今日、卒業式の予行があって、生徒達は午前中一杯、寒い体育館に缶詰になりながら、立ったり座ったり歌を歌ったり返事をしたりと、不思議な「日本的光景」(どこの国にも式典の練習とかあるのかしらん。あ、北朝鮮にはありそうだね。オリンピックとかもリハーサルはするか。でも、リハーサルをするのってたいてい「見世物」だよね?ショーとか。卒業式は「見世物」ジャンルとは違うような気もするのだが。そのあたりどうなんでしょう?)を目の当たりにしつつ、しかし降雪のせいで生徒の出入りが手間取ったり、予行が中断したりと、意外に暇があったので、
ジル・ドゥルーズ『ヒューム』(ちくま文庫)
をその合間にさっくり読了してしまった。あまりのリーダビリティの高さに、また自分の脳味噌のボケが進行して、「分かることだけを分かる」ようになってしまったか、と心配にもなるのだが、確認のため家に戻ってから同じくドゥルーズの
『スピノザと表現の問題』
を開いたら、ほとんど理解できなかったので、ちょっとほっとした。
『ヒューム』は本当に読みやすい。
というか短いしね。
早わかり的に言ってしまうと、ヒュームっていうのは『懐疑論』の親玉みたいに倫社の教科書では出てくるのだけれど、『懐疑論』がたどり着くのはむしろ「道徳」だって言ってるのね、ドゥルーズは。
それって常識なんですかね?哲学史的には。
なにせ体系的な勉強をしていない素人には、誰かが誰かのことを書いているときそれがその誰かのことなのかもう一人の誰かの思想のことなのかが区別できず、まあそういう書く誰かと書かれている誰かの区別をつけるには哲学史なんて実はあんまり役に立たないぐらいのことはもう良く分かっているはずなのに、誰かに早わかりの解説をしてみてほしくなるということは間違いなくあって、たいていの場合こういう文章は読み終えてもすっきりしないのだが、それにしてもこのドゥルーズの『ヒューム』はあまりにも分かりやすいのだ。
この「道徳」と「神様」の距離を考えながら、次はやっぱりライプニッツ早わかりの方にスライドしていかねばならない、という感じだ。
ただし、文庫で買って積んである次のドゥルーズ本は『ニーチェ』。
私はニーチェ関連本は恥ずかしながらただの一冊も手に取ったことがない。
たぶん一生ニーチェのテキストはもちろん、ニーチェについて論じた本も読むことはないだろうと勝手に思っていた。
しかし、ドゥルーズの「予習」をするために、節を曲げてこの『ニーチェ』は読んでみようと考えている。
考えてみれば、読書なんてたまたまの偶然の出会いによってしか開かれない扉のようなものだ。
分かっていることなら読まなくても良い。全く理解できないのなら、読みようもないだろう。
その「ズレ」と「同一性」の匙加減の絶妙さは、間違いなく読書の醍醐味の一つではある。
文化という基盤、共同体の前提や時代の空気といったものににアクセスしつつ、それらとの距離において固有の「様子」を示す表現の不思議さ、とでも言えばいいのか。
さて、話をしたいのは新型レガシィツーリングワゴンを買ったという話なのだが、なかなかそこにたどり着かない。
二週間前まではクルマを買おうなんてことはみじんも考えていなかったわけだから、典型的な「衝動買い」だ。
しかもお値段だって安くはない。
人間・貨物の運搬装置としての自動車なら既に手にして日常使っているわけだし、「贅沢」としてのオープンカーさえ持っている。
その上なぜ下取り交換するのではなく、新型車を買い増さねばならないのか。
給料も下がるというのに。
『ヒューム』とか読んでる場合じゃなくて、その衝動こそが問題なんじゃないのか?
いや、あるいはもう既に「問題外」じゃないのか?
そんな風にも思うのだ。
身近な年寄りの話を聞くにつけても、要りもしないものを買い出したらボケの始まり、という話である。
50台半ばでボケを怖れるのもできの悪い「自虐ネタ」めいているが、昨日の夜、本屋に行って目的の本が見つからず、その合間にふと手にした別の本を買って家に戻ってきたら、助手席に置いてある袋に入ったその本のタイトルはおろか、ジャンル・内容さえ全く思い出せない、となると、ことは冗談めかしていても実は深刻なのではないか、と思ってもみたくなろうというものではないか。
1000円足らずの衝動買いだったら、アマゾンで数十回クリックボタンを連打したところでたかが知れている。
まあ、考えてみれば、購入したクルマの金額と、書籍の総金額を比較してみると、にわかに優劣はつけがたいかもしれない。
毎月数万円単位で本を買い続けていれば、30年で軽く800万ぐらいは超えてしまうだろう。それ以外に全集本や大型の辞書だけでも100万単位にはなる。
クルマは下取りしつつだから単純には言えないが30年間に1000万超ぐらいは使っただろうか。
冷静に計算してみると、大した違いはないものだ。
いや、まて。
「書籍」から「情報」とジャンルを少し広げて、パソコンや携帯をこれに含めると、さらに数百万。
クルマを超える金額になりそうだ。
これは、豊かさなのだろうか、贅沢なのだろうか、終わりなき消費の依存なのだろうか。あるいは平凡きわまりない暇つぶしのコストなのか。
結局のところ、人生を書籍とPCとクルマとに費やす、なんていうのは、私の世代ではあまりに平凡なことなのかもしれないが。
ジル・ドゥルーズ『ヒューム』(ちくま文庫)
をその合間にさっくり読了してしまった。あまりのリーダビリティの高さに、また自分の脳味噌のボケが進行して、「分かることだけを分かる」ようになってしまったか、と心配にもなるのだが、確認のため家に戻ってから同じくドゥルーズの
『スピノザと表現の問題』
を開いたら、ほとんど理解できなかったので、ちょっとほっとした。
『ヒューム』は本当に読みやすい。
というか短いしね。
早わかり的に言ってしまうと、ヒュームっていうのは『懐疑論』の親玉みたいに倫社の教科書では出てくるのだけれど、『懐疑論』がたどり着くのはむしろ「道徳」だって言ってるのね、ドゥルーズは。
それって常識なんですかね?哲学史的には。
なにせ体系的な勉強をしていない素人には、誰かが誰かのことを書いているときそれがその誰かのことなのかもう一人の誰かの思想のことなのかが区別できず、まあそういう書く誰かと書かれている誰かの区別をつけるには哲学史なんて実はあんまり役に立たないぐらいのことはもう良く分かっているはずなのに、誰かに早わかりの解説をしてみてほしくなるということは間違いなくあって、たいていの場合こういう文章は読み終えてもすっきりしないのだが、それにしてもこのドゥルーズの『ヒューム』はあまりにも分かりやすいのだ。
この「道徳」と「神様」の距離を考えながら、次はやっぱりライプニッツ早わかりの方にスライドしていかねばならない、という感じだ。
ただし、文庫で買って積んである次のドゥルーズ本は『ニーチェ』。
私はニーチェ関連本は恥ずかしながらただの一冊も手に取ったことがない。
たぶん一生ニーチェのテキストはもちろん、ニーチェについて論じた本も読むことはないだろうと勝手に思っていた。
しかし、ドゥルーズの「予習」をするために、節を曲げてこの『ニーチェ』は読んでみようと考えている。
考えてみれば、読書なんてたまたまの偶然の出会いによってしか開かれない扉のようなものだ。
分かっていることなら読まなくても良い。全く理解できないのなら、読みようもないだろう。
その「ズレ」と「同一性」の匙加減の絶妙さは、間違いなく読書の醍醐味の一つではある。
文化という基盤、共同体の前提や時代の空気といったものににアクセスしつつ、それらとの距離において固有の「様子」を示す表現の不思議さ、とでも言えばいいのか。
さて、話をしたいのは新型レガシィツーリングワゴンを買ったという話なのだが、なかなかそこにたどり着かない。
二週間前まではクルマを買おうなんてことはみじんも考えていなかったわけだから、典型的な「衝動買い」だ。
しかもお値段だって安くはない。
人間・貨物の運搬装置としての自動車なら既に手にして日常使っているわけだし、「贅沢」としてのオープンカーさえ持っている。
その上なぜ下取り交換するのではなく、新型車を買い増さねばならないのか。
給料も下がるというのに。
『ヒューム』とか読んでる場合じゃなくて、その衝動こそが問題なんじゃないのか?
いや、あるいはもう既に「問題外」じゃないのか?
そんな風にも思うのだ。
身近な年寄りの話を聞くにつけても、要りもしないものを買い出したらボケの始まり、という話である。
50台半ばでボケを怖れるのもできの悪い「自虐ネタ」めいているが、昨日の夜、本屋に行って目的の本が見つからず、その合間にふと手にした別の本を買って家に戻ってきたら、助手席に置いてある袋に入ったその本のタイトルはおろか、ジャンル・内容さえ全く思い出せない、となると、ことは冗談めかしていても実は深刻なのではないか、と思ってもみたくなろうというものではないか。
1000円足らずの衝動買いだったら、アマゾンで数十回クリックボタンを連打したところでたかが知れている。
まあ、考えてみれば、購入したクルマの金額と、書籍の総金額を比較してみると、にわかに優劣はつけがたいかもしれない。
毎月数万円単位で本を買い続けていれば、30年で軽く800万ぐらいは超えてしまうだろう。それ以外に全集本や大型の辞書だけでも100万単位にはなる。
クルマは下取りしつつだから単純には言えないが30年間に1000万超ぐらいは使っただろうか。
冷静に計算してみると、大した違いはないものだ。
いや、まて。
「書籍」から「情報」とジャンルを少し広げて、パソコンや携帯をこれに含めると、さらに数百万。
クルマを超える金額になりそうだ。
これは、豊かさなのだろうか、贅沢なのだろうか、終わりなき消費の依存なのだろうか。あるいは平凡きわまりない暇つぶしのコストなのか。
結局のところ、人生を書籍とPCとクルマとに費やす、なんていうのは、私の世代ではあまりに平凡なことなのかもしれないが。