60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

秩父巡礼で思うこと

2017年12月22日 08時27分56秒 | 散歩(8)

                寺坂棚田

 17年前の12月、新潟にいた母が大腸がんで入院した。手術はしたものの、すでに肝臓に転移しいて翌年の9月に亡くなった。その間毎月のように見舞いに行き、それなりの覚悟はしていたつもりであった。しかし、いざ亡くなってしまうとやはり大きな喪失感がある。よく言われる「心にポッカリと穴が空いたような」やりきれない感覚である。その穴を埋めるために散歩を始めた。

 最初は定期券が使える西武沿線の各駅に降り、散歩の本を片手に知らない街を一人で歩く。コースにある神社仏閣、道端や家々の庭に咲く花、時には大きな公園や名所旧跡、そんなものに意識が向いてくると、いつの間にか心の穴は塞がっていったように思う。それ以来、散歩の本を買っては東京都内、埼玉県、神奈川県、千葉県、遠く茨城県や群馬県さらに静岡県まで(全て日帰り)足を延ばした。歩きはじめて16年になる。

 今回秩父巡礼を思い立ったのは、もう散歩の本に頼って、歩いてみたいと思うところが無くなってきたからである。秩父は10数回行っているから巡礼コースとダブルところは多い。しかし毎回毎回、「今回はどこを歩こうか?」と考えなくても良い。それと巡礼でご朱印を貰うのはスタンプラリーのように、歩く動機付けになるだろう。そんなことから9月から歩き始めたのである。
 
 巡礼は秩父郊外の1番札所から始まり、次第に市街地に入り、また郊外に出て行く。番号が進むにつれて札所間の距離が長くなり、山道も多く巡礼の旅をしているという雰囲気を持ってくる。人家も人や車も少なくなり、農村風景の只中を一人で歩くようになると、広々とした空間の中の「自分」というものを感じるようになる。以前四国八十ハケ所巡礼の旅で、自分に向き合い自分を総括するようなドラマを見たことがある。たぶん旅で普段の生活から離れ、自分を取り巻いていた諸々の問題や繋がりから距離を置くことで、自分自身を客観的に見直すようになるのかもしれない。
 
 しかし私の秩父巡礼の場合は、自分に向き合うのではなく、刻々変わる「今」(景色)と向き合っていたように思う。秋の暖かい日差しの中、昔ながらの民家が並ぶ道を、伸びやかな田園地帯を、時には山道の巡礼道を歩き続ける。人々の暮らしや庭に咲く花、道端に立つお地蔵さんにと注意が向く。そんな自分の生活圏にない空気感を新鮮なものに感じたのであろう。手にカメラを持って絵になる風景を探し、時々立ち止まってシャッターを押す。歩いている間中、意識は外を向いて自分のことを考える暇は無い。それは子供の頃、好きな事に没頭していた時に似ている。
 
 歩くことで直ぐに疲れていたら、ここまで意識は外に向かないであろう。長年歩いてきたから、今は3万歩程度まではあまり疲れを感じない。だから雰囲気が良い道を歩いていると、いつまでも歩いていたいと思うことも多い。さらに写真の中からお気に入りの風景を絵にしようと思うから、風景に対してより意識が向き、いつも構図を考えるようになる。歩くこと、写真を撮ること、それを絵にすること、そのサイクルがそれぞれの趣味を補強し補完してくれている。そしてなによりの効用は歩くことで健康が保たれていることであろうか。歩くことを楽しめるということ、これは母が残してくれた遺産なのだと思うことがある。

 以下、巡礼コースの中で絵にした10点です。
 
   
 
             札所5番⇒札所6番 武甲山
 
   
 
            札所5番⇒札所6番 寺坂棚田
 
   
 
              札所8番法長寺付近
 
   
 
             12番札所 野坂寺
 
   
 
                           29番長泉寺を終え武州中川駅
 
   
 
             31番⇒32番 大日峠

   
 
            32番⇒33番 菊水寺への道
 
   
 
            32番⇒33番 菊水寺への道
 
      
 
             33番⇒34番 赤平川
 
   
 
            33番⇒34番 秩父市下吉田
 
        

 今度は坂東三十三ケ所を歩いてみようとルートガイドを買った。1番札所は鎌倉の杉本寺から、13番に浅草寺があり、遠く日光の中禅寺からラスト33番は千葉房総半島の突端館山の那古寺まで・・・、年が明けてからの新たな目標ができた。
 
 ※年末年始でもあり又当方喪中でもありますため、しばらくブログを休ませていただきます。このブログを贔屓していただいた皆様に御礼申し上げます。再開のあかつきにはまたよろしくお願いいたします。では良いお年を・・・・、
 



終活

2017年12月15日 08時32分01秒 | 日記
 茨城県に住む義姉から個展(油絵)の案内葉書が送られてきた。
 去年の2月、兄から突然義姉が肺腺ガンでステージ4の段階だと聞いた。腰が痛いと病院で検査したら、ガンはすでに骨にまで転移しているということである。抗がん剤しか対処法がなく、定期的に抗がん剤治療の日々が続いているという。抗がん剤の影響で手の平が異常に過敏になってきたとか、ぼんやりする日が多くなったとか、衣服など身の回りの私物を片付け始めたとか、それでも好きな油絵は一生懸命描いているとか、そんな話を何ヶ月かに一度兄から聞いていた。しかし義姉に直接会いに行くのは憚られる。ここ何年会っていない義姉に何を理由に会いに行くのか、たとえ会いに行ったとしてもどんな顔をすれば良いのか、どんな話をすれば良いのか、と考えてしまい結局行動に移すことは出来なかった。
 
 そんな折の個展の案内である。「ご都合がよければお越し下さい」という義姉の手書きの文面が添えてある。「義姉の方から会う機会を作ってくれた。これは行くしかないだろう」、そう思って開催日の初日に顔を出すことにした。銀座の外れの小さなビルの4階に、こじんまりしたその画廊はあった。2時過ぎに行ったとき義姉は留守で、画廊の受付の人が「今、友達という人がこられ、一緒にお茶を飲みに行かれました」ということである。会わずに帰るわけには行かない。しばらく絵を見ながら待つことにした。
 
 義姉はお母さんが絵の先生だったということもあり、小さい頃から絵を描いていた。趣味で続けていた絵を、今の住まいに落ち着いたころから本格的に始め、東光展や二科展にも出品するようになったそうである。私が結婚したときも1枚油絵を贈られて、今でも我が家の居間にかかっている。地元では定期的に個展をやっており、都内でも何回かやったことがある。待つこと30分義姉が帰ってきた。
 
    
 
 「お久しぶりで・・・」、「お元気そうね」、しばらく当たり障りの無い話が続いて、私が「都内での個展は何回目でしたっけ?」と聞くと、「3回目、今回が最後ね。これ終活なの・・・・」と義姉は個展を開いた動機を話しはじめた。
 
 ガンと分って2年、最初は動揺もしたが今は抗がん剤が効いていて、なんとか日常生活は出来ている。今は絵を描く意欲もあるし、来年には展覧会への出品のため100号の大作を考えている。しかし何時かそれも出来なくなる。限られている時間の中で、元気な内に親しかった人に会っておきたい。家に来てもらったり、一人一人と会うのも負担になるから、個展を開くことにしたそうである。
 
 それともう一つ、個展に合わせて小冊子を作ったと言って、私にも一冊手渡してくれた。30ページほどで、中に30点程の絵が掲載されている。「私が死んでも、覚えてくれているのは精々孫まで、その時どんなお祖母ちゃんだったと聞かれたとき、この冊子を見れば、こんな絵を描いていたのかと分る」、「絵を残しても掛ける所もないし邪魔なだけだから、いづれ全部処分しようと思っている。まあ、だからこの小冊子は私が生きた記念になればと思って作ったの」と言う。
 
 義姉が「貴方はどの絵が良いと思う?」と聞く。私が会場の隅にあったあるヨーロッパの町並みを描いた絵を指差すと、「この絵の空の色を全体の色調に合わせるために、何度も何度も塗り直したの、・・・・」と絵を描いたときの苦労話をし始めた。そして、「そう、貴方はこれが好きなのね。覚えておく!」と言った。たぶん何時か遺作として贈ってくれる腹つもりなのかもしれない。30分程したときに絵を観にきた人が2人ほど入ってきた。それを契機に会場を出た。これが義姉との最後になるのか?それともまた会う機会があるのか? どちらにしても義姉の終活の試みは、私に清々しさを感じさせてくれた。
 
    
 
    
 
               義姉の小冊子







秩父巡礼(9)

2017年12月08日 08時26分36秒 | 散歩(8)

  秩父巡礼も最後の34番目の札所である。12月3日(日)前回帰りのバスに乗った「龍勢会館」バス亭まで行き、ここから出発する。この34番札所は秩父盆地を囲む皆野アルプスと呼ばれる外周の山を上り、杖立て峠を越えて秩父盆地を抜けたところにある。そのため今日の行程はほとんど山道になる。巡礼の結願(けちがん)に向けて最後の難関という設定なのであろう。

 秩父巡礼は1番札所四萬寺から34番札所水潜寺まで、一巡約100km程である。昔の人はこれを1週間かけて歩いたそうである。今のように道も整備されていない昔、白衣に菅笠、金剛杖をついて観音信仰に基づいて静寂な山村と美しい自然の風光を背景に巡礼をしたのであろう。それを今回は9回に分けて歩いたみた。歩いてみて感じるのだが、巡礼は決して信仰心からの苦行ではなく、当時の人々の大いなる楽しみのだったのだろうと想像できる。元禄期や文化文政期には1日2万~3万もの人が札所を回ったという記録もあるぐらいである。

 ある時は谷を渡り、山路をたどり、野づらを横切って、一つ一つの札所を巡ってあるく。そんなタイムスリップしたような経験は、私にとっても記憶にとどまる一大イベントだった。そんな巡礼の中、何を思い何を感じたのか、それはまた後日書いてみようと思う。

          
 
                龍勢会館バス亭
 
   
 
   
 
               里はすっかり冬の色
 
         
 
         
 
   
 
                平石馬頭尊堂
 
         
 
               緩やかな山道を登る
 
         
 
         
 
              ここから巡礼道は分かれる
 
         
 
         
 
         
 
         
 
               一旦自動車道へ
 
         
 
                再び山道へ 
 
   
 
         
 
         
 
         
 
         
 
   
 
               札立峠 標高600m
 
            
 
         
 
                ここからは下り
 
   
 
   
 
   
 
         
 
             林の向こうに建物が見え、ホットする 

   
 
   
 
                 34番 水潜寺
 
   
 
          願願寺だから杖など巡礼用品を奉納して行く人も多い
 
        
 
   
 
                  水潜寺
 
         
 
                巡礼最後のご朱印
 
         
 
              三十三観音の石仏が並ぶ参道
 
         
 
         
 
     
 
       
 
                  落差12m   
 
       
 
         
 
          秩父華厳の滝バス亭から皆野町営バスで皆野駅へ
 
   
 
                 秩父鉄道皆野駅
                秩父方向からSLが来る
 
   
 
         
 
                皆野駅~秩父駅へ
           普段はガラガラなのに今日は朝のラッシュ並みの混雑
 
   
 
               秩父鉄道の秩父駅前
                 今日は秩父夜祭
 
       秩父夜祭は、ユネスコ無形文化遺産に登録されている
           埼玉県秩父市にある秩父神社例祭
   
 
                 秩父神社
                  お参りするのに長蛇の列
 
       

                 屋台組み立て中
 
   
    
   
 
   

            今年の人出は31万人とか
 
   

   

           秩父の市街地は完全交通規制
 
   

              外国の観光客も多い
 
   

              屋台行列の場所とり
 
           
 
         
 
               西武秩父駅
     秩父夜祭は、交通も不便だし、混むし、暗いし、寒いし、休む所もなし
    年寄りには厳しいお祭りなので、帰りの電車が混まないうちに早々に退散した
 
 
 
 

 


義母の死

2017年12月01日 08時42分17秒 | 日記
 11月24日PM4時、長年患っていた義母が亡くなった。大正9年10月生まれで97歳(享年98歳)であった。98歳ということは大往生ということになるのだろうが、ここに至るまでには本人の並々ならぬ苦闘もあったように思う。35年前義父が食道がんで亡くなってからは末の娘と2人暮らし。14年前義母は脳出血で倒れる。発見が早く一命は取りとめたが、右半身不随となった。80歳を過ぎた義母にはリハビリでの復活は難しく、車椅子の生活を余儀なくされる。娘も働いていたので自宅看護は難しく、施設を転々とした後、実家の近くにある特別養護施設へ落ち着いた。結局特養の施設が終の棲家となったことになる。
 
 義母には我が家の3人の子が生まれたときには大変なお世話になった。そんなこともあって子ども達は皆おばあちゃん子である。お正月やお盆など実家に連れて帰ることも多く、私自身も夫を亡くした義母とはよく話をし、しばしば相談を受けることもあった。義母は四国愛媛県の生まれで4人兄弟の一番上である。だからなのかしっかり者で面倒見が良く、勤勉で忍耐強いという、昔の女性の典型的な人だったように思う。我々家族が滞在しているときは、四六時中動いていて甲斐甲斐しく面倒をみ、孫達には優しく接してくれていた。しかし自分の子供たちには厳しく、一旦こうと決めたことは頑として譲らず親子喧嘩も絶えなかった。昔ながらの家意識が強く、総領はこうあるべき、結婚はこうあるべき、女はこうあるべき、ふだんはつつましく、いざというときにお金を使う。そんな家訓のようなものを大事にする人でもあった。
 
 私の父母と義父母、4人はいづれも大正の生まれである。昭和の始めに青春を過ごし、太平洋戦争の前後に結婚し、終戦後の物の無い時代に子育てをした世代である。いってみれば環境そのものがが波乱万丈の時代であった。節約を旨とし、食料不足でも何とか子ども達に食べさせ、子ども達の教育には熱心で、色んなものが不足でも不満を言わず、黙々と自分の役割を果たしていたように思う。時代の波に鍛えられられたからか、普段は優しく温和な人柄でも、いざとなれば悩むことなく決断し実行していく。4人とも1本筋が通った生き方、その凛とした姿は共通しているように思う。たぶん親の代から受け継がれてきた鉄則のようなものがあったのだろう。
 
 親4人が亡くなり、私の周りから大正が消えた。いよいよ我々昭和生まれの順番である。「終活」を辞書を引くと、人生の最期を迎えるにあたって執る様々な準備やそこに向けた人生の総括とある。親たちの生き方を見て何を参考にし、自分の終活をどうしていくのか、真剣に考える時期に来た。私の両親は自分達の遺影まで用意していた。さて私は、今の仕事をどう終わらせるか、家のローンは、いつまで生きるか分らない老後の生活設計は、病気になった場合は、身の回りの整理は、お墓をどうするか、・・・・・何事も計画通りには行かないし万全の準備も難しいしのだろうが、それでも一つ一つやっておくしかないのだろう。子ども達には極力迷惑を掛けたくないし、何より10年程度で確実にその時が来ることになるからである。