60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

行く年来る年

2016年12月30日 08時27分28秒 | 日記
 いよいよあと1日で2016年という年が終わる。世界ではイギリスのEU離脱やアメリカ大統領にドナルドトランプが決まり、韓国でも大統領の弾劾が連日報道されていた。国内ではリオオリンピックで盛り上がり、大隈教授がノーベル賞を取るなどのうれしいニュースの反面、災害で熊本地震が起こり、事件では障害者施設で19人が刺殺されるなど数々の出来事があった。そんなニュースも時間が経てば、自分の中での記憶は薄れていき、やがては忘れ去っていくのであろう。それは直接自分に関わった事柄ではないからかもしれない。
 
 では自分に関することで、長く記憶に留まるようなことがあっただろうかと振り返ったとき、鮮烈な出来事や記念にすべき事項も特にはなかったようだ。やはりこの1年も平々凡々と過ぎ、「1年の経つのは速いなぁ~」と感じることになるのだろう。これを良しとすべきなのか、もう少し何とかすべきことなのか、と考えてしまう。先日読んだ脳学者 茂木健一郎の本に下記のような文章があった。
 
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 近頃、1年の経つのが速いと感じている人は、はっきり申し上げて、ドパーミン(脳内活性物質)がでていません。どういうことかというと、脳は初めてのこと、サプライズのことを経験しているときには、その時間を長く感じるという実験結果があります。つまりそれだけ起きていることを細かく見ているからです。これを「デビュー効果」と言います。人生で初めてのことを経験する、つまりデビューしたことは、とても長く感じられます。だから子どもの脳は毎日デビュー効果でいっぱいなのです。だから小学生時代は長く感じられたはずです。小学校一年生で、ひらがなを覚えて、数字を覚えて、足し算引き算・・・・。もうエブリデイサプライズです。2年になると初めて掛け算を習います。九九なんて、「なにこれ!全部覚えるの!?」とびっくりしませんでしたか?新しいことに挑戦すると、その時の時間は長く感じます。
 
 最大のドパーミンというのは、初めてのことをしたときに出ます。初めて行く美術館で絵を見たときに出るドパーミンは多いのです。2回目、3回目に行った時には、1回目ほど出ません。だから旅をして初めての場所に行くとか、初めての人に会うということは脳にとってはうれしいことなのです。ドパーミンがでると、その時のことが強化されます。それを強化学習といいます。ところが、人生が進んでいくとだんだん初めての経験が減ってきてしまいます。ある程度大人になって完成されてくると、あえてそういうことをしなくても生きていけるようになってしまいます。それが脳のアンチエイジングにとっては一番問題なのです。何歳の人でもびっくりしてドパーミンを出すと、前頭葉が元気になるという性質があるのです。この1年間、なにか初めてのことがありましたか?「私はもう、人生わかりすぎたから。これから変わることもないし」と言う人はドパーミンを出す気持ちが足りないのです。
 
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 確かに小学校時代の時間は長かったように思う。授業が終わって一旦家に帰り、それから友達と誘い合わせて又学校に行く。校庭で三角ベースボールや缶けりをして夢中で遊ぶ。夕暮れになって家に帰って宿題をし、それから夕食風呂そして就寝である。1学期が終わり、40日間の長い夏休み、夏休みが終わると暑さが残る中、何度も繰り返した運動会の練習や退屈な授業が続く、そんな2学期は長く長く感じたものである。季節が変わり寒くなり正月が近づくと、大掃除と障子の張替えと餅つきが待っている。そして母親が新しい下着などそろえてくれ、それを着て新年を迎える。冬休みが終わり今度は短く感じた3学期を終えて、新しい学年になる。先生が変わり、クラス替えがあり、新しい友達が出来る。そんなことの積み重ねで成り立っていた1年々は、今思えば長く充実した1年だったように思える。
 
 今起こる自分の身の回りの出来事は、ほとんど過去の経験則で対応できるものばかりである。リスクを負わない、恥をかかない、波風を立てない、いつも無難な大人の対応である。これでは茂木健一郎が言うようにドパーミンは出てこないであろう。では脳のアンチエージングのために何をするか、これが来年の課題である。恥をかいても「絵を展覧会に出品してみるか」、もう少し気合を入れて練習して「ギターリサイタルを開催するか」、それとも昔の夢である「自伝を書いて自費出版するか」、それとも昔考えた「四国八十ハヶ所を歩くか」、「奥の細道を歩くか」、「タクラマカン砂漠の真っ只中に1人で立ってみるか」、やろうと思えばまだまだ考え付くことはある。後はやる気と勇気である。人生の時間もあまり残ってはいない。来年自分の気持ちに火がつけられるかどうかが問題である。





多摩川

2016年12月22日 16時43分11秒 | 散歩(6)

 先週の石神井川に続き、今日は「リバーサイドウォーク」ということで友達を誘って、多摩川の土手を歩いて見ることにした。南武線の宿河原駅に降り、駅の傍を流れる二ヶ嶺用水を多摩川に向かってさかのぼる。多摩川に出るとさらに上流に向かって土手の遊歩道を歩く。天気もよく広々として水郷情緒のある多摩川沿いは気持ちが良い散歩コースである。歩行距離8km、歩数16000歩、休み休みで約2時間半の散策であった。

      
 
                  JR南武線 宿河原駅
 
   
 
                宿河原駅そばの二ヶ嶺用水
 
   
 
              二ヶ嶺用水を多摩川に向かって歩く
 
                   
 
   
 
            二ヶ嶺用水は神奈川県最古の人工用水
      多摩川から農業用水を引くため慶長16年(1611年)に造られた
 
   
 
                 両側は桜の並木道が続く
 
   
 
                    船島稲荷大明神
 
   
 
                  多摩川 宿河原堰堤
 
   
 
                    宿河原堰提
 
   

                                            川崎側
 
   
 
                    多摩水道橋
 
   
 
         水道橋を渡り川崎市多摩区から東京都側(狛江市)へ
 
           
 
                   西に富士山が見える
 
   
 
              多摩川は東南に流れて東京湾へ
 
         

               神奈川県と東京都の県境           
 
   
 
                   むいから民家園
             「むいから」は屋根に使う麦わらのこと
 
   
 
          
 
   
 
   
 
                  再び多摩川の土手
 
   
 
                  府中用水調布水門
 
   
 
                    海から25K
 
   
 
                   二ヶ嶺上河原堰
 
   
 
   
 
   
 
   
 
             
 
   
 
                   海から26K
 
   
 
                京王相模原線の高架橋
 
   
 
                   多摩川白衣観音
 
   
 
                  京王多摩川駅前で、
 
             
 
                     京王多摩川駅

石神井川

2016年12月16日 08時02分18秒 | 散歩(6)

 どこの町にも色々な遊歩道や緑道があり、散歩する人やジョギングする人の日常の生活道の一つになっている。それは旧街道だったり、小高い丘を縫う道だったり、川の上の暗渠だったり、その中で一番多いのが川に沿っての遊歩道である。今まで歩いた中で一番長かったのは玉川上水の遊歩道であろうか。今日は石神井川沿いの遊歩道を歩いて見ることにした。 

 今回は王子から板橋までのコースである。石神井川は小平市に源を発し、途中練馬区の石神井公園の湧水を合わせ北区で隅田川に合流する約25キロの一級河川である。遊歩道を歩いても高い壁のようなカミソリ堤防で水辺から遠ざかって、川の流れを楽しむという感じにはならない。しかし川沿いの両側は桜並木が多く、春には絶好の花見スポットになるようである。また途中に音無しさくら緑地、谷津大観音、加賀公園などあり、歩いて退屈することはない。コンクリートで固められた護岸に情緒は無いが、桜の咲く春にまた歩いてみたいコースでもある。
 
   
 
                     王子駅
                都電荒川線が交差する
 
   
 
                          王子稲荷神社
                 落語「王子の狐」で有名
 
   
 
                        王子稲荷神社
              毎年大晦日「王子狐の行列」を開催
       化粧やお面で狐に扮した和装の老若男女が王子稲荷に行進する。
 
   
 
                   名主の滝公園
 
   
 
   
 
          
 
       

                       男滝
               都内で自然水での滝はめずらしい
 
   
 
   

                    名主の滝公園
 
   
 
                     王子神社
 
   

                  境内で町内の餅つき
 
   
 
                 
 
   
 
   
 
               王子神社の境内から石神井川へ
 
   
 
                   音無し親水公園
               石神井川の水を引いた親水公園
 
   
 
                   音無し親水公園
 
  
 
       左が石神井川、遊歩道は次第に高くなり川の堤防の上に出る
 
   
 
                      石神井川
 
   
    
                      金剛寺
 
   
 
              エイリアン(地球外生命体)のような仏像
  
   
 
                  松橋弁財天洞窟跡   
 
   
 
              水辺に降りられるようになっている
 
   
 
          
 
                      カモメ
 
   
 
   
 
         
 
                 異常に大きな足の鳥
 
   
 
           石神井川の東側にある谷津大観音、左に川
 
   
 
                     谷津大観音
        目の前のハスのつぼみと大仏が持っているものと同じ大きさ
 
   
 
   
 
                   無音くぬぎ緑地
 
           
 
   
 
                 両側は桜並木になっている
 
          
 
                石神井川の西にある加賀公園
 
   
 
                    加賀公園
 
   
 
         
 
   
 
   
 
              石神井川の傍に帝京大学医学部
 
             
 
   
 
   
 
   
 
                      板橋
 
   
 
                  板橋の語源になった橋    
 
         
 
                      仲宿商店街
               江戸時代は中山道の宿場があった
 
   
 
                    仲宿商店街
 
   
 
                                      JR板橋駅
 
   

記憶力

2016年12月09日 08時07分59秒 | 日記
 
 先週書いた羽生喜治永世名人の話の中で、もう一つ疑問に思っていたことが解決した。それは将棋の対局のTVを見ていると、終了後に対戦を振り返って観想戦をやる。その時に対局の手順を空で覚えており、難なく再現していくのである。また過去の自分の対局や、タイトル戦等の他の挑戦者の対局も手順を覚えているということである。どうしたらそんな風に何百もの対戦記録を覚えることが出来るのか?棋士は記憶力が優れていなければ出来ないのか?、と不思議に思っていた。それについて書いてあったところを抜粋してみる。
 
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 対局が終わったあとに、その一局を最初から最後までの手順を並べてする反省会を将棋の世界では「感想戦」と言います。見ている人から、よく百手とか百二十手とか、対局全部を覚えていられますね、といわれます。だから棋士は記憶力がいいのだと、思われるようです。一部の人にしかできないような、途方もなく大変なことをやっているように見えがちなのですが、あれは実は、誰にでも出きるとても簡単なことなのです。
 
 皆さんもおそらく何百曲、何千曲という歌や音楽を覚えていると思います。最初の歌詞を聞いたらこれは誰の歌だとか、サビの部分を聞いたらこれは何の曲だとか、たくさんの曲の中から、パッと思い浮かべることができると思います。どうしてできるのかというと、音楽を憶える時には、音符、楽譜のようなフォーマットがあって、それを覚えてしまえば、あとはいくらでもどんな曲が出てきてもその形式に沿って記憶していくからです。
 
 同じように将棋の場合も、棋譜(ぎふ)の形式、法則に則って覚えていくのです。(△4三銀、▲6六角、・・・・) そんなふうにすると、たくさんの棋譜を覚えることが出来ます。それから、攻めの手順と受けの手順を知ることが大事です。これにはたくさんのバリエーションがありますが、それらを組み合わせて応用しながらプロの棋譜は残されていきます。音楽でいうとリズムやテンポを知ることと共通しています。局面を決定的にする好手や妙手など、分岐点になる場面は、曲のサビにたとえられると思います。このようにリズムやテンポ、サビなどと連鎖して覚えているので、最初のワンフレーズを思い出せば、そのあとは流れるように次から次へと思い出すことができるということです。
                                ・・・・・中略・・・・・
 
 最近は非常に便利な世の中になってきました。棋士の場合もパソコンに入っているデーターベースで、一試合を1分間ぐらいで見ることができるようになっています。ビデオとかDVDの早送り機能と同じで、1回クリックしたら、最初から最後まで見ることができるわけです。短い時間で大量の情報を得ることができるという意味では、非常に便利になったわけですが、実はこのようにして簡単に見たものは、簡単に忘れてしまうもののです。パソコンの画面だけを目で追ったものは15分や20分したら、「あっ、さっき見た棋譜はなんだったかなあ」となって思い出すことは出来ません。
 
 これはとても大切なことです。ですから5年後も10年後もきちんと正確に覚えていないといけないと思った時には、ただ見るということだけではなく、木の盤と駒を出してきて並べるとか、ノートに書くとか、そういうアナログなことをするようにしています。記憶する時に大切なのは、五感を使うことではないかと思っています。人間というのは、目から入ってくる情報、視覚からかなりの情報を得ています。しかし本当にきちんと覚えておきたいという時は、目だけではなく、手とか、耳とか、口とか、鼻とか、五感を駆使していくほうがいいと思います。
 
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 昔、プロを目指したこともあるゴルファーと一緒にゴルフをしたことがある。ハーフを終えて4人で昼食の時、彼が振り返って、「貴方は何番の池のところから打ったボールがスライスして・・・・」とか、自分を含めすべてのメンバーの状況を把握していたのにびっくりしたことがある。こちらは遊びで自分の打数もおぼつかないのに、プロを目指した人の競技に対する真剣さをまざまざと知った思いがした。
 
 私も30代によく友人と南アルプスや北アルプスに登っていた。その時は20kg近いリュックを背負って山道を登っていく。重い荷物に喘ぎ、額から汗をダラダラ流し、急でデコボコの道に足を捕られ、上を見上げてはため息をつく。そんなことを繰り返し繰り返して登った山は、降りたあとも鮮明にその行程を覚えているものである。例えば、山小屋を過ぎてからは大きな岩がゴロゴロとした岩場になり、その岩を両手両足を使って登っていくと、やがて小さな沢がある。その沢を渡って左にカーブすると視界が開けて、・・・・と言うふうに。40年経過した今でもその道々の風景は覚えているものである。
 
 記憶とは羽生喜治が書いている様に、如何に真剣であり、五感を使うかで、その深度が違うのであろう。小学校中学校と漢字を覚えるのにどのぐらいノートに書いたのだろうか。九九を覚えるのに何百回と繰り返してやっと暗記できた。英語の単語を覚えるのにノートに書きながら何度も発音し、単語帳に書き込んで電車の中で覚えようとした。それでも日ごろ使い慣れていない英単語は完全には覚えらず、今はすっかり忘れている。
 
 大人になって、人の名前が覚えられない、覚えたつもりが直ぐに忘れてしまう。そう嘆くのは間違っているのだろう。覚えるためにどれだけ努力しただろうかと思うと、ほとんど努力していないことに気付く。名刺交換してその時は覚えたつもりの名前も20分後には忘れている。それを歳の所為にするのではなく、努力の所為にすべきなのであろう。歳を取って記憶力が低下する以上に努力すればまだまだ記憶できることは多いのかもしれない。




三手の読み

2016年12月02日 08時08分43秒 | 日記
 将棋の世界で七冠を取ったこともある永世名人の羽生喜治、その対談集の中にこんな一文があった。
 
 将棋の世界の大先輩で尊敬している棋士に原田泰夫九段という人がいます。原田先生はファンの人から色紙を頼まれると、よく《三手の読み》という言葉を揮毫(きごう)されていました。《三手の読み》というのはまず自分がこう指して、それに対して相手がこう来る、そして次に自分はこう指すという、読みの基本プロセスです。とても単純なことに聞こえますが、これがとても大切で、誤ってしまうと何百手、何千手読めたとしても無意味になってしまうのです。鍵となるのは二手目の相手が何を指してくるかという点です。
 
 よく小さい頃に相手の立場に立って考えましょう、自分だけの事を考えるのはやめましょう、などの話を周囲からされます。この時にずれやすいのが相手の立場に立って《自分の価値観》で判断してしまうことなのです。将棋の場合でも相手の側に立って考えているわけですが、相手の価値観まではすべて分からないので予想が外れたり、読みが無駄になったりします。二手目の目測が誤ってしまうと、最初がずれてしまうので、あとの読みは本線からは明らかにそれてしまうのです。
 
 多様性を知る大切さは相手の立場に立って相手の価値観を知る機会が増えることを意味します。ただ色々なものがあるのではなく、すべての理解が深まるという意味で有効なのではないでしょうか。また予想外な反応が返ってくる面白さは、多様性を知った先にあるとも思っています。

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 私も人生70歳を超えて振り返ったとき、この一文は仕事をしていく上で意外に的を得た言葉のように思うのである。若い頃は無我夢中で仕事を覚え、やがて仕事が分かるようになれば自己主張をするようになる。40代あたりで壁にぶち当たり、挫折を経験する。そして50代後半からは、あまり力を入れずとも上手く調整が付くようになる。そんな変遷があったように思い返せる。
 
 仕事は職人や研究職で無い限り、多くの人間関係の中で成り立っていく。そしてその人間関係の有り方で、仕事を左右することにもなる。当然自己主張だけでなく、相手の立場に立ってものごとを考えることは必須である。しかし相手の立場には立てても価値観まで考慮して、相手の反応や行動を予測するはなかなか難しいものがある。性別、年齢、育った環境、教育、経験、能力あらゆる要因によって人の価値観は多様である。そしてその人達の多様な価値観を知ってこそ、相手の立場に立って相手からの目線を知る事が出来るのかもしれない。それは面倒なことでもあり、難しいことである。しかし難しいからこそ面白いのである。羽生喜治はそれを将棋の世界で突き詰めて行ったからこそ名人と呼ばれるようになったのだろう。
 
 今までに多くの人の仕事を見ていると、トラブルや失敗が多い人は基本的に相手が読めない人に多い。また集団の中で浮いている人は、場の空気が読めない人でもある。また最近の若い人を見ていると、三手の読みの二手目が読めないのではなく、一手目を打たない人が多いように思われる。一手目を打たなければ当然相手が打ち返してくる事はない。だからいつも相手の打ってくる手を打ち返しているだけのように見える。それでは常に受身になるだけで、人間関係が深まっていく事はないだろう。先ずは自らが相手に当たってみる。その時相手がどう反応するのか、それを積み重ねる事で相手が読めるようになって来るのではないだろうか。