龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
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九州に行って来た(14)熊本城の石垣は「美」!

2010年08月22日 19時08分30秒 | インポート
IMG_3570.jpg
阿蘇から高千穂峡に行って、また阿蘇に戻り、
野菜バイキングレストランで敢えて阿蘇野菜に舌鼓を打ち、その後熊本に戻って熊本城を見たのち、高速で大分県の由布院へ。
そんなに阿蘇がいいのか、といわれれば、そうだ、と言っておきたい(笑)。

ちなみに漱石の『二百十日』の冒頭、阿蘇の宿で男二人が夕食を食べる場面、野菜ばかりだ、といって腐るシーンがある(笑)。
阿蘇野菜はその当時から有名だったのかしら。とにかく安くてうまい。野菜は1200キロもクルマで持って帰るわけにはいかない。その場で食べる以外にはない。それだけに、野菜バイキングの印象も強かった。

それに、なにやかにやと理由をつけつつ、クルマで阿蘇山の中をあっちへいったりこっちへ来たりとうろつきまわって走るのは、間違いなく爽快です。

その後、本当は山の中の道を通って阿蘇→大分県まで行きたかったけれど、ゆっくりしすぎたせいで夜道になってしまうことから断念。
夜、ひたすら移動するなら慣れない山道より高速道路が安全なので。
で、せっかくだからと熊本城を見学。

城の知識とか全然ないけれど、石垣の生み出すカーブの美しさは、今まで見たどの城よりも迫力があった。この石垣の曲線を観て触るためだけにでも、訪れる意味はある、と個人的にはにはおもいます。
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城の周りはその夜花火大会だとかで、人出がわんさか。その中で、ある種の女の子たちが「チームワーク」良く、花柄甚平を来ていたのが「印象的」でした。どこのだれがこういうことをおもいつく んですかねえ。
浴衣の花柄そのまま「ジンベエ」なんですよ。
おっさんじゃないんだから、ステテコもどきの花柄をわざわざ来なくてもいいのになあ、と思いました。
ま、流行りならしょうがない。一刻も早くおわってほしいと祈るのみ(苦笑)。


入院体験記(15)例えばのTwitter

2010年08月22日 11時18分45秒 | インポート
茂木健一郎のフォローをしていたら、次のようなtweetが流れてきた(ほんのちょっと前)
引用開始--------------------
フロー(1)よく、緊張していることを集中と勘違いしがちだが、そうではない。理想的な状態とは、集中していると同時にリラックスしているチクセントミハイの言う「フロー」状態である。

フロー(2)ボルト選手が、100メートル9秒58の驚異的な世界新記録を出した時の走りを見ていると、笑って楽しみながら走っているように見える。このように、集中しているがリラックスしている時に、人は最高のパフォーマンスを発揮する。

フロー(3)スピードスケートの清水宏保選手によると、世界新記録が出る時には、主観的にはむしろ「流している」感覚がするほどリラックスしているのだという。実際に世界新記録を出したトップアスリートによる、貴重な証言である。

フロー(4)フロー状態において、人は、最高のパフォーマンスを出しつつ、その時間の流れを深く楽しむことができる。理想のあり方として、そのような至福があることを知ることで、自分の努力の黄金律とすることができる。

フロー(5)フロー状態になるためには、課題のレベルと、自分のスキルのレベルが高いところで一致していなければならない。スキルが及ばなければ、緊張しがちになる。課題が低いと退屈する。課題とスキルの高レベル共鳴がフローを生み出すのである。

フロー(6)新しい課題に取り組んでいる時は、スキルが低いから、どうしてもつまづいたり緊張する。そのような、「山登り」の苦しい時間帯をくぐり抜けると、ある時、ぱっと「フロー」の平原が開ける。いつかは「フロー」に入ることを楽しみに、地道に研鑽を積まねばならない。

フロー(7)英語などの外国語習得においても、最終的に目標とすべきは「フロー」状態である。途中の過程においては、苦しくぎこちない。しかし、スキルを上げるに従って、次第に英語を使うことが「蜜の味」になるフロー状態が近づいてくる。

フロー(8)フロー状態をつかむと、最高度のパフォーマンスで仕事をするということと、人生を楽しむクオリティ・オブ・ライフの命題が、自然に一致する。仕事をしつつ、それが人生の愉楽になる境地に達することができるのだ。

フロー(9)課題とスキルを高いところで一致させるためには、常に「もっと上」を目指す向上心がなければならない。トップ・アスリートがフローを経験できるのも、絶えざる克己心があるからだ。

フロー(10)日本人初のオリンピック金メダリストとなった三段跳びの織田幹雄さんは、「身体を躍動させること」自体が喜びであると語っていた。ここにもまた、フロー状態を知る一人のトップ・アスリートがいる。

フロー(11)課題とスキルが高いレベルで一致し、集中しているけれどもリラックスしている。最高のパフォーマンスを達成しながら、蜜の味の時間が流れる。日々の営みの中で、そんなフロー状態を経験できることを目指し、楽しみとして目の前の努力をしよう。

以上、フロー状態についての連続ツイートを、シンガポールからお届けしました。
引用終了------------------
これ、全文引用になっちゃうかなあ。tweetの著作権でどうなっているのか分からないけれど。

でも、この茂木健一郎のいう「フロー」状態は、欲望の二項対立を調整しつつ、システムを持続可能なものにすることによって快楽エンジンを搭載し、成功にいたらしめる、という意味では、先刻書いたダイエット法にも通じるものだと思う。

茂木健一郎という人は脳みそにおける「快楽エンジン」作動についての人かど学者さんだからね。

Twitterの効用は、動いている他者の「脳みそ」
の「今」から溢れてくる言葉をリアルタイムで享受し、自分の「フロー」と共鳴させられるところかな、と一つ発見。
異質なものをどこまで取り込むか、というどんなメディア、システムでも同様の課題を、Twitterだけが乗り越えられているわけではないが、オープンだってところは、悪くない。



入院体験記(14)もしくはダイエット成功のカギ

2010年08月22日 10時09分15秒 | インポート
医者から血糖値が高いと言われ、6月からダイエットを始めた。
本格的にやるのは二回目である。

一度めは「睡眠時無呼吸症候群」と診断され、体重を落とさないと50歳の坂を超えられないと脅されたとき。

そして二度めは今回、「血糖値を下げないと将来重篤な症状を招きますよ、壊疽による下肢切断とか、人工透析とか、失明とか」といわれて。

一度めは83キロ→69キロまで約14キロ成功。
今回は途中経過だが、73キロから67.5キロ、なんとか目標の63キロまで届きそうなところまでやってきた(笑)。

しかし、10年間で2回しか成果が上がっていない、ということはあとは100回ぐらい失敗しているということだ。しかも二回目はリバウンドを乗り越えるのが主目的、みたいなものだし。

思うに、ダイエットを成功させるコツっていうのは、一般的に仕事を成功させるやり方と変わらないのじゃないか。

1、差し迫った危機
2、深刻さの認識
この二つは舵を最初にグッと切るために必要。
いつでもできる、なんとかなる、と思っている限り、何も変わらない。


3、困難さの自覚
4、持続のための手だて
簡単ではないとわかることは大事だが、困難さはあきらめも招く。
短期的なノリで解決できる種類の問題ならそれはお祭りプロジェクトになる。そういうダイエットもあると思う(失恋ダイエットとか、失職ダイエットとかガンダイエットとか。本末転倒させることによって、副次的に問題を解決させるやり方ね。でもこんかいはそちらはパス)。
しかし、基本的には持続可能でなければ仕事の達成はおぼつかない。

どうやったら続けられるか、がほぼダイエット成功のカギを半分握っている。

5、目標の細分化
6、快楽エンジンの搭載

いきなり10キロ、とか考えるのは失敗のもと。ちょっとでも動き出したらその小さな火種を大切に絶やさず、身近な目標を繋いで次第に大きな炎にしていくことが大切。

また、そういうチマチマした計画・実行・
確認が好きな人は細分化自体を自己目的化して楽しめる。
そういう人はそれでもいい。
あるいは、目に見える成果が大切な人は、毎日体重計に乗るのもいい。
あるいは、運動の繰り返しは身体が快感を覚えるようになる。
卵ダイエットとかりんごダイエットとか、真偽の別はともかく、ただ抑圧的に制限するだけじゃだめだよね、という部分的真実を利用したものだろう。食べたい、という欲望をある程度肯定しつつ継続性とリズム(ちょっと栄養バランス悪いとおもうに、けどさ、常識的にはね)を短期的には獲得できる。
でも短期的なお祭りダイエットに近い。


7、リズムを作る
8、バランスを取る
継続が必須の仕事(ダイエットはその典型だが)の場合、リズムを作ることが絶対に必要。

急に頑張って絶食したり、逆に猛然と食欲に負けて食欲の鬼と化したりするのは効率が悪い。
無論、入院食事制限じゃないんだから多少のカロリー接収に高低があるのは当然。
それをこえた週ごとのリズムとかバランスを重視し、収支決算の帳尻を合わせつつ、リズムを作っていくと精神的負担を習慣が幾分か肩代わりしてくれるようになる。
リズムは無意識的なものだが、習慣付けを心がけることは可能だし、バランスも、その瞬間瞬間は過食と拒食を往復運動するものだとおもって、自覚的に匙加減をしてやるのがよい。
もしこれが自覚的にコントロール可能でない場合は、病院にいってみるとか、仕事を変えるとか(笑)、転居するとか(爆笑)、別のものにコントロール不可能な現実の重さを転嫁して、別のバランスを獲得するのが良作。
ただしこれは仕事を成就させる、という主題から離れ、メンタルケアの領域に入るので今回はこれもパス。

9、再帰的な自己確認をシステム化する


このあたりが面白さのポイントなのだが、巷で一時期流行った記録型ダイエットがこれ。食べたモノを記録するだけとか、体重を付けるだけ、とか。自分自身をコントロールするのがダイエットなのだからその自分自身の置かれた状況、つまりカロリー接収の収支決算を知らないで「立て直す」ことは仕事を「気合」と「カン」に頼ってやるようなものだ。

今回私は女子栄養大学のデータを利用したiPhoneの無料ソフト、
「ネスレココロとカラダのバランスレシピ+体重コントロール」
を利用。
同じくiPhoneでも、日経トレンディでは有料ソフトの
「アンチメタボ(プレミアム版)」450円
を推奨している。こちらは万歩計、カロリー計算も可能な運動時間タイマーなどが付いている。

ネスレの無料ソフトで十分だが、むしろ記録することに細分化された楽しみを見出すタイプの人は有料ソフトがむしろオススメ。

このあたり、道具は自分自身の快楽タイプ、
どんな風だったら楽しく続けられるか、を見切ったものが仕事を成就できる、という一般則が当てはまる。
道具はなんでもいいよっていうような傾向性があるとしたら、そういうことをも含めて、道具の選定は大切。
なぜなら、ある意味で、再帰的に自分自身を知る手立ての先端にあるのが道具だからだ。

10、自分や仕事ではなく、そのシステムを肯定する

自己確認か他者帰属か、の二者択一は行けません。

「食べたいvs痩せたい」
は既に失敗への坂道を転がり出す第一歩だとつくづくおもう。

foxydog的哲学によれば、それが邪悪なのは
「世界を半分だけで生きる」
思想だからです。思想はタダなんだから、欲ばればいい。まさか食べたいか痩せたいか、どちらかだけを選ぶのが思想的に「慎ましい」なんては思わないですものね、誰も。

その見かけの二項対立を調整しながら、新たなバランスにジャンプするのを手伝うためにこそ、しすてむへの信頼が重要になるのだと思います。

仕事に必要な「社会基盤」(というと大げさだけれど、関係性のマネージメントをする土台)が、システムへの信頼でしょう。
食べたい自分と痩せたい自分との交渉ごとを買って出る無鉄砲さ。
そしてその無理難題を解決しようとする無鉄砲さを支えるパトロン。

そういうのを全部「自分」一人でやろうとすると混乱のもとですし、多重人格ごっこみたいに疲れてしまいます。既に病気の兆候が現れているからダイエットごっこでメンタルヘルス遊びをしてしまう人は別として、そういうことを「分裂」しないでなんとか目標達成に向けて軟着陸していくために、交渉役に徹する自分(門番)の、無力だけど大事な役割に、信頼をおいて上げることじゃないでしょうか。
この分裂した内部キャラを調整しながら奔走し、
自分は無力だけど目標達成のために必要な役割を果たす「門番」を、人は今の時代「龍馬」
と呼ぶのだと思います。

ダイエットシステムの龍馬(欲望ドラゴンの前に佇む無力な門番)に幸あれ。



入院体験記(13)退院の前日読書

2010年08月22日 08時40分19秒 | インポート
朝から読書を誓っていたのに、Twitterを覗き、こうやってBlogで遊んでいる。
「携帯も持たせると勉強しねえからな、奴らは」
という学生さんと変わらない。べつに携帯のせいじゃないんだが(苦笑)。

どこでだれとどんなメディアで、どんなことをしながら出会っていくか、ということが違うだけだ。

俳諧連句の座を求めつつ作品のために「漂泊」という虚構を生きた詩人芭蕉や、自分の人生=人性を外に投げ出してまで「何か」を求めた山頭火や尾崎放哉のように生きる=死ぬまでのこともない。

どこでバランスを取らざるを得ないのかは、正直背負っているものの質にもよるだろう。

サンデルの言うカントよりは射程距離が長いつもりで言うのだが、「カント」が意図していた「道徳」は、「理性」によって限界づけられた現象との関係において、
「選び得ないものを選ぶ」
身振りの重要性を、
「ここより他の場所」
において理想を求めようとする「理性の誤謬」とどうせめぎ合わせて「新しい場所」を創出するかっていう話になるんだと私は理解している。

サンデルの本(『これからの「正義」の話をしよう』)の前半は面白いけれど後半は今ひとつ、という感想は、その辺りに関わっている。
サンデルが結論近くで語り始める「物語」や「共同体」の必然性を私も疑わない。

しかし、その「物語」や「共同体」と「国家」の関係を語り出すときに用いるサンデルのレトリックは正直いただけない。
大統領候補の「身体」に重ねた「ことば」を拠り所にしているからだ。このレトリックはあくまで「アメリカ人」のためのものだし、そういう意味ではたとえ読み替えをしたところで「日本人」のためのものでしかない。

カントやロールズが一足飛びに普遍的なものを希求したことを、その不可能性の限界づけられた「失敗」「不足」の文脈でサンデルが捉えるとしたならば(それは半分だけ正しい)、しかし同時にサンデルがその代わりに取り出した共同体の物語もまた、むしろ「縮減」の過ちを導く危険はないか。

まあ、ことはそう単純ではないんだけど。

「国家」を考えるときに道徳・倫理へのコミットは不可避であり、必要でもある。それを議論にくわえていかなければむしろ「リベラル」の「理想」は貧しいものになるだろう、というサンデルの指摘は刺激的だった。

同じ「今」を徹底的に「ズレ」の側からみようとする柄谷行人(『トランスクリティーク』)の方が肌合いに合う、というだけのことか?
この人の「世界共和国」(カント)も今ひとつピンとこない「虚構」なんですがねえ。

しかし、どちらも敢えて「神学論争」を厭わないって感じがして、ワクワクします。単なる哲学じゃなくてあくまで「本質」に行こうとするもんね。神様的(超越論的)な匂いがする。

さて、それでは伝奇ものを一冊中途だったのを片付けます。

遠山の金さんが朝鮮半島に渡って柳生と対決って話しになりそうでメチャクチャ(笑)。でもこういうの書ける人、そうはいないよね。貴重です、荒山徹さん。