60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

アカデミー賞

2009年04月28日 08時39分21秒 | 映画
今年のアカデミー賞8部門を受賞した。『スラムドッグ$ミリオネア』を見てきた。
全米ではわずか10館から公開がスタートしたものの、口コミで評判を呼び、ついにはアカデミー賞
最多8部門を制覇するまでに至った映画だそうだ。 

荒筋はこうだ。日本のテレビで放送されていたクイズ番組に『クイズ$ミリオネア』という番組がある。
司会のみのもんたの出題する4択のクイズに挑戦し勝ち進んでいく番組、不正解だとその場でアウト。
番組内で使われる「ファイナルアンサー!?」が流行語になり社会現象にもなった。あの番組である。
もともとのオリジナルはイギリスで、今は同種の番組は世界中にあようである。
インドにもこの番組はあり、いくつも出題される難問に全て正解すれば億万長者になれる。
まさに夢のクイズ番組である。

その番組に出場したスラム街出身の少年ジャマールが、周囲の予想に反して正解を連発し、
勝ち進んでいく。しかしあと1問を残したところで放送の時間が切れ、番組は翌日回しなる。
しかし彼がスラム街で育った孤児であり、貧乏であり、無教養であるが為に番組の司会者に
不正を疑われ警察に突き出される。彼は警察に拘束され、不正を白状させるために拷問を受ける。
映画はクイズ番組の収録、警察による尋問、彼の少年時代の過酷な生い立ち、という3つの
時間軸を交錯させることで、社会の底辺から這い上がってきた彼の壮絶な人生を浮かび上がらせ、
なぜ彼がクイズの答えを知っていたのかを明らかにしていく。そんな展開の映画である。

母親を殺され孤児になった少年、子供を集め物乞いさせる組織に捕えられ、金を稼せがされる。
何人かの子供はその方が物乞いには有利だからとの理由で目をつぶされ盲目にさせられてしまう。
インドのスラム街の貧しさ、その中で生きていかねばいけない子供たち、それを利用する犯罪組織。
映画はこれでもかこれでもかというぐらい、その悲惨さを見せつけていく。見ているこちらが目を覆い
たくなるシーンの連続である。電車の乗客から金を盗み、人をだまして小銭を稼ぐ少年時代、
犯罪に手を染めることでしか生きる術がなかった彼の人生もやがて青年へと成長し、恋もする。

映画の主人公はどんな厳しい状況においても知恵を絞り、したたかに、たくましく生き抜いていく。
格差社会という言葉を吹き飛ばしてしまうぐらいに力強く、生への執念とパワーがほとばしっている。
社会の中で虐げられ続けてきた少年がクイズに勝ち上り、億万長者にチャレンジしていくストーリー
はまさしく「ドリーム」である。「アメリカンドリーム」の変形版と言っていいのかもしれない。
底辺に暮らす人々の人生に希望をもたらし、観る者に夢を与えていく、そんな意図が見えてくる。

この映画の魅力は、計算されつくしたエンターテイメント性にあるのではないだろうかと思う。
インドのスラム出身の青年が、過酷な人生を駆け抜けていく様をクイズ$ミリオネアの答えと
連動しながら描いている巧みな構成。切なくて辛い若き日を描きながらも、前向きに生き
ようとする主人公ジャマールにみなぎるインドという国を体現したようなパワー。
そして、ジャマールが困難に立ち向かいながら初恋をどこまでも貫こうとする強い想い。
この全てが“クイズ$ミリオネア”の翌日挑戦する最後に出題される問題へと連動していく結末へ。
計算されつくした完璧に演出された映画なのであろう。そういう意味では作品賞の他に監督賞、
脚色賞、撮影賞、編集賞、作曲賞、歌曲賞、録音賞の8冠を獲得したのも納得がいく。

しかし見終わって「良く出来ている作品だなぁ」という感想ではあるが、感動する作品ではなかった。
2時間の上映時間の間、感情移入出来ず、映画との距離を感じながら眺めていた気がする。
それはインドという異文化の地が舞台だったからだろうか、それともあまりに作られ過ぎた演出だった
からだろうか、日本人の持つ情緒、情感のようなものがなく、ただただストーリーを追わせていく作品
だったからだろう。そのあたりがやはり文化の違いなのであろうと思う。

追記
もう一本、クリント・イーストウッド監督・主演作品「グラン・トリノ」も見てきた。
朝鮮戦争従軍経験を持つ気難しい主人公が、近所に引っ越してきたアジア系移民一家との交流
を通して、自身の偏見に直面し葛藤(かっとう)する姿を描く映画。イーストウッド演じる主人公と
アメリカに暮らす少数民族を温かなまなざしで見つめた物語である。
長い人生、辛いこともあれば、楽しいこともある。それを身をもって体験してきた大人だからこそ味わえ
人間ドラマ、己の正義を貫く主人公の強い意志と男の美学ともいえる人生哲学がくっきりと浮かび
上がってくる。この作品を最後に「俳優業の引退」を宣言したイーストウッドの名演がひかる。

私はこの2作品を比べたら「グラン・トリノ」に軍配を上げたい。スラムの孤児から幸運にもミリオネアに
なるという夢を見るより、人生の終焉を迎える時、何を考え何をすべきかに葛藤する「グラン・トリノ」
の主人公の方に共感できるからであろう。
今、自分は小説でも映画でも、はたまた音楽でも絵画でも、自分がその中に何かを発見するのでは
なく、出来れば深く共感出来る作品に出会いたい、そう思って、いろいろとあさっているように思う。
それは歳とってきて次第に孤立するときの慰めになるのかもしれないと思うからであろうか。

モーニング

2009年04月24日 09時06分01秒 | Weblog
朝は6時5分前に目覚ましが鳴り、約20分で支度をして、大体6時15分ごろには家を出る。
以前は家で朝食をしていたが、食事をすると、その間20分程度は時間がかかる。
それに加えまだ体が目覚めていない段階で物を食べると、消化が悪くお腹の調子がおかしくなる。
結果、池袋駅でトイレに駆け込むことになる。しかしトイレは満員で苦しい思いをしたこともたびたび、
我慢できず駅を飛び出し喫茶店を探す、そこのトイレに駆け込むが、そこでも満員の時もあった。
「もうこんなことを繰り返すのは嫌だ」そんな思いから、朝食抜きで家を出るようになった。

朝食抜きだと、早い電車に乗れるからラッシュに合わず、車内で新聞を読むことができるようになる。
食べていないから下痢をすることもない。通勤の緊張から解放され、余裕の通勤に変わって行った。
しかし、お昼まで空腹のままは辛いから、会社の近くのドトールでドックや菓子パンと珈琲を食べたり、
松屋で朝食を食べたり、コンビニで豆乳と野菜ジュースとクッキーを買い会社で食べることもある。
運動しての食事だから、その方が理にかなっていて体調には良いように思う。もう何年も続けている。

先日駅のそばにあるガストに入ってみた。朝7時半過ぎであるから、店内はまばらである。
眺めの良い窓際のテーブルを目指して行くと、見渡せるテーブル全てに、1部づつ新聞が置いてある。
新聞には「フレッシュマン・キャンペーン」という文字が書いた10cm角程度の付箋が貼ってある。
そこに「モーニングをご注文のお客様先着20名様にお配りしています。ご自由にお持ち帰り下さい」
と書いてある。 「ふーん、なかなか洒落たことをするな」そんな風に思った。

そのシールをよく読んでみると、これは新聞社の新規獲得のキャンペーンである。
新聞を読んでもらい、なおかつ無料のお試し購読1週間を申し込むと、ガストのドリンクバー無料券
がもらえる、とある。新聞を無料で1週間読んで、さらに無料ドリンク券をゲットする。
そこまでして購読しないという厚かましい人はいない、という性善説に立ってのキャンペーンであろう。

以前ニュースで見たことがあるが、1990年代をピークに新聞の購読率が下降線をたどり続けている。
特に若い人の新聞離れは激しく、購読率は30%を割るといわれている、と。
インターネットが普及して、若者のニュースソースはテレビやネットが主になってきているのであろう。
そんな中で少しでも若い人に新聞を読んでもらい、購読を獲得するキャンペーンを張るのだろう。
確かに、我が家にいる娘2人は新聞を読まない。新聞で見ているのはテレビ欄ぐらいである。
世の中の流れ、世の中のニュースを知るのはテレビが一番多いようである。
現代人は活字で理解するより、テレビで映像と言葉で放送された方が理解しやすいのかもしれない。

ガストは8時を過ぎるとぼつぼつとお客さんが入ってくる。しかし若者は一人もいない。老夫婦、
おばさん2人、サラリーマン、近所の商店主など、どの人も常連らしく、席に着くなり新聞を広げる。
朝のモーニングサービスに新聞がついている。そんな感じで年配者には好評なのかもしれない。
このキャンペーンは新聞社にとっては効率が悪く、反対にガスト側にメリットが大きいように見える。

新聞社の仕事も新聞という媒体から、他の媒体にシフトしていかなければ次第に成り立たなくなる。
「ニュース」もTPO(Time(時間)、Place(場所)、Occasion(場合))でその媒体が違ってくるのだろう。
朝はテレビでニュース、通勤のラッシュの時はラジオ、昼間は会社のPCでインターネットのニュース、
外出時は駅に置いてある情報誌、帰りは携帯のワンセグや駅で買うタブロイド版の夕刊紙、
帰ってからはやはりテレビやインターネットから情報を得る。果たして新聞は生き残っていけるのか?
「配達された新聞を読んでから出勤する」そんな習慣はすでに崩れ去っているように思えるのだが。

散歩

2009年04月21日 13時21分15秒 | 散歩(1)
8年前母が亡くなった。やはり母の死は大きく、心の中にぽっかりと穴があいたような空虚さを感じた。
生前最後に逢った時に「まだまだ子供に対して責任があるのだから、煙草をやめなさい」と言われた。
これを母の最後の言いつけだと思い、自分への戒めとして、母の死を機にタバコを止めることにした。
煙草を止るとやはり太り始める。そしてそのためには運動しようと思い立ったのが散歩の始めである。
歩くこと、歩き続けることは、母の死による心の空虚さを埋め合わせるためにも有効な手段であった。
歩き始めて1年も経つとこれが習慣になり、歩かなければ物足りなさを感じるようにまでなって行った。

それ以来いまだに歩いている。毎週土曜日を散歩の日とし、首都圏近郊を歩き続けている。 
バックにペットボトル(500ml)の飲料と、少しの食料を入れ、手にはデジカメを持って歩くのである。
どこかの駅に降り、時にはバスに乗り、3時間から時には5時間程度歩いて又駅に戻ってくる。
主に散歩の本を参考に、そのコースをたどっている。最初は西武線79駅全ての駅に降りて歩いた。
それから、東京、神奈川、千葉、茨城、遠くは群馬までも歩いている。延べ350回は超えるだろう。

歩くことでいろんな発見がある。白金も歩いた山谷も歩いた。銀座も歩いた熊谷も秩父も歩いた。
地域によって、そこに暮らす人々の生活様式や雰囲気や人情の微妙な違いを感じるようにもなった。
それぞれの街に商店街があり、学校があり、神社仏閣がある。そして何よりも人の住む住宅がある。
家々には庭木や鉢植えがあり、犬や猫がいる。洗濯物が干してあり、子供を叱る声が聞こえる。
見も知らぬ街の中にも自分と同じような生活がある。当たり前のようだが、それが新鮮で楽しかった。

歩き始めて間もなく、デジカメを持って、歩くようになった。目にとまるままにシャッターを押して行く。
山や川の流れを、海辺を、草花を、神社仏閣を、公園や庭園を、港や船や橋を、撮って歩いた。
そのうち、ただ風景を撮ることから、その地域の空気を写し込めないだろうかと思うようになって行く。
そのためには風景の中に人を写し込むことがてっとり早い。散歩する老人、無邪気に遊ぶ子供たち、
釣りをする人、ベンチで語り合う恋人、神社にお参りする人、お祭りで集う人、畑を耕す人、等々。
毎週撮りためた写真を編集し、仲間に散歩の記録としてメールで配信するようにもなった。
そんなことを続けて8年、首都圏の主だった散歩コースはほとんど歩いた。しだいに歩く所も写す
テーマも枯渇していき、散歩もマンネリになって来たように思う。

先日、家電量販店をのぞいてみる。コンパクトなデジカメの中で、マクロ1cmという製品を見つけた。
私のデジカメは10cmが限界、花など大写しで撮ろうと近づいてもピントが合わずボケてしまう。
今回見たデジカメは接写1cm、しかも薄くて、手ぶれ補正があり、顔認証があり、夜間でも明るい。
デジカメも日進月歩、今持ているものより数段高性能で、しかも価格も3万円を切っていた。
見れば見るほど欲しくなる。何よりもマクロ1㎝が魅力である。そう思うと、いてもたってもいられない
すぐに銀行へ行き、預金を下ろし買ってしまった。このあたりが自分でも衝動的だと思うところである。

翌日新しいデジカメを持って郊外の畑道を散歩する。道にタンポポが咲き、庭先に花が咲き乱れる。
畑には菜の花が咲き、ネギ坊主が開いている、雑木林は若葉が噴き出しもえぎ色になっている。
新しいカメラを花に近づける、接写1cm。ちゃんとピントは合っていて花は大写しになったくれた。
手当たりしだいに写して行く。撮りためたものを見てみると、今までとは全く違った世界が写っている。
こんなに近づいて見てみたら、今まで見えていなかったものが見えてくる。新しい驚きがそこにあった。
接写で見るマクロの世界がそこにある。「私は新しい武器を手に入れた」そんな気分である。
新しいカメラを持って、来週からまた散歩に出ていく楽しみが出来たように思う。

男女雇用機会均等法

2009年04月17日 09時27分32秒 | Weblog
男の子は誰でもだろう、私も子供のころ、街を走っていた路面電車の運転手にあこがれたことがある。
いつも電車の運転席のそばに立って、運転手の一挙手一投足をじいっーと見入っていた。
そんな憧れがあったからであろう、いまでも通勤時に山手線の電車の一番前に乗ることが多い。
軌道の上を深く突き刺さるように進む電車、景色が迫り後方へ流れ飛ぶ、満員のプラットホームの
こぼれそうな人波が危うい、警笛をならし滑り込んでピタリと停まる、そんな光景を見て楽しんでいる。
今日乗った電車は女性が運転していた。見習い期間中なのか隣に年配の職員が乗っている。
ポニーテールの髪を帽子の後ろから出し、白い手袋に、ヒールのない靴、颯爽としてすがすがしい。
女性車掌のアナウンスは時々聞いたことはある。タクシーやバスの運転で女性を見かけることもある。
しかし列車の運転は初めてである。「とうとう、ここまで女性が進出してきたのか」それが感想である。

20数年前であろうか、男女雇用機会均等法というのが出来て、雇用に関する考え方が変わった。
我々が働き始めた頃は女性の深夜残業や早朝出勤は禁止されていたように思う。
棚卸などで残業がある場合など、店長から「女性は10時までに返すように」とお達しがあった。
また、残業時間や休日労働や生理休暇なども、ある種女性保護の立場に立っていたように思う。
それが「男女雇用機会均等法」の施行から、しだいに男女の実質的な区別がなくなっていった。
それは良い部分も悪い部分もあるのだろうが、女性の働く場は確実に広がって行ったように思う。
「会社は社員の募集及び採用につき、女性に対して男性と均等な機会を与えなければならない」
と言う法律があれば、JRは運転者募集に女性の志願があれば、それを拒否はできないであろう。
性差による社会的な区別や差別はまだまだ残るものの、それも次第になくなっているようである。

考えてみれば電車の運転は男性でなければいけないという理由を探す方が難しいかもしれない。
自動制御された電車、そんなに熟練はいらないのだから女性がやることに何の問題もないであろう。
そういえば以前九州に出張の帰り、下関まで乗った関門海峡の連絡船は若い女性の船長だった。
船乗りと言えば男性という認識があり、その時も今までの自分の常識の古臭さを思ったものである。

しかし、あくまでも雇用の機会が均等ということであって、性差により当然適不適はあるように思う。
看護師や保育園幼稚園の先生などを男性がやってもいいだろう、しかし少し違和感と抵抗がある。
昨日の新聞のコラムに「自衛隊で初めて女性自衛官が護衛艦に配属された」という記事があった。
平和な時代の運航は良いが、いざ戦闘となったとき、はたして大丈夫なのであろうかと思ってしまう。
まあ、女性のプロ野球のピッチャーはご愛敬であるが、しかし実際に火の中に飛び込む消防士や
体力的にハードでなければ務まらない現場の自衛官など、やはり男性の職場のように思うのである。
そう考えることは古臭いのであろう、世の中の変わり様に私もついていけなくなったのかもしれない。

今の世の中、女性の方がはるかに元気がいい。コンサートや美術館に行っても大半が女性である。
習い事や勉強会も女性の為にあるような感じがする、家庭での買い物は女性に権限が移っている。
女性が社会進出するに従って、女性自身の意識も変わってきたようである。しかし男は以前のまま。
反対に女性にあおられ、男性は自分自身を見失っているようにも思えてくる。

先日読んだある女性のブログに書いてあった。
男性は仕事人である前に「男」で在ってほしい。「男」とは、どっしりと構えて、ブレないこと。
それから内なる信念を持ってほしい。それは頑固ということではない。
誤魔化さない、逃げない,、そしていつも身綺麗であれ、そのような願望が書いてあった。
男女に聖域がなくなった現在、男のメンツを保つのは、こんなことこそが重要なのかもしれない。


私の履歴書

2009年04月14日 09時30分01秒 | Weblog
先週Hさんと新宿で飲むことになった。彼は1932年生まれの76歳、まだすこぶる元気である。
一時期、会社で運営していた和菓子の店の店長をお願いしていた時からのお付き合いである。
店はうまく行かず、7年前に店の運営を他社にゆだねた。その後数年してHさんも店を辞めた。

そのHさんと飲むのは10年ぶりぐらいであろうか。話はやはり、Hさんの近況の話が多くなる。
Hさんは和菓子屋の店長になる前までは企業コマーシャルを制作する会社のオーナーであった。
その会社が倒産し、Hさんはすべてを失った。今は息子さんが建てた家に夫婦で同居している。
息子さんは大手の電気メーカーに勤めいる。すでに39歳になるがいまだに独身だそうだ。
「爺婆付きでは嫁の来てもないのかもしれない」そうは思うのだが、面倒を見てもらうしかない。

近所には娘が結婚して暮らしており、孫2人が時々遊びに来てくれるのが唯一の慰みだそうだ。
Hさんは奥さんとも息子さんとも仲が悪い。話せば喧嘩になるから顔を合わせるのが嫌だという。
今、女房と息子の部屋は2階にあり、Hさんは1階の片隅の小さなスペースに暮らしているという。
やはり息子は母親贔屓、いつも親父の私にはつめたく当たるという。何時も2対1の戦いになる。
「肩身が狭い居候だから、自分の方が折れるしかない」 息子への負い目か卑屈さが顔をだす。

今の時期は朝4時半に起きて散歩に出る。目標は1万5千歩、これはいつもクリアーするそうだ。
散歩以外は川柳と都々逸は毎日欠かさず作る。そして昔から好きな水彩画を描いているという。
もう何作も描いたが家族は誰も評価してくれない。今取り組んでいる絵は朝の散歩のときの景色。
木立の向こうから朝日が上がってくる光景、その朝日を地球に置き換えて書いてみたいらしい。
日本の人工衛星からの画像で、月の地平線から地球が昇ってくる様子を見て感動したからという。

そして最近始めたのがパソコン、近所に住む娘に手ほどきをうけ覚えたようである。
毎日練習しないと忘れるからと、必ずパソコンに日記と川柳と都々逸とを書くようにしていると言う。
Hさんの暮らし、色々な不平不満はあるのだろうが、しかしまずまず元気に暮らしている様子とみた。
帰りがけに、「パソコンの練習に私の履歴書を書いてみた、それと川柳があるから読んでくれますか」
そう言って紙の手提げの中から封筒を出して私に渡してくれた。

帰りの電車でHさんの履歴書を読んでみる。A4の紙に打ち出された履歴書は17枚にも及んでいる。
76歳にしてパソコンを始め、自分の履歴書を書いている。Hさんの気力はまだまだ衰えてはいない。
履歴書のサブタイトルに「どぶ川の流れのように、流れ流されて」とある。Hさんらしく自虐的である。
横書きで年号とその時代の背景や事件、それとともにHさんの自叙伝とが時系列的に綴ってある。
その履歴書は1932年に東京都四谷荒木町に父堅次郎、母琴枝の間に生まれる、から始まる。

履歴書によると、小学校の時に太平洋戦争が始まった。誰もが経験した空襲や集団疎開の体験、
終戦後の食糧難と貧乏暮らし、そして親戚との雑居暮らし、最大は1軒に13人で暮らしたようだ。
子供時代の友達のこと、野球や相撲に夢中になって遊んだこと、好きな女の子のことが綴ってある。
高校を卒業して20歳でラジオの番組制作やコマーシャルを取り扱う会社に入社している。
仕事はクリエイティブなことを求められ、いろんな番組に取り組んだ様子が活き活きと綴ってある。

そして32歳で結婚し女男の2人の子供が出来る。その間3社転職し、38歳で会社を設立した。
会社は今まで経験したきた業界で、企業のコマーシャル製作を請け負う会社である。
履歴書には会社で扱った多くのクライアントの名が出てくるが、今でも名の知れた会社も多い。
やがてこの業界も、時代とともに電通や博報堂の大手に席巻され、中小零細は追い詰められる。
Hさんの会社も資金繰りに行き詰まり、やむなく従業員を解雇、やがて立ち行か無くなり倒産する。
20年間やってき事業、60歳の時に倒産して無一文になって、大きな借金だけが残ってしまった。
その時の心境は書いてはいないが、たぶん人生最大の衝撃であり、挫折であったのだろうと思う。

17ページの履歴書を読むうちに、Hさんのたどってきた76年間がおおよそが想像がつくように思う。
彼の一本気な性格からして、たぶんそれぞれの職場では一生懸命に打ち込んできたのであろう。
独りよがりで、他人の忠告など聞き入れない彼は、たぶん家族はほったらかしであったのだろう。
奥さんからすれば自分の好き勝手な事をやって、結果的に会社を倒産させ大きな借金を作った。
周りからは「身勝手な人」と烙印を押され、女房子供の不信をかっただろうことは容易に想像がつく。
だから、その反動で家族からは冷たい扱いを受けているのだろう、それも自業自得なのかもしれない。
17ページに綴られた76年間のHさんの人生、自分で振り返ってみてどう思ったのだろうか、
家族にとっては不満でも、Hさんには思い出のいっぱいある波瀾万丈の人生であったはずである。

もう1冊もらった「ぼけの細道」というHさんの川柳集から5句拾ってみる。
 朝焼けは 版画の如く 蒼と紅
 年一度 生きてる証拠の 年賀状
 年寄りは 薬と病気の 話しだけ
 雪だるま 溶けて崩れて モンスター
 今日は留守 テレビも炬燵も 独り占め

私も以前「私の履歴書」を書こうと、下書きを書いていたことがある。
しかし結婚前の自分は客観的にかけても、結婚後のことはまだ生々しい現実の世界である。
やはりある程度人生を達観できるようにならなければ無理だろうと思い、ペンを置いた。
いずれHさんのように自分の人生を振り返って「私の履歴書」を書いてみたいと思っている。
たぶんその時は70歳を超えている時かもしれない。


定年後

2009年04月10日 08時34分10秒 | Weblog
以前の会社の同僚が集まった。
63歳(定年後無職)、61歳(定年後嘱託)、59歳(現役、あと1年で定年)と私の4人である。
昔の仲間は、しばらく会っていなくても、会ったそのその時から、昔の間柄で話せるのがいい。
しかも、今はお互いの立場も違い利害もないから、現状の悩みや問題を訴えても何ら問題はない。
それぞれの頭は白く薄くなり、40年間働いてきての衰えと疲れとが体全体に漂っている感じである。
口を突いて出てくる話はここが悪い、あそこが悪いと体の異変のことが多く、昔とは話題が違ってくる。
私が目に糸くずが飛んで眼科で硝子はく離と言われたとことを話すと、一人は「俺は網膜はく離で
手術したばかりだと」言い、もう一人は「緑内障で、いつ失明するか分からない」と言う。
「お前など全然大した事はない」そんな風に慰められる始末である。

4人の中で退職後何もしていないのは63歳の Yさんである。
Yさんは60歳の定年後、一切の活動を辞め、郊外のマンションで夫婦2人で暮らしている。
定年前にYさんに会った時には、「もう、仕事はうんざり、定年が待ち遠しいんだ」と言っていた。
日々ストレスの中で仕事をしていて、「早く楽になりたい」そんな思いが強かったのかもしれない。
そして今の心境は「働きたくはないが、一日中何もやることがないと気が狂いそうになる」と言う。
朝食のあと新聞を読み、今はそのあと市内のスポーツジムに通う毎日だという。(月3000円)
ジムでランニングマシーンなど使ってたっぷり運動し汗をかく、そしてシャワーを浴びてから家に帰る。
毎日これをこなさないと1日が始まらないと言う。それからパチンコをしたりテレビを見たりで過ごす。
今までは毎日仕事のために通勤していた。今は毎日ジムに通うことが仕事のようなものだそうだ。
人は日々何をやるかを考えるのは苦しい、やはりある習慣の中で暮らす方が楽なものであろう。
彼の場合のそれは運動なのである。それが軸になって毎日が成り立っている、そんな感じである。

私の父は旧国鉄を60歳で辞め、その後国鉄の外郭団体に勤めて65歳で完全にリタイヤした。
退職後の父を見て母が言う。「仕事を辞めたんだから、少しはゆっくりしてれば良いのに、あの人は
ちっともじーっとしていないんだよ。朝は新聞を読み、株価をノートにつける。それから散歩に行く。
何処を歩いているのか、お昼まで帰ってこない。昼からは庭の植木をいじり、歴史の勉強をし、
推理小説を読む、夕飯を食べてからやっと落ち着きテレビを見る。勤め人と変わらないんだから」
「男は走るために生まれてきたサラブレットのようなものなのよね。走ることを止めたら狂ってしまう」
じーっと落ち着けない父を見ていて母はそんな風にも言っていた。

競走馬は走るために生まれ、早く走るために調教され、その優劣を競ってきた。
サラリーマンも働くために生まれ、働くたために学び、そして競争を繰り返してきたのかもしれない。
早く走ることが目標のサラブレッドが走ることを止められたら、その血は騒いで抑えようがないだろう。
父もまたその「働く」という血が収まり、家でくつろぐようになったのは70歳を超えてきてからである。
その頃は膝が痛み始め、次第に歩くことが辛くなってきていた。そして徐々に不活発になっていった。

40年以上も仕事に明け暮れてきて、それを明日からスパッと行動様式をテェンジすることは難しい。
Yさんがスポーツジムに通い汗を流すことは、今まで「仕事」に向けていたエネルギーの発散であろう。
本当はスポーツジムでエネルギーを使うより、自分の好きなこと、やってみたいことにエネルギーを
使う方が好ましいように思う。しかし悲しいかな我々凡人は仕事と趣味を両立させるのは難しい。

Yさんの話を聞く我々も早晩仕事への道は途絶えるだろう。それからどう過ごすかが問題である。
今まで仕事に使っていたエネルギーの使い道を考えねばならない。さあどうしよう。
幸い私の場合はサラリーマンと違って、一応は会社経営なので、年齢による強制終了はない。
今は細々とやっているがまだ成り立っている。成績が落ちてくれば、自分の収入を落として行く。
自分の収入がなくなり、家賃等の固定費が払えなくなるまでは自分の意志で続けることもできる。
しかし、それでは病人の衰弱を待つようなものでハタ迷惑な部分もあり、自分としても面白くない。
今後も会社を続けるならやはり自分の目的や意志持っていたい。そう思うのである。

今考えていることは、今日集まったメンバーのように、まだエネルギーを残してリタイヤして行く人や、
意志があって働きたくても、この不況下で職場が見つからず、力を発揮できない人は多い。
そんな人達の今までのネットワークや知識やエネルギーを活用できないものだろうかと思っている。
今の社会は個人として活動するのは難しい。だからと言って営業的な成算がないまま個人が
起業していくにはリスクは大きく、今からチャレンジするには歳を取り過ぎているように思う。
では、私の会社に雇い入れられるかといえば、かろうじて成り立っている会社だからそれは難しい。

彼等にまだ働ける、まだ活動したいという意志があれば、それらを手助けすることはできるだろう。
具体的には私の会社の名刺を持って活動してもらうのである。そして商売として具体的になれば
私の会社が介在して商売を成立させる。そしてルーチンの受発注や伝票の発行等はこちらでやる。
当然仕入れ先に対しての金銭的な保障もこちらで負うことになる。
会社は販売手数料としてなにがしかの金額(5%)を取って後の儲けはその個人に還元していく。

ただ、この仕組みが成立するには前提がある。一応会社として商売はするが、あくまでその責任は
組み立てた本人が持たなければならない。自己責任が前提でないと、こちらのリスクが過大になる。
当然、正規の社員ではないので、保険も金銭的な保証もない、100%出来高払いの形である。
したがって、本人の仕事に一家の生活がかかっているという状態だとなかなか難しくなる。
退職者や主婦など生活の基盤は持っていて、まだまだ今までの実績やネットワークの中で社会に
通用するビジネスが構築できると、意欲を持てる人が対象になる。
当然会社が持っているネットワークも活用できるものがあれば大いに活用してもらえばいい。
それぞれがそれぞれの責任の元に有機的につながって行き、自分の可能性を試していければいい。
会社はその人達のサポートをビジネスとする。言わばインターネットのプロバイダーの役割である。
こんなことが成立するなら自分自身の目的もできるし、会社を継続させる意義もあるように思う。

今日会った仲間は体には少しガタは来ているようだが、まだまだ意気軒昂である。
今から自分の友人を勧誘してみよう。はたして何人が賛同し、何人が活動してみたいと言うだろう。

2009年04月07日 09時34分34秒 | Weblog
東京の桜が満開になった。
「さあ、今年は何処に行ってみよう」毎年そんな風に思う。やはり桜は春の大イベントである。
物心ついて60年ぐらいだから、毎年桜を見てもその機会はわずか60回しかなかったことになる。
しかしそんな感覚はなく、もう自分の中では何百回も桜を見てきたような気がするのである。
それは毎年々桜を心待ちにし、あちらでもこちらでも咲いている桜に気持を奪われてきたからだろう。
自分の中での最初の桜の記憶は、何の変わり映えもしないが、小学校の入学式の時の桜である。
その時は父だけが付き添って来た。父が私と学校に来たのはその時だけ、それ以降は小学校にも
中学校にも一度も来た記憶はない。今思うと母に下の弟が生まれる寸前だったからかもしれない。
小学校への長い坂の両側と、運動場のぐるりに満開の桜の花がひらひら舞っていた記憶がある。
入学式、父親、そして桜、この3つがセットになっているから鮮明に記憶されているのであろう。

それから以後の桜は年代は定かではないが、記憶の中から芋づる式に思い出すことができる。
子供の頃は家族全員で市内の日和山公園へ、重箱につめたお弁当を持って行ったこと、
春休みには時々母が市内の火の山公園へ兄弟を3人を引き連れて桜を見に行ったこと、
春休みに行く母の実家の庭に大きな桜の樹があり、従兄弟達と登って花を取って遊んだこと、
中学校の桜の樹の位置、高校の桜の樹の位置、大学の友人たちと桜を囲んで酒を飲んだこと、
結婚し家族が出来てからは所沢の航空公園、西武園、東川などにお弁当を持って行ったこと、
その場所の桜の配置と座った場所など、そのシュチュエーションは今でも思いだすことができる。

最近は子供が大きくなったことや女房との不仲もあってか、一人で桜を見に行くことが多くなった。
そして桜が咲く頃には出来るだけたくさん見てみようと思い。東京近郊の桜の名所を見て回った。
上野公園、清澄公園、小石川植物園、神田川、目黒川、仙台堀川、野川、善福寺川、
井の頭公園、千鳥が淵、外濠公園、靖国神社、飛鳥山公園、中野通り、哲学堂、小田原城、
豊島園、六義園、国立さくら通り、権現堂(幸手市)、城山公園(香取市)、清水公園(柏)等々、
どこも桜の名所だけに、桜の本数も多く、そぞろ歩く人、宴会を催す人、屋台が出て賑やかである。
何百本という桜が一斉に咲く様はそれなりに華やかで、見栄えがし、いかにもお花見気分になれる。
しかし、最近は人ごみが煩わしくなってきた。人に圧倒されて桜に意識が向いていないように思う。
本数は少なくて良い、それより人の少ない静かな所で桜の風情を味わいたい、そう思うようになった。

そんなことから今年は日高市の「巾着田」へ行くことにした。ここは秋の曼珠沙華で有名である。
この時期は沿線は秩父の羊蹄山の芝桜にスポットが当たり、巾着田の桜は人気薄のようである。
西武池袋線の飯能で秩父線に乗り換え、2つ目の高麗駅で降りる。降りた人は数人であった。
巾着田までは駅から20分程度であるが、今日は大きく迂回し田舎道を歩きながら行くことにした。
車1台が通れるほどの細い田舎道、高麗川の土手の所々に桜の樹が川にせり出して咲いている。
樹の周囲は雑草に覆われ桜には近づけない。放り出されてもなお生き続ける桜は野性的でもある。
土手に根をはり何十年もこの場所で花を咲かせてきたのだろう。そうと思うと愛おしさを感じる。
ソメイヨシノは品種改良によって作りだされた1本の樹を挿し木で増やし続けたクローンだという。
上野公園の桜も、今この川沿いに咲く桜も100年前の1本の桜と同じ遺伝子を持つことになる。
そう思うと、連綿と続く命の不思議さとロマンとを感じて、このソメイヨシノの不思議さを思う。

1時間程度田舎道を歩いて、やっと「巾着田」に着いた。
巾着田は市内を流れる高麗川の蛇行で巾着の形の地形になっていることから名付けられたと言う。
その円形の川の土手に桜が咲き、内側の畑には菜の花が植えてあり、黄色の花をつけている。
桜のピンクと菜の花の黄色、なかなかの配色である。以前見た幸手市の権現堂の桜を思い出す。
やはり桜並木の両脇に菜の花が咲いて埼玉一の桜の名所との評判で、大勢の人が見に来ていた。
それに比べると少しスケールは小さいが、しかし人が少なくてのんびりとした雰囲気が貴重である。
桜と菜の花を見て土手を歩く。歩くうちに森山直太朗の「さくら」のメロディーが口をついて出て来た。

http://www.youtube.com/watch?v=qzQ4K83qjqc

女とオバさん

2009年04月03日 08時56分59秒 | Weblog
電車に乗るとよく見かける光景がある。2人のオバさんが座って脇にそれぞれの荷物を置いている。
人の悪口なのか互いに真剣に話し込んでいる。駅に着くたびに人が乗ってきて座席が埋まって行く。
しかし話に夢中なそのオバさん達は座席の荷物をどけようともしない。
女性はいつから周りに気を配らなくなるのであろう。厚顔無恥とはこんなことを言うのだろうと思う。
電車での立ち姿、座った時の脚の組み方、若い時あれだけ気を使っていた女性がどうしたのだろう。
歳を取るに従って、羞恥心がなくなって行き、しだいに「オバさん」化していくのだろうか?
いや、歳のせいだけでもないであろう。年配の人でその立ち振る舞いや言葉にも品のある人もいる。
先日読んでいた本で、長年の課題であった「女」と「オバさん」の区分けで納得いく説明があった。
「男」と「オヤジ」についてもある種共通する部分がある。以下その本の説明を抜粋してみる。

世の女性はその実質において「女」と「オバさん」に分れる。それは若さとか見かけの問題ではない。
隠すのがうまい女性が「女」である。ところが女性が「オバさん」化してしまうと、「隠す/見せる」の
コントラストを欠いてしまう。それは顔の化粧の問題ではなく「言動」の問題である。「オバさん」は時も
場所も相手も選ばず何事も包み隠すことを、なくしてしまうのだ。これを「無意識の垂れ流し」と言う。
おそらく「女」も「オバさん」も、思っていること、感じていることの「総量」はそうは違わないはずだ。
しかし「オバさん」は思ったことを片っぱしから口にしてしまう。その一方で「女」は口数が少ない。
「女」は心に思ったことのうち何を表出するかを考え、言葉を選ぶからだ。

たとえば、大勢の人が集まる場で、冷房の効きが弱いのか蒸し暑かったとする。
そんな場面で「オバさん」は会場に入ったとたん声をあげてしまう。
「あー暑いわね、暑い!、暑いわよねぇ、暑い暑い。クーラーが壊れているのかしら。喉が渇くわよね。
本当に暑い。窓開けた方がいいかしらね・・・・・・」と。このように、思ったことを逐一言われ続けると、
同席者にとってはノイズになってしまう。周りは聞こえないふりでもしてやり過ごすしかなくなる。
「いちばん暑苦しいのはお前なんだよ・・」とこころの中で呟きながら、

「女」は思ったことのすべてを口はしない。だから「この部屋、暑いですね」と一言言ったとたん、
周りの男たちはそわそわしはじめる。「何か冷たい飲み物を持ってこようか?」「窓を開けようか?」
それとも、彼女はどこか涼しいところに自分と一緒に行きたがっているのかもしれないと・・・・・・・。
男はこういう状況になるといてもたってもいられない。彼女が発した「暑いですね」の一言の真実を探ろ
うと必死になってしまう。要は発した言葉に駆り立てられるのではなく、隠された言葉に駆り立てられ
るのだ。

それでは男性はどうかというと、これほど隠しごとが苦手な生き物もいない。自分では必死に隠して
いるつもりでも、たいてい周囲は気がついているものだ。とくに女性は男性の秘密には鼻が利く。
誰も気が付いていないと信じているのは当人だけ、ということはよくある話である。
かといって、どうせバレているくらいならと、無意識の垂れ流しをすれば「オヤジ」化してしまう。
男性の場合はまた、無意識の垂れ流しと権力が結びついたりするから、なおさら質が悪い。

それではどうすれば男性はオヤジ化せずに「男」でいられるのだろうか。それには何を外に出して、
何を内にしまいこむかという選択が必要最低条件であることは当然だが、外に出す場合、
何を「どのように」表出するかが問われるのである。
それは本来なら隠しておきたいような自分の弱点や欠点を、人前でユーモアを交えて語ることである。
たとえば腹が出ている。頭の毛が薄い、背が低いといったことにコンプレックスを持っていたとして、
それを隠そうとすればするほど、周囲は腫れものにさわるようになり、その場の空気は張りつめる。
周囲との絶対的な距離感を生じてしまうことになる。
ところが自分の欠点を自らユーモアを交えて語れれば、緊迫した空気は和みお互いの距離も縮まる。
これを実践しているのがお笑い芸人。彼らはなぜモテるのか、それはこんな知見があったのだ。
あえて自分の欠点を他人に披露したがる人はいないだろう。しかし、対話の相手が受け止めるのは、
明示されたその人の欠点よりも、むしろ自分自身を客観的に見ることができる成熟した知性の方だ。
ゆえに女性から好感を得ることができるのである。

                            「化粧する脳」 茂木健一郎 著 より抜粋

結局、男女とも歳とともに「意識する」ことが億劫になって、「無意識の垂れ流し」になるのだろう。
服装も、立ち振る舞いも、言葉使いも、常に自分の意識下でコントロールされていなければいけない。
そんな風に意識し続けていける女性や男性が、「オバさん」や「オヤジ」から免れるのであろうと思う。
私ももう充分な「オヤジ」である。できれば「オヤジ」を脱し『男の真ん中でいたい』ものである