60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

進化と遺伝子

2012年02月24日 08時38分22秒 | Weblog
 私の生涯学習のテーマは生物学全般である。動物行動学から進化論や遺伝子の話し、当然ヒトも動物であるから人間の行動や心理学など、雑多なものを読み漁っている。とりあえず、生命にかかわることを広く浅く知っておきたいと思うからである。最近、福岡伸一という分子生物学者の本を面白いと思い何冊かを読んでみた。分子生物学者であるから、アミノ酸のような分子の世界から、生物界全体の流れや生命観までを語っている。ミクロの世界から生命へ、そこで語られている内容には一本筋が通っているように思う。そして今まで不可解に思っていたことに対して、何か回答が得られたような気もする。近著「動的平衡(2)」を読んで、自分の疑問が氷解したことの一つを書いて見る。

 ダーウイン以降の生物学は、生物は遺伝子に突然変異が起こらないと変わらないと考えて来た。その突然変異に方向性は無く、色々な方向にランダムに起こっている。そして環境に適合した突然変異だけが生き残って来たのだと・・・・。適者生存、自然淘汰説である。だから今までの説は「進化には目的や方向性は無く、ランダムに変わっている。けれど、環境がそれを選択するからいかにも目的があるように見える」と言ってきたわけである。そこで私の疑問である。鳥の先祖は恐竜と言われている。飛べない恐竜が突然変異の積み重ねの結果で鳥になったとしよう。羽根のない恐竜が一気に羽根が生えるわけもない。だから飛べるような羽根が確立するまでの長い間、中途半端な時期もあったはずである。その間も無目的で淘汰もされずに突然変異を待ち続けることができたのだろうか、という疑問である。キリンの首やゾウの鼻は本当に無目的の突然変異の積み重ねで今の形になったのであろうか?そう言う疑問は常に付きまとってきた。突然変異はごく稀なことである。それが環境に対して有利な方向に起こるのはさらに稀なことである。たぶん遺伝子の突然変異の頻度だけでは、その多様化のスピードや多種多様な進化の量は説明がつかないように思うのである。
 
 本によると、最近「エピジェネティックス」という考え方が出てきたそうである。エピは「外側」、ジェネティックスは「遺伝子の」、つまり「遺伝子の外側で起きていること」という意味だそうである。簡単にいえば遺伝子以外の何が生命を動かしているかを考えるのが、エピジェネティックスである。ではエピジェネティックスで進化をどう考えるのかである。
 遺伝子上でにはそれほどの変化は起こっておらず、遺伝子のスイッチのオンオフの順番とボリュームの調整に変化がもたらされたのではないかという仮説である。ある生命の遺伝子はその生命が生きている間、ずっと同じように活動し続けるわけではない。必要となったある時期、あるタイミングに、遺伝子はたんぱく質合成の設計図を提供するにすぎない。つまり私たちの体のどこかに、その設計図を開く時に遺伝子をオンにするスイッチがあるのだ。例えば、少女が12歳で初潮を迎えるのは、繁殖への体制がほぼ整い、そのスイッチが入ったことを意味する。そして50歳くらいで更年期を迎え、閉経するがこれはスイッチがオフになったことを意味している。生命体を動かしている遺伝子にはそれぞれにこうしたスイッチがあり、それが生育や環境の条件によって、オンになったり、オフになったりするのである。ここに3つの遺伝子があったとしよう。Aがいつ働くか、Bがいつ働くか、Cがいつ働くか、その順番が変わると、生命は変われるのではないか、・・・・・。エピジェネティックスはそう言う考え方をするらしい。
 
 人間が動物を家畜化していった過程の中で、その代表である犬にはセントバーナードからチワワまで多くの種類がいる。言うまでもなく、人間が隔離してかけあわせたきた品種改良の結果である。しかしそれぞれの品種の遺伝子はほとんど違わない。毛の長さや色などをコントロールする遺伝子に違いがあるが、それはセントバーナードとチワワの違いを説明しきれるほどのものではないのである。つまり犬種の多様性は遺伝子の違いから生じているのでは無く、共通に有している遺伝子の動くタイミングや順番、ボリュームが異なるからではないか・・・・・・・・・。エピジェネティックスという考え方はまだ十分な市民権を得ていないけれど、そう考えているひとは少なくない。たぶん遺伝子は音楽における楽譜と同じ役割をはたしているにすぎない。記された音符は一つ一つ同じでも、誰がどのように演奏するかで違う音楽になる。遺伝子はある情報で私たちを規定すると同時に「自由であれ」とも言っている。そう考えたほうが私たちは豊かに生きられるのではないだろうか。 著書にはこのように書いてあった。

 私はこう思うのである。ここはff(フォルティッシモ)で弾くか、pp(ピアニッシモ)で弾くかで、同じ譜面の曲でもまったく違った曲になるだろう。同じ譜面をどう解釈するか?で、それぞれの系統に分かれて行く。そしてその強調されるべき部分をより鮮明にしたいという力(思い)が遺伝子に働き、突然変異(編曲)を促すことになるのではないだろうか? まだ初期のころの恐竜が、大きいことは生き残ることと思い続けた結果、成長をつかさどる遺伝子に変化が起き巨大化したのであろう。ある恐竜は空を飛ぶ昆虫を見て「ああいう方法も有るのだ!」と考え、前足を広げて真似をしたのかもしれない。そしてその思いがやがて空を飛べるようになる。そんな風に考えなければ、ただただ突然変異を待つだけでは今のような多種多様な生き物に分化できなかったように思うのである。生き物には人間と同様に何らかの形で意思があるのであろう。そしてその意思や思いがやがて空を飛べるようになる。著者が言うように「生命はある種の制約はあるが、基本的には自由」なのである。そう考える方が理屈にあうし、ロマンがあるのである。

              

存在感

2012年02月17日 08時26分43秒 | Weblog
 以前、地方の食品小売り店の店主に意見を求められたことがある。「お客さんの目線で見て、改善すべき点を指摘してほしい」、そんな内容であった。店内は何本かの蛍光灯が間引きされ暗くなっていた。商品の棚はロス対策なのだろう、一種類の商品を横に伸ばし、商品の品揃えもボリューム感もない。売れ行きが悪くなってくると守りに入る。経費を節約し商品を絞ってロスを減らす。当然の対策のように思われるが、買う立場から見れば、どんどん魅力のない店になって行く。そんなことを話しても、「では品揃えを増やし、ボリュームを上げてロスが出れば、結局は自分の負担になるではないか」、ということで堂々巡りになってしまった。「貧すれば鈍す」とはまさにこのことである。

 店を外から眺めると、入り口や窓ガラスにべたべたとポスターが貼ってある。「このポスター剥がしたらどうでしょう。その方が、店内が良く見え、お客さまも入りやすくなると思いますよ」と言うと、意外な返事が返ってきた。「いや、店内を覗かれないように貼ってあるのです。一人で店番をしていると店を離れることが多いので、不用心なのです」、と言うことであった。結局は自分の都合で店が変わってしまったのである。こういう人は商売センスが無いから、商売は止めた方が良いように思ってしまう。
 
 上の写真、会社の近くにある昔ながらの薬局である。地下鉄の駅前にドラッグストアーが出来るまでは、ここで何度か薬を買ったこともある。しかし今は立ちよる気もしない。棚に薬が並んでいるから、まだ営業はしているのだろう。店の入り口は何時も閉まっていて、ガラス戸にはべたべたとポスターが貼ってあり、中の様子は判らない。「なぜ、こんなにポスターを貼るのだろう?、このポスターにどれだけの販売効果があるのだろう?」、そんな疑問を持ったことも有った。しかし、今はこれは目隠しの為だということが分る。店の前を通る通行人に自分を晒したくないのである。ドラッグストアーが出来、さびれていく店の内情を隠したくないという心理が働くのであろう。毎日のようにこの前を通るのだが、存在感は無く、よほど意識しないと目に止まることもない。

 下の写真、同じ通りにある喫茶店である。ビルのオーナー夫婦がやっているようである。何年か前に一度入ったことがある。その時は店内には誰もいなかった。奥さんだろう人が入り口に近い2人席を指さし、「こちらでお願いします」と言う。一方的に指定され「ムッ」としたが、一人で来ているのだからと思いそこに座った。それから常連だろう3人組が来て一番奥の席にどっかと座り、喋りはじめた。小一時間の間これだけの客である。カウンターを含め20席以上はある店内で、方や一番奥の4人席、方や入口に近く便所の傍の2人席である。いかにも居心地の悪さを感じてしまった。店を出るとき、「もう2度とこの店には来ない」、そう決めた。多分2組、3組とお客さんが来ることを期待して、良い席は空けておこうという計算が働くのであろう。しかし、目の前の客を大切にしない店主の態度は私には受け入れることはできない。

 その後、店の前を通るたびに意識して中をうかがってみたが、店が混んでいるのを見たことはない。オーナーで家賃が要らないからやっていられるのだろうが、基本的には成り立っていない店である。店は入口を除いて、ぐるりとプランターで囲んであるから窓際には近づけない。照明は落としてあり、窓は何時もブラインドが降ろしてあって、中の様子が分かりづらい。これもまた薬局と同じで自分を晒したくないという気持ちが働くのであろう。今年になって「営業中」という大きなPOPを掲げるようになった。店内を明るくし、ブラインドを開ければ営業していることは一目諒前だと思うが、それはしない。多分「お客さんが外から見られるのを嫌うから」、そんな言い訳があるのだろう。しかし本当はそうではなく自分が見られたくないからだろうと思ってしまう。

 一般に入りやすい店とは、お客さんが気負い無く入れて、店員にも干渉されず、豊富な商品の中から自分の気に行ったものを選べる店だそうである。反対に入りにくい店は、入口が閉ざされ、中の様子がわかりにくい。商品が少なく、店員はいるが他のお客さんが全くいない店らしい。マツモトキヨシなどのドラッグストアは店頭は開け放たれ、品数は豊富で、これでもか!と言うぐらい歩道にはみ出して商品を陳列して自己主張している。コンビニも店頭はガラス張りで店内も明るくし、お客さんに安心感を与えるように作られている。最近では美容室も全面ガラス張りで、セットしている様子が外からでも分るような店も多い。今の傾向は明るく開放的で清潔感がある店なのである。今は消費者心理を考え、専門家が店舗設計やデザインにつなげていく小売り企業が主体になっている。こうなると個人での営業は、相当な個性を打ち出していかないと、ますます難しくなっていくのであろう。

                

 人は落ち目になると、人の目から自分を隠そうとする。よく言われる「存在感を消す」という行為である。親会社の営業担当者の様子を見ていてもそれがよく判る。営業成績が落ちてくると、直行直帰が多くなり会社にいる時間が少なくなる。営業活動を一生懸命にやっているというフリはするが、実績はなかなか上っていかない。社内では最低限の話しかしなくなり、自分の存在感を消そうとしているかのようである。反対に調子が良い営業は電話の声も大きく、何かと社内で喋る頻度も高くなる。自分の仕事がうまくいっているという自信がそうさせるのであろう。人間も動物である、自分が不利だと思えば一時的に隠れてやり過ごし、状況が良くなればまた表に出ようとするのだろう。これが本能である。しかし人間社会で本能に従順であれば、なかなか生き辛くなってくる。存在感を消していれば、再び日の目を見るチャンスは少なくなり、やがて存在自身が危うくなってくるのである。

 人の社会で、長く営業活動(個人でも企業人としてでも)を続けて行こうとすれば、自分の性格や癖、自分の陥りやすい傾向などを自ら把握しておく必要があるように思う。自分はこの会社の中で、また営業の相手から、どんな風に見られているのだろうか?周りと自分の位置関係どうなっているのだろうか?そんなことは常に意識しておき、自分の立ち位置をハッキリしておく必要がある。立ち位置さえ明確であれば、あえて自己主張しなくても、いずれ相手がこちらを認めてくれるようになる。その為には、あまり自分の我に固守せず、感情に左右されず自在に動けることが理想のように思う。どんなに絶好調でも謙虚な態度は崩さず、どんなに落ち目になっても明るさを失わず、苦手な相手にも臆さず、親しいい相手にも慣れ合いにならず、常に一定のスタンスを保っておく必要があるのだろう。そして自分の立ち位置はあまり動かさない方が良いし、存在感は決して消してはいけないのである。

春はあけぼの

2012年02月10日 08時39分23秒 | Weblog
                            AM5:50

 今年は例年に比べ寒い冬である。こうなると、世の中で言われている温暖化の懸念が一転し、「今は何万年の周期で繰り返す氷河期の淵にあり、これからは氷河期に向かう」という説が真実味をおびてくる。さてどちらが正しいのか、未来は誰もが予測できない未知数のものなのであろう。年が明けてから毎日のように体を縮めて歩いていると、夏の方がまだましだと思ってしまう。私にとっては寒さに震えて暮らす冬より、汗をダラダラと掻いても夏の方が好ましく思う。秋が深まり落ち葉が散って冬が近づいてくる頃から、自分の中の気持ちがしだいに落ちて行き、何事にも対してもテンションが上がらないように思うのである。それは気温の低下による不活性もあるのだろうが、もうひとつ明るさが関係するのではないだろうかと思っている。

 11月に入ると急に夕方が暗くなるのが早くなり、夜の明けるのが遅くなってくる。そして12月22日の冬至、1年で最も昼の時間が短くなる日を迎える。しかし暦の上では夜が明けるのが最も遅いのは1月に入って7日前後である。それは地軸の傾きで、日の入りと日の出の端が、冬至を挟んで約1ケ月ほど離れるからである。(日の入りが最も早くなるのは12月7日前後で東京では午後4時31分。反対に日の出が最も遅いのは1月7日前後で朝6時51分である)

 私は朝の6時少し前に家を出る。歳を取って朝起きることが苦にならなくなると、満員電車を避けて電車で新聞が読める時間帯に乗りたいと思うようになった。その時間の出勤だと12月からは暗くなり、年明けは真っ暗で夜中に家を出るような感じである。12月31日から1月13日までの約2週間、東京の日の出はずーっと6時51分で、ピタリと固定して動かない。この期間、私の意識は底を這っているかのように、1年で一番陰鬱な時である。そんな期間が終わりを迎え、1月14日の日の出は6時50分と前日に比べ1分ほど早くなる。それから4日後の1月19日が6時49分、3日後の22日は48分、さらに2日後の24日が47分、26日は46分、27日は45分とその間隔は縮まって行き、やがて1日に何分と言う刻みで夜明けはスピードを増していく。

 今日(2月10日)の日の出は6時34分、一番遅かった時と比べてすでに17分早くなった。6時前に家を出る頃、東の空は夜明けが近いことを感じるほどわずかに明るさが出てくる。20分かけて駅に着く頃、東の屋並みは薄ぼんやりと白くなったようである。電車の車窓から時折外に目を向けると、いつの間にか明るさが増し、池袋に着いた時には夜が明けている。駅構内の喫茶店でゆっくりと珈琲を飲みながら新聞を読む。30分ほどで腰を上げ再び山手線に乗り鴬谷まで、8時ごろには会社に着いている。例年に比べれば遅れているのだろうが、会社に隣接する公園には梅のつぼみが膨らんでいた。そのつぼみの大きさが確実に春が近付いていることを感じさせてくれる。やがて3月になり菜の花の黄色と緑が目に入ると、その春も確実なものとして実感できるようになるのである。

                
                              AM6:00

                
                             AM6:10

                
                            池袋AM6:40

                
                             AM8:00

 1年を通じて四季があるように、自分の中にも一年を通してのサイクルが有る。日ごとに暖かさを増す春は浮き立つ気持ちになり、じめじめした梅雨にはうっとおしい気分が私を包む。逃げ場のない夏の暑さは自分との闘いを感じ、涼しくなる秋はゆとりと癒しの時かもしれない。秋が深まり次第に厚着になってくると、体の動きが鈍くなり、気分は次第に重くなる。年が明けしばらくして、夜明けが早くなったのを知ると、寒く暗い冬が底を打ったことを感じ春を思うのである。枕草子にある「春はあけぼの、やうやう白くなりゆく、・・・・・」は、春はあけぼのの頃が一番良いと言うことらしい。寒さの中にも次第に明るさを取り戻していくあけぼのは、春を予感させ、春を待つ気持ちをいっそう強くするのである。

               
                              浜離宮3月

               


コメダ珈琲店

2012年02月03日 09時19分11秒 | Weblog
 昨年の4月、地元の幹線道路脇に「コメダ珈琲店」という喫茶店がオープンした。名古屋が本店のチェーン店である。最近関東にも進出し急速に店舗を展開していると聞いていたので、早速行ってみることにした。店内は木目調で天井が高く、山小屋にでも入ったような感じである。入口にある大きなラックから新聞を選んで座席に向かう。席は基本的には2人席と4人席になっているが圧倒的に4人席が多い。朝は私のような年配者の1人客が多いのか、席が埋まっているのに閑散とした感じである。ウエートレスが水を持って注文を取りに来る。「アメリカンを、」と珈琲を注文すると、「モーニングをお付けしますか?」と言う。「料金は?」とたずねると、「11時までは珈琲をご注文されれば、ご希望で無料でお付けしています」という返事であった。さすが名古屋は喫茶店の激戦区である。モーニングサービス(無料)は当たり前のメニューなのであろう。営業時間は朝7時~夜11時まで、私が入ったのは10時前である。その時点ではまだ店内は7~8割程度のお客さんであった。そして11時前に出るころには入り口で順番待ちしている人もいたほどである。「モーニング目当てのお客さんだろう。トーストにゆで卵付きで400円、損はしないが利益率は悪いだろうなぁ~」そう思いながら店を出た。

                     

               

 「郊外に駐車場付きの大きな喫茶店を展開して儲かるのだろうか?」、そんな興味から、その後も3度ほど行ってみた。ランチ時に行ったこともある。ハンバーガーと珈琲を頼むと、ハンバーガーが380円で珈琲が400円で合わせて780円になる。こうなると決して安くはない。バンズも大き目であるが、しっとり感が無くパサついた感じである。これならマックの方が安いし、モスバーガーの方が美味しいと思う。しかし何時行ってもそれなりに人は入っている。「なぜだろう?」、昔小売業にいたから、やはりこのあたりは気になるところである。

               

 先日ネットでこのコメダ珈琲店を調べてみた。今現在、関西から関東にかけて430店舗あるようである。今も毎月3~4店舗程度の開店を続けている。これだけ急速に店舗展開できるのは形態がフランチャイズシステムであるからであろう。会社の本部が名古屋にあって、コンビニエンスのように基本モデルがあり、その運営方針に基づいて加盟店を募集し、本部は営業を指導し、加盟店のオーナーが実際の営業にあたる仕組みである。いわゆる「私考える人、あなた働く人」という関係である。 
 
 ネットには加盟条件も詳しく載っていた。保証金300万、加盟金300万、研修費15万、システム料350万、それから ロイヤリティ として1席当り月額1500円をとられる。その他に建築工事費・内装工事費・設計料・食器備品等が必要である。土地や建物は全てオーナー負担で、なお且つ1000万の金を払い、月々のロイヤリティーを払わなければいけない。この条件では一般的な個人ではリスクが大きすぎて加盟するのは難しいだろう。よほど土地持ちで資金がある個人か、企業で新規分野参入などの目的が無いと難しいように思う。私が何度か行った店は、以前はパスタの店があった場所である。そのパスタ店が思うに任せないから、コメダ珈琲のブランドで再起を図ったのであろう。

 私は以前コンビニの本部に3年間在籍していたことがある。その時フランチャイズシステムなるものを初めて体験した。このシステム、もともとアメリカから導入されたものだから「契約」の世界であり「マニュアル」の世界である。店舗デザインや什器、営業時間、利益の配分からロスの処理費用まで、その責任範囲は事細かく明記されていて隙が無い。店舗運営は事細かくマニュアル化されていてアルバイトで出来るようになっている。しかし、契約は基本的には企業対個人である。そしてその契約内容は圧倒的に個人に不利なように思われる。売り上げが良ければ問題は無いが、立地が悪く計画通りの売り上げが無かったり、競合が出て来て売り上げが落ちて行くなどすると、途端にオーナー側は苦しくなる。この種の店は開店2年目がピークで、それ以降売り上げが徐々に落ちて行くのが普通である。コンビニの利益配分は売り上げに比例しているから、売り上げが落ちるとお互いの取り分は少なくなる。しかし本部は店舗の数を増やせば業績は上るが、加盟店はそうはいかない。だから業績のリスクはオーナー側がもろに被るのである。

 30年前、まだコンビニに在籍していた時、店舗巡回をしたことがある。夜ある店に入り店番をしていたオーナーの奥さんと商品動向などを話したあと、店のトイレをお借りした。(当時はトイレはオープンでは無く従業員用のものしかなかった) バックヤードへの出入り口を開け倉庫を見渡すと、商品在庫が並ぶ一画に大きな茶紙(クラフト紙)が敷かれその上に布団が敷かれていた。トイレから出て奥さんにその訳を聞いて見た。その理由はこうである。売り上げが落ち、アルバイトの経費を削るため家族で働いている。しかし旦那が病気で休んでいるから自分が主力にならざるをえなくなった。子供がまだ小さいから夜一人にしておけない。子供には良くないと思うのだが、ここで寝せているのだと言う。多分息子なのだろう、小学校低学年の子供が店内の雑誌棚から漫画を抜き出し読んでいた。契約に縛られ、夜だけでも店を閉めることも出来ない。これが契約の世界で冷酷なものである。

 今回の「コモダ珈琲店」の契約内容を見てみると、 ロイヤリティ は1席当り1,500円/月額ではあるが、これは売上には連動しないと書かれている。標準店の席数を90席で計算すると毎月135,000円(年間162万円)の支払いである。これではどんなに店の売り上げが悪くても、本部は損をしない仕組みになっている。営業時間は年中無休で午前7時から夜11時まで、そして契約期間は10年である。「コメダ珈琲店」は郊外型の喫茶店として珍しさも手伝って、今は売り上げは良いのであろう。多分ライバルはマクノナルドの郊外店であろう。マックは若い層がターゲットで、コメダはどちらかと言えば大人を意識している感じで、今は住み分けができているのかもしれない。しかし10年の長い期間では必ず社会状況も、周りの環境も変化するはずである。その変化の波を被るのはオーナー側である。営業品目が珈琲と軽食だけのコメダ珈琲、はたして環境の変化に対応していけるのだろうか、若干疑問の目を持ちながらもさらに状況を観察してみようと思っている。