苦しくなったら「ただ息をしていればいい」「無駄な時間を過ごしててもいい」「寝られなくてもいい」
「人の好意に甘えてもいい」要するに「生きていさえすればいい」と自分に言い聞かせていくのである。
今日1日燃え尽きないで過ごせたということに満足していい。
燃え尽きることを考えたら、ダラダタしてるほうがよぽどiいい。燃え尽きたらそこでおしまいである。
今、心は休ませてくれと言っている。堂々と休んでいればいい。ボーッとしていればいい。
今、あなたは次に進む準備をしているのだから。
中学生で「ウツ状態を自覚している」子供が50%以上もいるという。由々しき問題である。
少子化の中で、親の干渉が一人の子供に集中してしまうことが大きな原因のように思われる。
「これはダメ」「こうしなさい」常に親の監視下にあり、親のコントロールで動かされていく。
そして親の意思が反映され、自分の意志がなくなって行く。「遊びたい」という欲求が失せてくる。
欲求が無くなって行くということは生きるエネルギーが無くなってくることでもある。
親も社会的な成功を願っていが挫折してしまった。しかしその挫折を受け入れることができない。
そんな親は子供に期待をかける。子供が成功することで、自分の無念を晴らそうとする。
子どもと一体化し子供の成功を自分の成功とし、体験してきた社会的な屈辱を晴らそうとする。
子供を巻き込んで自分の挫折を処理しようとする。
いたいけな子供は母の愛情にすがる。そして親を喜ばそうとし、頑張って親に認めてもらおうとする。
親は決して子どもをあるがままに認めているわけではない。自分にとって都合のいいものを認める。
そして子供は成功をおさめない限り、受け入れてもらえないことに気づき、成果をだすために頑張る。
親に認めてもらうために成果をあげようともがく。自分のために頑張るのではなく人のために頑張る。
やがて、子供は飼いならされ、人格を無くし親の都合のいい生活をはじめる。
人格が抹殺されれば都合よく扱われても異議を申し立てても認めてもらえなくなってしまう。
そしていつしか勉強すること、仕事をすることは遊ぶことより大切なことと認識させられてしまう。
小さい頃から何か業績を上げなければ受け入れてもらえない体験が大人になっても尾を引いている。
親だけでなく、自分自身もまた業績を上げなければ自分を受け入れられなくなくなってしまっている。
長い間、親の期待にこたえようと生きてくると、いつの間にか自分の意志を無くしてしまった。
どうしたら期待に背かないかだけを必死に考えているうちに、自分自身を見失ってしまった。
親の期待にこたえるために勉強し、学校を卒業し、就職して、ついには仕事依存症になってしまう。
遊びを楽しめない。疲れても休養がとれない、どんなに疲れていても仕事をしていた方が楽に感じる。
強迫的に仕事をしてしまう人は小さい頃からどんなメッセージを植えつけられて強迫概念があるのか、
どんなことにに毒され洗脳されてきたかを深く振り返ってみることも必要なことである。
自分の中に目的が無くなってしまったら、その場その場をやり過ごすだけの生き方になってしまう。
自分を見失ったことで、その場その場で自信が持てない。ただ何かをしている、という生き方になる。
その心理状態を表現するとすればそれは「散らばっている」とでもいうべき状態なのであろう。
小さい頃から選択肢のない1本道を歩いて、気がついたら、今を生きられなくなってしまっていた。
今を生きる、それは「今」が目的になっているということ。決して「今」が「明日」の手段ではない。
そのためには今が快適である必要がある。今を生きることが快適になっている必要がある。
ウツ症状の人が心が休まないのは今を生きていることが快適ではないからである。
生きることが快適でなければ、せめて生きることが何かに役立っていると思えれば辛くなくなる。
しかしそれも難しい。目的がなかなか定まらないからである。
生きることそのことが快適でないと、今の心の問題を一気に解決してくれるものを求めるようになる。
仕事は心の問題を解決する手段になってしまう。そのためには仕事を頑張らなければいけない。
仕事に没頭すれば今の辛さを忘れさせてくれる。だからがんばる。休んでなぞいられないと思う。
あなたに無いものはなにか?それは意志。
意志と目的が自我を形成する。「自分はこうしよう」という意志ほど人生に大切なものはないだろう。
自分で「これをしよう」と思うことがないと、どうしても不満になる。
どれもこれも流されてしまうと自分の意志ではないから不満になって行く。他人に操られて何かを
しても自分の経験にならない。失敗しても成功してもそれが経験として積み上がっていかない。
自分の意志でやったことであれば元気でいられる。不満にならない。経験として積み上がって行く。
意志を失った人は自分の人生を振り返っても何も残っていない。人生の軌跡がない。
自分の意志を取り戻すこと、それはリスクの高い、当人にとってはきわめて困難なことである。
周りとの軋轢が生じる。周りから嫌われ孤立していく可能性を持つ。エネルギーが足らない。
相手とどう調和させ折り合っていけばいいかが分からない。
しかしやらねばならない。自分を取り戻すために、一歩一歩、暗闇から抜け出るために、
あなたは確かな手ごたえで生きていない。したがって自分にふさわししくないものまで持ってしまう。
あなたは何が好きで何が嫌いかがはっきりしない。何が心地よく何が不快かがはっきりしない。
あなたは何が必要で、何が不必要なのか定かでない。何が正しく何が間違っているか自信がない。
あなたは拾ってはいけないものを拾ってしまう。その上拾ったものを捨てられない。
あなたはつきあってはいけない人とつきあい、その人と別れることさえできない。
まず、捨てる練習をする。嫌いなものは捨てる。気になるものは捨てる。
大きなものはなかなか捨てられない。だから小さいものを捨てることからはじめる。
まず、紙切れでも良いから嫌なものは捨てる。そして次第に大きなものを捨てる勇気を養っていく。
その時「これは嫌いだから捨てる」と意識して捨てる。そしてだんだんと好きと嫌いとの感覚を養う。
そうしたら、自分のまわりに嫌いなものがいっぱいあることに気がつくだろう。
そして嫌いなものは遠ざけ、好きなものを自分の周りにたくさん置くようにする。
鬱の人は疲れても休めないと、本には書いてある。それは彼らの外見的な行動の解説である。
心を解説すれば休めないというよりも「安らげない」と説明した方がいい。
家族と遊びに行っても安らげない。映画を観ても安らげない。実は心の住む家がないのである。
安らぎの条件、それは人と競わないこと、見返そうとしないこと、しかし心は曲げないこと、
今までは全て自分を譲って生きてきた。そうすれば自分の中が空っぽになったように感じる。
しかし真の自分を手に入れれば自分を失うことはない、相手と調整がつき、折り合いがつく。
今からそれを手に入れていく。それは困難なこと、苦しいこと、しかし休みながら一歩一歩。
PHP新書 「うつ」になりやすい人 加藤諦三 著 よりの抜粋 一部加筆
「人の好意に甘えてもいい」要するに「生きていさえすればいい」と自分に言い聞かせていくのである。
今日1日燃え尽きないで過ごせたということに満足していい。
燃え尽きることを考えたら、ダラダタしてるほうがよぽどiいい。燃え尽きたらそこでおしまいである。
今、心は休ませてくれと言っている。堂々と休んでいればいい。ボーッとしていればいい。
今、あなたは次に進む準備をしているのだから。
中学生で「ウツ状態を自覚している」子供が50%以上もいるという。由々しき問題である。
少子化の中で、親の干渉が一人の子供に集中してしまうことが大きな原因のように思われる。
「これはダメ」「こうしなさい」常に親の監視下にあり、親のコントロールで動かされていく。
そして親の意思が反映され、自分の意志がなくなって行く。「遊びたい」という欲求が失せてくる。
欲求が無くなって行くということは生きるエネルギーが無くなってくることでもある。
親も社会的な成功を願っていが挫折してしまった。しかしその挫折を受け入れることができない。
そんな親は子供に期待をかける。子供が成功することで、自分の無念を晴らそうとする。
子どもと一体化し子供の成功を自分の成功とし、体験してきた社会的な屈辱を晴らそうとする。
子供を巻き込んで自分の挫折を処理しようとする。
いたいけな子供は母の愛情にすがる。そして親を喜ばそうとし、頑張って親に認めてもらおうとする。
親は決して子どもをあるがままに認めているわけではない。自分にとって都合のいいものを認める。
そして子供は成功をおさめない限り、受け入れてもらえないことに気づき、成果をだすために頑張る。
親に認めてもらうために成果をあげようともがく。自分のために頑張るのではなく人のために頑張る。
やがて、子供は飼いならされ、人格を無くし親の都合のいい生活をはじめる。
人格が抹殺されれば都合よく扱われても異議を申し立てても認めてもらえなくなってしまう。
そしていつしか勉強すること、仕事をすることは遊ぶことより大切なことと認識させられてしまう。
小さい頃から何か業績を上げなければ受け入れてもらえない体験が大人になっても尾を引いている。
親だけでなく、自分自身もまた業績を上げなければ自分を受け入れられなくなくなってしまっている。
長い間、親の期待にこたえようと生きてくると、いつの間にか自分の意志を無くしてしまった。
どうしたら期待に背かないかだけを必死に考えているうちに、自分自身を見失ってしまった。
親の期待にこたえるために勉強し、学校を卒業し、就職して、ついには仕事依存症になってしまう。
遊びを楽しめない。疲れても休養がとれない、どんなに疲れていても仕事をしていた方が楽に感じる。
強迫的に仕事をしてしまう人は小さい頃からどんなメッセージを植えつけられて強迫概念があるのか、
どんなことにに毒され洗脳されてきたかを深く振り返ってみることも必要なことである。
自分の中に目的が無くなってしまったら、その場その場をやり過ごすだけの生き方になってしまう。
自分を見失ったことで、その場その場で自信が持てない。ただ何かをしている、という生き方になる。
その心理状態を表現するとすればそれは「散らばっている」とでもいうべき状態なのであろう。
小さい頃から選択肢のない1本道を歩いて、気がついたら、今を生きられなくなってしまっていた。
今を生きる、それは「今」が目的になっているということ。決して「今」が「明日」の手段ではない。
そのためには今が快適である必要がある。今を生きることが快適になっている必要がある。
ウツ症状の人が心が休まないのは今を生きていることが快適ではないからである。
生きることが快適でなければ、せめて生きることが何かに役立っていると思えれば辛くなくなる。
しかしそれも難しい。目的がなかなか定まらないからである。
生きることそのことが快適でないと、今の心の問題を一気に解決してくれるものを求めるようになる。
仕事は心の問題を解決する手段になってしまう。そのためには仕事を頑張らなければいけない。
仕事に没頭すれば今の辛さを忘れさせてくれる。だからがんばる。休んでなぞいられないと思う。
あなたに無いものはなにか?それは意志。
意志と目的が自我を形成する。「自分はこうしよう」という意志ほど人生に大切なものはないだろう。
自分で「これをしよう」と思うことがないと、どうしても不満になる。
どれもこれも流されてしまうと自分の意志ではないから不満になって行く。他人に操られて何かを
しても自分の経験にならない。失敗しても成功してもそれが経験として積み上がっていかない。
自分の意志でやったことであれば元気でいられる。不満にならない。経験として積み上がって行く。
意志を失った人は自分の人生を振り返っても何も残っていない。人生の軌跡がない。
自分の意志を取り戻すこと、それはリスクの高い、当人にとってはきわめて困難なことである。
周りとの軋轢が生じる。周りから嫌われ孤立していく可能性を持つ。エネルギーが足らない。
相手とどう調和させ折り合っていけばいいかが分からない。
しかしやらねばならない。自分を取り戻すために、一歩一歩、暗闇から抜け出るために、
あなたは確かな手ごたえで生きていない。したがって自分にふさわししくないものまで持ってしまう。
あなたは何が好きで何が嫌いかがはっきりしない。何が心地よく何が不快かがはっきりしない。
あなたは何が必要で、何が不必要なのか定かでない。何が正しく何が間違っているか自信がない。
あなたは拾ってはいけないものを拾ってしまう。その上拾ったものを捨てられない。
あなたはつきあってはいけない人とつきあい、その人と別れることさえできない。
まず、捨てる練習をする。嫌いなものは捨てる。気になるものは捨てる。
大きなものはなかなか捨てられない。だから小さいものを捨てることからはじめる。
まず、紙切れでも良いから嫌なものは捨てる。そして次第に大きなものを捨てる勇気を養っていく。
その時「これは嫌いだから捨てる」と意識して捨てる。そしてだんだんと好きと嫌いとの感覚を養う。
そうしたら、自分のまわりに嫌いなものがいっぱいあることに気がつくだろう。
そして嫌いなものは遠ざけ、好きなものを自分の周りにたくさん置くようにする。
鬱の人は疲れても休めないと、本には書いてある。それは彼らの外見的な行動の解説である。
心を解説すれば休めないというよりも「安らげない」と説明した方がいい。
家族と遊びに行っても安らげない。映画を観ても安らげない。実は心の住む家がないのである。
安らぎの条件、それは人と競わないこと、見返そうとしないこと、しかし心は曲げないこと、
今までは全て自分を譲って生きてきた。そうすれば自分の中が空っぽになったように感じる。
しかし真の自分を手に入れれば自分を失うことはない、相手と調整がつき、折り合いがつく。
今からそれを手に入れていく。それは困難なこと、苦しいこと、しかし休みながら一歩一歩。
PHP新書 「うつ」になりやすい人 加藤諦三 著 よりの抜粋 一部加筆