國分功一郎『中動態の世界』を二回読み終えた。
しかし、ちっとも読み終わらない。
ギリシア語の分析のところは、分からないからむしろサクサク読める。へぇーそうなんだ、と感心していればよい。
だが、
「言語は思考の可能性条件である」
との表現でデリダのバンヴェニスト批判を批判するあたりからそうもいっていられなくなる。
ソシュールは「言語というもの」については論じたが(それはまだ抽象的であり)、バンヴェニストはもっと具体的にきちんと言語を論じている。それが重要だ
(4/29星野太氏とのトークより)
というその指摘からも見て取れるが、
実はこの本でめっちゃビビっていたのは言語学からの「攻撃」です
(5/10大澤真幸氏とのトークより)
との言葉が逆に示しているように、哲学者國分功一郎氏はバンヴェニストと共に、具体的な言語の「現場」で(抽象性やイメージにおいてではなく)緻密な思考を展開していく。
これが見えてくると、ちょっとゾクゾクしてくる。
次の山はもちろん、アーレントだ。
この本は國分さんの語学フェチぶりが序盤戦のポイントだとすれば、中盤戦はアーレントの意志論との対峙が大きなポイントになってくる。アーレントは終章でも大きな役割を担っており、國分さんの「哲学」にとってアーレントがいかに大きな存在か、ということが示されていく。
(言うまでもなくドゥルージアンでありスピノジアンである國分さんがそれでもなお、という逆説的な意味での重要性です。おそらくそれは「姿勢」の問題でもあり、「義」の問題でもあるのでょうね。)
(結論は真逆だが)、人間に期待しているという点はアーレントと共有しているのじゃないか。
(5/10のトークより)
さらに個人的にドキドキしたのはその次、
第六章言語の歴史
だ。日本語の「ゆ」を例に上げつつ、中動態が論じられていく。これは30年も古文を教えて自分なりに調べてみなければならない課題にもなる。
もう、二度目の読みはこのあたりでいっぱいいっぱいになってきてしまった。
とにかく「豊かな」本なのだ。
ドゥルーズの章とスピノザの章ほもう少しゆっくり読まないと、読んでいるうちに頭から溢れ出してしまいそうだ。