通のものがほとんど未対応だそうである。
携帯は電話とメールだけしか使っていなかったから、このことはさして苦にはならない様に思った。
魅力的なことはグーグルのインターネット検索が使え、グーグルマップやユーチューブなども簡単に
使用できるようになるらしい。メールはGメールというグーグルのフリーメールを利用することで、
PC上のGメールと同期するから、PCでも携帯でも同時に見ることができるようになるという。
機種2年間継続条件で3万円引き、ポイント何千円分か分を使って結局2万8千円であった。
気持ちの中では多少の迷いはあったが、買おうという気で来ているから、やはり買ってしまう。

買ってからが大変であった。全く新しい仕様のパソコンを覚えるような感じの手探り状態である。
旧の携帯と新の携帯とで、フォーマカードを差し替えながら併用して使い、1週間が経過した。
やっと今週になってアドレス変更の通知メールを皆に送ることで、けじめをつけた。
その間3回ほどドコモショップに行って使い方を聞くことになる。7月10日に発売されたばからか
ショップの店員もほとんど使い方は理解しておらず、その都度センターに電話し確認していた。
やはり、それだけ今までの携帯との操作手順の違いが激しいのであろう。それは国内で進化した
国内標準とグーグルが目指す世界標準との考え方の違いがあるからなのかもしれない。
今までの携帯との根本的な違いは、メールの送受信内容もカレンダーのスケジュールの内容も
全てグーグルのサーバーの中にあり、私は携帯端末でそれを呼び出し操作するのである。
だからPCでも同じものが見れ、常に携帯とPCとが同期しているように感じるのである。

完全にマスターしたわけではないが、今までの携帯とのプラスマイナスは以下のようである。
マイナス
・軽く触るだけで画面がクルクル変わり、自分がどんな誤操作をしたのか、理解不能におちいる。
・電話メールの着信音設定の音も何種類かを選ぶことができるのだが、すべて英語の記載である。
・タッチパネルに現われるキーのスペースが小さいから、隣のキーを触ってしまい誤入力しやすい。
・パソコン画面の内容が携帯の画面に縮小されるため、文字が小く、老眼間近の私には少し辛い。
 (携帯のメール画面での文字の大きさの変更は不可能とのこと、このあたり改良の余地あり)
・メールの転送の時、送信相手のアドレスを入れる時はアドレス帳が使えないから直接入力になる。
 (アドレスの文字を直接打ち込むことは現実的でなく、この機種の最大の欠点であるように思う)
・ストラップを付ける穴がないために、ワイシャツなどとの留めができず、落としやすくなる。。
・携帯電話にメモ機能がないため留守番電話は月額315円の有料でしか使えない。

プラス
・購入時点から、予備の電池パックがついているため、消耗が激しいタッチパネル式でも無理がない。
・5.5x11センチ程度で、厚みもなく、従来の携帯よりコンパクトになった感じである。
・今までの携帯に比べ画面が大きく、縦横自在でメール等のスクロールの頻度が少なくなる。
・慣れて指が思うように動くようになれば、従来の小さなキーボードを打つより快適な感じがする。
・キーを打って操作するより、文字が出てそれをタッチする方が全体的にはスマートで快適である。
・カレンダー機能があり、それがPCのグーグルのカレンダーと同期しているため、PCに打ち込んだ
 予定内容が携帯でも確認できる。
・携帯でグーグルマップが簡単に使え、住所を打ち込んでの検索、ルート検索等が容易にできる。
 又ストリートビュー、航空写真も手軽に見れるため、散歩の時などは地図を持たずに歩ける。
・今まで携帯では使えなかったデジタルオーディオが使えるため、2重に持ち歩く必要がなくなった。

携帯を持ち始めたのは何年前からだったろうか?始めて持った携帯から今回で6台目である。
最初がNEC、次が東芝、そしてソニー、富士通、シャープ、そして今回はグーグルの携帯である。
メーカーによって操作方法が異なってくるので、買い換えるたびに取扱い説明書を読んで覚える。
それは私にとっては苦になることはなく、反対に未知の領域に入るようなワクワク感も伴ったいた。
しかし、だんだんに歳をとってくると、その操作を覚えることや、説明書を読むこと自身が億劫になる。
今回はそれに加えて、ドコモ式の操作とは異なるアメリカ仕様であるためた完全に勝手が違った。
そんなことからこの一週間は自分の理解力の悪さと衰えに苛立ち、時に吐き気を催すほどであった。
「歳を取るとはこういうことなのだろう」そんなこと実感させられた今回の機種変更でもあった。

歳とともに頭脳も体力もそれぞれに機能収縮が起こって行くという。物覚えが悪くなり、不活発になり、
しだいしだいに怠惰(たいだ)になって行く。そんな自然の流れを思い知らされたようにも思う。
食い止める方法はないのだろうか?少しでも進行を遅らせないだろうか?どうすればいいのだろう?
たぶん楽な方法などありはしないだろう、結局自分に負荷をかけ続けるのが一番の方法なのだろう。
頭が痛くなっても、吐き気がしても、やはりあきらめずに挑戦し続けるしかないのかもしれないと思う。
携帯で、手帳代わりにスケジュール管理をする。地図を検索する。ルートを検索する。時刻表を使う。
辞書を使う。音楽を聴く。最新のグーグル携帯を自在に使いこなしてみよう。
私に残っている数少ないメカニックに対しての興味。そんな興味を維持し続けることも老化防止に
なるのかもしれないから。

特定健診

2009年07月17日 09時22分02秒 | Weblog
先週、地元の病院へ特定健診を受けに行き、今週はその健診の結果を病院へ聞きにいった。
特定健診とは昨年から始まった国保に加入する40歳から75歳未満の人のメタボ診断である。
問診、身体検査、血液検査等が基本で、オプションで肺や胃のレントゲン、眼底検査等が出来る。
今回は特別に問題になるような指摘はなかった。体脂肪率24.6%(男平均20%未満)、
腹囲88㎝(男85㎝以下)体重72Kg(身長からの標準64Kg)、悪玉コレステロール134mg/dl
(基準値60-119mg/dl)が基準からはみ出し、総合判定としてはB評価であった。
受診した医師からは、取りあえず体重を70Kg以下にした方が良い。そして後は低塩、低脂肪の
バランスのよい食事を意識するように、との指摘があっただけである。

メタボの診断基準が出来たのが2005年から、そして厚生労働省により規定され特定健診が
昨年4月からスタートした。メタボ基準は腹囲が男性で85cm以上、女性で90cm以上の場合で、
この条件に下の3つの症状のうち2つ以上該当した場合にメタボリックと診断されるらしい。
1.中性脂肪150mg/dl以上、HDLコレステロール119mg/dl以上のいずれかまたは両方。
2.血圧が上で130mmHg以上、下で85mmHg以上のいずれかまたは両方。
3.空腹時血糖が110mg/dl以上。

今回の検査ではHDLコレステロールの値が若干高い程度で、メタボ認定からは免れたようである。
歳をとると、健康を害する可能性は高くなるから、毎年の健康診断は欠かさないようにしている。
そして今までの診断の中で、特に大きなトラブルはなく、どちらかと言えば恵まれているように思える。
周りの人達を見ていると、その人自身やその人の家族にいろんな形での病気や障害を抱えている
ことがわかる。そんなことは私の兄弟や家族では今まで無かった。それは親が私を健康な体に産み、
そして健全な形に育ててくれた賜物であろうと思って今は感謝している。
一つは偏った食事などをさせずバランスを考えていただろうということ、二つ目はきちっとした生活習慣
をつけさせてくれたこと、三つ目は我慢することなど自制心を持たせてくれたことで、社会に適応でき、
結果として過度なストレスを感じずに過ごすことができたからなのだろうと思っている。
「メタボリック症候群」と言われる病気、高脂血症、高血糖症(糖尿病)、高血圧など、結局は
生活習慣から派生する病気なのである。健全な生活習慣(食生活と運動)を維持できるか、
そのための自制心を持ち続けられるか否かが、すべての基本のように思うのである。

どうしてもタバコがやめられない。どうしても酒が自制できない。どうしても楽をして体を動かさない。
自制心が働かなければ結局生活習慣は改まらない。多くの病(やまい)は自分が引き起こして
いるのかもしれない。父は長年吸っていたタバコを健康を思って70歳の頃に止めた。しかし母が
死んでから、再び吸うようになった。そしてタバコを再開して6年後に肺がんで死んでしまった。
気持ちの中で「疲れたよ、もうどうでもいいんだ」と自制心をなくしてしまったかもしれないと思う。
その時から癌は進行したのだろうと思う。
母は万年の便秘症であった。民間療法でだましだましの日常を送り、病院へは行かなかった。
その便秘症が間接的な原因なのか大腸癌から腎臓に転移し、気がついた時は手遅れであった。
病院に担ぎ込まれた時、医者に「なぜ、ここまで放っておいたのだ!」と言われた。

女房の父は大酒飲みで、酒を切らしたことはない。毎日毎日大量のアルコールが喉を洗って行く。
そのためだろうと思うのだが、60歳を少し越して食道癌で入院した。その時にはすでにあちこちに
転移していて手術も不可能な状況であった。最後はタンが気管に詰まっての窒息死である。
義母は80を過ぎ脳こうそくで倒れた。半身不随で言語障害も起きて、今は施設に入っている。
トイレも人の手を借りなければいけないほどである。こうなると本人も家族も辛くなる。
時々ヒステリーを起こして「早く殺してくれ!」と泣き叫んでいることがある。義母は何十年も健診を
受けたことがなかった。子供達がどんなに行くように言っても「私はいつ死んでもいいんだ」と言って
受け付けなかったらしい。健診で血圧を計っていれば、事前の対策は出来ていたのかもしれない。
しかし今は後の祭りである。

私も先週、65歳の誕生日を迎えた。そして介護保険の被保険者通知というものが届いた。
もうこんな年なのか、自分に実感が持てないままにどんどん年齢だけが加算して行くように思う。
今日の新聞で日本人の平均寿命は女性は86.05歳、男性は79.29歳という記事があった。
私が平均寿命に達するまでに後15年である。自分としてはあまり長く生きていたいとは思わない。
しかし出来れば障害なく、家族に迷惑をかけることなく、人生を全うしたいと思うのである。
そのためには寿命が尽きる寸前までは健康で在り続けなければいけない。それも結局、自分の
自立心や自制心を何時まで切らさず持ち続けることができるかにかかっているように思っている。


性格の肥大化

2009年07月10日 10時07分45秒 | Weblog
約1年ぶりに友人のA氏に逢った。
彼とは同期入社でその時からの付き合いである。同じ社員寮にいたこともあり、結婚してからも
お互いが近くに住んでいたので、月に1度程度は逢っていた。もう40年以上のつきあいである。
グループ会社を転戦してから私は45歳で会社を辞め、彼は50歳を過ぎてから会社を辞めた。
退職理由は上司との軋轢であったようで、その時は「日本の職場は俺には向いていない」と言い、
その後、水産会社の中国の現地法人で董事長(日本で言う社長業)として働くようになった。
中国で8年働いた後60歳になって、中国のその会社も辞め、日本に帰ってきた。 
中国での実績を買われ、帰国後も働く場もあったが、「もう人に使われて働くのは耐えられない」と
言って働こうとはしなかった。中国から帰って来てすでに5年が経つ、読書と散歩と時々の山登り、
そんなことで日を送っている。

社会との直接の関わりを断って年金生活に入って行った彼と、まだ現役の私では次第に話題が
合わなくなって、微妙なズレが生じて始め、しばしば意見の対立が起るようになった。
彼は上意下達の意識が強い方で、友人の私にでさえ自分の優位さは保っていたい性分である。
そんな性格からか、人は敬遠して彼の交友関係は少ない。

彼は中国が長かったこともあり、中国びいきである。逢えば必ず「日本は中国に比べて、・・・・」
「日本人は中国人に比べて・・・どうだこうだ」「日本は国際社会についていけなくなる・・・・・」等、
ことごとく日本人を扱き下ろす(こきおろす)発言をする。「お前も同じ日本人だろう」と思うのだが、
自分だけは日本人一般とは違い、特別の人間のようである。

それから、共通の知人のこと小馬鹿にする。「あんな能力のない奴がいるから会社がダメになる・・」
というように、自分が暗に彼らに比べ優れている人間であるかを言いつのっているように聞こえてくる。
そして私が言うことは必ず否定してから自分の理論展開をして行く。「お前の言うのはおかしい」
「お前は世の中が分かっていない」。それは議論ではなく、相手を抑え込むための理屈である。
昔からそんな性分だったが、仕事を辞めてからは特にそんな性格は顕著になったように思う。

昨年9月ごろ、「暇だから映画に行こうと思う。なにか面白い映画はないか」と電話で聞いてきた。
「う~ん、先週見た映画で『メガネ』というのが面白かったよ」と言ったら彼は早速見に行ったらしい。
数日して携帯に電話をかけてきた。「お前が面白いと言ったから見に行ったが、あの映画は何だ!
あれは自然の冒涜だよ。映画を作った監督は何を考えているのだ・・・・」そんなことを言い始めた。
彼の独善的な話し方は日頃から違和感を持っていたのだが、さすがにその時は許せなかった。
「お前はいつも人の言うことを否定する。そんなに自分のことが正しいと思うのなら、自分一人で
やっていけばいい。もう俺にはなにも聞く必要もないだろう!」と言って一方的に電話を切っていた。
彼も言いすぎたと思ったのか電話を掛け直して、私をとりなしたが、私の感情は治まらなかった。
それ以来私の方から声をかけることはなく、彼から「飯でも食おう」というメールを何度もらったが、
その都度理由をつけて断っていた。彼の独善的な物言いが許容できなくなっていたからである。
年が明け、年賀状や時々のメールのやり取りはあるものの、その後も彼に会うことはなかった。

先日、彼がメールをくれた「中国に行って、お土産を買ってきたから、一度会おう」という誘いでる。
これ以上かたくなに拒絶するのも大人げないと思い、先週の日曜日に1年ぶりに逢うことにした。
会った始めはやはりわだかまりは残ったものの、話すうちにしだいに何時もの2人に戻って行った。
さすがに人を馬鹿にした物言いや、人の言うことを否定するスタンスは押さえていたのであろう。
今までと違って素直で、自分の現状の苦しさや弱気な一面をも語ってくるようになった。

彼は女房と娘の3人で暮らしているが、先月32歳になる娘が亀有にワンルームマンションを借りて、
家を出ていったそうである。理由は定かではないが、親父をうるさく感じてだろうと彼は言う。
彼としては娘が早く結婚し、世帯を持つことを望んでいた。しかしいわゆるパラサイト状態で
母親が娘の世話を焼き過ぎるのがが良くないと思っていたらしく、日頃から「早く家を出て行け、
何時まで親を頼っているのだ!、自分で生計を立てないと困るのはお前だ」と言い続けたらしい。
そんな父親を女房も娘も嫌っていたようである。そして、いざ娘が出て行ってしまうと困惑する。
女房は平然としているのに、彼の方が動揺して気になって仕方がない、グーグルで地図を出して
ひそかにそのマンションを訪ねて、そっと様子を見てそのまま帰ってきたという。

彼は不器用な人間なのである。ほんとうは私との仲も良好に維持しておきたかったはずである。
ほんとうは娘とは適度なコミュニュケーションを保って人生のアドバイスしていきたかったはずである。
しかし彼は自分の思いを素直な形で表現できない。自分を相手より優位な立場に置いておか
なければ物が言えないのであろう。相手と対等な位置関係で話すことが苦手なようである。
その結果、彼を敬遠して昔の仲間が離れていく、娘さえもいたたまれなくなって家を出て行く。
彼が何となく今までと様子が違うことを感じ始めてくると、自分の権威が落ちたとのだと錯覚し、
より独善的な性格をパワーアップして行ったように思う。「これでも聞いてくれないのか!」と、

歳をとるに従って、その人の特徴的な性格はより肥大化して行くと言う。
彼の場合は仕事をする上で、自分の地位を高めることで、相手をコントロールしようとした。
しかし仕事を辞めてからは世間一般に通じる解り易い地位の「物指し」がなくなってしまった。
だからより独善的な物言を進化させることで、相手に言うことをきかせようとしたのではないだろうか。
感情高い女性が歳とともに、その感情がより強くなって、理性的な話が出来なくなったり、
自己顕示欲が強いオーナー経営者が歳を増すごとに鼻もちならないほどに自己顕示していったり、
頑固親父がより頑固になって孤立し行き、臆病者がより臆病になって家に引きこもってしまう。
歳を経るほどに人はバランスを保っていることが難しくなって行き、崩れていくように思う。

私は他人の性格の歪さは見えても、さて自分がどうなのだろうと思うと自分の歪さは見えない。
「人のふり見て我がふり直せ」ではないが、「我がふり」はなかなか見えないものである。
外からは見えても内からは見えずらい。自分を自分の外から見ることが「客観視」なのであろう。
「人は自分を映す鏡」、謙虚に相手の話を聞くスタンスを失ってはいけないと、思い直してみる。

1Q84

2009年07月03日 09時43分28秒 | 読書
村上春樹の長編小説「1Q84」がベストセラーになっているという。発売2週間足らずで100万部、
このまま行けば200万部を突破する勢いだそうだ。純文学としては前例のない売れゆきらしい。
何度か本屋をのぞいたが、いつも売り切れで買えなかったが、先週やっとこの本を買うことができた。

今回の作品を書きあげる動機が「オウム事件」のようだ。オウム裁判の傍聴に10年以上通い続ける。
この事件を考える上で、犯罪の被害者と加害者の両サイドの視点から現代の社会状況を洗い直し、
死刑囚になった元信者の心境を想像し続けた。そして現代社会における『倫理』とは何かという問題
を主題にし、村上春樹の幻想的な世界に置き換えて作品を書き上げたようである。

今回の作品の題名『1Q84』は実在の1984年とは微妙にズレた世界をあらわしている。そこでは
月が二つあったり、現実の事件とは多少異なる事件が起きたり、村上春樹の得意とする幻想的で
混とんとした世界を描いて読者を引き込んでいく。村上春樹の良く使う技法なのだが、「青豆」という
インストトラクターの女性と「天吾」という男性を、それぞれ主人公にして別々な物語を交互に書き、
次第にその二つの物語が近づいて行き、最終的に一つに繋がって行くという展開である。
彼の際立った文章力とミステリヤスなストーリー展開は、その先その先と、どんどんと引き込んでいく。
通勤と昼休みでの読書であるが、一冊500ページX2巻を約1週間で読み上げた。

読み終わって物語を振り返ってみる。面白かった反面、何となく「腑に落ちなさ」が残った感じもする。
物語は幻想的な内容の割には淡々と、しかも計算されたスピードで進行して行ったように思う。
読者は作者の幻想の世界を引きずり回されて、いつの間にか出口に着いていたという感じである。
読み進む中で、自分なりの判断や解釈を差しはさむめないまま、一方的に終わってしまっていた。
それは、この物語が我々には思いもよらない奇想天外な幻想の世界だったからであろう。
ストーリーはそれなりに起承転結もありクライマックスを迎え、そして余韻を残して終わる。
しかし読み終わった後に残る、ずしりとした重さというか、存在感が薄く不完全燃焼を感じてしまう。
これが村上春樹の持ち味なのかもしれない、これを今風で良しとするのか、物足らないと感じるかは
個人の趣向であろう。

今、村上春樹の作品が世界中で読まれ、ノーベル賞の可能性も言われている。村上春樹の何が
世界の人々に評価されるのであろうか?私にはそのあたりがもう一つ理解できない。
今回の「1Q84」も以前に読んだ村上春樹の小説も基本的には同質である。こんな世界もあるのか、
こんな小説もあるのか、という驚きも手伝って面白く感じた。巧みな文体、人を引きつけてやまない
ストーリーの展開、確かに新しいジャンルの小説とだと思うものの、果たしてノーベル賞に値するほど
人々に感銘を与えているとは思えないのである。
作者が言わんとしているテーマ、作品に共感できること、感じること、なにか抽象画を見ているようで、
印象派の絵に慣れた私には村上春樹の世界を感じることは、まだ少し無理なのであろうかとも思う。

私はどちらかといえば現実に則し、ある種のリアリティーを持った物の方が好きであり、男で、理系で、
しかも物事を論理だてて考えるタイプの人間である。だから抽象的なものは受け入れがたかった。
したがって村上春樹という作家のものは、私の読書リストには、つい最近まで全く入っていなかった。
4年前朝日カルチャーセンターの「実践小説教室」で講義を受けたとき、日本文学史の中で重要な
位置を占める作家と聞き、あわてて読んだのが彼のデビュー作でもある「ノールウエイの森」である。
その後「羊をめぐる冒険」 「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 」「ねじまき鳥クロニクル」
「1973年のピンボール」「アフターダーク」「海辺のカフカ」と読み進んでいった。
村上作品を通して感じるのは、無機的でクールな感じ、透明感を持って淡々と展開するストーリー、
そして読後に「喪失感」「孤独感」「虚無感」が残る作品が多いように思えた。
今はこういう作品も面白いと思うようにはなったが、しかし自分の中で肌合いが合う作品は少し
人間臭く、生活感を持ったストーリーやテーマの方が読みやすく、納得しやすいように思っている。

私は小さい時から読書が苦手であった。知識を得るための本を読むことはあっても、文学的なものは
全く受け付けず、中学時代からほとんど小説らしいものは読むことはなかった。
唯一読んだ本が高校の夏休みに読書感想文を書くために夏目漱石の「二百十日」という本である。
本屋に行って、文庫本で一番薄い本を選んだら、たまたまその本が夏目漱石であっただけである。
会社に勤めて、ある時近くにいた読書好きの女性が、三浦綾子の「塩狩峠」という本を貸してくれた。
借りた以上読まなければいけない。いやいやではあるが、高校以来初めて小説を読むことになった。
そして、その時に初めて小説を面白いと思った。寝る間も惜しんで読んだのは、私としては晴天の
霹靂でもあった。次に貸してくれたのが同じく三浦綾子の「積木の箱」、そして「氷点」と続いて行く。

本を面白いと思ってからは自分で本屋に行って買うようになり「読書」が自分のものになっていった。
その後、川端康成、夏目漱石、島崎藤村など名作と呼ばれるものから始まり、松本清張、水上勉、
森村誠一、西村京太郎、陳舜臣、清水一行、天藤真などの推理小説へ移行していく。
読むうちに面白いだけでは飽き足らず、読後に何か残るような良い作品を読みたいと思うようになる。
それから毎年の芥川賞や直木賞の受賞作など賞をとった作品を中心に読むようになって行った。
そしてその作品の中から自分の感性に合う作家の他の作品に範囲を広げて読むようになった。
そんな中で最も好きで読んだのが宮本輝である。彼の作品(50作)はほとんど読んだであろう。

本を読むことは、著者に寄り添いながら自分の思考と重ね合わせる作業ができることにあるという。
その活動を通して新しい知識や価値観を創り出していくことができる。それが最大の効用であろう。
思えば、私の知識や価値観の形成には、読書の積み重ねが大きな比重を占めていると思う。
そして私の読書習慣も三浦綾子の「塩狩峠」という本を貸してくれた一人の女性から始まっている。

そう考えれば、人生とは「縁」なものである。その「縁」をつかむか否かで人生の展開も変わって行く。
「1Q84」は主人公の「青豆」という女性と「天吾」という男性が小学校5年でのわずかな「縁」が
物語の大きな骨組みになっている。その「縁」を引っ込み思案のため、躊躇し生かせなかった天吾、
そのことが、その後の彼の人生を少しずつ狂わしていく。勇気を持って一歩前に出る。そんなことが
この本の中のテーマの一つにもなっているように思った。
「1Q84」を読み終わって昨日本屋を覗いたら、宮本輝の『骸骨ビルの庭』が平積みになっていた。
待ちに待った彼の新刊である。「今度は何を感じるだろうか、楽しみである」