茨城県に住む義姉から個展(油絵)の案内葉書が送られてきた。
去年の2月、兄から突然義姉が肺腺ガンでステージ4の段階だと聞いた。腰が痛いと病院で検査したら、ガンはすでに骨にまで転移しているということである。抗がん剤しか対処法がなく、定期的に抗がん剤治療の日々が続いているという。抗がん剤の影響で手の平が異常に過敏になってきたとか、ぼんやりする日が多くなったとか、衣服など身の回りの私物を片付け始めたとか、それでも好きな油絵は一生懸命描いているとか、そんな話を何ヶ月かに一度兄から聞いていた。しかし義姉に直接会いに行くのは憚られる。ここ何年会っていない義姉に何を理由に会いに行くのか、たとえ会いに行ったとしてもどんな顔をすれば良いのか、どんな話をすれば良いのか、と考えてしまい結局行動に移すことは出来なかった。
そんな折の個展の案内である。「ご都合がよければお越し下さい」という義姉の手書きの文面が添えてある。「義姉の方から会う機会を作ってくれた。これは行くしかないだろう」、そう思って開催日の初日に顔を出すことにした。銀座の外れの小さなビルの4階に、こじんまりしたその画廊はあった。2時過ぎに行ったとき義姉は留守で、画廊の受付の人が「今、友達という人がこられ、一緒にお茶を飲みに行かれました」ということである。会わずに帰るわけには行かない。しばらく絵を見ながら待つことにした。
義姉はお母さんが絵の先生だったということもあり、小さい頃から絵を描いていた。趣味で続けていた絵を、今の住まいに落ち着いたころから本格的に始め、東光展や二科展にも出品するようになったそうである。私が結婚したときも1枚油絵を贈られて、今でも我が家の居間にかかっている。地元では定期的に個展をやっており、都内でも何回かやったことがある。待つこと30分義姉が帰ってきた。
「お久しぶりで・・・」、「お元気そうね」、しばらく当たり障りの無い話が続いて、私が「都内での個展は何回目でしたっけ?」と聞くと、「3回目、今回が最後ね。これ終活なの・・・・」と義姉は個展を開いた動機を話しはじめた。
ガンと分って2年、最初は動揺もしたが今は抗がん剤が効いていて、なんとか日常生活は出来ている。今は絵を描く意欲もあるし、来年には展覧会への出品のため100号の大作を考えている。しかし何時かそれも出来なくなる。限られている時間の中で、元気な内に親しかった人に会っておきたい。家に来てもらったり、一人一人と会うのも負担になるから、個展を開くことにしたそうである。
それともう一つ、個展に合わせて小冊子を作ったと言って、私にも一冊手渡してくれた。30ページほどで、中に30点程の絵が掲載されている。「私が死んでも、覚えてくれているのは精々孫まで、その時どんなお祖母ちゃんだったと聞かれたとき、この冊子を見れば、こんな絵を描いていたのかと分る」、「絵を残しても掛ける所もないし邪魔なだけだから、いづれ全部処分しようと思っている。まあ、だからこの小冊子は私が生きた記念になればと思って作ったの」と言う。
義姉が「貴方はどの絵が良いと思う?」と聞く。私が会場の隅にあったあるヨーロッパの町並みを描いた絵を指差すと、「この絵の空の色を全体の色調に合わせるために、何度も何度も塗り直したの、・・・・」と絵を描いたときの苦労話をし始めた。そして、「そう、貴方はこれが好きなのね。覚えておく!」と言った。たぶん何時か遺作として贈ってくれる腹つもりなのかもしれない。30分程したときに絵を観にきた人が2人ほど入ってきた。それを契機に会場を出た。これが義姉との最後になるのか?それともまた会う機会があるのか? どちらにしても義姉の終活の試みは、私に清々しさを感じさせてくれた。
義姉の小冊子