ようやく分かってきた現行レガシィの魅力。
2日目の夜は、南三陸のホテルに泊まる。
翌朝から一日、陸前高田まで数十キロ海沿いにドライブしながら観た光景を、私は一生忘れないだろう。
クルマの乗り心地とか、そういう話をしてられないほど、めちゃめちゃ大変な状況だ。
なるほどテレビの映像や新聞の記事で、宮城県沿岸部の被災の深刻さは教えられていた。
でも、それは「点」の印象でしかなかった。
何十キロにも渡って(私が見た限りで、の話です。実際は沿岸部何百キロも被害区域は広がっているのでしょう)海沿いのドライブに最適な道路を走り続け、右側に海が見えるたびに、海沿いに走る南三陸鉄道が寸断され、家屋が土台だけになっており、橋が落ち、撤去しきれないビルが半壊状態で焼け野原の後のように残っている……そんな情景が続いているのだ。
いわき市でも、津波の被害の大きかった豊間や薄磯の状況は目の当たりにしていた。
それと同じ状況が、志津川の町でも、気仙沼の町でも、陸前高田の町でも、その間の入り江も、奥に行くほど高くなった陸地も、20メートル近くにまで上がった水にのみ込まれてしまったその惨状を彷彿とさせる状態で残されているのだ。
瓦礫の撤去は陸前高田が一番進んでいる印象を受けたが、いずれにしても、ものすごい情景が延々と続く。
そのことについては項を改めて書くが、週末「被災地ツアー」などと軽口を叩いていた自分の浅はかさを痛感した。
と同時に、志津川では「被災見学ツアー」にも参加したのだが、案内をしてくれた地元の人は、
「この状況をきちんと観て欲しい、そしてこれから復興する未来をまた見に来て欲しい」
という。
個人的な印象に過ぎないが、津波前の街はもう戻らないだろうと思う。
第一、海沿いに民家を建てることは事実上困難だからだ。
また、瓦礫撤去さえ終わっていない状態では、まだ先が見通せない状況が続くだろう。
津波を無視して同じ街を再建することはナンセンスでしかない。
かといって、15mもの高さの津波を「想定」した街並の再建など、素人の私には残念ながら想像もつかない。
それでも、ホテルの窓から見える南三陸の海では、早朝からずっと、海藻の養殖だろうか、海の中の仕掛けのようなもののところで作業を続けている漁船が何艘か見えた。水産加工場も、居住しないという条件で許可が出て、再建が始まったところも出てきている。
自分自身がいわきで被災する前は「災害地にいくべきはボランティアの人だけで、物見遊山などもってのほかだろう」とてっきり思い込んでいた。
そうではないのだ。
むしろ、物見遊山で結構、被災地観光ツアーで結構。
どんどん観に行くべきだ。
自分の瞳に焼き付けるほど見れば、人間の物の見方考え方は、確実に変わる。
人の心配をしている場合ではないのだが、私のようなものでさえ、南三陸の人達の「絶望」と、それでもそこに踏みとどまって生きようとする「思い」とが絡み合った「解けないパズル」のような複雑な思いのミニチュアを胸の奥に抱えて還ってきたのだから。
閑話休題。
レガシィに話を戻す。
海沿いの、ゆるいアップダウンのあるカーブの道を走っていると、昨日はあんなに戸惑っていたのに、「意外にいいじゃない?」という感じに感触が変わってきた。
インパネのびびり音も、立て付けそれ自体ではなく、ディーラーオプションのナビの液晶角度と取り付けの樹脂フレームが微妙に干渉していただけのようで、角度を変えたらあっさり音は消えてしまった。
あくまでも静かに、あくまでも滑らかに道を「滑走」してくそのテイストは、駐車場で切り返しをつい必要とする体躯の大きさはまだ慣れないにしても、他のクルマでは味わえない感触かもしれない、と思うようになっていった。
印象が決定的に変わったのは、陸前高田から種山が原へと向かう気仙川沿いの道を、山に向かって登り始めてからだった。
ゆるめのカーブが続く山道を登ったり降りたりすると、車体の大きさや車高の高さを感じさせない、地面に四つの車輪がぴたっとすいつくように曲がっていく感触が、運転者の重心に加わるGの心地よさとして伝わってくる。
これがおそらくスバルAWDならではの制御なのだろう。4つの車輪がきちんと分担して仕事をしているのは当然なのだが、そこに濃密な統一感があって、それはやっぱり力の制御が緊密で、運転者の身体と響き合ってくるのだ。
ロードスターが基本ウェイトを極力軽くした上で、中心に重量物を集約し、運転者自身の体内に重心をもってきて身体の重心とクルマの重心を重ねていった軽量回転系の点的G制御だとすれば、レガシィは水平対向エンジンという低重心エンジンの特性と4輪駆動という分散型のトラクションコントロールによって、平面の四隅に分散させ、その上でその力を合成してあくまでもフラットな「回転円盤系」の面的G制御を果たしているといった印象だ。
これは、今までどんなクルマでも味わったことのない、このクルマならではの「個性」だった。
ロードスターがライトウェイトオープン2シータースポーツという設計文化オリエンテッドなクルマだとすれば、レガシィは水平対向エンジンと四輪駆動形式という技術思想オリエンテッドなクルマ、といってもいい。
考えてみれば、どちらも、日本が世界に誇る、独自ジャンルを切り開きあるいは再興させた歴史を持つクルマだった。
種山が原の道の駅「ポラン」でふきのとうと鶏ハラミを購入し、水沢I.C.まで降りてくる頃までには、大きくなってゆったりと穏やかに乗るクルマという印象の陰に隠れている足回りの魅力を、しっかりと「肌身」に感じられるようになっていた。
AWDというカタログのお話ではなく、アイサイトのCM効果ではなく、今までのレガシィがどうか、でもなく、昨日まで乗っていたロードスターの魅力との比較ではなく、間違いなくレガシィは日本で200万円台で乗り出せる唯一の、「ロングツアラー」と呼ぶのにふさわしいステーションワゴンだと分かりました。
高速をアイサイトでゆったりと疲れ知らずで走り、いったん高速を降りたらワインディングロードを気持ちよく走る。雨でも雪でもドンとこい。荷物も乗るし、同乗の家族や仲間も楽しい。そして、きちんとその魅力の文法をわきまえれば、ドライバーも十分に楽しめるクルマになっていました。
なるほど、ガッツンガッツンとマニュアルで変速して、ターボで加速して「操作」を楽しむクルマの方向性とは全く正反対だ。
でも、いわゆるちょっと乗ると「快適」だけれど、長距離を乗るとつまらなかったり腰が疲れたりするタイプのクルマでは全くない。
この「快適」さはけっして「楽しさ」を潰した結果得られたものではないことを、2泊3日800キロのドライブで再確認しました。
加えて、無段変速のCVTは、本当に秀逸。一部のレビューでかつてこのチェーン駆動型CVT固有の高周波音が気になると指摘されていたが、耳を澄ませてみても、それらしい音には未だ出会えていない。
一つだけ付け加えておくと、気のせいなのか個体差なのかも分からない程度ではあるのだけれど、回転を落としたときに、プログラム側の問題なのかハード的なものなのか(挙措はあきらかにプログラムの迷い、と見えるのだが)、回転をひたすら落とすだけではない逡巡の動作を見せる一瞬が、速度を下げる時に特に感じられたことを指摘しておきたい。でも、それはほとんど気にならないレベルの話だ。お任せで、良い感じに仕事をしてくれます。
聞けば、レガシィは20年ぶりの新エンジンを2012年(今年)夏には搭載してマイナーチェンジをするとか。
家族や仲間と、あるいは遊び道具を積み込み、長距離運転をして遊びに出かけ、そして運転の楽しさも味わいたい、という人にとっての「道具」として、これ以上のものはたぶんないんじゃないかな。
レガシィはとっても高度な技術で、こちらの運転技術を越えた「上手」さを与えてくれるクルマです。
へたくそな私でも、確実にコーナリング速度が人生史上もっとも高くなりました。
クルマの「力」によって、高いスピードでフラットに曲がれてしまうこの感覚は、たぶんレガシィだけじゃないかなあ。
クルマをいじるにも、緩さよりはストイックさをクルマが求めてくるような気がします。
ロードスターも、初めて乗ったときは「こんなに曲がれるクルマは乗ったことがない」と感激しました。
がむしろ、ライトウェイトスポーツという側面でいえば、運転者の力量に応じて楽しませてくれるクルマ、というべきでしょう。
自分でおもちゃをいじって遊ぶ感覚、かな。
個性と出会うことは、それがたとえクルマであっても、哲学者のテキストを読むのと全く同じように大切なのだ、とつくづく思います。
いや、哲学者のテキストであってさえ、クルマの快楽と同じように大切なのだ、と逆に言うべきでしょうか。
いずれにしても、「楽しさ」に到るまでには、いろいろと迂路をウロウロしてああでもないこうでもない、と迷ってみることも大切だ、ということかもしれません。
最後にちょっと文句を一つ。
北米向けの大きなキャビンサイズとか、燃費重視の機構(燃費計とか平均燃費表示とか、SIクルーズとかも実はスポーツ走行をチョイスできる、というより、かつてはスポーツ走行一辺倒だったレガシィから、燃費に配慮できる「遅い」モードも加えました、ということだと私は思います)とか、レガシィの走り=個性を支えていた部分を「ネガ」として潰した結果、骨格の個性はきちんと消えてはいないのに、ドライバーにまっすぐメッセージとしてその「個性」が伝わらなくなってしまった恨みがやっぱりあるのではないでしょうか。
2泊3日のドライブで、その表層と深層の両方をようやく味わうことができてホッとしています。
と同時に、やっぱりクルマ自体が、かなり快適側というかDセグメント生き残り側に振った設定になってしまっていて、足回りの良さというかクルマを操作する魅力は、かなり意識して運転しないと素性を明らかにしてくれない、ということが、不安を増大させた原因だと感じます。
ツンデレじゃないけど、しっかりその素性を確かめて味わえば、新型レガシィ、なかなか、です。
っていうか、かなり「いい感じ」だと思います。
洗練された元フレンチシェフの、定食屋さんセットメニューのごときレガシイ2.5i。
腕は勿体ないほどだが、やはり旨い。
ここにこんな値段で店出してていいのか、でもコストパフォーマンスがいい。
このトンカツに謎のソースのこだわり。
つじつまあってるみたいなあってないみたいな、庶民的みたいな高級みたいな、みたいなみたいな、ね。
2日目の夜は、南三陸のホテルに泊まる。
翌朝から一日、陸前高田まで数十キロ海沿いにドライブしながら観た光景を、私は一生忘れないだろう。
クルマの乗り心地とか、そういう話をしてられないほど、めちゃめちゃ大変な状況だ。
なるほどテレビの映像や新聞の記事で、宮城県沿岸部の被災の深刻さは教えられていた。
でも、それは「点」の印象でしかなかった。
何十キロにも渡って(私が見た限りで、の話です。実際は沿岸部何百キロも被害区域は広がっているのでしょう)海沿いのドライブに最適な道路を走り続け、右側に海が見えるたびに、海沿いに走る南三陸鉄道が寸断され、家屋が土台だけになっており、橋が落ち、撤去しきれないビルが半壊状態で焼け野原の後のように残っている……そんな情景が続いているのだ。
いわき市でも、津波の被害の大きかった豊間や薄磯の状況は目の当たりにしていた。
それと同じ状況が、志津川の町でも、気仙沼の町でも、陸前高田の町でも、その間の入り江も、奥に行くほど高くなった陸地も、20メートル近くにまで上がった水にのみ込まれてしまったその惨状を彷彿とさせる状態で残されているのだ。
瓦礫の撤去は陸前高田が一番進んでいる印象を受けたが、いずれにしても、ものすごい情景が延々と続く。
そのことについては項を改めて書くが、週末「被災地ツアー」などと軽口を叩いていた自分の浅はかさを痛感した。
と同時に、志津川では「被災見学ツアー」にも参加したのだが、案内をしてくれた地元の人は、
「この状況をきちんと観て欲しい、そしてこれから復興する未来をまた見に来て欲しい」
という。
個人的な印象に過ぎないが、津波前の街はもう戻らないだろうと思う。
第一、海沿いに民家を建てることは事実上困難だからだ。
また、瓦礫撤去さえ終わっていない状態では、まだ先が見通せない状況が続くだろう。
津波を無視して同じ街を再建することはナンセンスでしかない。
かといって、15mもの高さの津波を「想定」した街並の再建など、素人の私には残念ながら想像もつかない。
それでも、ホテルの窓から見える南三陸の海では、早朝からずっと、海藻の養殖だろうか、海の中の仕掛けのようなもののところで作業を続けている漁船が何艘か見えた。水産加工場も、居住しないという条件で許可が出て、再建が始まったところも出てきている。
自分自身がいわきで被災する前は「災害地にいくべきはボランティアの人だけで、物見遊山などもってのほかだろう」とてっきり思い込んでいた。
そうではないのだ。
むしろ、物見遊山で結構、被災地観光ツアーで結構。
どんどん観に行くべきだ。
自分の瞳に焼き付けるほど見れば、人間の物の見方考え方は、確実に変わる。
人の心配をしている場合ではないのだが、私のようなものでさえ、南三陸の人達の「絶望」と、それでもそこに踏みとどまって生きようとする「思い」とが絡み合った「解けないパズル」のような複雑な思いのミニチュアを胸の奥に抱えて還ってきたのだから。
閑話休題。
レガシィに話を戻す。
海沿いの、ゆるいアップダウンのあるカーブの道を走っていると、昨日はあんなに戸惑っていたのに、「意外にいいじゃない?」という感じに感触が変わってきた。
インパネのびびり音も、立て付けそれ自体ではなく、ディーラーオプションのナビの液晶角度と取り付けの樹脂フレームが微妙に干渉していただけのようで、角度を変えたらあっさり音は消えてしまった。
あくまでも静かに、あくまでも滑らかに道を「滑走」してくそのテイストは、駐車場で切り返しをつい必要とする体躯の大きさはまだ慣れないにしても、他のクルマでは味わえない感触かもしれない、と思うようになっていった。
印象が決定的に変わったのは、陸前高田から種山が原へと向かう気仙川沿いの道を、山に向かって登り始めてからだった。
ゆるめのカーブが続く山道を登ったり降りたりすると、車体の大きさや車高の高さを感じさせない、地面に四つの車輪がぴたっとすいつくように曲がっていく感触が、運転者の重心に加わるGの心地よさとして伝わってくる。
これがおそらくスバルAWDならではの制御なのだろう。4つの車輪がきちんと分担して仕事をしているのは当然なのだが、そこに濃密な統一感があって、それはやっぱり力の制御が緊密で、運転者の身体と響き合ってくるのだ。
ロードスターが基本ウェイトを極力軽くした上で、中心に重量物を集約し、運転者自身の体内に重心をもってきて身体の重心とクルマの重心を重ねていった軽量回転系の点的G制御だとすれば、レガシィは水平対向エンジンという低重心エンジンの特性と4輪駆動という分散型のトラクションコントロールによって、平面の四隅に分散させ、その上でその力を合成してあくまでもフラットな「回転円盤系」の面的G制御を果たしているといった印象だ。
これは、今までどんなクルマでも味わったことのない、このクルマならではの「個性」だった。
ロードスターがライトウェイトオープン2シータースポーツという設計文化オリエンテッドなクルマだとすれば、レガシィは水平対向エンジンと四輪駆動形式という技術思想オリエンテッドなクルマ、といってもいい。
考えてみれば、どちらも、日本が世界に誇る、独自ジャンルを切り開きあるいは再興させた歴史を持つクルマだった。
種山が原の道の駅「ポラン」でふきのとうと鶏ハラミを購入し、水沢I.C.まで降りてくる頃までには、大きくなってゆったりと穏やかに乗るクルマという印象の陰に隠れている足回りの魅力を、しっかりと「肌身」に感じられるようになっていた。
AWDというカタログのお話ではなく、アイサイトのCM効果ではなく、今までのレガシィがどうか、でもなく、昨日まで乗っていたロードスターの魅力との比較ではなく、間違いなくレガシィは日本で200万円台で乗り出せる唯一の、「ロングツアラー」と呼ぶのにふさわしいステーションワゴンだと分かりました。
高速をアイサイトでゆったりと疲れ知らずで走り、いったん高速を降りたらワインディングロードを気持ちよく走る。雨でも雪でもドンとこい。荷物も乗るし、同乗の家族や仲間も楽しい。そして、きちんとその魅力の文法をわきまえれば、ドライバーも十分に楽しめるクルマになっていました。
なるほど、ガッツンガッツンとマニュアルで変速して、ターボで加速して「操作」を楽しむクルマの方向性とは全く正反対だ。
でも、いわゆるちょっと乗ると「快適」だけれど、長距離を乗るとつまらなかったり腰が疲れたりするタイプのクルマでは全くない。
この「快適」さはけっして「楽しさ」を潰した結果得られたものではないことを、2泊3日800キロのドライブで再確認しました。
加えて、無段変速のCVTは、本当に秀逸。一部のレビューでかつてこのチェーン駆動型CVT固有の高周波音が気になると指摘されていたが、耳を澄ませてみても、それらしい音には未だ出会えていない。
一つだけ付け加えておくと、気のせいなのか個体差なのかも分からない程度ではあるのだけれど、回転を落としたときに、プログラム側の問題なのかハード的なものなのか(挙措はあきらかにプログラムの迷い、と見えるのだが)、回転をひたすら落とすだけではない逡巡の動作を見せる一瞬が、速度を下げる時に特に感じられたことを指摘しておきたい。でも、それはほとんど気にならないレベルの話だ。お任せで、良い感じに仕事をしてくれます。
聞けば、レガシィは20年ぶりの新エンジンを2012年(今年)夏には搭載してマイナーチェンジをするとか。
家族や仲間と、あるいは遊び道具を積み込み、長距離運転をして遊びに出かけ、そして運転の楽しさも味わいたい、という人にとっての「道具」として、これ以上のものはたぶんないんじゃないかな。
レガシィはとっても高度な技術で、こちらの運転技術を越えた「上手」さを与えてくれるクルマです。
へたくそな私でも、確実にコーナリング速度が人生史上もっとも高くなりました。
クルマの「力」によって、高いスピードでフラットに曲がれてしまうこの感覚は、たぶんレガシィだけじゃないかなあ。
クルマをいじるにも、緩さよりはストイックさをクルマが求めてくるような気がします。
ロードスターも、初めて乗ったときは「こんなに曲がれるクルマは乗ったことがない」と感激しました。
がむしろ、ライトウェイトスポーツという側面でいえば、運転者の力量に応じて楽しませてくれるクルマ、というべきでしょう。
自分でおもちゃをいじって遊ぶ感覚、かな。
個性と出会うことは、それがたとえクルマであっても、哲学者のテキストを読むのと全く同じように大切なのだ、とつくづく思います。
いや、哲学者のテキストであってさえ、クルマの快楽と同じように大切なのだ、と逆に言うべきでしょうか。
いずれにしても、「楽しさ」に到るまでには、いろいろと迂路をウロウロしてああでもないこうでもない、と迷ってみることも大切だ、ということかもしれません。
最後にちょっと文句を一つ。
北米向けの大きなキャビンサイズとか、燃費重視の機構(燃費計とか平均燃費表示とか、SIクルーズとかも実はスポーツ走行をチョイスできる、というより、かつてはスポーツ走行一辺倒だったレガシィから、燃費に配慮できる「遅い」モードも加えました、ということだと私は思います)とか、レガシィの走り=個性を支えていた部分を「ネガ」として潰した結果、骨格の個性はきちんと消えてはいないのに、ドライバーにまっすぐメッセージとしてその「個性」が伝わらなくなってしまった恨みがやっぱりあるのではないでしょうか。
2泊3日のドライブで、その表層と深層の両方をようやく味わうことができてホッとしています。
と同時に、やっぱりクルマ自体が、かなり快適側というかDセグメント生き残り側に振った設定になってしまっていて、足回りの良さというかクルマを操作する魅力は、かなり意識して運転しないと素性を明らかにしてくれない、ということが、不安を増大させた原因だと感じます。
ツンデレじゃないけど、しっかりその素性を確かめて味わえば、新型レガシィ、なかなか、です。
っていうか、かなり「いい感じ」だと思います。
洗練された元フレンチシェフの、定食屋さんセットメニューのごときレガシイ2.5i。
腕は勿体ないほどだが、やはり旨い。
ここにこんな値段で店出してていいのか、でもコストパフォーマンスがいい。
このトンカツに謎のソースのこだわり。
つじつまあってるみたいなあってないみたいな、庶民的みたいな高級みたいな、みたいなみたいな、ね。