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龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCの応援、ソロキャンプ、それに読書、そしてコペンな日々をメモしています。

ちなみに好みは

2010年08月14日 11時57分33秒 | インポート
川副青山窯(前の小物いれに使用している小皿写真)と巒山窯。

巒山窯(らんざんがま)は、現代的なものも積極的なに作っていて、私はのような素人にはわかりやすい。
なかでも緑色の釉薬で、輪郭を描かずにしかもくっきりと表現している絵が素敵だった。
今度行ったときは買わなくちゃ。






九州に行ってきた(8)伊万里焼の里で

2010年08月14日 11時47分54秒 | インポート
IMG_1368.jpg
伊万里で焼き物を見る。

クルマは、自由に動けるからいい。そして、それが自分の好みのクルマならこれ以上のことはない。

レンタカーももっといろいろな種類のクルマが乗れるならてしいけれど、多くは一般的な乗用車で、面白味が今ひとつ。

とゆうわけで自前のクルマでや屋根を開け、日焼けを
恐れつつ伊万里へ。

ガイドブックにあった鍋島焼きの里を訪ねる。しかし、高速からナビを使って行くと大変な山道を「紹介」される。

距離評価では確かにちかいのだろうが、対向車一台もなく観光地の裏手山道の急勾配を降りて行くのは心臓によくない。
聞けば、ナビで来るお客さんはよくその道からこられます。うちらもあんな道とおらんのに、とのこと。
こういう道路評価ってのも、スタンドアロンじやなく、オンラインで交通量のデータが取れていれば修正が早いんだろうなぁ。

ま、個人的には山道の方が楽しいからいいんですが(^-^)

この大川内山は伊万里鍋島焼き窯元が並ぶ地区。
全部ゆっくりまわったら間違いなく一日がかり。
ここでゆっくりしすぎたため、山を下りたらもう有田のお店が殆んど閉店していました(>_<)
ほんとは有田焼もゆっくりみたかった……。

それでも鍋島伊万里を10いくつ回っただけで、まだ窯元の半分にもならない。

お買い物がメインじやないので、買ったのは特売の皿(写真)と、蕎麦猪口ひとつ。

でも、同じ伊万里でも、いろいろあって、その中で自分の趣味に合うものをさがしはじめると、全く違ったものを比較するより面白く、また難しく、あちらこちらを行ったり来たり。結局訪ねた窯元を二度づつ回ったような気がする。

ここはまた来なくちゃ!

と思う観光地のひとつ。
リピーターが多い、と近くの梨屋さんが言っていたのも納得である。

ただ、蕎麦猪口を買った窯元のお母さんが、
「むすこを見てると、伝統的なものも追求せねばならんし、他方ではデパートなどで催し物があると必ず新しいものを、ともいわれるしねぇ、大変だわ」
という言葉も耳に残った。

ブランドイメージと、観光戦略と、現代陶器としての可能性と、ってことだろうか。

生きてくだけでも大変なのに、生き残ってくのはもっと大変。
早く隠居してぇ(^-^)

まあ、こうやって旅したり入院したりするのも、プチ風狂だったり、小隠居もどきだったりするのかもしれないけれど。





入院体験記(2)

2010年08月14日 11時00分24秒 | 身体

その後。
簡単な外科的手術で、土日を挟んでいるので、入院していても実質することがないので、すべての説明が終わると外泊許可が出た(笑)。

入院の前は旅行が長かったので、自宅PCを立ち上げるのは久しぶり。
溜まりに溜まった1000通弱のメール(迷惑メールというのではないが、99%は不要メール)を流していたら、その中でこれが目にとまった。

日経ビジネスオンラインのコラム、小田嶋隆の『ア・ピース・オブ・警句』の8/6版
「グーグル、そして英語化される世界について考える」
の中の

引用開始--------------------------
 日本語を使っている限り、英語国民には負けない。これは非常に大切なポイントだ。死守せねばならない。
 もちろん、日本語を使っている限り、英語国民には勝てないわけだが、大切なのは無勝負無判定に持ち込むことだ。英語を使ったところでどうせ勝てないわけだし、のみならず、英語の世界では必ず負けることになっているからだ。完全に。
引用終了--------------------------

というところが印象に残った。

インフォームドコンセントの文書の言葉たちが目指しているのも、この「勝負無判定」に持ち込むこと、だったのではないか、と感じたのだ。

むろん、説明・同意書は日本語で書かれている。
そして昔手術の前に書かされた問答無用の白紙委任状とは全く違う。

手術の目的と得失を相互に理解し、その上で説明を受け、同意した、という筋道だ。

しかしそれは、この異質な文化同士がせめぎ合う中で、「勝負無判定」に持ち込むというスタンスもまた見て取れる。
ポイントは結局、そういうことなのかもしれない、と思う。

完全に対等な立場、等質な理解など、どんな交渉ごとやプロジェクト、商売においても成立はしない。
しかし、日々私たちはそんな中で可能な限り円滑に、自分たちの立場も保持しつつ、なおも他者とお互いを尊重しながら仕事や生活を営んで行かなければならない。

とすれば、交渉ごとなり異質なものの出会いや摩擦においては、適切な「勝負無判定」に持ち込む努力を惜しまない方がいい、ということになる。

大げさな話、だろうか。
でも、「ことば」を尽くす、ということは完璧に等質な理解にたどり着くことではなく、かといって「契約」したのだから、と木で鼻をくくったような門前払いを食わせることでもなく、異質さを丁寧に理解し合った上で「納得」していくことなのだろうと思う。

そのためには、むしろ「等質な理解」を過度に求めないこと、均質化をいらだたしさの中で求めすぎないこと、が大切なのかもしれない。

知識に格差もあり、態度や価値観にも大きな異質性をかかえ、そんな中で「納得」点を見いだし、そこをお互いに大切にしていくこと。

ある場合に危険なのは、むしろ「納得」していないところを「暗黙の了解で済ませ」ようとすることかもしれない。
これも難しいところだけれど、コンパクトに、誰にでも分かる範囲の言葉で丁寧に理解を求めること。それはそういう力のある側がするべきこと、なのだろう。

「異質性」を認識した上での「納得」は、両者の利益を感じるポイントがたとえずれていても、いや、むしろそのズレがあった方がよい場合がありえる。お互いがどこに利益をなぜ感じるのか、が十分に説明されているのならば、その方が「安心度」は高い、とさえ言えるかもしれない。

入院の話に戻れば、医療の場合には「治る」ってことが一番なわけだけれど、どんな状態をもって「治癒」とするのか、だって、患者と医療従事者の側では「ズレ」があるだろう。

自分が医療従事者だったら、あまりに困難な事例は「立ち去り型」の回避をしたくなるだろうなあ、と思ってみたりもする。

消費者=顧客が「完全」な満足を得た、と思うためには、あらかじめその「欲望」をコントロールしておかねばならないだろう。さまざまな方法を用いて。
私たちはむしろ、「完全」な満足を「得た」と思う「パターナル」な上から目線の「結果」ではなく、「不完全」ではあっても、それ相応の「納得」を得つつ、自分自身で自分を「選択」しつづけていく方が「より少なく悪い」。

なんだか、たかだか数ミリのポリープを切除する手術の説明を受けただけで、いろいろ考えさせられて楽しい思いをしたようだ。




入院体験記(1)

2010年08月14日 01時25分45秒 | インポート
声帯ポリープ切除の手術をすることになった。
今日が入院日。朝から病棟担当の看護師、主治医、麻酔医、手術担当看護師から、それぞれ説明を受ける。

説明を受けるだけなのだが、病棟に入るとすぐパジャマに着替えるよう指示される。

パジャマに着替えて、ベッドの上にいると次第にびょうにんのような気分になってくるから不思議だ(まあ、偽物ではなく実際の病人なんだけどね)。

書面を前にして、ひとつひとつ確認しながらサインしていく。

まあ、それだけのために一日院内を動くのだが、いつも自分が生活し、仕事をしている枠組みとは全く違ったシステムの中で動いていく体験はなかなか興味深い。

元々、医療従事者の法律上のを立場を守るためにアメリカで始まったのだろうインフォームドコンセントの仕組みはしかし、同時に、医療の本質が、さまざまなひとびとの協業があって初めて成立するものだということを患者に改めて「教育」してくれる。

医療に限らないが、社会システムの中の人間の本質に関わる部分では、流通し得るサービスの側面と、身体や精神の固有性&自由に関わる側面との関係が問われる場合が必ずある。

単に上手に処理されるべきクレーマー対策、モンスターペイシェント対策にとどまらない哲学、が重要だし、それは単なる個人の問題じゃなくて、哲学自体が、公共のものとして再生・提示・共有できるか、という課題でもあるのかな。

教育もまた同じ側面がある。いまどき、単純な
パターナリズムでは済まないが、顧客の恣意に任せていては、能力は十分には伸長しない。

出資者=受益者は、文字通りリスクテイカーでもある。
どれだけその辺りを明示し、互いに共有できるか。
語るべき言葉の種類が問われる時代だなあ、とつくづく。