60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

娘の婚約

2011年12月28日 13時34分22秒 | Weblog
 先週、娘(長女)が彼を家に連れて来た。逢うのは初めてである。その彼と結婚を約束したいということは聞いていた。今回は正式に結婚の承諾を得るために来ると言うことである。元々私は娘の選んだ結婚相手に異を唱える気は全くない。だからあくまでもセレモニーである。「さて、どんな風に迎えようか?何を話題にしようか?」、初対面の相手だけに考えてしまうものである。

 娘は28歳である。以前、このブログに娘のことは書いたことがある。その時の文章を一部抜粋してみる。・・・娘は持って生まれた性格なのか、大人しく内気な性格である。小さいときから我がままを言ったり、自己主張することはほとんどなかった。いつも、「どちらでも良いよ」、「何でも良いから」、と人任せなところがあった。同じ年の子と比較しても覇気が無く、他人の中にみずから入って行くことはしなかった。そんな娘も4歳までは、近所の「フサちゃん」という同じ年の子と仲が良く、彼女だけとは打ち解けて遊んでいたようである。しかし、そのフサちゃんが親の転勤で引っ越してしまうと、娘は完全に窓口を失い、それ以来外部に対して心を閉ざしてしまったのである。

 幼稚園小学校と休むことなく通ってはいたが友達は一人も出来ず、常に教室の中で孤立していたようである。授業も自分の方から手を挙げることはなく、先生に指されれば答えるには答えていたようである。先生の話では昼休みも仲間に入れず、独り教室でぼんやりしていることが多かったそうである。そんなことで児童相談所へ相談に行ったこともある。親の傍に寝せなさい、何か自信を付けさせるために習い事をさせてみたら、そんなアドバイスもあって女房は娘にピアノとバレーを習いに行かせた。バレーの方は性に合わなかったのか、1年足らずで止めてしまったが、ピアノの方は続けていった。

 小学5年6年になると、クラスに面倒見の良い子がいて、あれこれと誘ってくれ、いくらか喋るようになって遊んでいたようである。幸いなことに、酷いいじめに合うこともなく小学校を無事に終えた。中学に入ると部活が必須になる。娘は吹奏楽部を選び、クラリネットを選択した。楽譜が読めることが、娘にとっては自信になっていたのかもしれない。指導の先生が熱心で県大会を目指し、毎日毎日遅くまで練習に明け暮れる日々だったように思う。中学時代も特に親しい友人がいたわけではないが、それでも学校を嫌がることもなく登校出来たのは、音楽活動が一つの支えになっていたように思う。

 高等学校(女子高)に入学しても、迷うことなく吹奏楽部に入り、やはりクラリネットを吹いていた。部活を通じて友達も出来たのか、時々は友達と旅行に行くようになったり、一人前にスカートの丈を短くすることに、こだわるのを見ると、父親としては普通の娘になったと、ホッとする気持になったものである。一浪して大学に行くとやはり管弦楽団に入部し、今度はクラリネットではなくチェロにチェンジした。大学で本当に勉強しているのかと疑うほど、部活に一生懸命で、夜遅く帰ってくることも多かった。その時のメンバーとの交流が楽しかったのだろう、今でもOBの管弦楽団で演奏会のための集まりを楽しみにしているようである。

 以前、娘に小さかった頃のことを聞いたことがある。その時娘は、「私にとって幼稚園と小学校の時が一番辛かった。毎日毎日、自分がどうすればいいのか解らず、ひたすら我慢していたように思う」と言う。娘は人生のスタートの時に、つまづいてしまったのかもしれない。周りとのコミュニケーションの取り方で、自分がどう対処し、どう受け入れたら良いのかが分からなくなったのであろう。小さい頃から、娘に障害になるような大きな出来事も思い当たらない。だから何が原因だったのかと思うことがある。フサちゃんとの別れにあるのか、潜在的に持っていた娘の気質にあるのか、それとも親の育て方が問題だったのか、今振り返っても解らない。しかし「娘に辛い思いをさせてしまった」、その気持ちは今だに私の中に残っている。

 振り返って見ると、娘を孤立から救い友達を作る手助けになったのは、まぎれもなく音楽なのだろうと思う。発表会を目標にし、上手くなることを励みにし、自分の楽器によるパートを認識することで、帰属意識や仲間意識を持つようになったのであろう。今勤めている会社は女性中心の職場で、色々の問題もトラブルもあるのであろう。しかし娘にとっては幼少期の辛さに比べれば、我慢できる範囲なのかもしれない。愚痴も言わず、体調を崩すこともなく、黙々と務めている。最近は夜遅く帰ってくることも多く、残業なのか、飲み会なのか、恋人でもいるのかと思うが、しかし基本的には詮索しないことにしている。20数年間、娘は娘なりに試練を受けて自分の人生を歩んできたわけである。私が思うことは、これからの人生は自分が思うように決めていけばいい。仕事がどうの、結婚がどうの、そんなことはどはどうでも良い。自分の人生を活き活きと生きて欲しい、そう願うだけである。そう思うのは、幼少期の娘の辛さを思うからなのだろう。・・・・

 娘が12時に駅まで迎えに行き、彼を連れて帰ってきた。中肉中背、さっぱりした風貌で真面目そうな雰囲気である。挨拶もそこそこに、出前で取ってあったお寿司で昼食をすることになる。娘から時計の設計の仕事をしていると聞いていたから、時計の話題から入ることにした。「今はデジタルが主流だから設計の仕事は基盤の設計?」、「安いものは1000円から出回っているから、時計も斜陽産業なのでは?」、「太陽暦ではなく陰暦で動く時計を作って見たらおもしろいかも?」、そんなことから話を進め、しだいにお互いの家族構成などの話をしてみた。食事を終え、お茶を出した頃から、彼は正坐したり崩したりともぞもぞとし始めた。娘に促されるように彼は、「私は娘さんと付き合い始めて8年になります。就職してから4年、ある程度生活の目途も立ってきました。娘さんとの結婚をお許し願いたいと思います」、と一気に喋る。私も考えていた言葉を喋る。「娘が選んだ結婚相手、私どもに異存はありません。昔と違って今はあくまでも当人どうしが主体です。これからのこと、2人で話し合って進めて行けば良いと思っています。今後とも末永くよろしくお願いします」と話し、一応の儀式は終わった。式場のこと、費用のこと、新居のこと、そんな話も雑談の中で確認し終わった頃、娘が「もうそろそろ、」と言いだした。緊張する彼を早く解放してやりたいという思いがあったのだろう。娘は駅まで送ってくると言い、2人で出かけて行った。私は玄関の外まで見送る。並んで歩いて行く後姿を見ると、「これで良いのだろう」、そんな思いになった。

 彼は同じ大学の、同じ学年(学部は違う)で、同じ楽団でトランペットを吹いていた。同じサークルで知り合ってから8年である。よほど馬が合ったのであろう。彼は真面目で誠実な性格で、人を押しのけガムシャラに自己主張するタイプではないように見える。今風に言えば草食系に分類されるだろう。しかし、最近は自転車を始め、トライアスロンにも挑戦するのだと言っていたから、人生を楽しむ余裕もあるのだろう。私が一番安心したのは、娘が彼と話している様子を見たときである。今まで家や外では見せたことが無いような、親しく打ち解けた口調と笑顔を見たからである。幼児期からひたすら自分を抑えていた娘が、彼の前では素直に自分を出すことができる。私にとって、それは何よりの喜びなのである。「自分の居場所がある」、それは人にとって最大の安心材料のようにも思うからである。誰の人生でも無い娘の人生である。自分が納得する相手と一緒になり、共に助け合い活き活きと暮らしていける。父親とすれば、そんな結婚であることを願うばかりである。

               


Xi (クロッシー)

2011年12月22日 18時57分57秒 | Weblog
 2年半ぶりに携帯を買い換えた。渡辺謙とオダギリジョーがTVコマーシャルしている、ドコモで最も新しいXi(クロッシー)対応のOptimusX LTE(韓国LG電子製)という機種である。このXiの新しい機種、今までのドコモのFOMAとは違う電波を使っている。この電波が今までのFOMAの約5倍の通信速度を持つから、インターネットを利用してもスピードが早くなるということである。しかし、まだカバーエリアが小さく、都心や一部の地方都市に限られている。そのためにXiの圏外ではFOMAの電波に自動的に切り替わるらしい。だから通信には支障はないようである。

 なぜこのXiの機種を選んだか?それには何点かの理由が有る。その第一は「新もの好き」ということであるが、最大の理由は災害時に強いだろうと思ったからである。昨今スマートフォンが急速に伸び、各社とも電波状況が悪くなっているようである。新宿や池袋など、人が多く集まるところでは電波不足で反応速度が極端に落ちるらしい。3.11の時、携帯電話はほとんど使えなかった。皆が一斉に携帯電話を使い始めてパンクしたからである。その点このXiのスマートフォンはこの11月から始まったばかりだから、加入者数は圧倒的に少ない。これからアンテナを増設し、行く行くはこちらに切り替えて行く予定らしいから、今時点では災害時に最も繋がりやすい携帯電話と思ったのである。

 次にこのXiの機種は通信速度が速く、このスマートフォンをルーターとしてノートパソコンに繋げるデザリング機能と言うのを持っている。「Xi」契約でパソコンにつなげて利用しても、通信料金はスマートフォンのパケほうだいの定額サービスの範囲内で、追加料金がかからない。会社を辞めたとき小さなノートパソコンを買って、どこにいてもインターネットにアクセスできる自分専用の環境が欲しい。そんな希望を叶えられるからである。

 今まで使っていた携帯は2年半前に使い始めたhtc(台湾)製のNTT docomo HT-03Aという初期のスマートフォンである。これはGoogleが主導する携帯電話のOS「Android1.6」を搭載した国内初の機種であった。今回のOptimusX LTE は「Android2.3」のOSであるから、昔のウインドウズ95と今のウインドウズ7の差のようなものである。そしてFOMAからXi(LTE)回線のチェンジはADSL回線と光回線の違いのようなものであろう。その処理速度や操作性は圧倒的にスムーズになっている。
 
 このスマートフォン、当然電話機能やドコモのメールから、各社のフリーメール、インターネット、テレビ(ワンセグ)、NHKや民放のインターネットラジオ、デジカメ、ビデオカメラ、音楽プレーヤー、ボイスレコーダー、手帳、辞書、地図、ナビ、電車の時刻表、アラーム時計、まだ使っていないがお財布携帯、体重の記録から血圧の記録などの各種アプリケーション等、当面必要とするものはすべて、胸のポケットのこの1台に納まってしまった。大げさにいえば、この一台があれば、全てのことが間に合ってしまう。反対にこれが無ければ何も出来ないことになってしまう。

 確か、11年前にNECのムーバの折りたたみの携帯電話を持ったのが初めである。電話機能だけで他に何もなかったように思うが、しかし「電話を持って歩ける」という、その便利さに感激したものである。それから11年、何と早い進歩であろう。なんと便利になったのであろう。これが社会の変化のスピードなのだろうと改めて驚いてしまう。

 いま世の中は溢れるほどに物があり、驚くほど便利になり、スピーディーになった。では我々は昔と比べて豊かになったのだろうか?と思うとき、決して「豊かになった」とは感じないのである。反対に私は不便で物がない子供の時代の方が、はるかに充実していたように感じるのである。昔読んだ河合隼雄(心理学者)の本に、『人はお金や物が豊かになれば、連れて自分の心も豊かになると思う。そしてより物や便利さを追求していく。しかしそれは錯覚であって、物と心は連動していない。反対に物が豊かになればなるほど、そのギャップから、満たされない心を実感するようになる』、そんなことが書いてあったように思う。

 我々が育った時代は戦後である。当時の通信手段は手紙か葉書である。我が家には電話もなく、ラジオが一台あるだけであった。そのラジオも子供が手の届かないようにタンスの上に置いてあった。電話は近所の裕福な家に一台あって、緊急の時だけ電話をかけてもらい取り次いでもらっていた。後は緊急な連絡は電報という手段だけである。キャッシュカードなどはなく宅配便もない、物を買うのは現金を持って店まで行って買うのが当たり前であった。年末年始の挨拶もそれぞれの家まで出向いて、お歳暮や年賀の品を届けていたのである。そんなアナログな時代から考えれば、スマートフォン一台を見ても、それは次元の違う、夢の世界である。「より便利に、よりスピーディーに」、そんな飽くなき欲求がデジタル化を加速させて行ったのだろう。我々はそれに必死について行ったように思う。

 60年経過して、今その夢の世界にいるはずなのに、私には少しの満足感も無いのである。ではデジタルの世界とは何んなのであろう? 私と同年代の仲間は、もうこんなことに関心を示さない。反対に「面倒なこと」、という意識が強い。彼らにはもう時代の変化に付いていこうという気は無くなっているのである。やはり、これが年令相応なのだろうと思う。結局デジタルの世界は情報の世界なのである。リタイヤした人間には余分な情報は必要無くなってくるのである。そして、家庭菜園や美術や陶芸の世界と、アナログな世界に帰っていくのであろう。やがて私もそちらの世界が中心になってくるはずである。まあ、それまではせいぜい最新のデジタル世界を触ってみようと思っている。それは私にとって、ボケ防止の為の道具の役割を担ってくれるように思えるからである。

免疫力

2011年12月16日 09時31分23秒 | Weblog
                       12月12日 台東区言問通り

 会社の得意先の社長が肺結核で亡くなった。私と同じ歳である。その人は若い時に結核に感染し、抗生物質等の治療で治癒したが、高齢になってから再発したとことが原因のようである。我々の子供の時代は結核の罹患率は非常に高かったようである。私の叔父(父の弟)も肺結核で山陰線の海の傍にあったサナトリウムに長く入院していた。学校でも毎年ツベルクリン反応の検査があって、陰性の生徒はBCG接種を受けていた。当時発病し治療を受けた人、その病歴がない人でも、感染した結核菌の一部を肺に抱え込み、体の免疫によって抑え込まれいる。それが高齢になって免疫力が低下することで、再び結核菌が活発化するそうである。「免疫力」、これは外部から侵入してくる病原体や体内のガン細胞を認識して殺滅することにより、我々を病気から保護する多数の機構が集積した一大機構である。この免疫力の強弱により、人は病気に罹りやすくかったり、病気に強かったりするものなのである。

 親会社の社長は健康オタクで、人一倍健康に対して気を使っている。12月になると毎年、「この冬は風邪をひかない!」と宣言し、うがいや手洗いを率先して実行している。しかし、毎年1度や2度は風邪をひいて、会社を休むのが恒例になっている。反対に私はうがいはしないし、手もあまり洗わない。マスクもサッカーのゴールネットでパチンコ玉のウイルスを防御するようなもので、意味が無いと思っている。目に見えず、いたるところに付着し浮遊する病原菌やウイルスを、その程度の対策で防ごうとするのは気休めのように思えるからである。結局は病原菌やウイルスが自分の体内に入って、ミクロの戦いがあって雌雄を決することになるのである。

 私はこの20年、鼻風邪程度はあったものの、風邪で会社を休んだことは無い。だから私の免疫力は強いほうだと思っている。そんな私も子供の頃は、しょっちゅう扁桃腺を腫らして高熱を出していた。医者によれば、扁桃腺に細菌が巣づくっていて、体の抵抗力が落ちると、細菌が勢いをますからだと言われていた。大人になってもそれは続き、季節の変わり目毎に風邪をひいては会社を休んでいた。休めば3日~5日、ある時などは肺炎を起こし1週間以上も休んだことがある。そんな病弱だった私が20年ほど前から、ピタリと風邪をひかなくなった。当時は自分で、そうとは気付かなかった。風邪を引かなくなった状況が3年も4年も続くと、初めて自分の中の変化に気がつくものである。「なぜだろう?」、振りかえって何か切っ掛けがあったのか、それを探してみたことがある。該当するものがあるとすれば、2つのことではないかと思い当った。

 一つは、以前の会社で仕入れを担当していた時(20年前)、医薬分野も持っているある大手の食品メーカーの営業担当者が、「この薬、まだ研究段階のものなのだが、エイズ以外は何にでも効く」と言われて、サンプルの薬をもらったことがある。たまたまその時、喉が痛く、熱っぽい時だったので、その薬を試して見た。1日2日して薬の影響か、風邪の症状なのか、激しい下痢を起こしたように思う。しかし、その時の風邪を最後に扁桃腺は全く腫れなくなったのである。たぶん薬は強力な抗菌作用があり、扁桃腺と言わず体内の病原菌を全て死滅させ、腸内細菌まで殺して下痢をしたのかもしれない。その薬のメカニズムはなにも聞いていないし、当時は気休めで飲んだもので、果してそれが効いたのかどうかは、今になっては確認のしようもない。

 もう一つは、風邪を引いた3ヶ月後ぐらいに、会社を辞めたことが関係するのではないかと思う。(辞めた理由は、そのうち書いて見ようと思う) 社内でのトラブルの結果、どこに再就職する当ててもなく会社を辞めてしまった。辞めたことを境に、それ以前と以降とでは、取り巻く環境がガラリと変わることになる。今までは大企業の組織の真ん中で、前後左右の人との関わり合いと、調整とで明け暮れていた。それが辞めてしまえば、今度は全くの自由である。しかし大企業にいれば当面の収入は保証されているが、独りになれば生活は自分の責任で確保しなければならない。それぞれにかかるストレスは同じように見えても、その質は全く異なっていたのだろう。一方は責任の分散と回避の世界、自由はないが保障のある世界である。もう一方は責任は全て自分にあり、自由はあるが保障の無い世界である。

 ストレスが免疫の働きに及ぼす影響を調べる分野を精神免疫学と呼ぶそうであるが、今ストレスがあらゆる病気の引き金になっているのではないかと言われている。うつ病を初め、免疫低下による感染症や直接関係ないようなガンや腰痛までも、その原因がストレスに起因するらしい。人が密集し、絡み合い、複雑になって益々ストレスフルになって行く社会、そんな社会でストレスを回避して生活することは不可能である。だから、ストレスは回避するのではなく、克服していくしかないように思う。ストレスを克服すれば免疫力が高まり、免疫力が高まれば病気になりづらくなり、健康的な生活が維持できる。そんな図式になるようである。

 「では、どうすればストレスを克服出来るのか?」、これが問題である。世の中には様々なストレス解消法が言われている。趣味の世界を持ち仕事とプライベートとの切り替えを上手くする。友人に相談相手を作り自分の内面を聞いてもらう。散歩やジョギング、ストレッチなどで体を動かす。香やアロマテラピーで緊張を解くなど、人によって千差万別の方法がある。しかし、これらはいずれも対処療法で、ストレスを克服すると言うことにはならないように思う。

 空気中にあまた浮遊する病原菌やウイルスからの感染症を薬で治療するより、自己免疫の強化で乗り切る方が確実なように、日々発生するストレスも、どう受け止め、どう解釈するかが重要なように思うのである。私が会社を辞めることで、図らずも自分の中の意識が変わり、ストレスに対して耐性ができ、結果免疫力がアップしたように、自己の意識の組換えが必要なように思うのである。

 では20年前と今と、どう意識が変わったのだろう? 振り返って見るとサラリーマン時代は「被害者意識」が強かったように思う。上手くいかなかったことは、上司の判断やリーダーシップの所為だったり、部下の所為だったりと言い訳が先に立っていたように思う。しかし、自分でやるようになってからは、誰の所為にしようが結局は自分にそれが降りかかってくることになる。だから「自己責任」という意識が強くなったように思う。次に変わったとすれば、「納得」ではないだろうか、サラリーマン時代は自分に納得が行かなくても、組織としてやらざるを得ないことが多くあった。いわゆる「不本意」ながらという意識である。そして、それが積もり積もって「理不尽な」という被害者意識になったように思う。今は自分に納得いかないことをやってしまえば、後でそれが後悔に繋がってしまう。たとえ失敗したとしても、自分が納得していたことであれば、諦めがつくのである。そして三つ目は「自分で切り開く」ということではないだろうか、サラリーマン時代は経営者が自分達の方向を決めてくれた。しかし、一人でやると自分で切り開かなくては、誰も助けてくれないのである。

 上に書いたことは、自分の環境が変わったことで、必然的に変わらざるを得なかったのだろう。しかし、結果としてストレスは感じても、それに影響されることは少なくなり、風邪をひかなくなったのは事実である。サラリーマンがストレスを克服する為に、自分の環境をかえることは難しいかもしれない。しかし、幾分かでも今の意識を変えることで、ストレスに強い精神をつくることは可能なように思う。被害者意識は捨て、納得のいかないこと、理不尽だと思うことに対して抵抗しても良いのではないだろうか、周りと多少の軋轢が有ったとしても「自己主張」は大いにすべきである。自分の人生は自分で切り開く、こんな意識で日々闘うようにすれば、心は鍛えられ、いずれ精神の免疫力はアップしていくように思うのである。

グローバル化

2011年12月09日 17時30分37秒 | Weblog
先週、会社にたどたどしい日本語で電話がかかってきた。多分中国人だろうと思う。聞き慣れない
言葉使いで話されると一瞬緊張するものである。相手は「デル」と名乗る。間違い電話かそれとも
何かの売り込みかと思ってじっと聞くと、今使っているパソコンの保守についてのことだと判った。
「お使いのパソコンの5年間保守契約が12月6日で終了します。ついては延長契約しますか?」
という案内である。話の最後に、今使っているパソコンに故障が有るようであれば12月6日までに、
0120-の方へ電話してくれということであった。

デルは本来直販専門会社であるが、5年前たまたま家電量販店でデルのデモンストレーションを
やっていた時に買った。この商品を選んだ動機は国内同種製品より圧倒的に安かったからである。
当時はウインドウズ「ビスタ」が主体だったが、会社で使うには「XP」の方が使い勝手が良いので
オプションで切り替えてもらった。商品の案内書にホームページのURLがあり、そこに発注番号を
打つと自分の購入したパソコンの納品スケジュールが分るようになっている。中国で組み立てられ
輸出されて横浜へ入港する。そこから配送センター経由で、会社まで宅配する仕組みになっている。
そしてその一部始終がリアルタイムで分るようになっていた。購入から1週間、PCは中国から私の
手元に届いた。グローバルな仕組み、さすがは世界中を相手に商売をしている会社だと感心した。

購入して2年ぐらいした頃、DVDドライブにCDを入れても、パソコンに読み込まなくなってしまった。
「デル」は修理を相談する窓口の実態(購入店)が無いから、インターネットか電話での対応になる。
以前、他社製品でメーカーに電話で問い合わせたが、音声案内で誘導され担当部署に行っても
「もう少しお待ちください」のアナウンスが流れるだけで、なかなかつながらなかった経験が有る。
当面新しいソフトのインストールの必要もなく、楽曲の取り込みも古いパソコンで用が足りるから、
DVDドライブが使えないことで特に支障はない。外国企業という不慣れ、手続きの面倒さを思うと、
結局、「安いから仕方が無いか」と思い、修理することは諦めてしまっていた。

電話を受けるまで保守契約していたことも忘れていたが、「折角だから試しで一度電話してみよう」
そう思って0120- へ電話を掛けてみる。やはり音声案内で、要件ごとに番号を選択させられる。
やっと修理の部署の受話器が鳴った。電話に出てきたのは、やはりたどたどしい日本語をしゃべる
中国人(?)である。PC本体に貼ってあるタグナンバーを聞かれ、それからPCの故障内容を話す。
こちらの内容を聞き取った担当者は、「では故障確認の為に購入時に付いていたドライバーCDを
挿入してください」と言う。「5年も経過していてそれがどこにあるか、探すのは困難だ」、と話すと、
しばらく間があって、「では、PCを工場に送って点検修理ということになりますが、良いでしょうか」
と聞かれる。PCが戻ってくるまでインターネットにアクセスできず、メールも見られないことになる。
「そうしなければ修理出来ないのであれば、新しいPCに買い替えるから、修理することは諦める」
そう答えてみた。「しばらく待ってください」と言われて、今度は30秒以上も間が空いた。それから、
「出張修理します」、と言う答えが帰ってきた。「修理部署と調整して本日中に日程を連絡します」
ということで一端電話は終わった。

その後、「明後日PM4:00でどうでしょうか?」、と問い合わせがあって、OKすると当日9:00に
交換部品が届くから受け取ってれと言われる。当日朝9:00ピッタリに部品が届き、しばらくして
修理担当者から電話で本日午後4:00に修理に行く旨の確認が入る。そしてまたピッタリ4時に
修理担当者が来てくれる。1時間弱で部品の交換を終え、報告書を記入してこちらの捺印を貰う。
帰り際に、この古い部品は明日引き取り便が来るから、渡してほしいと要請をして帰っていった。
報告書の控えを見ると、修理に来たのはデルから委託業務を受けている国内の通信システムの
会社である。一連の修理作業全てがマニュアル通りに動いているという感じである。翌日、再び
たどたどしい日本語の中国人から電話が入ってきた。先回の人と違うようで、文章をマル読みして
いる感じである。「修理はちゃんと行われましたか?使ってみて何か不都合はございませんか?
今後とも何かトラブルがありましたら電話ください」、ほとんどマニュアルの棒読みであった。

「なぜ何時も中国人なんだろう?」、そんな疑問が湧いてきた。「ひょっとしたら、中国から電話して
いたのではないだろうか?」、一端疑問が湧くと確認したい性格である。ディスプレーに残っていた
044-から始まる電話番号に折り返しの電話をかけてみた。「こちらはデル株式会社でございます。
この電話は発信専用回線になりますため、お繋ぎすることができません。・・・・・・」という日本人の
声の録音テープであった。たぶんサービスセンターが中国にあり、そこから電話しているのであろう。
日本に暮らす中国人であればボキャブラリーは多少不足しても、もう少し馴染みがあるように思う。
今回話した全ての中国人は、学校で覚えたばかりの堅い日本語のように聞こえた。しかしどんなに
ぶっきら棒で愛想がなくても、スピーディに修理してもらえることに勝るものはない。

先日新聞でデルの商品広告を見ていたら、右隅に、「デルは出張修理が基本です」、と書いてあり、
翌営業日出張修理サービス可、ということも書いてあったように思う。今やパソコンが無いと仕事が
成り立たない時代、中小零細や個人にとってPCなどのOA機器の保守管理はアキレス腱のような
もので、一端トラぶってしまうと大騒ぎになる。NECや富士通など国内メーカーは全て家電量販店
経由の間接販売である。だから不具合が発生したら購入窓口に相談することになる。結局販売店
では修理出来ないから、メーカーの修理工場に持ち込んで何日もかかってしまう。出張依頼すると
出張料金を取られ何万円もかかるようである。HP(ヒューレットパッカー)やDell(デル)が、国内で
徐々にシェアーを上げているのは価格だけではなく、修理などのサービス面が安価で充実したもの
になって来たからではないだろうか。


今スマートフォンが話題になっている。iPhoneのアップル、Andoroidoのグーグルが世界を席巻
しようとしている。メーカーも韓国のサムスンがトップを切っている。私は2年半前に、スマートフォン
に切り替えた。ドコモがスマートフォンを出したばかりの機種である。この機種は台湾のhTcと言う
会社製である。hTcはスマートフォンではサムスン、LG電子の韓国勢に次いで3位のシェアーを
持っているようだ。仕組みはアメリカが考え、製品は韓国、中国、東南アジアが担っていく、次第に
そんな傾向になるつつある。

携帯をスマートフォンに切り替えたとき、アドレスも@docomo.ne.jpから @gmail.comへ切り替えた。
私の携帯をiモードの世界からインターネット世界に移行したことになる。それ以来、携帯メールの
やり取りも全てアメリカのグーグル経由になっている。隣の人への携帯メールもアメリカ経由で行く
ことになる。そして今まで2年半のやり取りは全てグーグルのサーバーに保存されている。だから
相手の名前を入れ検索すれば立ちどころに過去のメールが呼び出せる。これがインターネットの
世界であり、グローバル化の基軸になっているのである。便利な世界ではあるが、一面怖い世界
でもある。私の個人の情報がアメリカの会社のサーバーに保管されているのであるから。

今、経済的なことで世界中でしのぎを削っている。少しでも力が無くなるとアッと言う間に席巻され
てしまう時代である。まさしく国家や地域の境界を越えて地球規模で事象が動くようになったから
であろう。今はその過渡期で、TPPを初めとしてあらゆる分野で、あらゆるところで、問題が発生し
始めている。しかしどんなにギクシャクしても、この流れは止めようがないのだろう。だから今からは
文化的なものなど国として個人として守るべきものだけはしっかりの守って行き、後はグローバル化
の中で立ち向かって行くしかないように思うのである。


Oさんのこと、

2011年12月02日 12時14分54秒 | Weblog
先週Oさんに会った。Oさんのことについては2年前まで、時々このブログにも書いたことがある。
彼は会社に出入りしていた包装資材(中小)の営業マンであった。年齢は56歳、親と同居して
いて独身である。平成20年6月で会社を辞め、それから3年半になろうとするが再就職はせず、
今は年老いた両親(共に80歳超)の食事の世話から病院の送り迎えなど介護に専念している。
家は親の持ち家であり、贅沢をしなければ親の年金と今までの蓄えで生活は出来るようである。

彼が離職後は月一回程度会うようにしている。彼とは親友と言う間柄でも無く、彼が心配だから
ということでも無い。先週のブログで書いたように「なぜそうなるのか」、「何が人をそうさせるのか」
という人に対する興味からである。言わば私のテーマである「人間観察」の研究対象なのである。
こんな風に書けば、彼を軽んじて人間扱いしていないように聞こえるかもしれないが、決してそうで
はない。私は原則的に聞き役に徹するが、しかし彼とは対等な関係で話し合っている。だから彼も
自分自身のあからさまな内面を吐露してくれるのである。言わばカウンセリングのカウンセラーと
クライアントのようなものであろうか。

毎回会うのは新宿通りにある古びたビルの6階にあるレストランである。戦後間もなくオープンし、
そのまま何の手も入れず、今まで残っている場末のレストランという感じである。彼の好みの店で
客も少なく静かな雰囲気で、何時行っても席が有る。カウンセリングとしては絶好の場所である。
彼に会ってからもう20年になるであろう。会った当初からひねくれた性格の持ち主と思っていた。
営業なのに自分の言動に対して自信なさげで、何時もオドオドした雰囲気を持っていた。しかし
体制や権威に対しては猛烈な反発心を持っている。営業職という立場も有って、そんな部分は
極力隠すようにしていたからだろう、彼の性格に「卑屈さ」が漂っているように感じたものである。

そんな彼は、会社でも批判的で反抗的な言動が目立ち、オーナーに疎んじられていたようである。
営業成績が維持できている時はそれでも勤めることは出来たが、しかし売り上げが落ちて行くに
従ってオーナーのプレッシャーは強くなり、営業会議の席で、「どうするんだ!どうするんだ!」と
責め立てられいたようである。そしてある時、「そこまで言うのなら辞めますよ」と言ってしまった。
そこで、すかさずオーナーが「何時やめるのだ!」となり、「6月で辞めます」(決算月)と答えた。
それから3ヶ月その件について何の確認もなかったので、有耶無耶になったと思っていた。しかし
4月の営業会議でオーナーが突然、「O君が6月で退社することになった。ついては引き継ぎを、」
と言いだした。彼としては晴天の霹靂という感じであったが、如何ともしがたかったのである。

先週ブログで書いた評価ということからすれば、ほとんどの人が彼に「×」をつけるであろう。唯一
会社の同僚で何時も一緒に会社を批判していた仲間が「△」を付けるかもしれない。私も評価しろ
と言われれば「×」であり、何より本人自身が自分に「×」を付けているくらいである。「いずれこう
なることは自分でも予想できた。しかしそれが現実になると、精神的な動揺は大きいものですね」
世の中を甘く見ていたと言えばそうであろうし、身から出たサビということならその通りなのだろう。
自分で自分の先行きがある程度は見えていたのに、それでも反抗的な態度を取り続けていたの
である。自分を変えるということは、ことほど難しいものなのである。

もうかれこれ40回以上は彼と会って話している。そこまで話しあうと、彼との垣根は無くなって、
彼の本音の部分がむき出しになってくる。反社会的、自分勝手、屁理屈、幼児性、そう思われる
ことでも平気で私にぶつけてくる。それに対して私が反論しても彼は引き下がることはない。
彼の一面が解る主張を幾つか列記してみよう。

この世の中、人間がはびこり過ぎることが全ての災いの原因である。だから人類淘汰の方向に
向うべきである。その為には戦争もやむなしである。そして中国のように世界的規模で一人っ子
政策を行うべきで、それでも自分の子孫を残そうとする人には、税の負担を大きくすべきである。
それだけ地球に対して負担をかけるのであるから、当然の義務であろう。

人間が地球を占領していくから、他の動物が生き辛くなっている。私は人間より動物の味方である。
動物の中で一番可哀想だと思うのは、豚や牛や鶏などの家畜類である。自然界の動物は自分の
能力や運で生き延びることもあるし、死ぬこともある。それは自然の摂理である。しかし家畜類は
生まれた時から、その殺生権を人間に握られている。こんな理不尽なことは許されるべきでない。
(そうは言っても、彼は肉も養殖の魚も食べているのだが)

世の中の人々は、体制側の意思で踊らされている。政治もマスコミも人を自在にコントロールする
ことに躍起になっている。だから私は作り上げられた大衆的な物には全て反感を覚える。例えば
紅白にしても大河ドラマにしてもサッカーにしても、そしてそんなものに夢中になる大衆を軽蔑した
くなる。だからなのか、サッカーでもバレーボールでも、大衆が応援する全ての国際競技で日本が
負けることを願っている。負ければ「やった」と本気でガッツポーズするほどである。

世の中不公平は解っているが、日本ほど「女尊男卑」の国はないと思っている。女性はチヤホヤと
甘やかされ、男性には厳しく辛くなっている。例えば電車の中での痴漢、女性の訴えは認められ、
男性の言い分は退けられることが多い。映画でも飲食でもレディースデイがあるのに男性のそれは
聞いたことが無い。そんなことが、女性を「自分は特別な存在」だと錯覚させている。仕事にしても
腰掛で気楽である。真に平等を主張するのであれば、女性もそれなりの覚悟を持つべきである。
(自分が結婚できなかったからというヒガミがあって、女性に対して偏見を持っていると思われても
仕方が無いが、という前置きがあって話していた)

今、彼は一種の引きこもり状態にある。両親の世話をするために、買物や病院等へは出かけるが
それ以外はほとんど外へ出かけることはない。人との接触も家族以外は私と「△」の評価を付ける
だろう元同僚の2人だけである。あと一つ毎週土曜日にパソコン教室に通っている。もう3年以上も
通っているが未だにパソコンは全く使えないし、使う気もないらしい。毎週1200円払って外部との
接点を確保しておく為だけに通っているのだそうである。人から見ればバカバカしい限りであるが、
本人にとっては外部との接触が途切れることが、最大の恐怖だそうである。

彼自身「もう自分は働くことは出来ないだろう」と言う。それは、前の会社で通用しなかった自分が
この3年も4年もブランクがあって、再び世の中に通用するとは思えない。それと、自分の考え方が
世の中に対して異端であることは判っている。それを世の中に合わせて自分を取りつくろうことには
うんざりだし、そんなエネルギーも意欲も持ち合わせてはいない。これで自分が野たれ死にするので
あれば、それはそれで構わないと思っている。生きることに対する執着は全く持っていないのだから。
「私はウツなのでしょうかね?」、彼は時々私にそうたずねてくる。素人の私にそれを判定することは
出来ないが、しかし何が起因しているのかは、何となく推察することはできる。

彼は姉妹の真ん中で3人兄弟である。彼を産んで間もなく母親は亡くなってしまった。父親は直に
後妻をもらった。それが今の母親(養母)である。姉と彼とは先妻の子供、妹は後妻の子供である。
彼が小学校3年のころ、姉から聞いて自分の母がママ母であることを知った。そのことを母に問い
詰めた時、母に「生まれたばかりのあなたを見て、その可愛さで私はお父さんのところに来たの」
と言われたそうである。たしかに当時までは自分は母親に猫っかわいがりされていたように思う。
「グレるにグレられなかった」、彼は当時のことをそんな風に話している。

多分、思いっきりグレていてもおかしくないのであろう。しかし母親のことを知った時期が悪かった。
反抗期を前にして、母親との愛情確認が済んでいなかったのではないだろうか。このタイミングで
母親に反発してしまえば全てを失かもしれない。子供心にもそんな風に感じたのかもしれない。
結局、彼は反抗期を経ずして大人になってしまった。そして大人になってから、くすぶり続けている
反抗期が顔を出して来たのだろう。その反抗する相手は両親では無く、世間に向かって行ったよう
に思える。今、大王製紙の御曹司の博打依存症が話題になっている。彼は父親の厳しい指導で
逆らうことも出来なかったようである。「三つ子の魂百まで」ではないが、子供の成長期に踏むべき
ステップを飛ばしてしまうと、どこかでその歪みが出て来てしまうものなのであろう。