60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

風立ちぬ

2013年07月26日 08時45分02秒 | 映画
 先週ジブリ作品「風立ちぬ」の映画を見てきた。7月20日の公開前にNHKテレビ、民放テレビ、新聞各紙の多くで特集が組まれいた。各社が競ってジブリを応援しているかのような様相である。これを宣伝費に換算すると莫大なものになるだろう。なぜ各社でこれほどまで取り上げるのか?、それはジブリ作品が日本アニメの象徴的な存在になってきているからだろうと思う。宮崎駿の作品はいつも主人公が生き生きと描かれている。絵も丹念で質が高く、その背景画は郷愁や親しみを感じ、日本の原風景を思い出させてくれる。そして宮崎駿のメッセージは常に前向きな生き方である。そんなことから安心して見れる作品として大勢の人の支持を得ているように思うのである。味があり独特の雰囲気を持つ宮崎駿、いずれ国民栄誉賞を取ってもおかしくない人なのかも知れない。

 今回の「風立ちぬ」は宮崎駿の「崖の上のポニョ」以来5年ぶりとなる作品。ストーリーは零式艦上戦闘機(零戦)を設計した実在の人物「堀越二郎」と、同時代に生きた文学者「堀辰雄」の小説「風たちぬ」を織り交ぜ、堀越二郎の姿を描いた大人のラブストーリーである。時代は大正末期から第二次世界大戦まで、関東大震災が起こり、やがて戦争の足音が近づいてくる。そんな激動の中で必死に生きる人々を描いている。映画のポスターに『生きねば』とあるから、映画の大きな主題は、「どんな時代でも生きることに一生懸命であれ」、という宮崎駿のメッセージであろう。

 映画の風景は私にも少しの名残がある昭和初期である。高い建物がないカワラ屋根の町並み、人々の服装は着物が普段着として当たり前に残っている。輸送手段は荷馬車や人力車、地方と結ぶ鉄道は蒸気機関車が走っている。映画の中のそんな風景を見ながらふと思う。「これは私の両親と時代はかぶっている」、「父と母の青春はまさしくこの時代にあったのだ!」と。自分には未知の時代や環境の中で、私の両親もまた青春を謳歌しつつ必死に生きたのであろう。そう思って見ると、映画の後半でヒロインの菜穂子が、結核で生きられないとた悟った時の無念さに、思わず涙がこぼれてしまった。
 映画は今までの宮崎駿作品のようにファンタジーではない。あるTV番組で宮崎駿自身が「今はもうファンタジーを見る時代ではない」と語っていたから、彼の作品にはもう「となりのトトロ」や「魔女の宅急便」のようなファンジーな作品は出てこないのかもしれない。しかし今回の物語には主人公堀越二郎の夢の中での出来事が頻繁に描かれている。これが映画の雰囲気をファンタジーな色合いにし、丁寧な絵や背景画も何時ものジブリのトーンである。やはりこれは紛れもなく宮崎駿の世界である。

 感想としては、物語全体の流れとバランスが悪かったように感じてしまった。主人公堀越二郎の飛行機への夢、航空機設計への情熱、関東大震災、ヒロインの菜穂子との恋、そして戦争、題材がてんこ盛りで宮崎駿の描きたいものがいっぱいあるのは理解できる。しかしそれが上映時間の中に納まりきれず、まとまりの悪いまま不完全燃焼で終わってしまった感じである。それは私の中のストーリーを追う意識、絵をしっかり見たいと思う目線、そしてバックに流れる音楽を聴こうとする耳、それぞれが追いきれずに上手く調和しないことが原因なのかもしれない。
 見終わったあと池袋の西武百貨店のギャラリーで『風立ちぬ原画展』という企画展を見つけて入ってみた。そこには宮崎駿のイメージボード、キャラクター設定、背景画や美術ボードなど100点あまりが展示されていた。「キャラクターはこんな経過を経てできたのか?」、「宮崎駿の絵はこんな絵なのか?」、「こんな綺麗な背景画が映画の中にあっただろうか?覚えていないなぁ~」、「やはりもう一度映画を見てみよう」、「そうすれば今度はストーリーを追わないから、じっくり絵や音楽が楽しめるかもしれない」

      

      

      

      






嘱託社員

2013年07月19日 09時52分55秒 | Weblog
 昔の仲間が会社に訪ねて来てくれた。彼(62歳)とは20数年前同じ会社で働いていたが、ある事件が切っ掛けで一緒にその会社を辞めることになった。その後彼は大手のレストランチェーンの仕入れ部門で働き始め、60歳の定年後、子会社に転籍し嘱託社員として働くことになる。しかしその子会社は営業不振から、ファンドに売られてしまう。そして外部から来た経営者がまず行ったのは大胆なリストラ、嘱託社員である彼は真っ先に首を切られてしまった。そんな状況を知って転籍させた親会社は若干の責任を感じたのだろう、再度嘱託として親会社で雇用することになった。しかし働き始めて4ヶ月、彼は辞表を出してしまい7月末で辞めるという。何が彼をそうさせてしまったのか?詳しく話を聞いてみた。

 定年後、不振の子会社に移って仕入れ部門から建て直しに関われることを彼は喜んでいた。残りのサラリーマン人生、自分の経験を若い人達に伝えていけることに、使命感のようなものすら感じていたようである。しかし親会社の都合で会社は売られ、その仕事もあっさりと奪われてしまったのである。環境の中で翻ろうされるサラリーマンの悲哀、嘱託社員という立場の弱さ、そんなことをつくづくと感じたそうである。そしてやむなく再就職先を探し始めた矢先、親会社から声がかり彼は再び希望を取り戻した。しかし出社してみると組織の中に彼の居場所はどこにも無かった。会社の仕事は組織の流れで動いている。その出来上がった流れの中に唐突に入っていくのは非常に難しい。特に必要されていない部署に入り込むことは周りからすれば迷惑なことである。既存の社員からすれば、すでに1年前に送別会を済ませて送り出した人である。しかも正社員ではなく嘱託社員、そんな年配者をどう扱ったらよいのか、周囲も戸惑ったことであろう。

 そんなことから上司は彼に特命事項を命じた。それは青果市場に会社として買参権を取得し、直接商品を仕入れていくというものである。会社が持つ既存の仕入れルートは崩さず、市場からこだわりのある商品や珍しい商品を調達し、それを使った新しいメニュー提案をしていくという構想である。彼は頑張って大田市場(大田区)に買参権を取得し、この6月から市場からのルートが確立した。さて、ここからが問題なのである。特命事項の担当は彼一人である。したがって市場に出向くのは彼だけ、市場からの情報を得るためには市場に顔を覚えていて貰わなければいけない。彼は市場の開くときは毎日毎朝、4:55分の始発電車に乗り市場に出向いた(それでも市場に着くのは7時)。そんな苦労から得た情報で珍しい野菜を提案しても、それが取りあげられることはなかったのである。メニューがあって食材の仕入れが発生する仕事の流れの中で、面白い食材があるからメニュー開発するという流れは逆である。1000店以上あるレストランチェーンの仕組みを嘱託社員たった一人の提案でメニューの変更などほとんど不可能に近い。組織のバックアップなしにこの仕事を続けることは、体力的にも精神的にも見合わない。彼は挫折とむなしさを感じて辞表を出したのである。

 65歳までの定年延長が言われ始め、我々より若い世代の人達の定年後の再雇用の実態を耳にすることが多くなった。そんな話の中でも65歳まで勤め上げる例は少なく、大半が1年か2年で辞めてしまう。その主な理由が身分的にも仕事的にも中途半端で、精神的に耐えられないというものが多いようである。今まで部下として接してきた仲間に、一転して敬語を使わなければいけない。今まで組織の中心的な存在だった自分が閑職の仕事に回ってしまう。「自分は仕事ができるのだ!」という自負(プライド)が無残に崩壊していく様を日々感じることになる。社内でどんなスタンス(顔)で周りと接していくかのか、ぎこちない態度に周りとの溝が深まっていく。結局、自分の中の切り替えが上手くできないままストレスを抱え、やがてやめてしまう。これが実態のようである。

 嘱託社員を辞書で引くと、《正社員とは異なる契約によって勤務する準社員の一種。一般的に定年後も引き続いて会社に所属する人のことを指す場合が多いが、契約社員同様、法的に明確な定義はなく、その用法は会社ごとに異なる》とある。年金の支給年齢がさらに引き上げられ67~68歳で検討されていると聞く昨今、今のような60歳以上からの雇用形態では会社も従業員もギクシャクするだけで、お互いが不効率である。給料は別としても今までのキャリアは認め、しっかりと組織の中に組み込んで働いてもらう。そんなモチベーションを維持していく雇用関係の仕組みが、今後は必須になってくるように思ってしまう。







散歩(横川)

2013年07月12日 08時17分15秒 | 散歩(3)
                         信越本線 磯部駅

駅からの散歩

No.377    横川(群馬県)       7月6日

 前回の散歩で群馬県の安中市へ行った。その帰り信越本線の磯部駅で、『碓氷峠鉄道施設・世界遺産登録へ 』というノボリが目に留まる。最近は散歩の場所に事欠く状況である。そんなことで今日は信越本線の終着駅「横川」の鉄道施設を見に行くことにする。

 信越本線は本来は高崎から長野、直江津を経て新潟に至る路線であった。しかし1997年の長野新幹線(北陸新幹線)の開業に伴い、横川駅- 軽井沢駅間が廃止され2区間に分断された。「碓氷峠鉄道施設」は廃線となった旧信越本線の遺構である。

 旧信越本線は明治24年(1891年)に着工し、明治26年に開通した。横川-軽井沢間は当初アブト式という特殊な登坂機構の蒸気機関車を用いて開通し、その後一部区間の路線も変更され、峠専用の機関車を用いて電化される。この峠を連係する基点となった横川~軽井沢間は約11km、標高差553mで、駅・変電所・橋梁・線路などの施設がそのまま線状に残され、鉄道文化史の貴重な資料として重文指定となっている。

      
                          信越本線 横川駅
            左の建物が「峠の釜飯」発祥の地、今はこの場所では営業していない。

      
                             旧中山道

      
                             碓氷関所跡

      
                      民家に野生の猿が遊んでいた(3匹)

                
                          人を恐れる様子も無い

      
                           中山道 坂本宿

      
               古い家並みが残っており、それぞれの家に屋号が付いている

      

                

      
                          旧信越本線 下り線
               今は廃線後の一部2.6kmを使い、鉄道文化村~峠の茶屋を
                  往復するトロッコ列車が観光用として運行されている

      
                 右の線が旧信越本線で先で線路は途切れている
             左に分岐した線路は峠の茶屋駅に向かうトロッコ列車用の線路

                
                     ここで旧信越本線の線路は途絶える

      
      廃線になった旧信越線はレールが外され今は遊歩道(旧線アプト道)になっている

      

      

      
                  昔は蒸気機関車が走ったトンネルを抜けて歩く

      
                トンネルをいくつも通りぬけるのが旧線アプト道の魅力

      
                       トンネルは全てレンガ造り

      
                           5号トンネル

      
            5号トンネルを抜けると旧線碓氷第3橋梁(めがね橋)の上にでる
               この橋梁を降り18号線を歩いて横川駅へUターンした

      
                      旧線碓氷第3橋梁(めがね橋)

      
               碓氷川に架かる4連アーチ橋で、1891年着工1893年竣工

      
           全長91m川底からの高さ31m、使用されたレンガは約200万個に及ぶ
                  現存するレンガ造りの橋では国内最大規模である


                          碓氷湖(人造湖)

      
                        青く澄んで森を写している

      
                             碓氷湖

      

      
                          再び旧線アプト道へ

      

      
                   旧信越本線の上り軌道がアプト道になっている

      
                 旧信越本線の下り軌道を利用してトロッコ列車が走る

      
                        レンガ造りの旧丸山変電所

      
                       変電所は明治45年に建てられた
             列車が上り勾配に差しかかったとき、必要な電力を供給する役割

      
                  横川駅に向かってなだらかな下り勾配の旧アプト道

      
                          碓氷峠鉄道文化村

      
                          碓氷峠鉄道文化村

      
                      横川駅 右の荻野屋で遅い昼食をとる

      
                        荻野屋の峠の釜飯 1000円也

 「果たして世界遺産登録なるか?」 群馬県として正式に世界遺産登録を推進しているのは「富岡製糸場」である。群馬県富岡市にあり、以前に訪れたことがある。明治5年に操業を開始した日本初の機械製糸工場である。どちらも日本の近代史の中で貴重な文化遺産ではあるが、しかし明治と言うさほど遠くない時代の遺産でもある。世界遺産にするにはまだ熟成期間が足らず、今のところは日本のローカル遺産止まりのように思ってしまった。
  
 今回のコースは約12km、往復4時間程度である。旧中仙道の情緒を感じ、山や湖を見ながらレンガ造りのトンネルの道をレトロな世界に浸って歩く。今まで関東近県を沢山歩いてきたが、このコースは私のベスト10に入る。もし「日本散歩100選」というものがあれば、ぜひ推奨したいコースである。










優先順位

2013年07月05日 09時08分35秒 | Weblog
 仕事に追われて、どれから処理をすれば良いか分からなくなる。欲しいものが沢山あってどれを買うか迷ってしまう。限られた条件の中で何を優先するかは人によって違ってくるものである。しかしそんな優先順位も長い間生活しているとおのずとパターンが決まってくる。私の仕事や買い物の優先順位は定型ができてきて、その都度「さてどうしよう?」とは悩まなくなった。仕事の場合は多種多様なパターンがあるから一概に説明はしづらいが、買い物は明確である。若い頃から限られた小遣いの中で優先順位の高いのは「本」と「電子機器」であった。おしゃれや美味しいもへの興味は少なく、どちらかと言えば、新しい知識とか技術革新に対して興味があった。その一つが知的な興味を満たしてくれる本、もう一つが技術革新が目覚しい電子機器である。だから欲しいと思ったらあまり迷わず買ってしまう。

 この2つに興味が向くようになったのには切っ掛けがある。 本について:私は中学、高校、大学と本を読むことは苦手で、教科書以外はほとんど読んだことはなかった。中学の夏休みに読書感想文を書く宿題があったが、そんな場合は本屋で一番薄い文庫本(厚さ5mm程度のものもあった)を選んで感想を書いていた。そんな読書嫌いな私が本を読むようになったのは、父の言葉があったからである。東京に就職してしばらくして、会社に出入りしてた保険の外交員に言いくるめられ、生命保険に入った。独身だから保険金の受取人は父親にする。あるとき実家への電話で、その事を父に伝えたとき、普段は穏やかな父に強い口調で叱咤された。「保険など、お前が所帯を持ってから入ればよい。今お前がやることは1冊でも多くの本を読むこと。どうしても本を読まないのなら、そのお金で美味しい飯でも食え!」と言われたのである。それから意を決して読み始めた。そして次第に読書の習慣がついて、優先順位が高くなってきのである。だから今でも読みたい本が見つかれば躊躇なく買ってしまう。

 次が電子機器:入社5年目に店舗から本部に転務して、商品の仕入れ部署に配属になる。業務の大部分が仕入れ先との交渉や打ち合わせであった。当時の連絡はほとんどが電話、毎回毎回電話帳から番号を見つけ出し、相手に電話しなければならない。外出先からの電話も多かったから、小さな電話帳を作ってポケットに入れていた。しかし相手先が100件を超してくると、電話帳に書く欄がなくなり、あいうえお順を無視してあちらこちらに書いてしまう。それと担当する部問が変われば仕入先も変わってしまい、その都度新たな電話番号が増えてくる。そんなことから頻繁に電話帳を書き換えたり、新しいものを作らなければいけなかった。そんな時期に出たのが電子手帳である。最初に出た電子手帳はモノクロでカタカナ表記であった。頭の何文字かを入れて検索すると一発で引き出せる。しかもあとから何件追加してもきっちり管理できている。その便利さにすっかり魅了され、それ以降はより便利なものが出てくると優先的に買うようになった。電子手帳も漢字変換ができるようになり、スケジュール管理など機能も充実してくる。そして携帯電話に移り、スマホへと変化していく。昔からそんな変遷を追っかけてきたから、今も最新の機種にも着いていける。

 電子機器の中にデジカメも含まれる。光学カメラはそれほどの興味はなかったが、デジカメが出てきてからは写真に興味が湧いてきた。フィルムを使わず、小さな記憶媒体に保存でき、インターネットで送るなど、その便利さに魅せられてしまったのである。私は美しい写真ではなく、面白い写真を撮りたい方である。だから一眼レフの高級カメラではなく、コンパクトで機能の優れたもに興味が向く。コンパクトカメラも日進月歩で性能は向上していく。そしてそれを追っかけるから、すでに10台近く買い換えたかもしれない。先日家電量販店を覘いていたら、あるカメラが目にとまった。それは光学ズーム30倍、デジタルズーム60倍のセールストークが付いた小型カメラである。手にとってその機能を確かめるとやはり欲しくなる。一旦は「今持っているカメラで充分ではないか」と思い止まるが、やはりそのズーム機能の魅力には抗し難く、数日後に買ってしまった。これで今まで撮れなかった写真(例えばカワセミなど)が撮れるようになり、写真の幅も広がるかもしれない。これからの散歩の写真に又一つ楽しみが増えた。

 下の写真がズーム機能を使って撮ったものである。A4サイズにプリントするとした場合の画質(5M)で撮ると、光学ズームは120倍、デジタルズームまで使うと240倍になるようである。

      
                       商店街の先にスカイツリーが見える

      
                   次第にズームしていく 曇り空で光量不足か?

      
                             下の展望台

      
                         さらにズーム、上の展望台

      
             ガラス越しに観覧している人が見えるが、手持ちのための手ぶれか、
               光量不足か、それともこの機の限界か、ボケが酷くなる。