フィリピンはアメリカ占領解除後も日本と同じくアメリカの軍事基地がたくさんありました。しかし日本と違って1991年国会でアメリカ軍基地撤廃決議がなされ1992年末までに基地撤廃が完了しました。バギオにあった基地の保養施設跡がホテルになっていました。そこに泊まりました。
まさに保養施設跡らしく自然豊かなところにあります。
バギオは日本がアジア太平洋戦争の開戦1941年12月8日にフィリピン最初の爆撃目標にしたところです。その後、フィリピンを占領した日本軍が敗戦濃厚になったとき山下奉文大将が率いる日本軍がマニラを撤去してここに本拠を移し1945年9月3日に降伏文書に調印したところでもあります。
というわけでこの地に英霊追悼碑がありました。
この公園でイスラーム教徒に出会いました。スカーフを被っていますね。「アッサラームアレクイム」と挨拶して写真撮影を許可していただきました。イスラーム教徒に今回の旅行で出会ったのはここだけでした。フィリピン全体では5%~10%、ミンダナオ島では20%を占めます。
マゼランに対して「予はいかなる王に対しても頭を下げぬ。予が服従するのはわが同胞に対してのみだ」と戦い(1521)を挑んだマクタン島のラプラプ王(1491~1542)はイスラーム教徒でした。彼はヨーロッパ人のアジア侵略に対して最初に戦った英雄であり、フィリッピン人の誇りを守った国民的英雄です。自由時間を利用して是非このラプラプ王の碑をマクタン島で見たいと思っていましたが、いろいろの事情でかないませんでした。私にとってこの旅行の最大の目玉の一つでしたが。ベンゲット道路とともに今回の旅行の心残りの二大残念事項
スペインにとってはようやく1492年にイスラーム教徒を追い出したばかりのときフィリピンで再会とは、だったでしょうね。というわけで、その後はイスラーム教徒の迫害、カトリックの布教となるのでしょうね。
その後のイスラーム教徒の歴史および現状について非常に興味がありますが、残念ながら省略。
「現代フィリピンを知るための61章」(p212)(初版2001年、第2版2015年)には「サリサリ・ストアは都市部・農村部を問わず全国に散在し、その数は圧倒的に多い」と1章を割いて記載しています。そこで私はこのサリサリ・ストアにお世話になろうと行く先々でキョロキョロしましたが、見つかりませんでした。この写真はバギオでバスから見たものです。これ以外のところでは見かけませんでした。現地ガイドに聞くとサリサリ・ストアは近年激減し巨大資本参加のコンビニになっているそうです。なお「サリサリ」というのは「種々の」という意味だそうです。
バギオはアメリカ統治時代の20世紀初頭に避暑地として開発されました。標高1500mで気温は年間を通じて15℃~20℃の山間都市です。2007年の統計では人口30万人です。
このバギオは日本(人)との深いかかわりがあります。一つはマニラからの道路工事です。1902年~1905にかけての工事は難航を極め完工までに従事した労働者は46の国からの出稼ぎ労働者でした。そのうち日本人労働者は述べ2500人で工事時の死亡者は700人といわれています。工事終了後日本人労働者は現地人と結婚しその子孫は3000人を超えています。しかし戦後の反日感情から日本人の子孫であることを隠してきましたが、1980年代になって日系人であることを公にする人が出始めています。この日系人の救済、組織化、生活向上に献身したのが1973年に61歳でフィリピンに移り住んだ海野常世でした。
またこの工事の労働者のうち180人が工事終了後の1905年、大田恭三に率いられてミンダナオ島ダバオに移住しマニラ(アカバ)麻の栽培に従事し最盛期には2万人労働者の農場となりました。戦後アメリカ資本の流入で現在はバナナ農場になりました。
というわけで、この道路(ベンゲットまたはケノン)と日本人労働者の記念碑などを見たいと思い自由時間に計画して現地ガイドに相談したところ場所などあいまいな返答なのでやむなく断念しました。
もう一つの日本(人)と関係することについては次々々回に紹介予定です。
写真は車窓からでちょっと見難いですがカラフルな町ですね。
観光途中でちょっと一服してレストランに入りフィリピンの代表的デザート「ハロハロ」を頂きました。「ハロハロ」は「まぜこぜ」という意味で、甘く煮た豆やココナツ、シロップ漬けのフルーツにかき氷をかけ、練乳やアイスクリームをトッピングしたものです。いろんなものがまぜこぜに入っていますね。もともと日本の氷あずきにヒントを得たものだそうです。
ホセ・ブルゴス神父(1837~1872)はスペイン系メスティーサ(スペイン人とフィリピン人とのダブル)を母としてここヴィガンに生まれた在俗司祭です。私は旅行を計画した時点で彼の博物館を是非訪れたいと思っていましたが、旅行コースにはありませんでした。そこで自由時間を利用していきたいと思っていました。残念ながら当日休館日でした。写真はコースにあった6代キリノ大統領の生家の隣にブルゴスの生家がありその標示板です。
彼のことを知ったのは「フィリピン革命とカトリシズム」(池端雪浦著)でした。この本によると「原住民社会の側に自己を一体化し」(p68)彼の思想は「聖職者集団間の権益争いが、やがて、人種差別問題として自覚され、それがさらに民族意識へと成長していく過渡期の微妙な歴史過程をわれわれの前に開示している」(p71~72)
彼の思想はスペイン当局に危険視され彼とは全く無関係の暴動事件への関与をでっち上げられ処刑されます。彼の思想はスペインからの独立ではありませんでしたが、後のフィリピン革命(独立)へ繋がるものでした。
3月1日に記述した「カトリック教はスペイン支配の尖兵であると同時に、一方ではスペインからの自立、独立の拠点という相反する役割を歴史的に担ってきました」の一例でもあります。
なお、この「フィリピン革命とカトリシズム」はこのことがテーマの好著です。