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100倍楽しむ海外旅行  時々国内旅行

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歳(終末期後期高齢者)のジジイの53

回の旅行103ヶ国を100倍楽しんだ話 付録で時々エンディングノート

「モロッコ」編 ユダヤ人3 マラケシュ1

2008年12月19日 08時48分46秒 | ユダヤ人

 マラケシュでは自由時間があったのでメラーに出かけました。同行の1人が付き合ってくれたのでタクシーで出かけました。タクシーを降りるとき運転手がポン引きガイドを紹介してくれました。lonely planet にはシナゴーグに行くには現地ガイドが必要と書いてあったので好都合でした。現地ガイドが私に”Japanese Jew?”(日系ユダヤ人か?)と尋ねました。多分メラーやシナゴーグを訪ねる日本人は珍しいのでしょう。写真はそのポン引きガイドです。(モロッコでは多い)手を上げている人です。 

 meghさんコメントありがとうございました。クーリエジャボンという雑誌を私は知りません。どんな食事か教えてください。


「モロッコ」編 ユダヤ人2 フェズ2

2008年12月17日 09時01分03秒 | ユダヤ人

 写真は同じフェズのメラーです。地図で見ると次回紹介のマラケシュと同じく王宮に隣接しています。これは同じイスラーム圏の中ではモロッコは歴史的に濃淡はありますが比較的ユダヤ人に寛容だとされていますがそれでも迫害があるので王室が近くで彼らを保護し交易の儲けに預かることから来ているようです。これはモロッコの王室の伝統のようで現在のモハメッド6世の側近にはユダヤ人顧問がいます。(lonely planetp36)これは現在のイスラーム国家では大変珍しいことです。(歴史的には珍しいことではありません)

 なおこに近くには博物館、シナゴーグ(ユダヤ教の教会)がありますがパック旅行の悲しさで訪れることはできませんでした。私が事前にお願いしていなければたぶん何の説明もなくここも通り過ぎていたでしょう。添乗員もメラーという言葉も知らなかったくらいですから。


「モロッコ」編 ユダヤ人1 フェズ1

2008年12月17日 08時55分29秒 | ユダヤ人

「モロッコ」編を再開します。

 2008年11月19日でモロッコにユダヤ人(イスラエル人)の観光客が多いことを紹介しましたが、それには歴史的経緯があります。「中世から現代に至るイスラーム地域のなかでユダヤ教徒が最も重要な役割を果たしたのはモロッコで、アラブ・イスラエル紛争の始まる前の20世紀の半ばまで多数のユダヤ教徒が居住し、今日でもアラブ諸国で最大のユダヤ教徒人口(推定2万人)(注)を抱えている」(岩波講座世界歴史10 マグリブ中世社会のユダヤ教徒 私市正年論文p97)

 (注) 

 私市論文(1999年)によれば1948年28万5千人、1974年2万人ですが、2007年版の”lonely planet”によれば1万人~8千人とあります。この数字を現地ガイドに見せたところ現在はもっと少ないと話してくれました。その殆どはイスラエルへの移住でたぶん観光客の大多数は故郷?モロッコを懐かしんでのものと考えられます。  このように現在モロッコ(に限らず)のユダヤ人人口は激減しています。(注)

(注)

 たとえば、lonely planet(2000年版)ではウズベキスタンのブハラではユダヤ人居住者5000人とありましたが私が2005年に訪ねたときには600人と激減しており(ブログ2005年12月9日)、その後2007年6月のNHKの放映では150人なっていました。(ブログ2007年6月20日)

 今回の旅行ではフェズ、マラケシュ、エルジャディーラの3都市でユダヤ人ゆかりの地を訪れました。この写真はフェズの旧ユダヤ人区で現在は殆ど住んでいないようです。このようなユダヤ人区はモロッコではメラーと呼ばれています。日本語にもなっているゲットーと同じものです。メラーというのはアラビア語で塩を意味します。ユダヤ人がサハラからの交易品塩を取り扱っていたことに由来しているといわれています。フェズのメラーがモロッコでは最も古いとされています。


寄道編 ユダヤ人 リトアニア ユダヤ人を救った日本人1

2005年12月13日 09時19分17秒 | ユダヤ人

 リトアニアのヴィリニュスからカウナスへのバスは感動の涙でいっぱいでした。添乗員田中啓介さん(知識、気配り、統率力、三拍子そろったすばらしい添乗員でした)の「6千人の命のビザ」(杉原幸子著)の朗読でした。

 杉原幸子さんの夫千畝さん(1900~1987)についてはテレビでも放映されたこともありご承知の方も多いいと思いますが簡単に紹介しておきます。 1940年7月18日、第二次世界大戦のさなか、リトアニアのカウナスに置かれていた日本領事館前に突然の人垣ができました。彼らはナチスに追われポーランドから逃れてきたユダヤ人でした。ユダヤ人の望みは日本通過ヴィザでした。彼らの生きる道はシベリア→日本→アメリカ大陸でした。

 当時の領事代理の杉原千畝氏はヴィザ発給の許可を求める電報を幾度も日本政府に打ちますがその答えは「否」でした。当時の日本はナチスドイツの同盟国でした。 「私の一存で彼たちを救おう。そのために処罰を受けてもそれは仕方がない。人間として信念を貫かねば」と決意しました。 その後、約半月(一説には1か月)の間、二人は(幸子夫人)腕が動かなくなるまでヴィザを書き続けました。その数約3000、日本経由で助かったユダヤ人は約6000人といわれています。

 帰国した彼はその罪を問われ戦後外務省を離れます。(外務省を退官したのはそのことが理由ではないという説もあります) その後これらの経緯については殆ど忘れ去られていました。1960年代にイスラエルから感謝の気持ちが伝えられ次第に彼の業績が明らかになってきました。

 日本での名誉回復に貢献した人に「ムネオハウス」で有名な鈴木宗男氏がいます。その経緯については彼とともに有罪判決を受けている外務官僚佐藤優氏の著書「国家の罠」〔p284~286〕に触れられています。

 外務省を離れて後貿易会社に勤められました。そのとき一緒に仕事をした人が偶然旅の同行者にいました。彼女(某著名哲学者の娘さん)は私にだけそのことを明らかにして「彼は大変重要な仕事をした人とは聞いていたが具体的な事は本人も何もおっしゃらないので最近まで詳しいことは何も知りませんでした。物静かな温厚な方でした」と教えてくれました。 写真は杉原千畝氏です。「リトアニア杉原記念館ホームページ」(http://www.geocites.jp/lithuaniasugiharahouse)からの転載です。


寄道編 ユダヤ人 ウズベキスタン ブハラ1

2005年12月09日 10時09分34秒 | ユダヤ人

 ウズベキスタンのブハラにユダヤ教の教会シナゴーグあるというガイドブック・ロンリープラネットの指摘で自由時間を利用して出かけて見ました。ユダヤ人は12,3世紀からブハラに住むようになりヘブライ語を話さないディアスポラ(離散民)ということです。根深い制度的な差別を受けながらブハラでは商業面で重要な役割を果たしてきました。ソビエト連邦崩壊後、イスラエル、アメリカ合州国に移住する人たちが急速に増えブハラの人口の7%を占めていたものが現在2%以下になっています。そして100年前までは七つあったシナゴーグは1920年以降一つになりました。(以上ロンリープラネットCentral Asia p60,314による)

 人口数の実際は2%(5000人)よりももっと減少して600人になっているとはこのシナゴーグでの話です。

 訪れてまず最初にびっくりしたことは受付の女性がイスラーム教徒だったことです。長年の差別ということにもかかわらず、このことは我々が考える差別とは意味合いが違うのかもしれません。ここは学校でもありました。現在ラビの資格を持つ人がいなくなり代理の人が旧約聖書を教えていました。生徒数は10数人でした。現在生徒の総数は160人だそうです。ここを出たところでもう一つシナゴーグがあるので案内するという人(イスラーム教徒)が現れました。そこで時間を気にしながらいくことにしました。

 そこにもう一人「この地域のユダヤ人に関する文献に興味がないか」という人物が現れました。時間もなかったので一応断りましたが、あとで考えると少し残念。こちらのシナゴーグのほうが立派でした。イスラエル国旗が飾られていました。したがってロンリープラネットの現在一つというのは間違いのようです。イランからやってきた(迫害?)という高齢の女性がいました。帰り道同じシナゴーグを訪ねるというイスラエル人に出会いました。 写真は最初のシナゴーグの祭壇です。ここは撮影が認められました。