シェフチェンコの像の向かいにシェフチェンコ記念キエフ国立大学があります。1834年の創立以来ウクライナ民族運動の拠点になりました。建物が赤いのはロシア皇帝ニコライ1世が徴兵拒否運動を起こした学生たちへの罰として、建物を血の色で塗り潰すように命じことにあります。
というわけで、ここでのガイドがロシア人とアフガニスタン人では「ガッカリ感」という前回の話しは理解していただけると思うのですが。
シェフチェンコの像の向かいにシェフチェンコ記念キエフ国立大学があります。1834年の創立以来ウクライナ民族運動の拠点になりました。建物が赤いのはロシア皇帝ニコライ1世が徴兵拒否運動を起こした学生たちへの罰として、建物を血の色で塗り潰すように命じことにあります。
というわけで、ここでのガイドがロシア人とアフガニスタン人では「ガッカリ感」という前回の話しは理解していただけると思うのですが。
国民的英雄シェフチェンコ(1814~61)の像は今やレーニン像に代わって(まだ少し残っていました。後日紹介)ウクライナのほとんどの都市で見ることができるとはlonely planetの記述です。
彼は農奴の子として生まれ友人のカンパによって領主に金を支払い自由身分になることができました。ウクライナ文学史上最大の作品とされる農民の口語・方言と古代教会スラブ語を統合したウクライナ語による詩集「コブザーリ」を出版しました。彼によってウクライナ語がロシア語と対等な言語として認められるようになりました。47年革命運動に参加したため逮捕10年間流刑生活を送ることになりました。
写真はキエフにある彼の像です。
全行程のガイド(スルーガイド)はファティマ(仮名)さんでした。オデッサから来たという彼女に「ウクライナ人?ロシア人?」と尋ねるとアフガニスタン人と答えたのにはビックリしました。添乗員の堤さんも以前から仕事を一緒にしていたにもかかわらず知らなかったようです。彼女の父親は1979年にソビエト連邦に助けを求めた当時のアフガニスタン政府の軍人だったようです。その後事実上敗北したソ連軍は1989年にアフガニスタンから撤退します。その時ソ連邦に亡命したのが父親で彼女が2歳の時でした。多分現在はウクライナ国籍を持ち、もちろんウクライナ語もロシア語もペラペラです。そこで万一を考慮して仮名にし、写真にはモザイクを掛けました。もちろんブログに紹介すると言って了解してもらったつもりですが。
隣の人はウクライナの首都キエフの現地ガイドのナターリアさんです。彼女はロシア人でした。家庭ではロシア語ですが、もちろんウクライナ語も解するバイリンガルです。そのキエフでの最初の観光がウクライナ民族主義運動の英雄であるシェフチェンコ(1814~61)に因んだ場所でした。この写真の背後はシェフチェンコの銅像がある広場で、正面はシェフチェンコの名前のついたシェフチェンコ記念キエフ国立大学です。この時私には何となく、違和感とガッカリ感がありました。ウクライナ民族主義の英雄を二人の外国人?に紹介してもらうことに。もちろんドナルド・キーンさんから日本文学の講義を聞くことには違和感はありませんが、しかし、この場合は偏狭ではないウクライナ人のナショナリズムによるシェフチェンコの熱い話を聞きたかったのですが。
なお、シェフチェンコについては次回に紹介します。
写真はベラルーシのブレストのガイド、ニーナさんです。彼女の日常会話はやはりロシア語だそうですが、両親はベラルーシ語だったそうです。彼女にあなたの母語はと尋ねた場合「ベラルーシ語」と答えたような気がします。ロシアとの統合は反対であるとの返事でした。そして若者は反対の傾向が強いと付け加えてくれました。
この写真の文書はベラルーシ入国時にもらい出国時に返すmigration card と呼ばれるものです。キルル文字が主体ですが中にラテン文字があります。上から3行目の左にRussian Federation(ロシア連邦)右にRepublic of Belarus(ベラルーシ共和国)と書かれています。出入国に関する文書が共用とは!と思いましたが、ひょっとすると、ロシア連邦の一員のベラルーシ共和国と言う意味かもしれません。どちらにしてもベロニカさんの言うように現実はロシアと一体化しているという考えを実証している文書のような気がしたので紹介しておきます。なお蛇足ですが、法的にはベラルーシはロシア連邦の一員ではありません。
今回の訪問国は1991年のソ連邦崩壊後に独立した国々ですが、同じように独立したバルト3国とは違って親ロシア的です。その中でも一番親ロシア的とされるベラルーシから。
ベラルーシの首都ミンクスのガイドはベロニカさんでした(写真)。あなたは家庭では何語で話しますかと尋ねました。もちろんロシア語で、98%の人がロシア語を話すという返答でした。この場合98%の人がロシア語を解するという意味か、98%の人の日常言語がロシア語であるという意味なのかはわかりませんでしたが、彼女のニュアンスでは後者の意味のようでした。
服部倫卓氏は「不思議の国ベラルーシ ナショナリズムから遠く離れて」で次のように書かれています。
「ベラルーシでは、ロシア語かベラルーシ語かという二者択一の枠に収まりきれない面がある。その最たる例は、『トラシャンカ』と呼ばれるロシア語とベラルーシ語のチャンポン言葉が蔓延していることである。つまり、ロシア語を話そうとしているのにベラルーシ語の単語や発音が混じってしまったり、ロシア語の影響を強く受けたベラルーシ語をしゃべったと言ったことが起きる」(p137)。
また2009年の国勢調査によれば母語をベラルーシ語と答えた人が53%、ロシア語と答えた人が41%です。ちなみに、民族構成ではベラルーシ人が84%、ロシア人が8%となっています。(「ウクライナ・ベラルーシ・モルドバ経済図説」p19)何がなんだかよくわかりませんね。
次に質問したのは「ロシアとの統合を望みますか」でした。その質問はあまり意味がなく現実はすでに統合されていると同じであり私の夫もロシア人ですと言うのが彼女の答えでした。(この場合のロシア人はベラルーシ国籍を持つロシア人か、ロシア国籍のロシア人かはよくわからない。多分彼女にとってそんなことはあまり意味のないことかも)
服部氏は「ベラルーシ民族・国民としての独自のアイデンティティが充分に確立されていないことをうかがわせるデータは枚挙にいとまがない」(p165)と述べられています。
それを制度的にうかがわせるような文書を発見?しました。次ページへ。
16日~31日までベラルーシ、ウクライナ、モルドバを旅行します。いずれの国も日本人にはなじみが薄いですが、強いて挙げれば横綱大鵬の父親はウクライナ人です。
画像は旅程図です。(旅のデザインルームのホームページから)
ブログ再開は6月4日の予定です。
Nabyさんコメントありがとうございました。おかげで下痢は止ったので「ベラルーシ***」へ出かけることができそうです。世界史の本を読まれているそうですが。2005年12月27日、29日、2006年9月26日、27日に高校世界史の間違いを指摘しているのでご覧ください。